戸崎城跡 (戸崎城址、戸崎城、戸崎川、野尻湖、野尻大橋、のじりこぴあ、天然温泉 桃源郷)  (宮崎県小林市 野尻町 大字東麓 字出口)







<標高、位置>  「戸崎城跡(とさきじょうあと)」は
標高 約160 m
 北緯31度57分22秒  東経131度07分13秒

<標高、位置>  野尻大橋は
標高 約130 m
 北緯31度57分24秒  東経131度07分19秒

<標高、位置>  「のじりこぴあ」は
標高 約150 m
 北緯31度57分27秒  東経131度07分34秒

 「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。

 「野尻大橋」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓にあります。 戸崎川(野尻湖)にかかっている国道268号線の橋です。

 「野尻湖」は岩瀬川にある発電用の岩瀬ダムのダム湖です。 野尻湖キャンプ村もあります。 国道268号線と野尻湖の間に「のじりこぴあ (野尻湖公園)」があります。 野尻湖は小林市 野尻町と都城市 高崎町にまたがっています。 ケロケロ(帰ろ帰ろ)共和国のカエルのモニュメントが のじりこぴあ の入り口にあります。 マスコットキャラクターはUターンカエルです。 のじりこぴあ には巨大親子水車、石造り野尻の太鼓橋(たいこばし)、野尻湖遊歩道の2つの吊り橋(つりはし)、城の形をした野尻町の歴史民俗資料館、ウォータースライダー、プール、パターゴルフ場、スキッドレーシング、幼児用電気自動車、竹馬コーナー、卓球台、スカイサイクル、スーパースライダー、コンビネーション遊具、多目的ホール、バラ園、ローンスキー、こども列車、野尻湖キャンプ村などがあります。

 戸崎城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真A: 「のじりこぴあ」の駐車場です。 半球型の建物も見えます。
「のじりこぴあ (野尻湖公園)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 5160 にあります。



写真B: 国道268号線です。 西を見た景色です。 先に行くと野尻大橋、「戸崎城跡」、東麓石窟仏、野尻城跡、野尻町の中心部、小林市の中心部、えびの市などがあります。 手前には萩ノ茶屋、紙屋関所跡、漆野原一里塚、紙屋城跡、高岡町の中心部、宮崎市などがあります。
これから先に歩いて野尻大橋、戸崎城跡に行きます。
左に「のじりこぴあ」と書いてある看板(かんばん)が見えます。



写真C: しばらく歩くと「天然温泉 桃源郷」が右手にあります。 左は国道268号線です。 西を見たもの。



写真D: 「天然温泉 桃源郷」です。 門柱、「天然温泉 桃源郷」と書いてある看板、奥に建物も見えます。



写真E: 「天然温泉 桃源郷」と書いてある看板。



写真F: 国道268号線を西に進みます。



写真G: 左に、のじりこぴあの建物が見えます。



写真H: のじりこぴあと野尻大橋の間の国道268号線です。



写真I: 南西を見たものです。



写真J: 南を見た景色です。 のじりこぴあが見えます。



写真K: 来た道を振り返ったもの。



写真L: 国道268号線から見た「のじりこぴあ」です。 「右寄りの丘の上に「レーシングカー」と書いてあります。 広場、建物、道などがあります。



写真M: これが野尻湖にかかっている国道268号線の「野尻大橋」です。 南西を見たもの。
野尻大橋 (のじりおおはし)は大淀川の支流である岩瀬川のさらに支流 戸崎川にかかっています。 昭和42年3月に竣工(しゅんこう)しました。



写真N: 「のじりおおはし」と橋に書いてあります。



写真O: 「昭和42年3月竣工(しゅんこう)」と書いてあります。



写真P: 野尻大橋の西端の山が「戸崎城跡」です。 右の山には国道268号線から登れます。 南西を見たもの。



写真Q: これが戸崎城跡です。 右の山の上部に「戸崎城跡」と書いてある大きな看板(かんばん)が見えます。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真R: 「戸崎城跡」と書いてある大きな看板が見えています。 戸崎城跡には自然林と上部に杉林があります。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真S: 東側に戸崎川があって崖(がけ)になっているところに「戸崎城」はありました。



写真T: 戸崎川の上流方向を見たものです。 戸崎城跡は戸崎川の右岸(うがん、下流を見て右)にあります。 左が戸崎城跡です。 野尻大橋から。



写真U: 戸崎城跡の対岸(東)の様子(ようす)です。 北を見た景色です。 野尻大橋から。



写真V: 南西を見たもの。 野尻大橋。 右の山が戸崎城跡です。



写真W: 南を見たものです。 野尻大橋から。



写真X: 野尻大橋から東を見た景色です。 「のじりこぴあ」の模擬城、大きな水車、「レーシングカー」の看板、建物、左端に半球形の建物も見えます。



写真Y: 来た道を振り返ったものです。 右に「のじりこぴあ」の半球形の建物も見えています。 中央付近の山の上に携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真Z: 北東を見たものです。



写真AA: 北を見たものです。 谷が北東に入り込(こ)んでいます。



写真AB: 戸崎川の上流方向を見たもの。 左の山が「戸崎城跡」です。 北西を見たものです。 戸崎川の両岸は崖(がけ)になっています。



写真AC: 右の山が戸崎城跡。 南西を見たもの。



写真AD: 野尻湖にかかっている国道268号線の「野尻大橋」です。 南西を見たもの。
野尻大橋 (のじりおおはし)は大淀川の支流である岩瀬川のさらに支流 戸崎川にかかっています。 昭和42年3月に竣工(しゅんこう)しました。



写真AE: 「戸崎城跡」と書いてある大きな看板が城跡に立っているのが見えます。 西を見たもの。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真AF: 戸崎川の左岸(下流を見て左)の山に自然林と杉の林が見えます。 北西を見たものです。 手前上の物は電線です。



写真AG: 戸崎川の下流を見たものです。 このあたりはダム湖である野尻湖で、水量が多くなっています。 南東を見たもの。



写真AH: 野尻湖にかかっている国道268号線の「野尻大橋」の西端付近です。 南西を見たもの。
野尻大橋 (のじりおおはし)は大淀川の支流である岩瀬川のさらに支流 戸崎川にかかっています。 昭和42年3月に竣工(しゅんこう)しました。 右の山は戸崎城跡。



写真AI: 「戸崎川」と書いてあります。



写真AJ: 「野尻大橋」と書いてあります。



写真AK: 野尻大橋の西端付近に少し広くなっているところがあります。 野尻大橋を造るときのものでしょうか。 南東を見たもの。



写真AL: 右の山(戸崎城跡)に登る道が少し先にあります。 南西を見たものです。



写真AM: 右に黒っぽい標識棒(標柱)が見えます。 そこが戸崎城跡への登り口です。 南西を見たもの。



写真AN: 標柱の南東側にこのような所があります。



写真AO: この左の小道が「戸崎城跡」への登城口です。 右は国道268号線で先に行くと野尻大橋があります。 北東を見たものです。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真AP: 「小林市 史跡 戸崎城址(じょうし) 入口」と書いてある標柱の近くの様子(ようす)です。



写真AQ: 「小林市 史跡 戸崎城址(じょうし) 入口」と書いてある標柱です。



写真AR: 戸崎城跡への登城路を登ります。 このあたりは自然林です。 奥に杉林が見えます。 右は国道268号線です。



写真AS: 登城路の両側に篠(しの、細い竹)が生(は)えています。 奥に杉林が見えます。



写真AT: 南東側は下に国道268号線が見えます。



写真AU: 右は篠(しの、細い竹)、左は杉林です。



写真AV: 戸崎城跡への登城路です。 北東を見たものです。



写真AW: 登城路から北西を見たものです。 左に杉を切ったものを積(つ)んであります。



写真AX: 多くの杉の木が見えます。 根元に篠(しの、細い竹)も見えます。



写真AY: 来た道を振り返ったもの。 左下は国道268号線です。



写真AZ: 南東を見たもの。 国道268号線の奥の山も見えます。



写真BA: 南東を見たものです。



写真BB: 北東に続く道を進みます。 戸崎城跡。



写真BC: このあたりは檜(ヒノキ)の木もあります。 下にシダ類と篠(しの)もあります。 右に国道268号線に落ちないための柵(さく)があります。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真BD: 城跡の南東側にこのような細い道が造ってあります。



写真BE: 戸崎城跡の道です。 右に柵(さく)が見えます。



写真BF: このような小道が続いています。



写真BG: 右の木は檜(ひのき)でしょうか。 下に篠(しの、細い竹)が多く見えます。



写真BH: 北西を見たものです。 このあたりは戸崎城の曲輪(くるわ、平らな所です。)です。



写真BI: 左が来た道です。 南西を見たものです。



写真BJ: 来た道を振り返ったもの。 左下は国道268号線です。



写真BK: さらに北東に進みます。



写真BL: 南東を見たもの。 国道268号線の奥の山も見えます。



写真BM: 「上に十字、側面に宮崎県」と書いてある標識が戸崎城跡にあります。



写真BN: この先には少し低い曲輪(くるわ、平らな所です。)があります。 北東を見たものです。



写真BO: 北西を見たものです。 戸崎城跡の曲輪(くるわ、平らな所です。)になっています。



写真BP: 植林された林の下は篠(しの)が多く、アオキの緑の葉も見えます。



写真BQ: 木立の間(中央付近です。)に、「戸崎城跡」の大きな看板(かんばん)の裏が見えています。 北を見たものです。



写真BR: 「上に十字」を書いてあるコンクリートの標識が戸崎城跡にあります。



写真BS: 杉の木が見えます。



写真BT: 戸崎城跡の東端付近です。 左奥は下方に戸崎川が流れていて、右の方の下には国道268号線が通っています。



写真BU: 北を見たものです。 戸崎城跡の曲輪(くるわ、平らな所です。)。



写真BV: 北西を見たものです。 小林市 野尻町にある「戸崎城跡」。



写真BW: 来た道を振り返ったもの。 左下は国道268号線。



写真BX: 南を見たものです。 国道268号線の奥の山が見えます。



写真BY: 南東を見たものです。 国道268号線の奥の山も見えます。



写真BZ: 東を見たものです。 右下は国道268号線。



写真CA: 北東を見たものです。 曲輪(くるわ)の東端近くです。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真CB: 戸崎城跡の東端です。 
右にコンクリートの標識、左に木製の標識が見えます。



写真CC: 戸崎城跡の東端です。



写真CD: 戸崎城跡の東端付近です。 立木の中部です。



写真CE: 立木の上部です。



写真CF: 戸崎城跡の曲輪(くるわ)東端はこのようになっています。



写真CG: 北西に「戸崎城跡」と書いてある大きな看板が見えます。 この看板は低い方の曲輪(くるわ)の戸崎川の近くにあります。



写真CH: 北西を見たものです。 戸崎城跡の曲輪(くるわ、平らな所です。)。



写真CI: 南西を見たものです。 戸崎城跡の東端付近です。 左下は国道268号線です。



写真CJ: 南を見たものです。 曲輪(くるわ)の東端近くです。



写真CK: 「美しい植物」が戸崎城跡にありました。



写真CL: これが野尻大橋から見えた大きな「戸崎城跡」の看板です。 東端の低い方の曲輪(くるわ、平らな所です。)にありました。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真CM: 「戸崎城跡」の大きな看板の下部です。 鉄の高い骨組みに看板が取り付けてあります。



写真CN: 「戸崎城跡」の看板の上部です。



写真CO: 「戸崎城跡」の看板の下部です。



写真CP: 「戸崎城跡」の看板の下部。



写真CQ: 看板の近くです。 南西を見たものです。



写真CR: 低い方の曲輪です。 戸崎城跡。



写真CS: 南東を見たもの。 戸崎城跡です。



写真CT: 東を見たものです。 戸崎川の奥の山も見えます。



写真CU: 東を見たものです。



写真CV: 北東を見たものです。



写真CW: 「戸崎城跡」の看板の近くです。



写真CX: 戸崎城跡の曲輪(看板の近く)から東に「のじりこぴあ」の半球型の建物、左に茶色屋根の建物などが見えます。



写真CY: 北東を見た景色です。



写真CZ: 紙屋城跡でも見た「フユイチゴの赤い実」が戸崎城跡にもありました。
「フユイチゴ」です。 木苺(キイチゴ)類の1つで常緑つる性です。



写真DA: 「フユイチゴの赤い実」が戸崎城跡にもありました。
「フユイチゴ」です。 木苺(キイチゴ)類の1つで常緑つる性です。



写真DB: 「ツワブキの綿毛(わたげ)」が戸崎城跡にありました。



写真DC: 戸崎城跡の東端の曲輪です。



写真DD: 奥に一段高い曲輪(くるわ、平らな所です。)と手前の曲輪が見えます。 小林市 野尻町にある「戸崎城跡」です。 南西を見たものです。
「戸崎城 跡」は宮崎県 小林市 野尻町 東麓 出口にあります。
戸崎城(とさきじょう、土崎城とも書きます。)は伊東48城の1つで山城です。 北と東を戸崎川が流れていて、南は谷(今は野尻湖)の天然の要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。)です。 西側は平地につながっています。 6の郭(かく)と11の空堀がありました。 国道268号線沿いにあり、戸崎川(野尻湖)の野尻大橋の西端の山が戸崎城跡です。 曲輪(くるわ、平らな所)、空堀、土塁(どるい)が残っています。 天文年間(1532年〜1555年)に伊東が築城しました。 島津が高原城、野久尾城を攻めとり、次に米良 美濃守が島津側について真幸院を取られたので、伊東は野尻城、戸崎城を前線としました。 しかし、野尻城主の福永 丹波守が島津に寝返ったので北へ退却しました。 天正5年(1577年)以降は島津の城となりました。 永禄年間には伊東の家臣、肥田木 四郎左衛門尉が城主でしたが、城主の肥田木 四郎左衛門尉は木崎原の戦い(1572年、えびの市)で戦死し、伊東の家臣、漆野 豊前守が戸崎城の城主になっていました。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真DE: 奥に一段高い曲輪(くるわ、平らな所です。)と手前の曲輪が見えます。 小林市 野尻町にある「戸崎城跡」。 西を見たものです。



写真DF: 戸崎城跡の曲輪です。



写真DG: 戸崎城跡の曲輪。



写真DH: 戸崎城跡の曲輪です。 東を見たものです。 この奥の下は戸崎川になっています。



写真DI: 戸崎城跡の東端にある曲輪(くるわ、平らな所です。)です。



写真DJ: 戸崎城跡の東端にある曲輪(くるわ、平らな所です。)。 手前にシダ類も見えます。



写真DK: 戸崎城跡の東端にある曲輪です。



写真DL: 来た小道に戻(もど)って来ました。 戸崎城跡にある道です。



写真DM: 戸崎城跡にある「上に十字、側面に宮崎県」と書いてある標識です。



写真DN: 山芋(やまいも)の種の部分が落ちていました。



写真DO: ここが一段高い曲輪と低い方の曲輪の境界です。 南西を見たもの。



写真DP: 檜(ひのき)の落ち葉の上に「カタツムリ」がいました。 戸崎城跡です。



写真DQ: 篠(しの、細い竹)が斜(なな)めになっています。



写真DR: 「黒っぽい竹」が戸崎城跡にありました。



写真DS: 来た道を戻ります。



写真DT: 先ほどの杉の木を切ったものを積んである場所に戻って来ました。 戸崎城跡。



写真DU: 杉の木を切ったものを積んであります。



写真DV: 左は城内の小道です。



写真DW: 「アオキ」という木の緑の葉があります。



写真DX: 登城口の方に戻っていきます。



写真DY: 奥に小さく登城口の標識棒(標柱)と国道268号線が見えて来ました。 ここは下り坂になっています。 南西を見たものです。



写真DZ: 登城口の標識棒(標柱)と国道268号線が見えて来ました。



写真EA: もうすぐ登城口です。



写真EB: 登城路の脇(わき)の様子(ようす)です。



写真EC: 南西を見たものです。



写真ED: 南を見たものです。



写真EE: トラックが国道268号線を通っています。



写真EF: コンクリートの柱が登城口の近くにあります。



写真EG: 登城口の近くは雑木林になっています。



写真EH: 上を見たものです。



写真EI: 登城口の上の木です。



写真EJ: 登城口の南東はこのようになっています。



写真EK: 東を見たものです。



写真EL: 登城口の国道268号線の奥はこのようになっています。 国道268号線の南東側です。 危険防止のためビニールテープが張(は)ってあります。  左側は崖(がけ)になっていて、谷があります。 今は野尻湖で水位が上がって水があります。 登城口の近くです。



写真EM: この下は谷(今は野尻湖)になっています。 ビニールテープが張ってあります。



写真EN: この下は谷(今は野尻湖)。 ビニールテープが張ってあります。



写真EO: ビニールテープが見えます。



写真EP:  北東を見たものです。 左は国道268号線です。



写真EQ: 国道268号線。 左は先ほど登った戸崎城跡です。



写真ER: 先ほどの戸崎城跡です。



写真ES: 南東から見た戸崎城跡の登城口です。



写真ET: 戸崎城跡の登城口付近です。



写真EU: 上は雑木林になっています。



写真EV: 上の方です。



写真EW: 西を見たもの。



写真EX: 登城口です。



写真EY: 戸崎城跡の中を国道268号線が通っています。



写真EZ: 北東を見たものです。



写真FA: 野尻大橋の方に戻(もど)ります。 右手に「レンギョウ」と書いてある看板(かんばん)があります。
「レンギョウ」 高さ約2 m で枝は長く伸びて先端はやや垂(た)れる。 早春に葉に先立って黄色、4弁の筒状花を開く。



写真FB: 手前の木がレンギョウと思われます。



写真FC: はじめに来た方に戻ります。



写真FD: 戸崎城跡の中を国道268号線が通っています。



写真FE: 北を見たものです。 戸崎城跡。



写真FF: 北西を見たものです。



写真FG: 南西を見た景色です。 右は先ほど登った戸崎城跡です。



写真FH: 道路の北西側です。



写真FI: 国道268号線脇(わき)にシダ類が見えます。



写真FJ: 戸崎川の野尻大橋の方に戻る途中です。



写真FK: 国道268号線のそばです。



写真FL: 南東の方に谷(今は野尻湖)の奥の山が見えます。



写真FM: かなり野尻大橋に近くなって来ました。



写真FN: 電柱と電話線のコンクリート柱があります。



写真FO: もうすぐ野尻大橋です。 左は先ほど登った戸崎城跡。



写真FP: 野尻大橋と「のじりこぴあ」の茶色屋根の建物が見えて来ました。



写真FQ: 野尻大橋と奥の山も見えます。



写真FR: 野尻大橋と奥の山です。



写真FS: 野尻湖にかかっている国道268号線の「野尻大橋」の西端付近です。 北東を見たもの。
野尻大橋 (のじりおおはし)は大淀川の支流である岩瀬川のさらに支流 戸崎川にかかっています。 昭和42年3月に竣工(しゅんこう)しました。



写真FT: 野尻大橋のたもとにこのような小さな広場があります。 北東を見たものです。



写真FU: 野尻大橋のたもと付近です。



写真FV: 野尻大橋のたもとの近くです。



写真FW: 赤い橋脚が見えます。 野尻大橋。



写真FX: 野尻大橋の西端近くから見た野尻湖とのじりこぴあです。



写真FY: 野尻大橋から見た「のじりこぴあ」です。 半球形の建物、左に茶色屋根の建物、右の丘に「レーシングカー」と書いてある看板、手前に長い滑り台、プールなどが見えます。



写真FZ: 北東を見た景色です。 右上の山に携帯電話の基地局アンテナがあります。



写真GA: 北を見たものです。 戸崎城跡の対岸にもこのような山があります。


写真GB: 北西を見たものです。



写真GC: 西を見たもの。 先ほど登った戸崎城跡が見えます。



写真GD: 南西を見た景色です。



写真GE: 南を見たものです。



写真GF: 南東を見たもの。



写真GG: 南南東を見た景色です。 野尻湖が見えます。
この左岸(下流を見て左)には「のじりこぴあ」の遊歩道があります。



写真GH: 野尻大橋から見た「のじりこぴあ」です。 左下にプール、中央に大水車、右上に「レーシングカー」の看板、左に遊具、建物などが見えます。 左寄りに「のじりこぴあ」と植木で書いてあります。
左下にボート、野尻湖に降りる階段も見えます。



写真GI: 半球形の建物、左に長い滑り台、プール、ボート、野尻湖に降りる階段も見えます。 野尻大橋から見た「のじりこぴあ」。



写真GJ: 茶色屋根の建物、長い滑り台、プール、半球形の建物などがあります。 野尻大橋から見たもの。



写真GK: トラックが野尻大橋を渡っています。



写真GL: 野尻大橋の上を歩いている時に、強風で帽子(ぼうし)が飛ばされました。 湖面に浮いている帽子が小さく見えます。



写真GM: 野尻大橋の東端付近です。 右に「のじりこぴあ」の看板があります。



写真GN: 右上に模擬城(おそらくこれは戸崎城を表現していると思われます。)、大水車、プール、湖面に降りる階段、中央上に「レーシングカー」の看板などが見えます。 のじりこぴあです。



写真GO: 北東を見たものです。



写真GP: 「のじりこぴあ」の看板です。 カエル、食堂、おみやげ、遊具の自動車、バラの花などの絵が書いてあります。



写真GQ: 「野尻湖自然景観地、昭和45年2月 宮崎県」の古い木製の看板があります。 国道268号線沿(ぞ)いです。



写真GR: のじりこぴあの方に戻ります。 国道268号線です。



写真GS: 国道268号線の脇(わき)に円形のコンクリートで造ったものが並んでいます。



写真GT: こちらがわにも円形のコンクリートで造ったものが並んでいます。



写真GU: ここにも小さな広場があります。



写真GV: 東を見たものです。



写真GW: 「天然温泉 桃源郷」の建物が見えて来ました。



写真GX: 「天然温泉 桃源郷」の建物が左手に見えます。



写真GY: 崖(がけ)を補強してありました。



写真GZ: 「のじりこぴあ Nojirikopia→」の標識と「今日も無事故で のじりこぴあ」の看板(かんばん)、ミラーなどが見えて来ました。 そこの右が「のじりこぴあ」の入り口です。



写真HA: 「のじりこぴあ Nojirikopia→」の標識と「今日も無事故で のじりこぴあ」の看板(かんばん)です。 ミラーもあります。



写真HB: 「のじりこぴあ」の大きなカエルと多数のカエルの像です。 入り口付近にあります。



写真HC: はじめの駐車場に戻って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)