若山牧水 生家、裏山にある歌碑 (県指定史跡 (昭和41年指定) 若山牧水生家、牧水記念館の跡地、牧水と妻 喜志子の歌碑、坪谷川、尾鈴連山、日向市の山、牧水公園、国道446号線)  (宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271)







<標高、位置>  「若山牧水の生家」は
標高 約90 m
 北緯32度21分47秒  東経131度27分42秒

<標高、位置>  「牧水公園」は
標高 約90 m
 北緯32度21分42秒  東経131度27分45秒


 「若山牧水 生家」は宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271 にあります。 若山牧水生家は昭和41年に「県史跡」に指定されました。
 若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。

 若山牧水のおじいさんは健海(医師)、おばあさんはカメ、お父さんは立蔵(医師)、お母さんはマキ、父の弟(おじさん)は純曽(医師)です。
牧水(本名は繁)のお姉さんはスエ、トモ、シヅです。
牧水の妻は歌人の喜志子で、旅人(長男)、岬子、真木子、富士人の4人の子供に恵まれました。
若山牧水は同人誌の赤字、静岡県 沼津市 (牧水は晩年の8年間を沼津で暮らしました。 沼津市に若山牧水記念館があります。)に建てた豪邸などの多額の借金のため、苦難の「揮毫(きごう、書や画を書くこと。)の旅」を行いました。 これが詠歌、石碑にも影響していることでしょう。

 牧水公園の、若山牧水の銅像の台座にある「若山牧水 略年譜(りゃくねんぷ)」から、
明治18年8月24日 医師 若山立蔵の長男として当時の東郷村坪谷1番地(現在地)に生まれ、繁と命名された。 母はマキ。 29年3月 坪谷尋常小学校卒業。 32年3月 延岡高等小学校3年修業。 4月 県立延岡中学校 第1回生として入学。 36年 この秋、初めて「牧水」の号を用いる(牧水18歳のとき。)。 37年3月 延岡中学校卒業。 4月 早稲田大学英文学科高等予科に入学。 40年6月 暑中休暇で帰省(故郷に帰ること。)の途中、「幾山河」の名歌を詠(よ)む(牧水21歳のとき。)。 41年7月 早稲田大学英文学科を卒業。 同月 第1歌集「海の声」を出版する。 44年1月 創作社をおこす。 45年5月 太田喜志子と結婚(牧水26歳のとき。)。 大正9年8月 静岡県沼津町在上呑貫に移る。 14年10月 沼津市市道町の新築の家に移る。 昭和3年9月17日 午前7時58分永眠、享年43歳。 戒名(かいみょう) 古松院仙誉牧水居士。

 「若山牧水生家の周辺」の説明板から、
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。

 生家の隣(となり)にあった牧水記念館の「牧水記念館 跡」の説明板から、 (今は取り壊(こわ)されて広場になっています。)
 開館: 昭和42年11月3日(文化の日)、設計: 若山旅人(牧水の長男)、建設費: 11480000 円、構造: 鉄筋コンクリート2階建。
牧水記念館は、昭和40年7月に「若山牧水生家保存・牧水記念館建設協賛会」を結成し、牧水の長男 旅人 氏に設計を依頼、全国から寄せられた寄付金などによって、生家に寄り添うように建てられた。 若山家遺族をはじめ牧水を慕(した)う人々の協力により、掛け軸(じく)などの貴重な資料を展示、玄関には文豪 川端康成の揮毫(きごう)による看板(現在は若山牧水記念文学館に展示)が設置された。 牧水の妻 喜志子は「牧水は永遠に生きる場所を故郷に得ました」とメッセージを寄せている。 以来、国民的歌人 若山牧水顕彰(けんしょう)の殿堂として親しまれ、全国から多くの牧水ファンや文学愛好者が訪(おとず)れた。 平成17年3月、惜(お)しまれながらも、牧水生誕120年を記念して開館した(牧水公園内の)牧水記念文学館に役目を引き継ぎ、37年余りの務(つと)めを終えた。

 「牧水公園」は若山牧水の生家の近くにあります。 生家は坪谷川(耳川の支流です。)の北側、牧水公園は南側の小高い丘にあります。 若山牧水の生家と牧水公園は尾鈴山の北東約 7.5 km のところにあり、日向市西部の山間部で、まわりは山が多く川沿(ぞ)いに国道446号線や人家、田んぼ、畑などがあります。 牧水公園は平成元年に建設されました(国土庁の「リフレッシュふるさと推進モデル事業」)。 牧水公園の中には「牧水そば」のメニューもある食堂、物産品店の牧水庵、多目的研修施設のふるさとの家、遊具のあるちびっこ広場、キャンプ場、水車小屋、家族やグループ向けのコテージ棟、河川プール、テニスコート、客がツボ、花器、湯のみなどを作る牧水焼、若山牧水記念文学館、若山牧水の銅像などがあります。 丘には約3万本のツツジが植えてあり、4月中旬には牧水の里の春祭り 牧水公園つつじ祭りがあります。 若山牧水記念文学館は、牧水生家に隣接してあった牧水記念館の展示物などを移して2005年4月1日にオープンしました。 古い方の牧水記念館は今は取り壊(こわ)して広場になっています。 若山牧水記念文学館の建物は県産の檜(ひのき)、杉を用いた木造平屋建てで、牧水誕生120年を記念して造られました。 中には原稿、直筆の掛け軸(じく)、牧水が用いた物品を展示してあります。 また、日向市 東郷町出身の詩人 高森文夫や若山牧水賞の受賞者なども紹介しています。 若山牧水の「牧水」の号は、母の名前の「マキ」から「牧」の字を付けたそうです。


写真A: 「若山牧水 生家」は宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271 にあります。
牧水公園の牧水橋から見た「若山牧水の生家」です。 国道446号線の北側にあり、生家の北側は山になっています。 右に広場、山の上にある歌碑(かひ)に登る遊歩道の石垣(いしがき)が見えます。
若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。



写真B: 国道446号線に「若山牧水生家→」の標識があります。 奥に若山牧水の生家(せいか、生まれた家です。)が見えます。 その手前の広場に以前は鉄筋コンクリート造りの「牧水記念館」がありました。



写真C: 若山牧水生家の近くから見た景色です。 尾鈴連山の山が見えています。 左から西林山 (標高 786.1 m)、角崎山 (標高 1071.1 m)、尾鈴山 (1405.2 m)、万吉山 (1318 m)などが見えているかもしれません。 坪谷川にかかっている牧水橋も見えます。



写真D: 若山牧水生家の近くの景色です。 右端の家が若山牧水生家です。 生家は山の麓(ふもと)にあります。 近くの人家も見えます。 国道446号線が通っています。



写真E: 「若山牧水生家→」の標識があります。 下の家は牧水生家です。



写真F: 先に約20 km 進むと美郷町 南郷区にある西の正倉院、神門神社(みかどじんじゃ)、百済の里、恋人の丘があります。
手前に約9 km 進むと「道の駅 とうごう」があります。



写真G: 牧水生家の裏山の様子(ようす)が分かります。 右に見える石垣(いしがき)は牧水の歌碑(かひ)に登る歩道です。 生家の右に説明板も見えます。 手前の広場には以前、「牧水記念館」がありました。



写真H: 若山牧水の生家の近くです。



写真I: 若山牧水生家の近くに祠(ほこら)があって、仏像が見えています。 右は国道446号線です。



写真J: 南東を見たものです。 この先を右に曲がると牧水公園に行きます。



写真K: 「若山牧水生家」の説明板があります。
 旅の歌人 若山牧水の生家は、耳川の支流、坪谷川のほとりに、生まれた頃(ころ)とほとんどそのままの姿で残されています。 記念館(今はありません。)には、牧水の遺品・著書など400余点が展示されており、牧水の往時をしのぶ殿堂となっています。 環境庁 宮崎県。
と書いてあります。



写真L: これが「若山牧水生家」です。 昭和41年に宮崎県の史跡として指定されました。 木造2階建ての家です。 屋根は瓦(かわら)ぶきです。 まわりに石垣(いしがき)があります。 左の建物は風呂場(ふろば)、トイレです。 左端にバス停が見えます。
「若山牧水 生家」は宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271 にあります。
若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。



写真M: 右に新しい方の歌碑が見えます。 古くからある歌碑は裏山の峠(とうげ)にあります。



写真N: 生家の隣(となり)にあった牧水記念館の「牧水記念館 跡」の説明板です。 (今は取り壊(こわ)されて広場になっています。)
 開館: 昭和42年11月3日(文化の日)、設計: 若山旅人(牧水の長男)、建設費: 11480000 円、構造: 鉄筋コンクリート2階建。
牧水記念館は、昭和40年7月に「若山牧水生家保存・牧水記念館建設協賛会」を結成し、牧水の長男 旅人 氏に設計を依頼、全国から寄せられた寄付金などによって、生家に寄り添うように建てられた。 若山家遺族をはじめ牧水を慕(した)う人々の協力により、掛け軸(じく)などの貴重な資料を展示、玄関には文豪 川端康成の揮毫(きごう)による看板(現在は若山牧水記念文学館に展示)が設置された。 牧水の妻 喜志子は「牧水は永遠に生きる場所を故郷に得ました」とメッセージを寄せている。 以来、国民的歌人 若山牧水顕彰(けんしょう)の殿堂として親しまれ、全国から多くの牧水ファンや文学愛好者が訪(おとず)れた。 平成17年3月、惜(お)しまれながらも、牧水生誕120年を記念して開館した(牧水公園内の)牧水記念文学館に役目を引き継ぎ、37年余りの務(つと)めを終えた。



写真O: 若山牧水と妻 若山喜志子の短歌が彫(ほ)ってある歌碑があります。 これは比較的新しい歌碑です。 古くからある牧水の歌碑は裏山の峠(とうげ)にあります。
をとめ子の かなしき心 持つ妻を 四人子の母と おもふかなしさ (牧水)
うてばひびく いのちのしらべ しらべあひて 世にありがたき 二人なりしを (喜志子)
歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰めてあります。
「鉄平石 (てっぺいせき)」とは長野県諏訪市福沢山の一帯から産出する輝石安山岩です。 板状の節理がよく発達し、容易に薄板状石材を得られます。 化粧石、敷石などに用いられます。



写真P: 碑文(ひぶん)があります。 歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰めてあります。
「鉄平石 (てっぺいせき)」とは長野県諏訪市福沢山の一帯から産出する輝石安山岩です。 板状の節理がよく発達し、容易に薄板状石材を得られます。 化粧石、敷石などに用いられます。



写真Q: 牧水・喜志子の歌碑にある碑文(ひぶん)です。 歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰めてあります。 若山牧水の生家にあります。
「鉄平石 (てっぺいせき)」とは長野県諏訪市福沢山の一帯から産出する輝石安山岩です。 板状の節理がよく発達し、容易に薄板状石材を得られます。 化粧石、敷石などに用いられます。



写真R: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真S: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真T: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真U: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真V: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真W: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真X: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真Y: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真Z: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真AA: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真AB: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真AC: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真AD: 「若山牧水生家の周辺」の説明板があります。
<若山牧水 (1885年-1928年)>
 若山牧水(本名 繁)は明治18年8月24日、ここ日向市 東郷町 坪谷に生まれ、豊かな自然と愛情あふれる家族に囲(かこ)まれて幼少期を過ごした。
 旧制延岡中学に進学。 文学に熱心な先生や友人の影響を受けて、短歌や小説を作り始め、次第(しだい)に短歌文学に傾倒していく。 早稲田大学に進学した牧水は、多くの文学仲間との交流を深め、また恋人との青春恋歌を次々と発表し、注目歌人となった。
 明治45年、太田喜志子と結婚、4人の子供に恵まれる。 歌壇(かだん)の中心として活躍する中、全国を旅し旅情あふれる歌を詠(よ)んだ。 大正9年には、静かな環境を求めて静岡県の沼津に移り晩年を過ごす。 昭和3年9月17日、44歳という若さでなくなるが、9千首の短歌と自然美あふれる紀行文や随筆を残し、国民的歌人として多くの人々に親しまれている。
<牧水生家>
 生家は、牧水の祖父 健海が弘化2年(1845年)に建てたもので、若山医院としての役割もあった。 幾度かの修復が行われたが、牧水幼少時代の姿をそのまま伝えている。
[牧水「おもいでの記」より]
 ここでお前はことんと音をさせて生まれたのだよ、とその後、もうよほど成長してから、たびたび姉どもは私をその縁側へ連れてきては、からかった。 (中略)中学に出るやうになって、暑中休暇で帰省(きせい)しているときなど、そこは家の中でも涼しい所なので、わたしはよくその縁側に寝ころびながら、自分の生まれた時の事などを想像して見たものだった。
裏山にある<牧水歌碑 (昭和22年(1947年)11月17日 建立)>
歌碑の歌: ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり
 台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座(すわ)ったという大岩。 牧水が触れた自然石に直接刻(きざ)まれており、形状、由来(ゆらい)とも他に類を見ない秀(ひい)でた歌碑である。
 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴(ともな)い帰郷した折(おり)、この岩にのって尾鈴山系を眺(なが)めて、来(き)し方行く末(すえ)を考えながら詠(よ)んだという。
<夫婦歌碑 (平成21年(2009年)11月28日 除幕)>
歌碑の歌: をとめ子のかなしき心持つ妻を
四人子(よたりご)の母とおもふかなしさ 牧水
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて
世にありがたき二人なりしを 喜志子
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市 東郷町 若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。 喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。
 歌碑には、夫婦が互いへの想(おも)いを詠んだ歌が刻まれている。
 また、歌碑の前面には旧牧水記念館に使われていた「鉄平石」を敷き詰め、牧水記念館を設計された牧水の長男 旅人 氏の業績と、牧水記念館の建設に尽力(じんりょく)された多くの皆様の思いにも応(こた)えている。
<牧水先代の墓 (生家から200 m)>
坪谷川
国道446号線、→道の駅 とうごう 6.5 km、←美郷町 南郷区、(牧水公園内の)河川プール、牧水銅像、食事処 牧水庵、ふるさとの家、コテージ、テニスコート、グラウンド
(牧水公園内にある) 若山牧水記念文学館
若山牧水生誕120周年を記念して平成17年(2005年)4月1日に開館した。 若山牧水の歌集や掛け軸(じく)の他、遺品・遺墨の展示により牧水の業績、生活の様子(ようす)がわかりやすく解説されている。 また、詩人 中原中也と親交が深かった郷土の詩人 高森文夫の関係資料も展示されている。
と書かれています。



写真AE: 「牧水歌碑 50 m→」と書いてあります。
裏山の峠(とうげ)に若山牧水の歌碑があります。



写真AF: 石垣(いしがき)のそばに「牧水生誕地」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)があります。



写真AG: 「牧水生誕地」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)です。



写真AH: 東から見た若山牧水の生まれた家です。 木造2階建ての瓦(かわら)ぶき屋根の家です。



写真AI: 丸い敷石(しきいし)が数個見えています。



写真AJ: 「牧水が生まれた縁側(えんがわ)」の説明板があります。
明治18年8月24日早朝、急に産気づき「この縁側で”ことん”と音をさせて生まれた。」と、余程(よほど)成長した後よく姉からからかわれた。 [牧水の手記から]
「自分が留守中(るすちゅう)に生まれたら名前は”玄虎”と付けるように。」と祖父 健海に言われた姉は大反対で、当時、人気があった東京絵入新聞小説の主人公「志計留」をもじって、将来栄えるように「繁」と届け出た。 *牧水の本名は「繁」で、延岡中学校時代から「牧水」を名のった。
と書いてあります。



写真AK: 手前が若山牧水が生まれた縁側(えんがわ)です。 その説明板が縁側にあります。 この縁側は古い木で造られています。 奥に畳(たたみ)の部屋、障子(しょうじ)、襖(ふすま)、急な階段、天井(てんじょう)なども見えます。 東から見たものです。



写真AL: 牧水の生まれた縁側、右に板で作った扉(とびら)、下には敷石の上の柱も見えています。



写真AM: 天井(てんじょう)の様子(ようす)が分かります。 牧水の生家です。



写真AN: 若山牧水生家の南東の隅(すみ)はこのようになっています。 2階の部分の窓も見えます。



写真AO: 南東から見た牧水生家です。 庭には丸い敷石が多くあります。 奥に見える別棟の建物は風呂場とトイレです。



写真AP: 南東から見た牧水が生まれた縁側、戸袋も見えます。



写真AQ: 南側に建物の入り口があります。



写真AR: 1階東の部屋です。 床の間(とこのま)、ふすまも見えます。



写真AS: 牧水生家の1階です。



写真AT: 敷地への入り口には4段の石段があります。 奥は国道446号線です。



写真AU: 石段のそばに古い木(センダンの木)があります。 左奥に牧水公園内の建物も見えます。



写真AV: 「牧水と妻 喜志子」の説明板があります。
昭和2年7月 妻 喜志子を伴(ともな)って帰郷した牧水。 写真に写る縁板が今も当時のまま保存されている。
と書いてあります。
この生家で撮(と)った若山牧水夫妻の写真もあります。



写真AW: 畳の部屋に小さめの囲炉裏(いろり)があります。 昔し風の急な階段もあります。 右端は造り付けの引き出し、戸棚(とだな)です。



写真AX: 敷地の西の部分には井戸、その奥の馬小屋、左の風呂場、トイレなどがあります。



写真AY: 西から見た若山牧水の生家です。 2階建てになっているのは東の部分だけであることが分かります。 手前のガラス戸の所は台所です。



写真AZ: 手前に外の水道蛇口(じゃぐち)があります。 左奥に裏山の石垣(いしがき)が見えています。 下に家を支える石を並べてあります。



写真BA: 西から見た牧水の生家と庭です。



写真BB: 若山牧水生家の井戸です。 屋根も付いています。 つるべ式の井戸です。 住居の西にあります。



写真BC: 牧水のおじいさんやお父さんが乗った馬の馬小屋です。 敷地の西端にあります。



写真BD: 牧水生家の風呂場とトイレです。 敷地の南西端にあります。



写真BE: 「若山家の風呂・便所 (牧水生家付帯施設のため使用出来ません。)」と書いてあります。



写真BF: 若山牧水生家の西隣りの家は火災が最近あったようでした。



写真BG: 西を見た景色です。 国道446号線も見えます。 人家、遠くの山も見えます。



写真BH: 南西を見た景色です。 遠くの山、国道446号線も見えます。



写真BI: 南東を見たものです。 消火ホースが入っている赤い金属製箱もあります。 坪谷川の牧水橋、遠くの山も見えます。



写真BJ: 風呂場、トイレの建物です。



写真BK: 風呂場、トイレ。



写真BL: 馬小屋の中にはこのような臼(うす)などの大きな物を砕(くだ)くもの、中二階(ちゅうにかい)に上がる階段があります。
米の籾(もみ)をはがすための石臼(いしうす、唐臼)です。 医師だった父(立蔵)は診察料、往診料として患者から籾(もみ)をもらいました。 それをこの石臼で白米に加工しました。



写真BM: 「ここに馬が居て祖父も父もその馬に乗って往診した。」と書いてあります。 馬小屋の中です。



写真BN: 北西から見た若山牧水の生家です。 裏山の方には石垣(いしがき)があります。



写真BO: 西を見たもの。 左は馬小屋、右は裏山の石垣です。



写真BP: 牧水生家の北側はこのようになっています。 1階には窓がありません。 この裏山には牧水の歌碑があります。



写真BQ: 「牧水生家」の説明板があります。



写真BR: 「牧水生家」の説明板です。



写真BS: 「牧水生家」の説明板。



写真BT: 「牧水生家」の説明板です。



写真BU: 土間 (どま)から東を見たものです。 手前は一階の6畳(じょう)の部屋です。 右に入り口の階段が見えます。 左に2階に登る急な階段が見えます。 奥は右が4畳、左が6畳です。 この4畳の部屋が当時の診察室です。 一番奥に牧水が生まれた縁側(えんがわ)が見えます。 一番手前には囲炉裏(いろり)があります。



写真BV: 天井(てんじょう)はこのようになっています。 火災警報器、電灯(でんとう)もあります。 手前に小型の囲炉裏(いろり)があります。



写真BW: 囲炉裏(いろり)のある6畳の部屋は診療所の待合室でした。
「待合室 村人は小さな囲炉裏(いろり)を囲(かこ)み、診察の順番を待っていた。」と説明板に書いてあります。



写真BX: 「牧水 旅の足跡、歌碑の所在地」の日本地図、朝鮮半島の地図があります。 北海道から沖縄県まで、それに朝鮮半島も若山牧水は行っています。
若山牧水は同人誌の赤字、静岡県 沼津市 (牧水は晩年の8年間を沼津で暮らしました。 沼津市に若山牧水記念館があります。)に建てた豪邸などの多額の借金のため、苦難の「揮毫(きごう、書や画を書くこと。)の旅」を行いました。 これが詠歌、石碑にも影響していることでしょう。



写真BY: 「牧水 旅の足跡、歌碑の所在地」の日本地図、朝鮮半島の地図。 北海道から沖縄県まで、それに朝鮮半島も若山牧水は行っています。
若山牧水は同人誌の赤字、静岡県 沼津市 (牧水は晩年の8年間を沼津で暮らしました。 沼津市に若山牧水記念館があります。)に建てた豪邸などの多額の借金のため、苦難の「揮毫(きごう、書や画を書くこと。)の旅」を行いました。 これが詠歌、石碑にも影響していることでしょう。



写真BZ: 昔し風の2階への急な階段があります。 「お願い 生家保存の為、建物内への立ち入りを禁止します。」と書いてあります。 火災警報器、消火器もあります。 左の部屋に若山家系の図が見えます。 手前は土間(どま)です。 階段の裏に「土間」の説明板があります。



写真CA: 「土間(どま) お隣りの寅(とら)おぢやんに物申す 永く永く生きてお酒飲みませうよ 帰郷する度(たび)に幼少の時から可愛(かわい)がってくれた寅おぢやんを訪(たず)ね、酒を酌(く)み交わすのが牧水の楽しみだった。 大正13年、父の13回忌(き)に帰郷した牧水を待っていたのは連日の大歓迎。 そんな中、滞在最終日の出発直前になって漸く逢(あ)えた牧水と寅おぢやんはここの土間に立ったままで酒を酌(く)み交わし別れを惜(お)しんだと言う。 2人にとってこれが永久の別れになった。 其(そ)の時、即興(そっきょう)で詠(よ)み寅おぢやんに贈(お)った標記の歌の色紙は、現在、牧水記念文学館に大切に展示されている。 色紙の裏面には「お隣の寅おぢやんに贈る歌」-お隣の繁坊- と記(しる)してある。」
と書かれています。



写真CB: 台所の北にある居間(いま)です。 こちらにも囲炉裏(いろり)があります。 ここは3畳半の部屋です。
手前に「居間」の説明板があります。



写真CC: 「居間 母姉われ涙ぐみたる話のたへま 魚屋入りきぬ 魚の匂へる、飲むなと叱(しか)りながらに母がつぐ 薄暗き部屋の 夜の酒のいろ、われを恨(うら)み ののしりはてに噤(つぐ)みたる 母のくちもとに ひとつの歯もなき、父の髪 母の髪みな白み来ぬ 子はまた遠く 旅をおもへる、 大正元年、父危篤(きとく)の知らせに、結婚2ヶ月の妻 喜志子を東京に残して急ぎ帰郷(ききょう)した牧水。 牧水を待っていたのは、「帰ってきて家をみるように」と厳(きび)しく迫(せま)る母や姉との葛藤(かっとう)の日々であった。 この歌には、歳老いた父母の将来を危惧(きぐ)しながら、一方では文学への思いを断ち切れず、悩み、心いためる牧水の姿が見えるようである。」
と書かれています。



写真CD: 若山牧水生家の居間です。 奥に2つの説明板があります。



写真CE: 「若山牧水歌・詩・文学碑 分布略図」が居間にあります。



写真CF: 居間にある「若山牧水歌・詩・文学碑 分布略図」です。



写真CG: 納戸(なんど)に「若山家系図」があります。 納戸とは屋内(おくない)の物置(ものおき)のことです。
若山牧水のおじいさんは健海(医師)、おばあさんはカメ、お父さんは立蔵(医師)、お母さんはマキ、父の弟(おじさん)は純曽(医師)です。
牧水(本名は繁)のお姉さんはスエ、トモ、シヅです。
牧水の妻は歌人の喜志子で、旅人(長男)、岬子、真木子、富士人の4人の子供に恵まれました。



写真CH: 納戸(なんど)に「納戸」の説明板があります。
納戸の隅に折から一挺(ちょう)の大鎌あり 汝が意思をまぐるなといふ如くに、牧水の目には、納戸の隅に立っている大きな草刈鎌が文学への思いを諦めるなと言っているように見えた。 *みずからを懸命に奮い立たせようとする牧水。 母への思いと文学への思いの深さが痛いほど伝わってくる。
と書かれています。



写真CI: 牧水生家の台所です。 左に外に出る戸があります。 右は納戸です。 窓の外には右は馬小屋、左は風呂場、トイレが見えます。 馬小屋の手前に井戸があります。



写真CJ: 台所の上の部分です。



写真CK: 右に台所の流し場、その左に外に出る戸、窓があります。



写真CL: 竈(かまど)があります。 同時に3つの鍋釜(なべかま)を使用出来ます。 下の四角の口から薪(たきぎ)を入れて燃(も)やし、上の丸い穴に鍋や釜を載せて煮炊き(にたき)しました。 昔はどこの家にもあったものです。



写真CM: 竈(かまど)の上方です。 物を載せる棚(たな)も見えます。



写真CN: 台所の天井(てんじょう)です。 白く丸い火災警報器も見えます。



写真CO: 東を見たものです。 一番奥の牧水が生まれた縁側(えんがわ)に見学者たちがいらっしゃいます。 各部屋の天井に火災警報器を取り付けてあります。



写真CP: 2階に上がる急な階段が見えます。 左は造り付けの引き出し、戸棚(とだな)です。



写真CQ: 戸棚(とだな)の上部です。



写真CR: ここが家への入り口です。 奥は外で手前は土間(どま)です。



写真CS: 牧水生家の駐車場、説明板、裏山の歌碑(かひ)に行く歩道の石垣(いしがき)も見えます。



写真CT: 南から見た若山牧水生家です。 入り口には石段があり、そばに大きく古い木があります。 右の大きな木は桜で、左の大きな木はセンダンです。 桜の木の下に「牧水生家」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)が見えています。 見学者も見えます。



写真CU: バス停、赤い消火ホースの金属製箱、生家の石垣(いしがき)、石段なども見えます。 手前の大きな木はセンダンです。 左は国道446号線です。



写真CV: 若山牧水生家の近くから見た国道446号線と景色です。
若山牧水の生家と牧水公園は尾鈴山の北東約 7.5 km のところにあり、日向市西部の山間部で、まわりは山が多く川沿(ぞ)いに国道446号線や人家、田んぼ、畑などがあります。



写真CW: 生家のそばから南を見た景色です。 国道446号線の奥に坪谷川、田んぼ、牧水公園の建物、遠くの森なども見えます。



写真CX: 宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷にある「牧水生家」の近くから南東を見た景色です。 坪谷川にかかっている牧水橋も見えます。 この橋を南に渡ると牧水公園があります。



写真CY: 牧水生家のそばから東を見たものです。 左に、裏山の牧水歌碑に行く歩道の柵(さく)、石垣(いしがき)、国道446号線にある「若山牧水生家←」の標識も見えます。
手前の広場に以前は「牧水記念館」がありました。
生家の隣(となり)にあった牧水記念館の「牧水記念館 跡」の説明板から、 (今は取り壊(こわ)されて広場になっています。)
 開館: 昭和42年11月3日(文化の日)、設計: 若山旅人(牧水の長男)、建設費: 11480000 円、構造: 鉄筋コンクリート2階建。
牧水記念館は、昭和40年7月に「若山牧水生家保存・牧水記念館建設協賛会」を結成し、牧水の長男 旅人 氏に設計を依頼、全国から寄せられた寄付金などによって、生家に寄り添うように建てられた。 若山家遺族をはじめ牧水を慕(した)う人々の協力により、掛け軸(じく)などの貴重な資料を展示、玄関には文豪 川端康成の揮毫(きごう)による看板(現在は若山牧水記念文学館に展示)が設置された。 牧水の妻 喜志子は「牧水は永遠に生きる場所を故郷に得ました」とメッセージを寄せている。 以来、国民的歌人 若山牧水顕彰(けんしょう)の殿堂として親しまれ、全国から多くの牧水ファンや文学愛好者が訪(おとず)れた。 平成17年3月、惜(お)しまれながらも、牧水生誕120年を記念して開館した(牧水公園内の)牧水記念文学館に役目を引き継ぎ、37年余りの務(つと)めを終えた。



写真CZ: これから裏山にある有名な「牧水歌碑 (ぼくすいかひ)」に上ります。 「牧水歌碑 50 m →」の看板(かんばん)があります。



写真DA: この階段を登って裏山の「牧水歌碑」の所に行きます。



写真DB: 裏山の「牧水歌碑」に行く道です。 牧水橋、「牧水公園」の建物、遠くの山、国道446号線なども見えます。



写真DC: 生家の裏山にある「牧水歌碑」に行く歩道から南を見た眺望(ちょうぼう)です。 尾鈴連山も美しく見えます。 坪谷川、「牧水公園」の建物、牧水橋なども見えます。
尾鈴連山の山が見えています。 左から西林山 (標高 786.1 m)、角崎山 (標高 1071.1 m)、尾鈴山 (1405.2 m)、万吉山 (1318 m)などが見えているかもしれません。
若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。
 「牧水公園」は若山牧水の生家の近くにあります。 生家は坪谷川(耳川の支流です。)の北側、牧水公園は南側の小高い丘にあります。 若山牧水の生家と牧水公園は尾鈴山の北東約 7.5 km のところにあり、日向市西部の山間部で、まわりは山が多く川沿(ぞ)いに国道446号線や人家、田んぼ、畑などがあります。 牧水公園は平成元年に建設されました(国土庁の「リフレッシュふるさと推進モデル事業」)。 牧水公園の中には「牧水そば」のメニューもある食堂、物産品店の牧水庵、多目的研修施設のふるさとの家、遊具のあるちびっこ広場、キャンプ場、水車小屋、家族やグループ向けのコテージ棟、河川プール、テニスコート、客がツボ、花器、湯のみなどを作る牧水焼、若山牧水記念文学館、若山牧水の銅像などがあります。 丘には約3万本のツツジが植えてあり、4月中旬には牧水の里の春祭り 牧水公園つつじ祭りがあります。 若山牧水記念文学館は、牧水生家に隣接してあった牧水記念館の展示物などを移して2005年4月1日にオープンしました。 古い方の牧水記念館は今は取り壊(こわ)して広場になっています。 若山牧水記念文学館の建物は県産の檜(ひのき)、杉を用いた木造平屋建てで、牧水誕生120年を記念して造られました。 中には原稿、直筆の掛け軸(じく)、牧水が用いた物品を展示してあります。 また、日向市 東郷町出身の詩人 高森文夫や若山牧水賞の受賞者なども紹介しています。 若山牧水の「牧水」の号は、母の名前の「マキ」から「牧」の字を付けたそうです。



写真DD: 裏山の牧水歌碑に行く道です。



写真DE: 「←牧水歌碑」、「和田越稲荷→」の標識があります。



写真DF: 中央右寄りに牧水歌碑の岩が見えて来ました。 西を見たもの。



写真DG: 裏山の牧水歌碑の近くから見た若山牧水生家、駐車場、国道446号線などです。 若山牧水たちもこの景色をよく見たことでしょう。 西を見たもの。



写真DH: 生家裏山の歌碑のそばにある説明板です。
「短歌の解説 代表的な歌で歌集「みなかみ」に収(おさ)められている。 明治45年夏、父危篤(きとく)の報で帰郷するが家庭の事情で東京へ帰れなかった。 苦悩の日々で、裏山にのぼり尾鈴の連邦を眺(なが)めながら心のかなしみを詠(よ)んだ歌である。」と書かれています。



写真DI: これが有名な「若山牧水の歌碑(かひ)」です。 自然石に短歌を彫(ほ)ってあります。 岩には落ち葉も見えます。
「ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり 牧水」



写真DJ: 生家の裏山にある「若山牧水の歌碑(かひ)」です。 自然石に短歌を彫(ほ)ってあります。 岩には落ち葉も見えます。
「ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり 牧水」
牧水は父危篤(きとく)の電報で新妻を残して1人で坪谷に帰りました。 約10ヶ月間帰郷していました。 親族会議で、故郷に帰って教員あるいは役場に勤務し家を建てるように言われました。 牧水は文学の道と親孝行の生き方との間(はざま)で悩み抜きました。 そのときこの大きな石から尾鈴連山を見てこの有名な短歌を作りました。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。



写真DK: 「若山牧水の歌碑(かひ)」です。 自然石に短歌を彫(ほ)ってあります。 岩には落ち葉も見えます。
「ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり 牧水」
若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。



写真DL: 若山牧水生家の裏山の峠(とうげ)にある「若山牧水の歌碑」です。 そばに説明板も見えます。
石は昔からあった自然石で、牧水の短歌が彫(ほ)られたのは、昭和22年(1947年)11月17日です。



写真DM: 牧水歌碑のそばから坪谷川を見下(お)ろしたものです。 牧水公園の建物、国道446号線、その手前の広場に以前は「牧水記念館」がありました。



写真DN: 裏山の牧水歌碑から見た景色です。 坪谷川でアユ釣りをしている人も見えます。



写真DO: 裏山の牧水歌碑の近くです。 奥から道を登って来ました。 「←牧水歌碑」、「和田越稲荷→」の標識が小さく見えます。 右には柵(さく)もあります。



写真DP: 牧水歌碑の北の方はこのようになっています。 階段が見えます。 その左に下り道があります。 すなわち峠(とうげ)に牧水歌碑はあります。 右端は牧水歌碑の裏側です。 牧水もこの峠を越えて渓(けい)に行ったことを述べています。 ときには母(マキ)と一緒(いっしょ)のこともありました。 蕨(わらび)、タケノコ、野草などをとりにいくのを楽しみにしていました。



写真DQ: 裏山の牧水歌碑から戻(もど)る途中(とちゅう)から西を見た景色です。 牧水生家は山のすぐ南にあります。



写真DR: 見下(お)ろした若山牧水の生家です。 2階の様子(ようす)がよく分かります。 外灯、駐車場、牧水と妻 喜志子の歌碑も見えます。



写真DS: 「ムラサキカタバミの花」が咲いていました。



写真DT: 東から見た牧水生家です。 左に入り口のそばにある大きく古い木が見えます。 これは手前が桜、奥が栴檀(せんだん)の木です。



写真DU: 東から見た若山牧水の生家の2階です。 2階の室内が見えています。



写真DV: 南東を見た景色です。 牧水橋もあります。



写真DW: 牧水公園の金網に「牧水公園」と書いてあります。 手前は牧水橋です。
若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。



写真DX: 牧水生家の対岸(南)にある牧水公園の「牧水庵」の看板(かんばん)、奥にコイのぼり、東屋(あずまや)も見えます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)