東霧島神社、神石 (つまきりしまじんじゃ、東霧島大権現宮、鬼岩階段(振り向かずの坂)、霧島六社権現の1つ、藩主 島津家久が寄進した神輿(みこし、浜下り祭り)と鐘(かね)、1599年の庄内の乱のときの島津軍の本陣 (東霧島神社)、性空上人の樹齢1000年の大楠(くすのき)、1600年に島津義弘が戦勝祈願成就のお礼として植えた大杉、お田植え祭り)  (宮崎県 都城市 高崎町 東霧島 鳩園)







<標高、位置>  東霧島神社 (つまきりしまじんじゃ)は
標高 約200 m
 北緯31度50分44秒  東経131度03分36秒


 「東霧島神社 (つまきりしまじんじゃ)」は宮崎県 都城市 高崎町 東霧島 鳩園 1560 にあります。
東霧島神社をつま霧島神社と呼(よ)ぶのは東(あづま)の「あ」が消えたものでしょう。 東霧島神社は霧島山系の支山脈の長尾連山の中腹にあります。 東霧島権現宮の別当 勅詔院が昔はありました。 1234年(文歴元年)12月に霧島神社などが霧島山の噴火で焼失したので、長尾山(現 東霧島神社)に遷座していましたが、文明16年(1484年)に東西に分けて東御在所が霧島東神社、西御在所が霧島神宮となりました。 庄内の乱の時(1599年)には宗家太守の島津家久(忠恒)が東霧島神社を島津の本陣としました。 1868年(明治元年)に長尾連山にあることから「長尾神社」と改称しましたが、明治30年(1897年)に東霧島神社に改称しました。 西南戦争(明治10年)で多くの社領を没収されるまでは1万1000坪余りの広い敷地がありました。 山岳修行(修験道)の場として全国から多くの人を集めていました。 明治10年に長尾神社(現 東霧島神社)は霧島神宮摂社 兼 郷社となり、後に県社、旧 県社となりました。 東霧島神社はイザナギノミコトを主祭神とし、それにイザナミノミコトや日向三代の夫婦神と神武天皇が相殿になっています。 主祭神 イザナギノミコト、相殿 イザナミノミコト、カムヤマトイワレヒコノミコト、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリヒメノミコト、サノノミコト(神武天皇の幼名、15歳まで宮崎県 高原町で過ごした。)です。 境内(けいだい)には、別に十数社の境内社があります。

 第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。

 東霧島神社は古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。

 「東霧島神社 (つまきりしまじんじゃ)」の由来 (神社のパンフレットから)
 東霧島神社は霧島六社権現の一つで「延喜式 (律令の施行細則で平安初期の年中儀式や制度を漢文で書いたもの。 康保4年(927年)施行。)」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。 東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀(まつ)られ、第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)御世(紀元前475年2月21日〜紀元前393年9月5日)に創建されたと伝えられる。 その後、第62代 村上天皇の御世、応和3年(963年)京都の人、天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が巡錫参籠(じゅんしゃくさんろう)し、噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興されました。 江戸時代になって東霧島大権現宮と唱(とな)えるようになりました。 御祭神は建国の祖とたたえられるイザナギノミコトを主祭神として地神5代のアマテラスオオミカミより神武天皇に至る皇祖を合祀(ごうし)し、ご神宝 十握の剣(トツカノツルギ)を御奉斎申し上げております。 御祭神は日本国土を生み給(たも)うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計(はか)られました人間生活の守護神であらせられます。 特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。
「例大祭」は毎年3月の春分の日に執(と)り行われます。 この時のおみこしの浜下り神事は旧島津藩主第19代 島津家久 公ご寄進の神輿(みこし、市指定文化財)を約0.6 km 離れた八幡母所社まで、高崎町6地区の皆さんが輪番で奉仕されて行われます。 境内広場では、弓道大会をはじめ、イベント広場においては各種の催(もよお)しと共にお楽しみ抽選会などが開催され、参道には出店(露店)も並び終日賑(にぎ)わいます。

 「神石」の由来(ゆらい)の説明板から、
 天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。 天地創造の神である、イザナギの尊(みこと)、イザナミの尊(みこと)が誕生されました。 夫婦となられた2人の神様は国土・山川草木に至る私達の生活に大切な「火の神」をお産みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。 夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。 愛(いと)しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆(なげ)き、悲しめど亡き人は帰る術(すべ)もありません。 その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕(した)う悲しみの涙で凝(こ)り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とっかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭(あ)わないように・・・と、深き祈りの心を込めて3段(4つに分割)に切ったといいます。
 「十握の剣(とっかのつるぎ)」は当神社の神宝であり、厄除(やくよ)け・魔除けの神となり鎮(しず)め納めております。
((岩の)横に廻(まわ)って御覧下さい。 ものの見事に切れております。) [神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。]

 「故有谷(ゆやだに)の泪雨(なみだあめ)」のパンフレットから、
 「神石(かみいし)」のある谷を故有谷(ゆやだに)といいます。 泪雨というのは「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)に一滴の水を注ぐと、必ず神雨降(ふ)り注ぐという。 昔から旱魃(かんばつ)の年には社僧に願って、この神石に雨乞いをして五穀豊穣を続けてきたのであります。 明治初年、三島地頭(じとう)が母智丘神社(もちおじんじゃ)を建立した時、この「神石」を人夫を以(も)って五十市の方へ運ぼうとしたところ、一天俄(いってんにわか)に曇って激しい雷雨が轟(とどろ)き、数カ所に落雷し、死者さえも出たので、皆ちりぢりに逃げ帰ったといいます。 依(よ)って、この石を「雷神石」ともいいます。 [この神石は3段(4つに分割)に切られました。 都城市にある母智丘公園の母智丘神社(もちおじんじゃ)にはこの「東霧島神社の神石の一部」があります。 (母智丘神社(もちおじんじゃ)の「割裂神石」のことです。)]。 一片は宮崎の大島平原村(現 宮崎市 大島町 平原(波島の近く))に飛び去ったという説もあります(大島町の霧島神社にこの切り取ったような石があります。)。
宮崎市 大島町 平原(波島の近く)にある霧島神社の神石(魔石)のホームページ (南陽彰悟)
 出雲国(島根県、場所は不明)に奇石(切り取ったような石)があって、土地の人は昔に薩摩藩の霧島山から飛んできた石と伝えているそうです。 宮崎県 高岡町に去川という地名があるのは、この飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石・・・とあるそうです。

 天台宗、真言宗の僧たちは念仏をとなえながら、「鬼岩階段(振り向かずの坂)」を登って修行しました。 鬼岩階段は後ろを振り向かずに願い事をとなえながら登り切るとその願いがかなえられると言われています。 「この鬼磐階段は「振り向かずの坂」とも言い、遠い昔、天台宗・真言宗の僧侶が、 一心に呪文(じゅもん)をとなえながら修行したと言われています。  参拝者の皆様も「一心に願い事」をとなえて昇(のぼ)りましょう。」の看板があります。 鬼岩階段は長さ約150 mで170〜180段の自然石を乱れ積みしたものです。 歩く道筋で段数が少し変化します。
 「鬼岩階段 (おにいわかいだん)(石階段、振り向かずの坂)の伝説」のパンフレットから、
 その昔、この地方を治(おさ)めていた豪族は鬼といわれるほど恐れられ、善良なる土民に悪の限りを尽くしていたという。 ところで、この善良なる土民の一人に、気品のある娘がおったという。 悪しき豪族、その娘を嫁にせんがため、再三口説くもその願いがかなわず、ついには田畑を荒らし、土民を困らせたという。 土民はほとほと困り果て、ついには守り神である霧島の神様に願いをかけたのであります。 霧島の、鬼どもを集めていわく。 「この神殿に通ずる階段を一夜にして1000個の石を積み上げたならば、お前たちの願いをかなえ、もし、そのことがなし得られない時は、この地を去れ」と契約されたのであります。 ある日のこと、夜も更(ふ)静まりかえったある時のこと。 鬼どもは約束の石段作りに取りかかった。 集まった鬼どもはあの怪力をもって、あれよ あれよという間に石段を積み上げていったという。 霧島の神 はたと困り、このままでは悪がはびこり、善はすたるの御心にましまして、東の空、しらじらと明るくし、長鳴き鳥を集めて鳴かして、鬼どもは夜明けと思い、999個の石を積み上げたところでそうそうに退散したという。 この石段を鬼岩階段(鬼磐階段、おにいわかいだん)と言い、振り向かずにこの階段を心を込め願い事をとなえながら登ると願いが叶(かな)うと言い、「振り向かずの坂」とも言います。 なお、今でも霧島の神には鶏(とり)を殺し、御供(おそな)えすることを禁じています。

 鬼岩階段のそばに「性空上人(しょうくうじょうにん) 御霊徳樹 幸招大楠(こうしょうオオクス) 樹齢1000年」があります。
このそばの大杉を寄贈した島津義弘が来た頃はすでにこのクスノキは樹齢600年の大クスでした。
「みやざきの巨樹百選」の看板(かんばん)から、
樹木名 クスノキ、樹齢 1000年、幹周 910 cm、樹高 30 m、所有者 神社、平成4年3月認定 宮崎県。
大クスノキのそばに「高崎町指定 天然記念物 大クス、クスの木はこの地方の特産木でもあった。 樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう、タンスなどの防虫剤)は藩財政の収入源でもあった。 この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える古木である。」の看板(かんばん)があります。
 「東霧島神社の大クス」のパンフレットから、
 通称、性空上人(しょうくうしょうにん)御礼徳樹幸招(こうしょう)大クスと言い、樹齢1000年以上のこの大クスは本殿へ昇る石段の左側に幹(みき)に大きな洞をかかえるようにしてそびえたっております。 この洞をくぐり、右に3回、左に3回めぐり、乳水・龍神水をいただくと無事出産安産であり、病魔を払(はら)うといいます。 なお、クスの木はこの地方の特産木でありました。 クスの樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう)は島津藩財政の収入源でもあったようです。 境内(けいだい)にはイチ・カシなどの大木がたくさんありますが、この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える唯一の古木であります。

 「東霧島神社の龍神」のパンフレットから、
 歴史を感じる見事な造りの社殿奥に、雌雄1対の龍が彫(ほ)られた立派な柱や扉(とびら)の昇(のぼ)龍がしっかりと霧島神の守護となり霊験あらたかなる御光をふり注いでいます。 400年の大杉に龍神現れる。 摩訶不思議(まかふしぎ)。

 「龍王神水」の看板から、
 龍王は絶大なる幸運・開運・厄除いの力を発揮する守り神として敬(うやま)われている。 この世で遭遇するさまざまな苦悩から衆生を救うために東霧島大権現宮のゆや谷に鎮座まして霊水を下されている。 龍王神は洗心浄代の霊験あらたかで吉祥を授(さず)け人々を守護する神秘性をもっている。 特に商業の人は銭を洗い身に納(おさ)、病の人は霊水をいただくとよい。

 東霧島神社にある「島津義弘の大杉」の説明板から、
東方発心門なりし聖地、東霧島神社には数多くの伝説・神話が息づいてる。 この大杉は藩主 島津義弘 公が、戦勝祈願報賽(ほうさい、祈願の成就したお礼のため、神仏におまいりをすること(お礼参り))(高原町の狭野神社にある島津義弘が1600年に寄進した杉は、島津義弘が朝鮮出兵の前に戦勝祈願祭を行ない、見事に凱旋(がいせん)したのでお礼に杉を植えました(狭野杉)。  ここ東霧島神社の大杉も同様に考えて良いのでしょう。)として、慶長5年(1600年)老臣の新納忠元に命じて植栽したものと伝えられる。 以前は参道入口付近からうっそうとした巨樹が立ち並んでいたが、台風の被害や老朽により失われ、現在は数少ない杉となった。

 「高崎町指定 有形文化財 <神輿(みこし)> 寛永13年(1636年)に島津家久が建立奉納したものと伝えられており、その後大破していたものを、嘉永2年(1849年)に島津斉興が再興したもので、島津藩主 寄進のもので現存するものとしては唯一のものである。 指定番号 第2号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)が社殿のそばにあります。

「高崎町指定 有形文化財 <朱印状> 歴代島津藩主の信仰が厚かった当神社(東霧島神社)には数多くの造営と寄進が行われている。 関係の古文書も多く延徳4年(戦国時代、1492年)の島津忠昌の朱印状は旧藩内(薩摩藩内)で最古の貴重なものである。 指定番号 第4号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)が社殿のそばにあります。

 「宮崎県指定 文化財 梵鐘(ぼんしょう)」の説明板から、
 この梵鐘(ぼんしょう)は、慶長20年(1615年)5月の「大阪夏の陣」に、島津宗家 第18代の島津家久(島津義弘の子) 軍勢が出陣するときに、諸願成就のために東霧島大権現宮に祈願奉納したものである。 明治初頭の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」事業のときに鹿児島の細工奉行所に移され、明治10年(1877年)の「西南の役」後に、長崎県 西彼杵郡 為石村に運ばれた。 その後は同地の曹洞宗 宝性寺の鐘楼(しょうろう)につるされ、第二次大戦時でも供出されずに残されてきた。
 高崎町文化財委員会が昭和56年(1981年)に行った高崎町への移管交渉が成立して、町民や篤志者(とくししゃ)の寄付金とその外の資金により代替えの新梵鐘と新鐘楼を同寺に贈り、同年12月にこの梵鐘は高崎町に運ばれた。 南九州の地で鋳造(ちゅうぞう)した梵鐘は他になく、宮崎県内に現存するものでは、2番目に古い貴重な美術工芸の文化財である。
昭和57年2月 高崎町文化財に指定、昭和60年12月 宮崎県文化財に指定。



写真A: 国道221号線を都城市の中心部から北へ行くと左にコスモス(沖水店)の店があります。



写真B: コスモスの近く(西)は畑が広がっています。 中央左に雲(霧)の上に高千穂峰(たかちほのみね、標高 1574 m)が見えています。 西を見たもの。



写真C: 霧の上の高千穂峰(たかちほのみね、標高 1574 m)です。 「霧島」の名の由来(ゆらい)は「霧の中に高千穂峰などが見える事が多いから。」という説があります。 ちょうどこのような風景でしょう。



写真D: 霧の上の高千穂峰(たかちほのみね、標高 1574 m)。 「霧島」の名の由来(ゆらい)は「霧の中に高千穂峰などが見える事が多いから。」という説があります。 ちょうどこのような風景でしょう。



写真E: 東を見た景色です。 山の向こうは日南市です。



写真F: 南東を見たもの。 広々とした都城盆地です。



写真G: 南を見た風景です。 都城盆地。



写真H: 西を見た景色。 右に、霧の上に高千穂峰(たかちほのみね、標高 1574 m)が見えています。



写真I: 西を見たもの。



写真J: 右に国道221号線があります。 左はコスモス(沖水店)です。



写真K: 「北諸県農業改良普及センター→」の標識が国道221号線にあります。



写真L: 国道221号線です。 北を見たもの。 「←東霧島神社 3 km つまきりしまじんじゃ」と書いてある標識があります。 国道221号線を先に行くと高原町、小林市に行きます。 手前に行くと都城市の中心部があります。



写真M: 「←東霧島神社 3 km つまきりしまじんじゃ」と書いてある標識。



写真N: 左に農業関係のホームセンター「コメリ」とその看板(かんばん)があります。
「←山田、→高城、↑小林」の道路標識があります。 「東霧島神社」へはこの山田の方向(西)に曲がります。



写真O: 国道221号線の交通信号が見えます。 この十字路を左(西)に曲がって「東霧島神社」へ行きます。 左はコメリの駐車場です。 北を見たもの。



写真P: 東霧島神社へ行く時に、このコメリは良い目印になります。



写真Q: 農業関係のホームセンター「コメリ」とその駐車場です。



写真R: この交差点「都城市 横谷」を左(西)に曲がります。 そうすると東霧島神社に行きます。



写真S: 「都城市 横谷」と信号機のそばに書いてあります。



写真T: 宮崎県 都城市 高崎町 東霧島 鳩園 1560にある「東霧島神社 (つまきりしまじんじゃ)」の赤い大きな鳥居(とりい)(一の鳥居)です。 南を見たもの。 「東霧島神社」と書いてある看板(かんばん)が見えます。 先に進むと山田町に行きます。
東霧島神社をつま霧島神社と呼(よ)ぶのは東(あづま)の「あ」が消えたものでしょう。
東霧島神社はイザナギノミコトを主祭神とし、それにイザナミノミコトや日向三代の夫婦神と神武天皇が相殿になっています。 主祭神 イザナギノミコト、相殿 イザナミノミコト、カムヤマトイワレヒコノミコト、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリヒメノミコト、サノノミコト(神武天皇の幼名、15歳まで宮崎県 高原町で過ごした。)です。 境内(けいだい)には、別に十数社の境内社があります。



写真U: 南を見たもの。 先に進むと山田町に行きます。



写真V: 北を見たもの。 来るときに通った橋が見えます。 この橋を右から左に通りました。



写真W: 東霧島神社の参道です。 「東霧島神社」の看板(かんばん)があります。
明治10年に長尾神社(現 東霧島神社)は霧島神宮摂社 兼 郷社となり、後に県社、旧 県社となりました。
東霧島神社はイザナギノミコトを主祭神とし、それにイザナミノミコトや日向三代の夫婦神と神武天皇が相殿になっています。 主祭神 イザナギノミコト、相殿 イザナミノミコト、カムヤマトイワレヒコノミコト、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリヒメノミコト、サノノミコト(神武天皇の幼名、15歳まで宮崎県 高原町で過ごした。)です。 境内(けいだい)には、別に十数社の境内社があります。



写真X: 「奉納 霧島大権現 (だいごんげん)」と書いてある幟(のぼり)が赤い鳥居の下にあります。 鳥居に紋(もん)が付いています(神紋は橘(たちばな))。
第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。
東霧島神社は霧島六社権現の一つで「延喜式 (律令の施行細則で平安初期の年中儀式や制度を漢文で書いたもの。 康保4年(927年)施行。)」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。 東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀(まつ)られ、第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)御世(紀元前475年2月21日〜紀元前393年9月5日)に創建されたと伝えられる。 その後、第62代 村上天皇の御世、応和3年(963年)京都の人、天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が巡錫参籠(じゅんしゃくさんろう)し、噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興されました。 江戸時代になって東霧島大権現宮と唱(とな)えるようになりました。 御祭神は建国の祖とたたえられるイザナギノミコトを主祭神として地神5代のアマテラスオオミカミより神武天皇に至る皇祖を合祀(ごうし)し、ご神宝 十握の剣(トツカノツルギ)を御奉斎申し上げております。 御祭神は日本国土を生み給(たも)うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計(はか)られました人間生活の守護神であらせられます。 特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。



写真Y: 東霧島神社は山の中腹にあります。
東霧島神社は霧島山系の支山脈の長尾連山の中腹にあります。 東霧島権現宮の別当 勅詔院が昔はありました。



写真Z: 南を見たもの。



写真AA: 東霧島神社の鳥居の右の方です。
東霧島神社は霧島山系の支山脈の長尾連山の中腹にあります。 東霧島権現宮の別当 勅詔院が昔はありました。



写真AB: ガードレールのそばに野草のスイバ(すかんぽ)が見えます。 北を見たもの。



写真AC: 左端(ひだりはし)は東霧島神社の幟(のぼり)です。 南を見たもの。



写真AD: 東霧島神社の赤い鳥居と幟(のぼり)です。 アジサイの花が咲いていました。
「例大祭」は毎年3月の春分の日に執(と)り行われます。 この時のおみこしの浜下り神事は旧島津藩主第19代 島津家久 公ご寄進の神輿(みこし、市指定文化財)を約0.6 km 離れた八幡母所社まで、高崎町6地区の皆さんが輪番で奉仕されて行われます。 境内広場では、弓道大会をはじめ、イベント広場においては各種の催(もよお)しと共にお楽しみ抽選会などが開催され、参道には出店(露店)も並び終日賑(にぎ)わいます。



写真AE: 鳥居の下に咲いていた「アジサイの花」です。



写真AF: 東霧島神社の参道です。 縄(なわ)と御幣(ごへい)が見えます。



写真AG: 東霧島神社の参道。 奥に石灯籠(いしどうろう)も見えます。 西を見たもの。



写真AH: 参道の杉の木などです。



写真AI: 大広場があります。 駐車場にもなっています。



写真AJ: 参道です。 石灯籠(いしどうろう)、看板(かんばん)、幟(のぼり)、建物などが見えます。 西に山が見えます。



写真AK: 東霧島神社の社務所(右)、と建物です。 大広場(駐車場)です。



写真AL: 来た参道を振り返ったもの。 奥に赤い鳥居が見えます。 参道は木で3つに区切られています。 東を見たもの。



写真AM: 石灯籠(いしどうろう)、看板(かんばん)、幟(のぼり)、建物などが見えます。
参道は突き当りで右に曲がります。
 庄内の乱の時(1599年)には宗家太守の島津家久(忠恒)が東霧島神社を島津の本陣としました。
 西南戦争(明治10年)で多くの社領を没収されるまでは1万1000坪余りの広い敷地がありました。 山岳修行(修験道)の場として全国から多くの人を集めていました。



写真AN: 来た参道を振り返ったもの。 石灯籠、「奉納 霧島大権現 (だいごんげん)」と書いてある幟(のぼり)もあります。



写真AO: 石灯籠(いしどうろう)です。



写真AP: 建物と車が見えます。



写真AQ: 「奉納 えびす神 開運招福」、「奉納 霧島大権現 (だいごんげん)」と書いてある幟(のぼり)、「東霧島神社 お田植え祭 6月2日(土) 午後1時30分 この上↑」と書いてある看板も見えます。



写真AR: 「島津発祥の地 都城」、「ひむか神話街道」、道しるべ、「奉納 えびす神」、「奉納 霧島大権現 (だいごんげん)」と書いてある幟(のぼり)などがあります。 上に金属の大きな枠(わく)が見えます。 西を見たもの。



写真AS: 南を見たもの。 道があります。



写真AT: 仮設トイレがあります。



写真AU: 東を見たもの。 奥に赤い鳥居が見えます。



写真AV: 「奉納 えびす神 開運招福」と書いてある幟(のぼり)、「東霧島神社 お田植え祭 6月2日(土) 午後1時30分 この上↑」と書いてある看板などです。



写真AW: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真AX: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真AY: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真AZ: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真BA: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真BB: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真BC: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真BD: 「島津発祥の地 都城」の説明板です。
「東霧島神社 社殿」
 霧島山の噴火で埋もれていた神社を、応和3年 (963年)に性空上人 (しょうくうしょうにん)が再興したと伝えられています。 霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰を受けてきました。 数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」などがあります。 慶長4年(1599年)の庄内の乱では、島津軍の本陣となりました。
 「浜下り祭り」
 毎年3月の例大祭のときには、藩主 島津家久 寄進の神輿(みこし)を担(か)いでいく浜下りまつりが開催されます。
「薩摩迫館跡 (さつまさこやかたあと)」
 薩摩迫は、島津本宗家 4代 忠宗の6男・島津資忠(すけただ)が文和元年(1352年)の合戦での功により足利尊氏から本郷(ほんごう)300町(現在の都城市 西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。 資忠は、その地名から「北郷(ほんごう)」を名乗るようになり、ここから都城島津 氏のルーツである北郷 氏の歴史が始まりました。
 地図に東霧島神社、薩摩迫館跡(さつまさこやかたあと、都城島津 氏が初めに居た所)、高城郷土資料館、山之口麓文弥節(やまのくちふもとぶんやぶし)、人形浄瑠璃資料館(にんぎょうじょうるりしりょうかん)、都城島津邸などが載っています。
島津の史跡ネットワーク案内板 都城市教育委員会 平成24年2月
と書いてあります。



写真BE: 「近隣の紹介」の説明板です。
都城市高崎町 高崎総合公園 たちばな天文台、都城市高城町 高城町郷土資料館 旧後藤家商家交流資料館、<地図に>高原町 皇子原公園 皇子原・皇子原神社 祓川 狭野神社 皇子港 高千穂峰 天の逆鉾(さかほこ) 霧島東神社 祓川神楽 狭野神楽 御池 御池キャンプ場 霞神社。 都城市高崎町 高崎総合公園 たちばな天文台 高崎古墳群 東霧島神社 神石・鬼岩階段 二ツ岩、都城市高城町 観音池公園 髪長媛伝説 髪長媛像 牧ノ原古墳群 月山日和城址 高城町郷土資料館 旧後藤家商家交流資料館
などが載っています。



写真BF: 「近隣の紹介」の説明板です。
都城市高崎町 高崎総合公園 たちばな天文台、都城市高城町 高城町郷土資料館 旧後藤家商家交流資料館、<地図に>高原町 皇子原公園 皇子原・皇子原神社 祓川 狭野神社 皇子港 高千穂峰 天の逆鉾(さかほこ) 霧島東神社 祓川神楽 狭野神楽 御池 御池キャンプ場 霞神社。 都城市高崎町 高崎総合公園 たちばな天文台 高崎古墳群 東霧島神社 神石・鬼岩階段 二ツ岩、都城市高城町 観音池公園 髪長媛伝説 髪長媛像 牧ノ原古墳群 月山日和城址 高城町郷土資料館 旧後藤家商家交流資料館
などが載っています。



写真BG: 「近隣の紹介」の説明板です。
都城市高崎町 高崎総合公園 たちばな天文台、都城市高城町 高城町郷土資料館 旧後藤家商家交流資料館、<地図に>高原町 皇子原公園 皇子原・皇子原神社 祓川 狭野神社 皇子港 高千穂峰 天の逆鉾(さかほこ) 霧島東神社 祓川神楽 狭野神楽 御池 御池キャンプ場 霞神社。 都城市高崎町 高崎総合公園 たちばな天文台 高崎古墳群 東霧島神社 神石・鬼岩階段 二ツ岩、都城市高城町 観音池公園 髪長媛伝説 髪長媛像 牧ノ原古墳群 月山日和城址 高城町郷土資料館 旧後藤家商家交流資料館
などが載っています。



写真BH: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BI: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BJ: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BK: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BL: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BM: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BN: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BO: 「沿線の見どころ」の説明板です。
「神石」
イザナキノミコトが剣で3段に切ったと言われる「神石」や、鬼が一夜にして造ったと伝わる「鬼岩階段」は見ものである。
神石 都城市高崎町、みそぎ池 宮崎市、天安河原 高千穂町、三ヶ所神社 五ヶ瀬町、天の逆鉾 高原町、西都原古墳群 西都市、潮嶽神社 日南市北郷町、鵜戸神宮 日南市、佐野原聖地 宮崎市佐土原町、鶴富屋敷 椎葉村、百済の館 美郷町、田野天建神社 宮崎市田野町、弥五郎どんの館 都城市山之口町、仁徳天皇 妃 髪長媛像 都城市高城町。
などが載っています。



写真BP: 「↑梵鐘(ぼんしょう)、御神石 本殿石段 古石塔群→」と書いてある標識があります。



写真BQ: この参道を進みます。 左の建物では御札(おふだ)、お守り、社殿の屋根の銅板(1枚 3000円)、絵馬(えま)、おみくじなどを販売しています。



写真BR: 「東霧島大権現宮 東霧島神社 境内案内図」があります。



写真BS: 左は御札、お守り、社殿の屋根の銅板(1枚 3000円)、絵馬(えま)、おみくじなどを売っている所です。 右にアジサイの花、飲料水の自動販売機があります。



写真BT: 御札、お守りなどを販売しています。



写真BU: 社殿の屋根の銅板(1枚 3000円)、絵馬(えま)、おみくじ、などを販売しています。 奥に受付があります。 しめ縄、御幣(ごへい)も見えます。



写真BV: 「霧島大権現 東霧島神社 御本殿改修工事完成予想図」があります。
 御創建は極めて古く第5代 孝昭天皇の御代と伝えられ悠久(ゆうきゅう)2千余年の歴史と高い格式を有する霧島盆地唯一の神社であります。
 幾多の盛衰変遷がありましたがこの度(たび)神言のゆえんにより御本殿大改修を計画しました。 なにとぞ意のあるところを充分にお汲(く)み取りいただき限りないお力添えの程(ほど)伏(ふく)して懇願い申し上げ協賛の稔(みのり)の心豊かな完工の日を描きつつ普き信仰の人々に賛を求めるしだいです。
銅板1枚 3000 円、屋根板1枚 3000 円。
と書かれています。



写真BW: 石灯籠(いしどうろう)、おみくじをかける所、寄付した人の名を書いてあるところなどがあります。



写真BX: この奥(西)に「神石」があります。 赤い鳥居(とりい)、古い御札などを燃やす所、末社、「神石←」の看板(かんばん)、説明板、「奉納 霧島大権現」と書いてある幟(のぼり)、狛犬(こまいぬ)などがあります。



写真BY: 神橋、右に狛犬(こまいぬ)、中央奥に島津義弘の大杉の木、その左に赤い鬼の像が見えます。
 庄内の乱の時(1599年)には宗家太守の島津家久(忠恒、島津義弘の子)が東霧島神社を島津の本陣としました。



写真BZ: 「神石←」の看板(かんばん)と東霧島神社の案内板があります。



写真CA: 東霧島神社の案内板があります。



写真CB: 中央は古い御札などを燃やす所(古神符焼納所)です。 赤い鳥居、末社も見えます。 「神石」はこの奥にあります。



写真CC: 「神石」の由来(ゆらい)の説明板です。
 天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。 天地創造の神である、イザナギの尊(みこと)、イザナミの尊(みこと)が誕生されました。 夫婦となられた2人の神様は国土・山川草木に至る私達の生活に大切な「火の神」をお産みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。 夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。 愛(いと)しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆(なげ)き、悲しめど亡き人は帰る術(すべ)もありません。 その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕(した)う悲しみの涙で凝(こ)り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とっかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭(あ)わないように・・・と、深き祈りの心を込めて3段(4つに分割)に切ったといいます。
 「十握の剣(とっかのつるぎ)」は当神社の神宝であり、厄除(やくよ)け・魔除けの神となり鎮(しず)め納めております。
((岩の)横に廻(まわ)って御覧下さい。 ものの見事に切れております。) [神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。]
と書かれています。



写真CD: 「神石」の由来(ゆらい)の説明板です。
 天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。 天地創造の神である、イザナギの尊(みこと)、イザナミの尊(みこと)が誕生されました。 夫婦となられた2人の神様は国土・山川草木に至る私達の生活に大切な「火の神」をお産みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。 夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。 愛(いと)しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆(なげ)き、悲しめど亡き人は帰る術(すべ)もありません。 その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕(した)う悲しみの涙で凝(こ)り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とっかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭(あ)わないように・・・と、深き祈りの心を込めて3段(4つに分割)に切ったといいます。
 「十握の剣(とっかのつるぎ)」は当神社の神宝であり、厄除(やくよ)け・魔除けの神となり鎮(しず)め納めております。
((岩の)横に廻(まわ)って御覧下さい。 ものの見事に切れております。) [神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。]
と書かれています。



写真CE: 鳥居(とりい)の奥に見えているのが「神石」です。 まわりに石の柵(さく)があります。 鳥居の上と石の柵の上に小石がたくさん乗せてあります。 参拝者が小石を乗せたものです。 鳥居にはしめ縄、御幣(ごへい)があります。 西を見たもの。



写真CF: これが宮崎県 都城市 高崎町にある東霧島神社の「神石」です。 かなり大きな石がすっぱりと切れたようになっています。 下には水が溜(た)まっています。 神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。
天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。 天地創造の神である、イザナギの尊(みこと)、イザナミの尊(みこと)が誕生されました。 夫婦となられた2人の神様は国土・山川草木に至る私達の生活に大切な「火の神」をお産みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。 夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。 愛(いと)しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆(なげ)き、悲しめど亡き人は帰る術(すべ)もありません。 その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕(した)う悲しみの涙で凝(こ)り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とっかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭(あ)わないように・・・と、深き祈りの心を込めて3段(4つに分割)に切ったといいます。
 「十握の剣(とっかのつるぎ)」は当神社の神宝であり、厄除(やくよ)け・魔除けの神となり鎮(しず)め納めております。



写真CG: 都城市 高崎町にある東霧島神社の「神石」です。 かなり大きな石がすっぱりと切れたようになっています。 あたかも3つ(実は3段(4つの破片))に切ってその内の2つがここにあるように見えます。 下には水が溜(た)まっています。  神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。
「故有谷(ゆやだに)の泪雨(なみだあめ)」
 「神石(かみいし)」のある谷を故有谷(ゆやだに)といいます。 泪雨というのは「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)に一滴の水を注ぐと、必ず神雨降(ふ)り注ぐという。 昔から旱魃(かんばつ)の年には社僧に願って、この神石に雨乞いをして五穀豊穣を続けてきたのであります。 明治初年、三島地頭(じとう)が母智丘神社(もちおじんじゃ)を建立した時、この「神石」を人夫を以(も)って五十市の方へ運ぼうとしたところ、一天俄(いってんにわか)に曇って激しい雷雨が轟(とどろ)き、数カ所に落雷し、死者さえも出たので、皆ちりぢりに逃げ帰ったといいます。 依(よ)って、この石を「雷神石」ともいいます。 [この神石は3段(4つに分割)に切られました。 都城市にある母智丘公園の母智丘神社(もちおじんじゃ)にはこの「東霧島神社の神石の一部」があります。 (母智丘神社(もちおじんじゃ)の「割裂神石」のことです。) この一部とは見えている2つの石の右側にあった部分と思われます。]。  一片は宮崎の大島平原村(現 宮崎市 大島町 平原(波島の近く))に飛び去ったという説もあります(大島町の霧島神社にこの切り取ったような石があります。)。
宮崎市 大島町 平原(波島の近く)にある霧島神社の神石(魔石)のホームページ (南陽彰悟)
 出雲国(島根県、場所は不明)に奇石(切り取ったような石)があって、土地の人は昔に薩摩藩の霧島山から飛んできた石と伝えているそうです。 宮崎県 高岡町に去川という地名があるのは、この飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石・・・とあるそうです。



写真CH: 神石の近くです。



写真CI: 東霧島神社の神橋の上から「島津義弘の大杉」を見たものです。 左の赤鬼の像のそばの鳥居の奥に鬼が一夜で造ったといわれる「鬼岩階段」があります。



写真CJ: この奥(西)に「神石」があります。 赤い鳥居(とりい)、古い御札などを燃やす所(古神符焼納所)、末社、「神石←」の看板(かんばん)、説明板、「奉納 霧島大権現」と書いてある幟(のぼり)、狛犬(こまいぬ)などがあります。



写真CK: 神橋の奥に島津義弘の杉、赤鬼の像、石灯籠(いしどうろう)が見えます。



写真CL: 東霧島神社にある「島津義弘の大杉」です。 中央のものがその大杉。
東方発心門なりし聖地、東霧島神社には数多くの伝説・神話が息づいてる。 この大杉は藩主 島津義弘 公が、戦勝祈願報賽(ほうさい、祈願の成就したお礼のため、神仏におまいりをすること(お礼参り))(高原町の狭野神社にある島津義弘が1600年に寄進した杉は、島津義弘が朝鮮出兵の前に戦勝祈願祭を行ない、見事に凱旋(がいせん)したのでお礼に杉を植えました(狭野杉)。  ここ東霧島神社の大杉も同様に考えて良いのでしょう。)として、慶長5年(1600年)老臣の新納忠元に命じて植栽したものと伝えられる。 以前は参道入口付近からうっそうとした巨樹が立ち並んでいたが、台風の被害や老朽により失われ、現在は数少ない杉となった。



写真CM: 東霧島神社にある「島津義弘の大杉」。



写真CN: 「歴史を語りつぐ「大杉」」の説明板です。
 東方発心門なりし聖地、東霧島神社には数多くの伝説・神話が息づいてる。 この大杉は藩主 島津義弘 公が、戦勝祈願報賽(ほうさい、祈願の成就したお礼のため、神仏におまいりをすること(お礼参り))(高原町の狭野神社にある島津義弘が1600年に寄進した杉は、島津義弘が朝鮮出兵の前に戦勝祈願祭を行ない、見事に凱旋(がいせん)したのでお礼に杉を植えました(狭野杉)。  ここ東霧島神社の大杉も同様に考えて良いのでしょう。)として、慶長5年(1600年)老臣の新納忠元に命じて植栽したものと伝えられる。 以前は参道入口付近からうっそうとした巨樹が立ち並んでいたが、台風の被害や老朽により失われ、現在は数少ない杉となった。
と書かれています。
庄内の乱の時(1599年)には宗家太守の島津家久(忠恒、島津義弘の子)が東霧島神社を島津の本陣としました。



写真CO: 大杉の方から神橋を見たものです。



写真CP: 右端は龍王神水の建物、おみくじを縛(しば)り付ける所、石灯籠(いしどうろう)があります。



写真CQ: 左から龍王神水の建物、龍の水が出る所(像)、オミクジを浮かべる石の水入れ、絵馬(えま)をかける所、その左奥に安産神があります。



写真CR: 鳥居(とりい)の左にあるのが樹齢1000年の大クスです。 石灯籠(いしどうろう)の右に「性空上人(しょうくうじょうにん) 御霊徳樹 幸招大楠(こうしょうおおくす) 樹齢1000年」と書いてあります。
このそばの大杉を寄贈した島津義弘が来た頃はすでにこのクスノキは樹齢600年の大クスでした。
「みやざきの巨樹百選」の看板(かんばん)があります。
樹木名 クスノキ、樹齢 1000年、幹周 910 cm、樹高 30 m、所有者 神社、平成4年3月認定 宮崎県。



写真CS: 左から樹齢1000年の大クス、石灯籠(いしどうろう)、鳥居(二の鳥居)、鉄棒を持った鬼の像、石灯籠などがあります。
鳥居の奥に「鬼岩階段」が見えています。



写真CT: 石灯籠、鬼の像、鳥居などが見えます。



写真CU: 鳥居(とりい)の左にあるのが樹齢1000年の大クスです。 石灯籠(いしどうろう)の右に「性空上人(しょうくうじょうにん) 御霊徳樹 幸招大楠(こうしょうおおくす) 樹齢1000年」と書いてあります。
このそばの大杉を寄贈した島津義弘が来た頃はすでにこのクスノキは樹齢600年の大クスでした。
「みやざきの巨樹百選」の看板(かんばん)があります。
樹木名 クスノキ、樹齢 1000年、幹周 910 cm、樹高 30 m、所有者 神社、平成4年3月認定 宮崎県。
「東霧島神社の大クス」
 通称、性空上人(しょうくうしょうにん)御礼徳樹幸招(こうしょう)大クスと言い、樹齢1000年以上のこの大クスは本殿へ昇る石段の左側に幹(みき)に大きな洞をかかえるようにしてそびえたっております。 この洞をくぐり、右に3回、左に3回めぐり、乳水・龍神水をいただくと無事出産安産であり、病魔を払(はら)うといいます。 なお、クスの木はこの地方の特産木でありました。 クスの樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう)は島津藩財政の収入源でもあったようです。 境内(けいだい)にはイチ・カシなどの大木がたくさんありますが、この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える唯一の古木であります。



写真CV: 性空上人(しょうくうじょうにん)が植えた樹齢1000年の「東霧島神社の大クス」です。



写真CW: 性空上人(しょうくうじょうにん)が植えた樹齢1000年の「東霧島神社の大クス」。



写真CX: 「性空上人(しょうくうじょうにん) 御霊徳樹 幸招大楠(こうしょうおおくす) 樹齢1000年」と書いてあります。 後ろは樹齢1000年の大クスノキです。



写真CY: 「みやざきの巨樹百選」の看板(かんばん)があります。
樹木名 クスノキ、樹齢 1000年、幹周 910 cm、樹高 30 m、所有者 神社、平成4年3月認定 宮崎県。
と書いてあります。



写真CZ: 「水みくじ」
水に浮かべて、あなたの運勢を占(うらな)ってみませんか? *水みくじはお守り授与所にあります。 1体 300円。
と書いてあります。
石で造ったものに水が張(は)ってあります。 そばにクマザサが生(は)えています。 奥に竜の像が見えます。



写真DA: 「龍王神水」の看板があります。
 龍王は絶大なる幸運・開運・厄除いの力を発揮する守り神として敬(うやま)われている。 この世で遭遇するさまざまな苦悩から衆生を救うために東霧島大権現宮のゆや谷に鎮座まして霊水を下されている。 龍王神は洗心浄代の霊験あらたかで吉祥を授(さず)け人々を守護する神秘性をもっている。 特に商業の人は銭を洗い身に納(おさ)、病の人は霊水をいただくとよい。
と書いてあります。



写真DB: 都城市 高崎町にある東霧島神社の「龍王神水」。



写真DC: 竜の像の口から水が流れ出ています。 下に柄杓(ひしゃく)があります。



写真DD: 「東霧島神社」と書いてある額(がく)が鳥居(とりい)にあります。 左に樹齢1000年の大楠(くすのき)の穴、鳥居の奥に「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」が見えます。 鬼岩階段の鬼の像が鉄棒を持って石に座(すわ)っています。
天台宗、真言宗の僧たちは念仏をとなえながら、この鬼岩階段(振り向かずの坂)を登って修行しました。 鬼岩階段は後ろを振り向かずに願い事をとなえながら登り切るとその願いがかなえられると言われています。
「この鬼磐階段は「振り向かずの坂」とも言い、遠い昔、天台宗・真言宗の僧侶が、 一心に呪文(じゅもん)をとなえながら修行したと言われています。  参拝者の皆様も「一心に願い事」をとなえて昇(のぼ)りましょう。」の看板があります。
鬼岩階段は長さ約150 mで170〜180段の自然石を乱れ積みしたものです。 歩く道筋で段数が少し変化します。
第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。
東霧島神社は霧島六社権現の一つで「延喜式 (律令の施行細則で平安初期の年中儀式や制度を漢文で書いたもの。 康保4年(927年)施行。)」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。 東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀(まつ)られ、第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)御世(紀元前475年2月21日〜紀元前393年9月5日)に創建されたと伝えられる。 その後、第62代 村上天皇の御世、応和3年(963年)京都の人、天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が巡錫参籠(じゅんしゃくさんろう)し、噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興されました。 江戸時代になって東霧島大権現宮と唱(とな)えるようになりました。 御祭神は建国の祖とたたえられるイザナギノミコトを主祭神として地神5代のアマテラスオオミカミより神武天皇に至る皇祖を合祀(ごうし)し、ご神宝 十握の剣(トツカノツルギ)を御奉斎申し上げております。 御祭神は日本国土を生み給(たも)うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計(はか)られました人間生活の守護神であらせられます。 特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。



写真DE: 「高崎町指定 天然記念物 大クス、クスの木はこの地方の特産木でもあった。 樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう、タンスなどの防虫剤)は藩財政の収入源でもあった。 この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える古木である。」の標識棒(標柱)が樹齢1000年の大クスのそばにあります。 クスの木に人が通れる穴があります。 鬼岩階段の下にあります。



写真DF: 「高崎町指定 天然記念物 大クス、クスの木はこの地方の特産木でもあった。 樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう、タンスなどの防虫剤)は藩財政の収入源でもあった。 この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える古木である。」と書いてあります。



写真DG: 「高崎町指定 天然記念物 大クス、クスの木はこの地方の特産木でもあった。 樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう、タンスなどの防虫剤)は藩財政の収入源でもあった。 この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える古木である。」と書いてあります。



写真DH: 「高崎町指定 天然記念物 大クス、クスの木はこの地方の特産木でもあった。 樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう、タンスなどの防虫剤)は藩財政の収入源でもあった。 この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える古木である。」と書いてあります。



写真DI: 樹齢1000年の大クスの下部に人が通れる穴があります。 通路に敷石(しきいし)があります。 私も通ってみました。
「東霧島神社の大クス」
 通称、性空上人(しょうくうしょうにん)御礼徳樹幸招(こうしょう)大クスと言い、樹齢1000年以上のこの大クスは本殿へ昇る石段の左側に幹(みき)に大きな洞をかかえるようにしてそびえたっております。 この洞をくぐり、右に3回、左に3回めぐり、乳水・龍神水をいただくと無事出産安産であり、病魔を払(はら)うといいます。 なお、クスの木はこの地方の特産木でありました。 クスの樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう)は島津藩財政の収入源でもあったようです。 境内(けいだい)にはイチ・カシなどの大木がたくさんありますが、この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える唯一の古木であります。



写真DJ: 穴を通り抜けた後に振り返ったもの。 穴の出口です。 穴の上部を見ると、5個以上の石がクスの木に取り込まれているのがよく分かります。 長年のクスの成長でそばの石が挟(はさ)まったものでしょう。



写真DK: 樹齢1000年の大クスノキのそばにある「故有谷の乳水」です。 女の人の像です。 乳房から水が流れています。 この水を飲むと安産すると言い伝えられています。 左奥は安産神の神社です。



写真DL: 鳥居をくぐって「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」を登ります。 自然石で造られた長い階段です。 奥に山門が見えています。
天台宗、真言宗の僧たちは念仏をとなえながら、この鬼岩階段(振り向かずの坂)を登って修行しました。 鬼岩階段は後ろを振り向かずに願い事をとなえながら登り切るとその願いがかなえられると言われています。
「この鬼磐階段は「振り向かずの坂」とも言い、遠い昔、天台宗・真言宗の僧侶が、 一心に呪文(じゅもん)をとなえながら修行したと言われています。  参拝者の皆様も「一心に願い事」をとなえて昇(のぼ)りましょう。」の看板があります。
鬼岩階段は長さ約150 mで170〜180段の自然石を乱れ積みしたものです。 歩く道筋で段数が少し変化します。
<鬼岩階段(おにいわかいだん)の伝説>
 その昔、この地方を治(おさ)めていた豪族は鬼といわれるほど恐れられ、善良なる土民に悪の限りを尽くしていたという。 ところで、この善良なる土民の一人に、気品のある娘がおったという。 悪しき豪族、その娘を嫁にせんがため、再三口説くもその願いがかなわず、ついには田畑を荒らし、土民を困らせたという。 土民はほとほと困り果て、ついには守り神である霧島の神様に願いをかけたのであります。 霧島の、鬼どもを集めていわく。 「この神殿に通ずる階段を一夜にして1000個の石を積み上げたならば、お前たちの願いをかなえ、もし、そのことがなし得られない時は、この地を去れ」と契約されたのであります。 ある日のこと、夜も更(ふ)静まりかえったある時のこと。 鬼どもは約束の石段作りに取りかかった。 集まった鬼どもはあの怪力をもって、あれよ あれよという間に石段を積み上げていったという。 霧島の神 はたと困り、このままでは悪がはびこり、善はすたるの御心にましまして、東の空、しらじらと明るくし、長鳴き鳥を集めて鳴かして、鬼どもは夜明けと思い、999個の石を積み上げたところでそうそうに退散したという。 この石段を鬼岩階段(鬼磐階段、おにいわかいだん)と言い、振り向かずにこの階段を心を込め願い事をとなえながら登ると願いが叶(かな)うと言い、「振り向かずの坂」とも言います。 なお、今でも霧島の神には鶏(とり)を殺し、御供(おそな)えすることを禁じています。



写真DM: 「鬼岩階段 (振り向かずの坂)」を登ります。 自然石で造られた長い階段です。
天台宗、真言宗の僧たちは念仏をとなえながら、この鬼岩階段(振り向かずの坂)を登って修行しました。 鬼岩階段は後ろを振り向かずに願い事をとなえながら登り切るとその願いがかなえられると言われています。
「この鬼磐階段は「振り向かずの坂」とも言い、遠い昔、天台宗・真言宗の僧侶が、 一心に呪文(じゅもん)をとなえながら修行したと言われています。  参拝者の皆様も「一心に願い事」をとなえて昇(のぼ)りましょう。」の看板があります。
鬼岩階段は長さ約150 mで170〜180段の自然石を乱れ積みしたものです。 歩く道筋で段数が少し変化します。



写真DN: 鬼岩階段から上を見たものです。 下に神門(山門)、末社も見えます。



写真DO: 神門(山門)の近くまで登って来ました。 神門(山門)の左に樹齢400年の大杉(神木)があります。 この杉の木に龍の形をした枝があります。 しめ縄、御幣(ごへい)があります。 木の大きな根が石段のところに伸びてきています。



写真DP: 木の大きな根が石段のところに伸びてきています。



写真DQ: 木の大きな根が石段のところに伸びてきています。



写真DR: 木の大きな根が石段のところに伸びてきています。



写真DS: 鬼岩階段の上端に神門(山門)があります。 その奥に東霧島神社の社殿が見えています。 神門(山門)にしめ縄、御幣(ごへい)があります。



写真DT: 鬼岩階段の下方を見たものです。 コンクリートで出来た階段の踊り場(おどりば)のようなものがあります。



写真DU: 都城市 高崎町にある東霧島神社の「鬼岩階段」を上部から下方を見たものです。 自然石で造られた石段と鳥居が見えます。



写真DV: 神門(山門)から南を見たもの。 東霧島神社の境内(けいだい)です。



写真DW: 都城市にある東霧島神社の境内です。 右は拝殿で、石灯籠(いしどうろう)も見えます。



写真DX: 左が東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の拝殿で右端が本殿です。 鬼岩階段の上にあります。
第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。
東霧島神社は霧島六社権現の一つで「延喜式 (律令の施行細則で平安初期の年中儀式や制度を漢文で書いたもの。 康保4年(927年)施行。)」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。 東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀(まつ)られ、第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)御世(紀元前475年2月21日〜紀元前393年9月5日)に創建されたと伝えられる。 その後、第62代 村上天皇の御世、応和3年(963年)京都の人、天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が巡錫参籠(じゅんしゃくさんろう)し、噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興されました。 江戸時代になって東霧島大権現宮と唱(とな)えるようになりました。 御祭神は建国の祖とたたえられるイザナギノミコトを主祭神として地神5代のアマテラスオオミカミより神武天皇に至る皇祖を合祀(ごうし)し、ご神宝 十握の剣(トツカノツルギ)を御奉斎申し上げております。 御祭神は日本国土を生み給(たも)うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計(はか)られました人間生活の守護神であらせられます。 特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。



写真DY: 左から拝殿、本殿、末社(白髭神社)です。 オミクジを縛(しば)り付ける所、その左の岩にしめ縄、御幣(ごへい)が付けてあります。 奥に大きな木も見えます。
歴史を感じる見事な造りの社殿奥に、雌雄1対の龍が彫(ほ)られた立派な柱や扉(とびら)の昇(のぼ)龍がしっかりと霧島神の守護となり霊験あらたかなる御光をふり注いでいます。 400年の大杉に龍神現れる。 摩訶不思議(まかふしぎ)。(パンフレットから)



写真DZ: 東霧島神社の境内です。 右端は神門(山門)です。



写真EA: 都城市 高崎町にある東霧島神社です。 大きな木も見えます。



写真EB: 絵馬(えま)をかける所、オミクジを縛り付ける所もあります。 後ろは拝殿です。



写真EC: 「高崎町指定 有形文化財 <神輿(みこし)> 寛永13年(1636年)に島津家久が建立奉納したものと伝えられており、その後大破していたものを、嘉永2年(1849年)に島津斉興が再興したもので、島津藩主 寄進のもので現存するものとしては唯一のものである。 指定番号 第2号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」、「高崎町指定 有形文化財 <朱印状> 歴代島津藩主の信仰が厚かった当神社(東霧島神社)には数多くの造営と寄進が行われている。 関係の古文書も多く延徳4年(戦国時代、1492年)の島津忠昌の朱印状は旧藩内(薩摩藩内)で最古の貴重なものである。 指定番号 第4号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)があります。 背景は拝殿。



写真ED: 「高崎町指定 有形文化財 <神輿(みこし)> 寛永13年(1636年)に島津家久が建立奉納したものと伝えられており、その後大破していたものを、嘉永2年(1849年)に島津斉興が再興したもので、島津藩主 寄進のもので現存するものとしては唯一のものである。 指定番号 第2号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」、「高崎町指定 有形文化財 <朱印状> 歴代島津藩主の信仰が厚かった当神社(東霧島神社)には数多くの造営と寄進が行われている。 関係の古文書も多く延徳4年(戦国時代、1492年)の島津忠昌の朱印状は旧藩内(薩摩藩内)で最古の貴重なものである。 指定番号 第4号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)があります。



写真EE: 「高崎町指定 有形文化財 <神輿(みこし)> 寛永13年(1636年)に島津家久が建立奉納したものと伝えられており、その後大破していたものを、嘉永2年(1849年)に島津斉興が再興したもので、島津藩主 寄進のもので現存するものとしては唯一のものである。 指定番号 第2号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」、「高崎町指定 有形文化財 <朱印状> 歴代島津藩主の信仰が厚かった当神社(東霧島神社)には数多くの造営と寄進が行われている。 関係の古文書も多く延徳4年(戦国時代、1492年)の島津忠昌の朱印状は旧藩内(薩摩藩内)で最古の貴重なものである。 指定番号 第4号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)があります。



写真EF: 「高崎町指定 有形文化財 <神輿(みこし)> 寛永13年(1636年)に島津家久が建立奉納したものと伝えられており、その後大破していたものを、嘉永2年(1849年)に島津斉興が再興したもので、島津藩主 寄進のもので現存するものとしては唯一のものである。 指定番号 第2号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」、「高崎町指定 有形文化財 <朱印状> 歴代島津藩主の信仰が厚かった当神社(東霧島神社)には数多くの造営と寄進が行われている。 関係の古文書も多く延徳4年(戦国時代、1492年)の島津忠昌の朱印状は旧藩内(薩摩藩内)で最古の貴重なものである。 指定番号 第4号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)があります。



写真EG: 「祈願の御案内」の看板(かんばん)、「平成24年度厄祓(やくばらい)表」があります。



写真EH: 東霧島神社の境内です。 左は「祈願の御案内」の看板。



写真EI: 拝殿の前にある線香を立てる所、ロウソクを立てる所が見えます。 拝殿の左半分です。



写真EJ: 都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の拝殿です。
「例大祭」は毎年3月の春分の日に執(と)り行われます。 この時のおみこしの浜下り神事は旧島津藩主第19代 島津家久 公ご寄進の神輿(みこし、市指定文化財)を約0.6 km 離れた八幡母所社まで、高崎町6地区の皆さんが輪番で奉仕されて行われます。 境内広場では、弓道大会をはじめ、イベント広場においては各種の催(もよお)しと共にお楽しみ抽選会などが開催され、参道には出店(露店)も並び終日賑(にぎ)わいます。



写真EK: 拝殿の右の方に先程の鬼岩階段の上の神門(山門)があります。



写真EL: 南寄りの景色です。 柵(さく)があります。



写真EM: 宮崎県 都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の拝殿。 横木の両端に象の彫(ほ)り物があります。



写真EN: 都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の拝殿。 横木の両端に象の彫(ほ)り物があります。




写真EO: 線香を立てる所です。



写真EP: 火がついているロウソクも見えます。 ロウソクを立てる所です。



写真EQ: 拝殿にある太鼓(たいこ)、天狗(てんぐ)の面、額(がく)、しめ縄、御幣(ごへい)、鈴のヒモ、横木の彫刻、お賽銭箱(さいせんばこ)、石段、階段も見えます。
左につってある写真は神門(山門)の右の神木に出現した「龍の形をした枝」です。



写真ER: 都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の拝殿。



写真ES: 東霧島神社の拝殿の中です。 欄間(らんま)には色が付けられた両側の龍神と中央の仏像(大日如来)の彫刻があります。 龍神や天狗(てんぐ)は修験道と深い関係があります。



写真ET: 東霧島神社の拝殿の中。 龍神太鼓(たいこ)、天狗(てんぐ)の面、額(がく)もあります。 「1年の家族の幸福を願って 龍神太鼓(たいこ) を打ちませんか 3打」と書いてあります。



写真EU: 拝殿の中です。 般若(はんにゃ)の面も見えます。



写真EV: 焼酎(しょうちゅう)の小瓶(びん)、お包み、参拝者名簿のノートなどがあります。 拝殿です。



写真EW: オミクジ (200円)、絵馬(えま、500円)などが販売されています。 拝殿です。



写真EX: 金色の鈴が3つあります。 横木に古い彫り物があります。



写真EY: 鈴のヒモ、しめ縄、御幣(ごへい)、お賽銭箱(さいせんばこ)、絵馬(えま)、左に神木の龍の形をした枝の写真が見えます。



写真EZ: 年月を経(へ)た彫刻のある横木、3つの鈴、屋根裏などが見えています。 東霧島神社の拝殿です。



写真FA: 象などの彫刻のある横木、3つの鈴、屋根裏などが見えています。 東霧島神社の拝殿。



写真FB: 拝殿の方から見た神門(山門)です。



写真FC: 「高崎町指定 有形文化財 <神輿(みこし)> 寛永13年(1636年)に島津家久が建立奉納したものと伝えられており、その後大破していたものを、嘉永2年(1849年)に島津斉興が再興したもので、島津藩主 寄進のもので現存するものとしては唯一のものである。 指定番号 第2号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」、「高崎町指定 有形文化財 <朱印状> 歴代島津藩主の信仰が厚かった当神社(東霧島神社)には数多くの造営と寄進が行われている。 関係の古文書も多く延徳4年(戦国時代、1492年)の島津忠昌の朱印状は旧藩内(薩摩藩内)で最古の貴重なものである。 指定番号 第4号 指定日 昭和57年 文化財を愛護しましょう。」の標識棒(標柱)があります。



写真FD: 境内には多くのオミクジが縛り付けてあります。 参拝者の多さが分かります。



写真FE: オミクジの左にしめ縄、御幣(ごへい)のある石があります。 左奥は本殿、右奥は末社(白髭神社)です。



写真FF: 右端は本殿、左は拝殿です。 手前の木の枝にもおみくじを縛り付けてあります。



写真FG: 拝殿の側面です。



写真FH: 拝殿のそばの境内(けいだい)です。



写真FI: 左は本殿、右は末社(白髭神社)です。 右にしめ縄のある岩があります。



写真FJ: 中央は宮崎県 都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の本殿です。



写真FK: 中央は都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の本殿。



写真FL: 拝殿と本殿の間の部分です。



写真FM: 拝殿を横から見たもの。



写真FN: 拝殿の端(はし)の部分です。



写真FO: 拝殿の端(はし)の部分。



写真FP: 岩にしめ縄と御幣(ごへい)があります。 これも御神石でしょう。



写真FQ: 本殿です。



写真FR: 本殿の下部です。



写真FS: 本殿の裏の方です。



写真FT: 本殿です。



写真FU: 本殿の上部です。



写真FV: 末社の愛宕神社(あたごじんじゃ)です。



写真FW: 左は本殿の上部です。



写真FX: 本殿の下部です。



写真FY: 周(まわ)りの様子です。



写真FZ: 古い樹木があります。



写真GA: 昔に使っていた瓦(かわら)です。



写真GB: 東霧島神社の境内です。



写真GC: 本殿と拝殿の間の部分です。



写真GD: 中央は東霧島神社の本殿です。 左端は愛宕神社(あたごじんじゃ)です。



写真GE: 左にある末社の愛宕神社(あたごじんじゃ)です。



写真GF: 拝殿の前から見た神門(山門)です。



写真GG: 神門(山門)の右(南)に「400年の大杉に龍神現れる。 まか不思議 御利益大↑」と書いてあります。 左はその龍の形をした枝の写真です。



写真GH: 山門のそばにある「樹齢400年の杉の木」が龍神が現れているもの(神木)です。 幹(みき)の左の枝が龍の形をしています。
歴史を感じる見事な造りの社殿奥に、雌雄1対の龍が彫(ほ)られた立派な柱や扉(とびら)の昇(のぼ)龍がしっかりと霧島神の守護となり霊験あらたかなる御光をふり注いでいます。 400年の大杉に龍神現れる。 摩訶不思議(まかふしぎ)。(パンフレットから)



写真GI: これから裏参道を下(くだ)ります。 「裏参道←」と書いてあります。



写真GJ: 「急な坂道ですのでお子様の手を引いて降りて下さい。 宮司」と書いてあります。 裏参道。



写真GK: 土石流止めのダムが見えます。
「東霧島第4砂防ダム」
完成 平成6年7月、天端標高 182.50 m、堤長 45.10 m、堤高 10.00 m、流路工 86.50 m、建設省九州地方建設局。



写真GL: 東霧島神社の裏参道を下ります。 手すりがあります。



写真GM: 裏参道です。 坂道になっています。



写真GN: 池が見えてきました。



写真GO: 野草の「ドクダミの花」が咲いていました。



写真GP: 「東霧島第4砂防ダム」
完成 平成6年7月、天端標高 182.50 m、堤長 45.10 m、堤高 10.00 m、流路工 86.50 m、建設省九州地方建設局。
と書いてあります。



写真GQ: 池の中に岩もあります。



写真GR: 苔(こけ)むした地面です。



写真GS: 先程見えた池を近くから見たものです。



写真GT: 大きな鯉(こい)が泳いでいます。



写真GU: 池の中にしめ縄と御幣(ごへい)がある岩、石の容器などがあります。



写真GV: 「アジサイの花」が咲いていました。



写真GW: 「東霧島神社 お田植え祭 6月2日(土) 午後1時30分 この上↑」と書いてある看板の現場です。
「お田植え祭り」の翌日(よくじつ)の写真です。 左のテントのそばに神田(しんでん)が見えます。 神田に稲の苗(なえ)が植えてあります。 東霧島神社の神田です。



写真GX: テントの手前の神田に稲の苗(なえ)が植えてあります。 神田には御幣(ごへい)が竹につけて立ててあります。



写真GY: 神田の近くの様子です。



写真GZ: 宮崎県 都城市 高崎町にある東霧島神社の神田(しんでん)です。 お田植え祭りで植えられた稲の苗が見えます。 御幣(ごへい)もあります。



写真HA: 都城市 高崎町にある東霧島神社の神田(しんでん)です。 「お田植え祭り」で植えられた稲の苗が見えます。 御幣(ごへい)もあります。



写真HB: 裏参道に戻(もど)りました。 坂道を下って行くと左に「神石」が見えてきました。 刀で切ったような石です。



写真HC: 宮崎県 都城市 高崎町にある東霧島神社の「神石」です。 神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。 刀で3つ[実は3段(4つに分割)]に切ったように割れています。 その4つのうちの2つの破片があります。 しめ縄と御幣(ごへい)が神石に付けてあります。 右寄り奥に先程の「樹齢1000年の大クスノキ」が見えています。 鬼岩階段はこの奥にあります。



写真HD: 都城市 高崎町にある東霧島神社の「神石」です。 刀で3つ[実は3段(4つに分割)]に切ったように割れています。 その4つのうちの2つの破片があります。



写真HE: 都城市 高崎町にある東霧島神社の「神石」です。 刀で3つ[実は3段(4つに分割)]に切ったように割れています。 その4つのうちの2つの破片があります。 神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。
「故有谷(ゆやだに)の泪雨(なみだあめ)」
 「神石(かみいし)」のある谷を故有谷(ゆやだに)といいます。 泪雨というのは「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)に一滴の水を注ぐと、必ず神雨降(ふ)り注ぐという。 昔から旱魃(かんばつ)の年には社僧に願って、この神石に雨乞いをして五穀豊穣を続けてきたのであります。 明治初年、三島地頭(じとう)が母智丘神社(もちおじんじゃ)を建立した時、この「神石」を人夫を以(も)って五十市の方へ運ぼうとしたところ、一天俄(いってんにわか)に曇って激しい雷雨が轟(とどろ)き、数カ所に落雷し、死者さえも出たので、皆ちりぢりに逃げ帰ったといいます。 依(よ)って、この石を「雷神石」ともいいます。 [この神石は3段(4つに分割)に切られました。 都城市にある母智丘公園の母智丘神社(もちおじんじゃ)にはこの「東霧島神社の神石の一部」があります。 (母智丘神社(もちおじんじゃ)の「割裂神石」のことです。) この一部とは見えている2つの石の左側にあった部分と思われます。]。  一片は宮崎の大島平原村(現 宮崎市 大島町 平原(波島の近く))に飛び去ったという説もあります(大島町の霧島神社にこの切り取ったような石があります。)。
宮崎市 大島町 平原(波島の近く)にある霧島神社の神石(魔石)のホームページ (南陽彰悟)
 出雲国(島根県、場所は不明)に奇石(切り取ったような石)があって、土地の人は昔に薩摩藩の霧島山から飛んできた石と伝えているそうです。 宮崎県 高岡町に去川という地名があるのは、この飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石・・・とあるそうです。



写真HF: 神石は池の中にあり、まわりに柵(さく)があります。 小型の鳥居(とりい)もあります。 鳥居の上や石の柵の上に小石がたくさん乗せてあります。 参拝者が乗せたものでしょう。 神石には苔(こけ)が生えています。



写真HG: 「神石」の由来(ゆらい)の説明板です。
 天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。 天地創造の神である、イザナギの尊(みこと)、イザナミの尊(みこと)が誕生されました。 夫婦となられた2人の神様は国土・山川草木に至る私達の生活に大切な「火の神」をお産みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。 夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。 愛(いと)しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆(なげ)き、悲しめど亡き人は帰る術(すべ)もありません。 その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕(した)う悲しみの涙で凝(こ)り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とっかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭(あ)わないように・・・と、深き祈りの心を込めて3段(4つに分割)に切ったといいます。
 「十握の剣(とっかのつるぎ)」は当神社の神宝であり、厄除(やくよ)け・魔除けの神となり鎮(しず)め納めております。
((岩の)横に廻(まわ)って御覧下さい。 ものの見事に切れております。)
と書かれています。



写真HH: 神石のそばに御札などを燃やす所(古神符焼納所)、赤い鳥居もあります。



写真HI: 御札などを燃やす所(古神符焼納所)です。 屋根がついている建物です。



写真HJ: 説明板、「←神石」の看板(かんばん)です。



写真HK: 鬼岩階段や裏参道の坂道を登るための竹の杖(つえ)が置いてあります。
「ご自由にお使い下さい。 尚(なお)、使った後は必ずこの場所にお返し下さい。 宮司」と書いてあります。



写真HL: 「おみくじ 掛(か)け所」と書いてあります。 多くのオミクジが掛けてあります。



写真HM: 御札(おふだ)、お守りなどを販売している所(御札所)です。



写真HN: お守りが各種販売されています。 「ソーラー エコロジーに光ります。 1000円」と書いてあります。 車に貼(は)る交通安全のシール、キーホルダーも見えます。



写真HO: おみくじ 200円なども販売されています。 受付の窓口も見えます。 傘(かさ)、竹ぼうきも数本見えます。 御札所です。



写真HP: 東霧島神社の絵地図があります。 ここで飼(か)われている犬は「名(迷)犬 空」君です。



写真HQ: 神石の新聞記事、「龍の年 400年の大杉に 竜神現れる (写真も)」、「400年の大杉に 龍神現れる。 まか不思議 御利益大」、「東霧島神社の龍神。 神々の権現龍となる。」と書いてあります。 この杉は鬼岩階段の上の神門(山門)のそばの大杉のことです。



写真HR: 左にアジサイの花が咲いています。 飲料水の自動販売機もあります。



写真HS: コカ・コーラ Zeroを飲みました。



写真HT: 左は社務所(御札所)です。 アジサイの花。



写真HU: 社務所(御札所)です。 「ごんげんさまにご家庭の幸せをお祈りいたしましょう」と書いてあります。



写真HV: 「アジサイの花」です。



写真HW: 「都城市 開催日 3月20日(祝) 東霧島神社例大祭、(写真あり)」と書いてあります。
「例大祭」は毎年3月の春分の日に執(と)り行われます。 この時のおみこしの浜下り神事は旧島津藩主第19代 島津家久 公ご寄進の神輿(みこし、市指定文化財)を約0.6 km 離れた八幡母所社まで、高崎町6地区の皆さんが輪番で奉仕されて行われます。 境内広場では、弓道大会をはじめ、イベント広場においては各種の催(もよお)しと共にお楽しみ抽選会などが開催され、参道には出店(露店)も並び終日賑(にぎ)わいます。



写真HX: 「東霧島大権現宮 東霧島神社 境内案内図」です。



写真HY: 「高崎大師堂」の説明板です。
弘法大師(空海) 毎月20日、大日聖不動明王 毎月28日、大日如来 毎月18日、阿弥陀如来 毎月18日、聖観世音菩薩 毎月15日、霧島大権現御神霊 毎月1日 ↑」
と書いてあります。



写真HZ: 高崎大師堂、鐘つき堂、神田(しんでん)などに行く階段です。 左にアジサイの花が咲いていました。



写真IA: 石の門があります。 右の建物の中に鐘(かね)があります。 左の方には高崎大師堂があります。
この門の奥あたりは東霧島山金剛仏作寺 勅詔院跡です。



写真IB: 「高崎大師堂」です。 東霧島神社の境内にあります。
弘法大師(空海) 毎月20日、大日聖不動明王 毎月28日、大日如来 毎月18日、阿弥陀如来 毎月18日、聖観世音菩薩 毎月15日、霧島大権現御神霊 毎月1日。



写真IC: この建物の中に鐘(かね)があります。



写真ID: 鐘(かね)の近くに末社があります。



写真IE: 鐘(かね)の近くに建物があります。 左の紅白の幕(まく)は先ほど見た神田(しんでん)のものです。



写真IF: 紅白の幕(まく)は先ほど見た神田(しんでん)のものです
。 このあたりに養心館、歴代勅詔院住職墓地があります。



写真IG: 「宮崎県指定 文化財 梵鐘(ぼんしょう)」の説明板です。
 この梵鐘(ぼんしょう)は、慶長20年(1615年)5月の「大阪夏の陣」に、島津宗家 第18代の島津家久(島津義弘の子) 軍勢が出陣するときに、諸願成就のために東霧島大権現宮に祈願奉納したものである。 明治初頭の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」事業のときに鹿児島の細工奉行所に移され、明治10年(1877年)の「西南の役」後に、長崎県 西彼杵郡 為石村に運ばれた。 その後は同地の曹洞宗 宝性寺の鐘楼(しょうろう)につるされ、第二次大戦時でも供出されずに残されてきた。
 高崎町文化財委員会が昭和56年(1981年)に行った高崎町への移管交渉が成立して、町民や篤志者(とくししゃ)の寄付金とその外の資金により代替えの新梵鐘と新鐘楼を同寺に贈り、同年12月にこの梵鐘は高崎町に運ばれた。 南九州の地で鋳造(ちゅうぞう)した梵鐘は他になく、宮崎県内に現存するものでは、2番目に古い貴重な美術工芸の文化財である。
昭和57年2月 高崎町文化財に指定、昭和60年12月 宮崎県文化財に指定
平成15年3月 高崎町教育委員会
と書かれています。



写真IH: 「宮崎県指定 文化財 梵鐘(ぼんしょう)」の説明板です。
 この梵鐘(ぼんしょう)は、慶長20年(1615年)5月の「大阪夏の陣」に、島津宗家 第18代の島津家久(島津義弘の子) 軍勢が出陣するときに、諸願成就のために東霧島大権現宮に祈願奉納したものである。 明治初頭の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」事業のときに鹿児島の細工奉行所に移され、明治10年(1877年)の「西南の役」後に、長崎県 西彼杵郡 為石村に運ばれた。 その後は同地の曹洞宗 宝性寺の鐘楼(しょうろう)につるされ、第二次大戦時でも供出されずに残されてきた。
 高崎町文化財委員会が昭和56年(1981年)に行った高崎町への移管交渉が成立して、町民や篤志者(とくししゃ)の寄付金とその外の資金により代替えの新梵鐘と新鐘楼を同寺に贈り、同年12月にこの梵鐘は高崎町に運ばれた。 南九州の地で鋳造(ちゅうぞう)した梵鐘は他になく、宮崎県内に現存するものでは、2番目に古い貴重な美術工芸の文化財である。
昭和57年2月 高崎町文化財に指定、昭和60年12月 宮崎県文化財に指定
平成15年3月 高崎町教育委員会
と書かれています。



写真II: 「宮崎県指定 文化財 梵鐘(ぼんしょう)」の説明板です。
 この梵鐘(ぼんしょう)は、慶長20年(1615年)5月の「大阪夏の陣」に、島津宗家 第18代の島津家久(島津義弘の子) 軍勢が出陣するときに、諸願成就のために東霧島大権現宮に祈願奉納したものである。 明治初頭の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」事業のときに鹿児島の細工奉行所に移され、明治10年(1877年)の「西南の役」後に、長崎県 西彼杵郡 為石村に運ばれた。 その後は同地の曹洞宗 宝性寺の鐘楼(しょうろう)につるされ、第二次大戦時でも供出されずに残されてきた。
 高崎町文化財委員会が昭和56年(1981年)に行った高崎町への移管交渉が成立して、町民や篤志者(とくししゃ)の寄付金とその外の資金により代替えの新梵鐘と新鐘楼を同寺に贈り、同年12月にこの梵鐘は高崎町に運ばれた。 南九州の地で鋳造(ちゅうぞう)した梵鐘は他になく、宮崎県内に現存するものでは、2番目に古い貴重な美術工芸の文化財である。
昭和57年2月 高崎町文化財に指定、昭和60年12月 宮崎県文化財に指定
平成15年3月 高崎町教育委員会
と書かれています。



写真IJ: 関ヶ原の戦いの15年後(1615年)の5月に大阪夏の陣がありました。 その時に薩摩藩主 島津家久(島津義弘の子)が東霧島大権現宮に祈願奉納した鐘(かね)です。 鐘つき堂の横木に卍(まんじ)の印(しるし)があります。



写真IK: 関ヶ原の戦いの15年後(1615年)の5月に大阪夏の陣がありました。 その時に薩摩藩主 島津家久(島津義弘の子)が東霧島大権現宮に祈願奉納した鐘(かね)です。



写真IL: 鐘つき堂と鐘です。 横木に象の彫(ほ)り物もあります。



写真IM: 関ヶ原の戦いの15年後(1615年)の5月に大阪夏の陣がありました。 その時に薩摩藩主 島津家久(島津義弘の子)が東霧島大権現宮に祈願奉納した鐘(かね)です。



写真IN: 高崎大師堂です。



写真IO: 東霧島神社の入口の近くです。 奥に赤い鳥居が見えます。



写真IP: ここで飼(か)われている犬は「名犬 空」君です。 こちらにも登り坂があります。
右の坂を登ると、歴代勅詔院住職墓地、性空上人禊所(みそぎしょ)などがあります。



写真IQ: 登り坂があります。
この坂を登ると、歴代勅詔院住職墓地、性空上人禊所(みそぎしょ)などがあります。



写真IR: ここで飼(か)われている犬は「名犬 空」君です。 こちらにも広場があります。



写真IS: 「関係者以外 進入禁止」と書いてあります。



写真IT: トイレがあります。



写真IU: 奥に社務所があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)