神門神社、西の正倉院、百済の里 (みかどじんじゃ、神門神社 本殿は国指定重要文化財 (平成12年12月4日指定)、国の無形民族文化財 師走祭り、百済国の王 禎嘉王 (ていかおう)の亡命伝説、奈良正倉院の実物大博物館「西の正倉院」、百済の館、生産者直売所 いっつもや、美郷町の山、国道388号線)  (宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門)







<標高、位置>  神門神社 (みかどじんじゃ)は
標高 約270 m
 北緯32度23分11秒  東経131度19分50秒

<標高、位置>  西の正倉院 (にしのしょうそういん)は
標高 約270 m
 北緯32度23分11秒  東経131度19分51秒

<標高、位置>  百済の館 (くだらのやかた)は
標高 約260 m
 北緯32度23分10秒  東経131度19分49秒


 「神門神社 (みかどじんじゃ)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 大字神門 字小路前田 96-2 にあります。 南郷村は平成18年(2006年)1月1日に西郷村、北郷村と合併して美郷町になりました。 神門神社と地名(大字名)の神門 (みかど)は百済王の伝説の帝 (みかど)を連想させます。
 神門神社は旧郷社で奈良時代 718年(養老2年)の創建です。 神門神社の祭神は大山祇神、百済(くだら)の禎嘉王(ていかおう)、伯智王(百済王の第3王子)、倉稲魂命、品陀和気命(応神天皇)などです。 神門神社の本殿は国指定重要文化財に平成12年12月4日指定されました。 神門神社には百済王 禎嘉王(ていかおう)の亡命伝説があり、それに関連する師走祭りは国の無形民族文化財になっています。 禎嘉王と第3王子の伯智王は神門神社、第1王子の福智王は比木神社 (木城町)、禎嘉王の妻で福智王の母 之伎野(しぎの)は大年神社 (高鍋町の鴫野(しぎの))に祀(まつ)られています。 第2王子の華智王は伊佐賀 (いさか)神社 (神門神社から約7 km 東、東郷町 下三ヶ中水流)に祀られています。 「師走祭り」は木城町の比木神社 (ひきじんじゃ)から片道約 90 km の行程で美郷町の南郷区にある神門神社まで行列行進します。 復路もあります。 第1王子の福智王の御神体が以前は全行程徒歩・荷馬車で9泊10日かかりましたが、昭和23年から自動車も用いて2泊3日になりました。
 古代に朝鮮半島の南西部にあった「百済(くだら、346年〜660年)」と日本は関係がありました。 日本書紀には領土を奪われた百済に任那(みまな)の1部を譲(ゆず)り渡したり、援軍を送ったことが書かれています。 百済から倭(わ)朝廷に貢(みつ)いだり、王族を人質として差し出したことも載っているそうです。 西暦660年、百済が滅亡したとき、百済王と王族、貴族など数1000人の百済人が倭国 (わこく、日本のことです。)に亡命し、多くの人が朝廷に仕(つか)えました。
この神門神社の創建は西暦718年で、百済の滅亡は660年です。 神門神社の創建は百済の滅亡後58 年たったときです。 朝鮮半島の白村江河口での白村江の戦い (倭国・百済遺民の連合 軍と、唐・新羅連合軍との戦争です。 倭国・百済遺民が大敗しました。 百済王の一族、豊璋王の弟・善光(禅広とも書きます。)は、倭国に亡命し、朝廷から百済王という姓氏が与えられて、朝廷に仕えました。 豊璋王は高句麗に亡命していましたが、捕らえられて幽閉されました。)は663年です。 神門神社の創建は白村江の戦いの55年後です。 朝廷内の内乱である「壬申の乱 (じんしんのらん)」は672年です。 神門神社の創建は壬申の乱から46年後です。
 「神門神社 本殿」の説明板から、
国指定重要文化財(建造物)
 神門神社本殿は、棟札より寛文元年(1661年)の建立と考えられ、自然石の礎石上に建つ、宮崎県内唯一の7間社流造で、平面は身舎のうち桁行5間・梁間2間を板敷の内陣とする。 屋根は厚板葺目板打で、正面・背面とも段違いとする。
 神門神社本殿は、簡素で装飾の少ない流造本殿であるが、類例の少ない平面形式に特色がある。
 本殿各部の形式や意匠は、一部に変更はあるが旧規が明らかである。
 中世的な技法や要素を残しながら、近世の手法も備えたところに特徴があり、九州南部における本殿建築の発展を知る上で重要である。
以上のことから、
「神門神社本殿」は、平成12年12月4日に、国の重要文化財に指定された。
構造及び形式
「7間社流造、板葺(いたぶき)」
附・棟板 5枚 (寛文元年臘月10日 ほか)
・旧扉の部分 2点。

 「有形文化財」の説明板から、
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。

 「神門神社 参拝案内」の説明板から、
<神門神社 (みかどじんじゃ)>
 養老2年 (718年)の創建といわれ、平城京発掘により確認された技法が使われている本殿や、奈良正倉院と同一の物を含む銅鏡 (現在は西の正倉院に保管)を社宝とするなど、古代史の謎(なぞ)とロマンが漂(ただよ)う南郷村を代表する存在といえます。 祀られている禎嘉王 (ていかおう)は、663年に滅(ほろ)んだ朝鮮半島の古代国家、百済国 (くだらこく)から亡命した王族といわれています。 木城町 比木神社 (ひきじんじゃ)に祀(まつ)られた息子 (むすこ)の福智王と対面する「師走祭り」など、神門神社は百済王伝説の舞台として、1300年の時を越えた神秘を今に伝えています。
<願掛けひょうたん>
 中から生命や宝物が生まれるとして、繁栄の象徴とされてきたひょうたん。 神門神社ゆかりの韓国では、ひょうたんは朴 (パク)と呼ばれ、古代朝鮮王朝の始祖がパクのような大卵から生まれたという言い伝えがあります。 日本でも神霊の容器として、また災難よけのお守りとして、縁起物とされてきました。
 願掛けひょうたんは、そのような神聖な力を借りて、火・水・病の厄よけや子宝・安産の祈願に、絵馬と同じように願を掛けていただくものです。 また、ここ神門神社では離れ離れになった百済王の子孫が年に一度再会する師走祭りがおこなわれ、それにあやかった「再会」の祈願にも、願掛けひょうたんは御利益があります。

 「無形民族文化財 師走祭り」の説明板から、
 この師走祭りは、百済亡命王族の親子対面を再現する祭りといわれ、その伝説を裏付けるものとされている。
親子対面の儀は、旧暦12月18日から同20日に当たる日程で、木城町 比木神社 (子)の一行が袋神を奉じて神門神社 (親)まで巡行し行われるものであり、古くは10日間の行程で行われていた。
 その巡行の過程には様々(さまざま)な儀式が織りこまれており、中でも夜空を焦(こ)がす篝火(かがりび)の儀式は古代史の謎とロマンを彷彿(ほうふつ)させる壮大なものである。
 神門神社に向かう「のぼりまし」では沿道に待ち受ける人々が、袋神のふくらみ方や色合いによって年占いをなしたほか、収穫物を袋神巡行の路上に姿を表さないでそっと差し出したり、地区挙(あ)げて火をたいて迎えるなど種々の習慣が今に伝わっている。
 また、一行が帰路につく「くだりまし」の際にはヘグロ(墨)を顔に塗(ぬ)り竹で編(あ)んだショウケやシャモジなどを振って送る習わしも見られるなど、地域住民の素朴な信仰形態、季節の折り目になされる地域的特色ある行事の典型例である。
 尚(なお)、この師走祭りは、平成3年1月25日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択された。

 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑から、
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。

 「西の正倉院 (しょうそういん)」と「百済の館 (くだらのやかた)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門 62-1 にあります。
神門神社、西の正倉院、百済の館はお互いに近い所にあります。
 百済の館は平成2年(1990年)11月に完成しました。 西の正倉院は約16億円の建設費と延べ10年をかけて、平成8年(1996年)5月に完成しました。
 「百済の館」は日韓交流の資料館で、百済国の最後の王都であった大韓民国の古都「扶餘 (プヨ)」の王宮跡に建っている元 国立博物館の「客舎」をモデルにして、日韓交流のシンボルとして建設されました。 敷石、瓦 (かわら)は韓国から取り寄せました。 軒 (のき)や梁 (りょう)の赤、青、緑といった極彩色の丹青 (タンチョン)は韓国の名工の作業です。 館内には、百済時代の国宝、重要文化財のレプリカなどが多く展示されています。 日本全国の百済の文化の足跡も紹介されています。

 「百済の里 (くだらのさと)」は神門神社、西の正倉院、百済の館、神門の町を見下ろす「恋人の丘」にある百済の建物「百花亭」、日韓交流も含みます。 「百済の里」づくりで、美郷町 南郷区 (旧 南郷村)は韓国と縁を結び交流を行なっています。 平成3年に旧 南郷村は百済の古都、扶餘(プヨ)の扶餘邑と姉妹都市締結調印式を行いました。 平成20年には美郷町との姉妹都市提携更新調印式が行われました。 その後も活発な交流を行なっています。

 「西の正倉院」には百済の王族の遺品と言われてるもの、師走祭りに関連するものなど、神門神社に昔から伝わっているものを展示してあります。 造りは校倉造り(あぜくらづくり)です。 六角形の木を積んだものを校倉造りと呼(よ)んでいます。 奈良にある宮内庁の正倉院の設計図、木曽の桧(ひのき)を用いてあります。 ただし、入り口の階段だけは観光客用に造ったもので、奈良の正倉院にはこの階段はありません。 ここの鏡は17面ありますが、古墳から出土したものではなく、長年保管されてきたものなので保存状態がよく、顔が写(うつ)るほどです。 最も鏡が多いのは奈良の正倉院、2番目が伊勢神宮、3番目がここの神門神社です。 須恵器 (すえき)は穀物を入れるもので、ここにあるのは鑑定の結果、百済焼だそうです。 鉾(ほこ)は1006本あります。 禎嘉王、福智王の名前は日本書紀や三国史記(朝鮮の現存最古の史書で、50巻。 高麗の仁宗の命で作成され、1145年にできました。 新羅、高句麗、百済の3国の歴史を記してあります。)には載(の)っていないそうです。
 古代に朝鮮半島の南西部にあった「百済(くだら、346年〜660年)」と日本は関係がありました。 日本書紀には領土を奪われた百済に任那(みまな)の1部を譲(ゆず)り渡したり、援軍を送ったことが書かれています。 百済から倭(わ)朝廷に貢(みつ)いだり、王族を人質として差し出したことも載っているそうです。 西暦660年、百済が滅亡したとき、百済王と王族、貴族など数1000人の百済人が倭国 (わこく、日本のことです。)に亡命し、多くの人が朝廷に仕(つか)えました。
 「西の正倉院 御案内」の説明板から、
 西の正倉院建設のきっかけは、百済王族の遺品と呼ばれる神門神社収蔵の古代の鏡群の中に奈良正倉院 南倉37号鏡と同一品の「唐花六花鏡」が存在する事からでありました。
 また、神門神社には百済伝説にまつわる古代から中世、近世と千年以上に渡って尊崇され手厚く保護されてきた事を示す有力な歴史資料が集積されており、この貴重な文化財を展示、収蔵する施設として、奈良正倉院の実物大博物館「西の正倉院」を建設したものであります。
 西の正倉院の建築には、奈良国立文化財研究所の学術支援、宮内庁の協力、建設省建築研究所の協力のほか、古代建造物の修理や設計に豊富な経験をもつ建築家が参加しました。
 造営用材は村内はもとより全国にその可能性を調査し、長野県の木曽の国有林天然桧 (ひのき)を調達する事ができました。
 この壮大な計画は準備期間5年、建築に5年、延 10年の歳月を要しております。
 外構の門や塀 (へい)、瓦 (かわら)の紋様等に至るまで天平時代の様式で統一されておりますが、床下の高さ2.5 m、全高13 m、4階建のビルに匹敵するスケールを体感できる空間であります。


写真A: ここは宮崎県 日向市です。 国道10号線の「塩見大橋」です。 塩見大橋は塩見川にかかっています。 左の日知屋(ひちや)にある櫛ノ山 (くしのやま、標高 約100 m)の上に白い仏舎利塔 (ぶっしゃりとう)が見えます。 対岸に電気量販店のヤマダ電機が見えます。 南東を見た景色です。



写真B: 北を見た景色です。 美郷町 (みさとちょう)、日向市 東郷町、諸塚村、椎葉村に行くには塩見大橋の北端の十字路を左(西)へ曲がります。 奥に歩道橋が見えます。 右にNTTのと思われるアンテナがあります。 JR 日向市駅はこの約 1 km 先を左に曲がったところにあります。



写真C: ここを左(西)に曲がって美郷町 西郷区の神門神社 (みかどじんじゃ)、西の正倉院 (にしのしょうそういん)、百済の館 (くだらのやかた)、百済の里、日向市 東郷町の「道の駅 とうごう」に行きます。



写真D: 左に「道の駅 とうごう」の大きな先の尖(とが)った看板(かんばん)があります。 この十字路を左(南西)に曲がると、若山牧水の生家、美郷町 南郷区の神門神社、西の正倉院、百済の館、百済の里、椎葉村に行きます。 この十字路を奥(北西)に進むと美郷町 西郷区、北郷区、諸塚村に行きます。 手前に行くと先ほどの塩見大橋に行きます。 北西を見たものです。
手前と奥は国道327号線、左は国道446号線です。



写真E: 「道の駅 とうごう」の文字、若山牧水の和歌が書いてあります。
日向の国むた立つ山のひと山に 住む母恋し秋晴れの日や
「道の駅 とうごう」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 辛 244-1 にあります。
道の駅 とうごう は国道327号線と国道446号線に接(せっ)しています。 そこは国道327号線と国道446号線の分岐点(ぶんきてん)です。 道の駅 とうごう は1999年8月に登録され、2000年4月にオープンしました。 近くを耳川が流れています。 東郷町は歌人 若山牧水の誕生地です。 物産センターでは、地元(入郷地区など。)の物産品や椎茸(しいたけ)めし、椎茸しゅうまい、東郷町でとれた100%そば粉だけで作った「牧水そば」も販売しています。 「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。 味工房では、とうふ、コンニャク作り、そば打ちなどが体験出来ます。
左に尾鈴連山の山が見えています。



写真F: 国道446号線に「若山牧水生家→」の標識があります。 奥に若山牧水の生家(せいか、生まれた家です。)が見えます。 その手前の広場に以前は鉄筋コンクリート造りの「牧水記念館」がありました。
「若山牧水 生家」は宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271 にあります。
「道の駅 とうごう」から国道446を約 9 km 進むと若山牧水の生家(東郷町 坪谷)があります。 「若山牧水の生家」から国道446を約 20 km 進むと東臼杵郡 美郷町 南郷区にある神門神社、西の正倉院、百済の館、百済の里 (小丸川が近くを流れています。)に行きます。 鎌柄トンネルを通ってしばらく行くと日向市 東郷町から美郷町 南郷区になります。



写真G: 若山牧水生家の近くから見た景色です。 尾鈴連山の山が見えています。 左から西林山 (標高 786.1 m)、角崎山 (標高 1071.1 m)、尾鈴山 (1405.2 m)、万吉山 (1318 m)などが見えているかもしれません。 坪谷川 (耳川の支流です。)にかかっている牧水橋、牧水公園の建物 (若山牧水記念文学館)も見えます。



写真H: 「若山牧水生家→」の標識があります。 下の家は牧水生家です。



写真I: 美郷町 南郷区 神門(みかど)にある神門神社、西の正倉院、百済の館、百済の里の駐車場の近くに「ひむか神話街道」の説明板があります。 奥(南)に小丸川が左右に流れています。 右側が上流です。 遠くの山、田んぼも見えます。



写真J: 右は駐車場です。 南西を見た景色です。



写真K: 国保病院、JAの建物が見えます。 美郷町の遠くの山も見えます。



写真L: 百済の里 (くだらのさと)の駐車場です。 美郷町の山が美しく見えます。



写真M: この坂道を登って神門神社、西の正倉院、百済の館に行きます。 奥(北)に神門神社の鎮守の森(ちんじゅのもり)が見えます。



写真N: 駐車場から神門神社などに行く道です。 緩(ゆる)い登り坂になっています。



写真O: 駐車場の東に南郷茶屋があります。



写真P: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
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西の正倉院・百済の里 南郷村
などの地図が載(の)っています。



写真Q: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
などの地図が載(の)っています。



写真R: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真S: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
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西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真T: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真U: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真V: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真W: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真X: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真Y: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真Z: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の説明板があります。
神門神社、入場券発売所、表門、西の正倉院、百済小路広場、百済の館、農産物直売所 いっつもや、南郷茶屋、恋人の丘 4 km、百済小路号館、百済の里水工房、南郷温泉山霧、運動公園、南郷村役場、神門小、南郷中、郵便局、国道388号線、至 日向、ひむか神話街道、西都市、椎葉村、諸塚村、駐車場、トイレ、現在地
西の正倉院・百済の里 南郷村
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写真AA: 「西の正倉院・南郷茶屋 無料駐車場」の看板(かんばん)があります。 奥には左右に国道388号線が通っています。 右奥に神門神社、西の正倉院、百済の館などがあります。 北を見たもの。



写真AB: 「生産者直売所 春夏秋冬 いっつもや」、「西の正倉院、百済の里 無料駐車場→」の看板(かんばん)があります。 左に国道388号線のバス停「百済の館前」が見えます。
「百済の里 (くだらのさと)」は神門神社、西の正倉院、百済の館、神門の町を見下ろす「恋人の丘」にある百済の建物「百花亭」、日韓交流も含みます。 「百済の里」づくりで、美郷町 南郷区 (旧 南郷村)は韓国と縁を結び交流を行なっています。 平成3年に旧 南郷村は百済の古都、扶餘(プヨ)の扶餘邑と姉妹都市締結調印式を行いました。 平成20年には美郷町との姉妹都市提携更新調印式が行われました。 その後も活発な交流を行なっています。



写真AC: 国道388号線です。 左に神門神社 (みかどじんじゃ)の石灯籠(いしどうろう)、鳥居(とりい)の柱、バス停「百済の館前」が見えます。 東南東を見たものです。 奥に行くと国道446号線になり、日向市 東郷町の若山牧水の生家、牧水公園、道の駅 とうごうなどに行きます。 手前に国道388号線を進むと椎葉村に行きます。



写真AD: 北西を見たものです。 国道388号線です。 奥に行くと椎葉村に行きます。 美郷町にある遠くの山が見えます。



写真AE: 飲料水の自動販売機、ベンチ、テーブル、トイレがあります。



写真AF: 「おみやげ店」と壁に書いてあります。 「いちご大福」と書いてある幟(のぼり)、小さなコイのぼり、プランターの花もあります。 「生産者直売所 いっつもや」です。 左端はコンビニ店です。



写真AG: 宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」の二の鳥居(とりい)、石段、石灯籠、石碑(せきひ)、説明板、が見えます。 右の赤い建物は百済の館 (くだらのやかた)です。 北東を見たものです。 左に国道388号線のバス停「百済の館前 宮崎交通」が見えます。
「百済の館」は日韓交流の資料館で、百済国の最後の王都であった大韓民国の古都「扶餘 (プヨ)」の王宮跡に建っている元 国立博物館の「客舎」をモデルにして、日韓交流のシンボルとして建設されました。 敷石、瓦 (かわら)は韓国から取り寄せました。 軒 (のき)や梁 (りょう)の赤、青、緑といった極彩色の丹青 (タンチョン)は韓国の名工の作業です。 館内には、百済時代の国宝、重要文化財のレプリカなどが多く展示されています。 日本全国の百済の文化の足跡も紹介されています。



写真AH: 国道388号線のバス停「百済の館前 宮崎交通」です。 ベンチ、説明板もあります。 右に神門神社の説明板、石垣(いしがき)、石段が見えます。



写真AI: 美郷町 南郷区 神門にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」の二の鳥居(とりい)です。 奥に石段が見えます。 右の赤い建物は百済の館です。
「西の正倉院 (しょうそういん)」と「百済の館 (くだらのやかた)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門 62-1 にあります。
百済の館は平成2年(1990年)11月に完成しました。 西の正倉院は約16億円の建設費と延べ10年をかけて、平成8年(1996年)5月に完成しました。
 西の正倉院には百済の王族の遺品と言われてるもの、師走祭りに関連するものなど、神門神社に昔から伝わっているものを展示してあります。 造りは校倉造り(あぜくらづくり)です。 六角形の木を積んだものを校倉造りと呼(よ)んでいます。 奈良にある宮内庁の正倉院の設計図、木曽の桧(ひのき)を用いてあります。 ただし、入り口の階段だけは観光客用に造ったもので、奈良の正倉院にはこの階段はありません。 ここの鏡は17面ありますが、古墳から出土したものではなく、長年保管されてきたものなので保存状態がよく、顔が写(うつ)るほどです。 最も鏡が多いのは奈良の正倉院、2番目が伊勢神宮、3番目がここの神門神社です。 須恵器 (すえき)は穀物を入れるもので、ここにあるのは鑑定の結果、百済焼だそうです。 鉾(ほこ)は1006本あります。 禎嘉王、福智王の名前は日本書紀や三国史記(朝鮮の現存最古の史書で、50巻。 高麗の仁宗の命で作成され、1145年にできました。 新羅、高句麗、百済の3国の歴史を記してあります。)には載(の)っていないそうです。
 古代に朝鮮半島の南西部にあった「百済(くだら、346年〜660年)」と日本は関係がありました。 日本書紀には領土を奪われた百済に任那(みまな)の1部を譲(ゆず)り渡したり、援軍を送ったことが書かれています。 百済から倭(わ)朝廷に貢(みつ)いだり、王族を人質として差し出したことも載っているそうです。 西暦660年、百済が滅亡したとき、百済王と王族、貴族など数1000人の百済人が倭国 (わこく、日本のことです。)に亡命し、多くの人が朝廷に仕(つか)えました。



写真AJ: 神門神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)です。
「神門神社 (みかどじんじゃ)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 大字神門 字小路前田 96-2 にあります。
神門神社と地名(大字名)の神門 (みかど)は百済王の伝説の帝 (みかど)を連想させます。



写真AK: 中央の赤い建物が百済の館です。 百済の館は神門神社の東隣り(どなり)にあります。 北東を見たものです。



写真AL: 神門神社の西隣りはこのようになっています。 手前は国道388号線です。



写真AM: 公衆電話ボックス、「生産者直売所 春夏秋冬 いっつもや」、「西の正倉院、百済の里 無料駐車場→」の看板(かんばん)があります。 この三叉路(さんさろ)を左に進むと広い駐車場があります。



写真AN: 飲料水の自動販売機、テーブル、ベンチ、トイレ、右に公衆電話ボックスなどがあります。 南西を見たものです。



写真AO: 「百済王(くだらおう)の遺品 神門神社」の標識があります。 右に「神門神社 1967年1月」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)があります。 左は石灯籠 (いしどうろう)、鳥居 (とりい)の柱、右端は百済の館の建物です。



写真AP: 「神門神社 1967年1月」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)です。



写真AQ: 神門神社 (みかどじんじゃ)の二の鳥居 (いちのとりい)にしめ縄、御幣(ごへい)があります。 右は石灯籠 (いしどうろう)です。



写真AR: 石灯籠と鳥居の下部です。



写真AS: 左から説明板、「神門神社 本殿 国指定重要文化財 平成12年12月4日指定」の石碑(せきひ)、石灯籠 (いしどうろう)です。 奥に石垣 (いしがき)、手前に石段が見えます。



写真AT: 「神門神社 本殿 国指定重要文化財 平成12年12月4日指定」の石碑(せきひ)があります。 左は説明板、右は石灯籠です。



写真AU: 「無形民族文化財 師走祭り」の説明板があります。
 この師走祭りは、百済亡命王族の親子対面を再現する祭りといわれ、その伝説を裏付けるものとされている。
親子対面の儀は、旧暦12月18日から同20日に当たる日程で、木城町 比木神社 (子)の一行が袋神を奉じて神門神社 (親)まで巡行し行われるものであり、古くは10日間の行程で行われていた。
 その巡行の過程には様々(さまざま)な儀式が織りこまれており、中でも夜空を焦(こ)がす篝火(かがりび)の儀式は古代史の謎とロマンを彷彿(ほうふつ)させる壮大なものである。
 神門神社に向かう「のぼりまし」では沿道に待ち受ける人々が、袋神のふくらみ方や色合いによって年占いをなしたほか、収穫物を袋神巡行の路上に姿を表さないでそっと差し出したり、地区挙(あ)げて火をたいて迎えるなど種々の習慣が今に伝わっている。
 また、一行が帰路につく「くだりまし」の際にはヘグロ(墨)を顔に塗(ぬ)り竹で編(あ)んだショウケやシャモジなどを振って送る習わしも見られるなど、地域住民の素朴な信仰形態、季節の折り目になされる地域的特色ある行事の典型例である。
 尚(なお)、この師走祭りは、平成3年1月25日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択された。
と書かれています。



写真AV: 「無形民族文化財 師走祭り」の説明板があります。
 この師走祭りは、百済亡命王族の親子対面を再現する祭りといわれ、その伝説を裏付けるものとされている。
親子対面の儀は、旧暦12月18日から同20日に当たる日程で、木城町 比木神社 (子)の一行が袋神を奉じて神門神社 (親)まで巡行し行われるものであり、古くは10日間の行程で行われていた。
 その巡行の過程には様々(さまざま)な儀式が織りこまれており、中でも夜空を焦(こ)がす篝火(かがりび)の儀式は古代史の謎とロマンを彷彿(ほうふつ)させる壮大なものである。
 神門神社に向かう「のぼりまし」では沿道に待ち受ける人々が、袋神のふくらみ方や色合いによって年占いをなしたほか、収穫物を袋神巡行の路上に姿を表さないでそっと差し出したり、地区挙(あ)げて火をたいて迎えるなど種々の習慣が今に伝わっている。
 また、一行が帰路につく「くだりまし」の際にはヘグロ(墨)を顔に塗(ぬ)り竹で編(あ)んだショウケやシャモジなどを振って送る習わしも見られるなど、地域住民の素朴な信仰形態、季節の折り目になされる地域的特色ある行事の典型例である。
 尚(なお)、この師走祭りは、平成3年1月25日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択された。
と書かれています。



写真AW: 「無形民族文化財 師走祭り」の説明板があります。
 この師走祭りは、百済亡命王族の親子対面を再現する祭りといわれ、その伝説を裏付けるものとされている。
親子対面の儀は、旧暦12月18日から同20日に当たる日程で、木城町 比木神社 (子)の一行が袋神を奉じて神門神社 (親)まで巡行し行われるものであり、古くは10日間の行程で行われていた。
 その巡行の過程には様々(さまざま)な儀式が織りこまれており、中でも夜空を焦(こ)がす篝火(かがりび)の儀式は古代史の謎とロマンを彷彿(ほうふつ)させる壮大なものである。
 神門神社に向かう「のぼりまし」では沿道に待ち受ける人々が、袋神のふくらみ方や色合いによって年占いをなしたほか、収穫物を袋神巡行の路上に姿を表さないでそっと差し出したり、地区挙(あ)げて火をたいて迎えるなど種々の習慣が今に伝わっている。
 また、一行が帰路につく「くだりまし」の際にはヘグロ(墨)を顔に塗(ぬ)り竹で編(あ)んだショウケやシャモジなどを振って送る習わしも見られるなど、地域住民の素朴な信仰形態、季節の折り目になされる地域的特色ある行事の典型例である。
 尚(なお)、この師走祭りは、平成3年1月25日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択された。
と書かれています。



写真AX: バス停「百済の館前 宮崎交通」です。



写真AY: 「西の正倉院・百済の館 観光案内」の看板(かんばん)があります。
神門神社、入場券発売所、西の正倉院、役場、百済の館、鹿牧場 8 km、恋人の丘 4 km、至 人吉、国道388号線、至 日向、南郷茶屋などが載(の)っています。
西の正倉院・百済の里 南郷村
と書いてあります。



写真AZ: 鳥居の左手に苔(こけ)がむした岩があります。 「神石」です。



写真BA: 「→順路」の看板(かんばん)があります。 「雨天時は階段がすべります。 お気を付け下さい。」と書いてあります。



写真BB: 石段の中腹に三の鳥居 (さんのとりい)が見えます。 三の鳥居のそばに狛犬(こまいぬ)があります。 石段には金属製の手すりがあります。



写真BC: 神門神社の階段のそばに石垣 (いしがき)があります。



写真BD: 石段から見た赤い柱の「百済の館 (くだらのやかた)」です。
「百済の館」は日韓交流の資料館で、百済国の最後の王都であった大韓民国の古都「扶餘 (プヨ)」の王宮跡に建っている元 国立博物館の「客舎」をモデルにして、日韓交流のシンボルとして建設されました。 敷石、瓦 (かわら)は韓国から取り寄せました。 軒 (のき)や梁 (りょう)の赤、青、緑といった極彩色の丹青 (タンチョン)は韓国の名工の作業です。 館内には、百済時代の国宝、重要文化財のレプリカなどが多く展示されています。 日本全国の百済の文化の足跡も紹介されています。



写真BE: 美郷町 南郷区にある「百済の館」です。 東を見たものです。



写真BF: 「百済乃館」の額(がく)が入り口にあります。
「百済の館」は日韓交流の資料館で、百済国の最後の王都であった大韓民国の古都「扶餘 (プヨ)」の王宮跡に建っている元 国立博物館の「客舎」をモデルにして、日韓交流のシンボルとして建設されました。 敷石、瓦 (かわら)は韓国から取り寄せました。 軒 (のき)や梁 (りょう)の赤、青、緑といった極彩色の丹青 (タンチョン)は韓国の名工の作業です。 館内には、百済時代の国宝、重要文化財のレプリカなどが多く展示されています。 日本全国の百済の文化の足跡も紹介されています。



写真BG: 右奥に「西の正倉院」が見えます。 その手前は「百済の館」です。 左に狛犬(コマイヌ)と三の鳥居が見えます。 北を見たもの。



写真BH: 両側のコマイヌ、三の鳥居、石段などが見えます。



写真BI: 「百済乃館」と百済の館の入り口に書いてあります。 中に太鼓(たいこ)などが見えます。



写真BJ: 神門神社のコマイヌです。



写真BK: 登ってきた石段から振(ふ)り返ったものです。 二の鳥居が見えます。



写真BL: 見事な狛犬 (こまいぬ、昭和時代の初期の建立です。)が神門神社にあります。 奥は百済の館です。



写真BM: 神門神社の三の鳥居 (さんのとりい)です。 この鳥居は明治45年1月15日に建立されました。



写真BN: 左に外灯も見えます。 美郷町 南郷区にある神門神社の三の鳥居 (明治45年1月15日建立)です。



写真BO: 古い石段のそばにご神木の杉の木があります。 神木にしめ縄がしてあります。 手前に三の鳥居が見えます。



写真BP: 三の鳥居に「明治45年1月15日」と書いてあります。



写真BQ: 一番奥の石段の上に神門神社の社殿が見えます。 右の建物は伝統芸能伝承館で、左に手水舎 (ちょうずや)が見えます。



写真BR: 右奥は社務所、売店、入場券売り場です。 左は伝統芸能伝承館です。 手前の杉の木にしめ縄をしてあります。



写真BS: 右から西の正倉院の塀(へい)、西の正倉院、社務所です。



写真BT: 右に美郷町 南郷区にある百済の館が見えます。 手前は石灯籠 (いしどうろう)、左奥は西の正倉院の塀(へい)と屋根です。 百済の館のところは一段低くなっています。



写真BU: 見下(お)ろした百済の館です。 瓦(かわら)屋根です。 入り口も見えます。



写真BV: 登ってきた石段を振り返ったものです。 三の鳥居、その奥に二の鳥居も見えます。 左の木にしめ縄をしてあります。



写真BW: 石段のそばです。



写真BX: 伝統芸能伝承館、社務所が見えます。 しめ縄をしてある杉の木があります。



写真BY: 神木の杉の木の中部です。



写真BZ: 神木の上部です。



写真CA: 伝統芸能伝承館、社務所が見えます。



写真CB: 「伝統芸能伝承館」と書いてあります。



写真CC: 神門神社の境内(けいだい)に御神籤(おみくじ)をしばりつける所があります。



写真CD: 「神門神社 本殿」の説明板があります。
国指定重要文化財(建造物)
 神門神社本殿は、棟札より寛文元年(1661年)の建立と考えられ、自然石の礎石上に建つ、宮崎県内唯一の7間社流造で、平面は身舎のうち桁行5間・梁間2間を板敷の内陣とする。 屋根は厚板葺目板打で、正面・背面とも段違いとする。
 神門神社本殿は、簡素で装飾の少ない流造本殿であるが、類例の少ない平面形式に特色がある。
 本殿各部の形式や意匠は、一部に変更はあるが旧規が明らかである。
 中世的な技法や要素を残しながら、近世の手法も備えたところに特徴があり、九州南部における本殿建築の発展を知る上で重要である。
以上のことから、
「神門神社本殿」は、平成12年12月4日に、国の重要文化財に指定された。
構造及び形式
「7間社流造、板葺(いたぶき)」
附・棟板 5枚 (寛文元年臘月10日 ほか)
・旧扉の部分 2点
平成13年4月1日
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真CE: 「神門神社 本殿」の説明板があります。
国指定重要文化財(建造物)
 神門神社本殿は、棟札より寛文元年(1661年)の建立と考えられ、自然石の礎石上に建つ、宮崎県内唯一の7間社流造で、平面は身舎のうち桁行5間・梁間2間を板敷の内陣とする。 屋根は厚板葺目板打で、正面・背面とも段違いとする。
 神門神社本殿は、簡素で装飾の少ない流造本殿であるが、類例の少ない平面形式に特色がある。
 本殿各部の形式や意匠は、一部に変更はあるが旧規が明らかである。
 中世的な技法や要素を残しながら、近世の手法も備えたところに特徴があり、九州南部における本殿建築の発展を知る上で重要である。
以上のことから、
「神門神社本殿」は、平成12年12月4日に、国の重要文化財に指定された。
構造及び形式
「7間社流造、板葺(いたぶき)」
附・棟板 5枚 (寛文元年臘月10日 ほか)
・旧扉の部分 2点
平成13年4月1日
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真CF: 「神門神社 本殿」の説明板があります。
国指定重要文化財(建造物)
 神門神社本殿は、棟札より寛文元年(1661年)の建立と考えられ、自然石の礎石上に建つ、宮崎県内唯一の7間社流造で、平面は身舎のうち桁行5間・梁間2間を板敷の内陣とする。 屋根は厚板葺目板打で、正面・背面とも段違いとする。
 神門神社本殿は、簡素で装飾の少ない流造本殿であるが、類例の少ない平面形式に特色がある。
 本殿各部の形式や意匠は、一部に変更はあるが旧規が明らかである。
 中世的な技法や要素を残しながら、近世の手法も備えたところに特徴があり、九州南部における本殿建築の発展を知る上で重要である。
以上のことから、
「神門神社本殿」は、平成12年12月4日に、国の重要文化財に指定された。
構造及び形式
「7間社流造、板葺(いたぶき)」
附・棟板 5枚 (寛文元年臘月10日 ほか)
・旧扉の部分 2点
平成13年4月1日
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真CG: 美郷町 南郷区にある神門神社の手水舎 (ちょうずや)です。 しめ縄、御幣(ごへい)が見えます。 右の石段の上に社殿が見えます。



写真CH: 石段の上に拝殿、右に(末社ではなく)仮拝殿、石碑 (せきひ)、伝統芸能伝承館、左の手水舎 (ちょうずや)に電灯が見えます。



写真CI: 伝統芸能伝承館の奥に社務所が見えます。 左に石垣 (いしがき)、石碑 (せきひ)があります。



写真CJ: 伝統芸能伝承館の奥に社務所があります。 東を見たものです。



写真CK: 振り返ったものです。 右に御神籤 (おみくじ)をしばりつける所、奥に登ってきた石段の上部、ご神木、左に伝統芸能伝承館があります。



写真CL: 古い木があります。 右に建物が見えます。



写真CM: 手水舎 (ちょうずや)です。



写真CN: 手水舎 (ちょうずや)に手を拭(ふ)く布、しめ縄もあります。



写真CO: 神門神社の御手洗い(みたらい)です。 柄杓(ひしゃく)も見えます。



写真CP: 手水舎 (ちょうずや)にある手ぬぐいです。



写真CQ: 「神門神社 参拝案内」の説明板があります。
<神門神社 (みかどじんじゃ)>
 養老2年 (718年)の創建といわれ、平城京発掘により確認された技法が使われている本殿や、奈良正倉院と同一の物を含む銅鏡 (現在は西の正倉院に保管)を社宝とするなど、古代史の謎(なぞ)とロマンが漂(ただよ)う南郷村を代表する存在といえます。 祀られている禎嘉王 (ていかおう)は、663年に滅(ほろ)んだ朝鮮半島の古代国家、百済国 (くだらこく)から亡命した王族といわれています。 木城町 比木神社 (ひきじんじゃ)に祀(まつ)られた息子 (むすこ)の福智王と対面する「師走祭り」など、神門神社は百済王伝説の舞台として、1300年の時を越えた神秘を今に伝えています。
<願掛けひょうたん>
 中から生命や宝物が生まれるとして、繁栄の象徴とされてきたひょうたん。 神門神社ゆかりの韓国では、ひょうたんは朴 (パク)と呼ばれ、古代朝鮮王朝の始祖がパクのような大卵から生まれたという言い伝えがあります。 日本でも神霊の容器として、また災難よけのお守りとして、縁起物とされてきました。
 願掛けひょうたんは、そのような神聖な力を借りて、火・水・病の厄よけや子宝・安産の祈願に、絵馬と同じように願を掛けていただくものです。 また、ここ神門神社では離れ離れになった百済王の子孫が年に一度再会する師走祭りがおこなわれ、それにあやかった「再会」の祈願にも、願掛けひょうたんは御利益があります。
神門神社宮司
と書かれています。



写真CR: 「神門神社 参拝案内」の説明板があります。
<神門神社 (みかどじんじゃ)>
 養老2年 (718年)の創建といわれ、平城京発掘により確認された技法が使われている本殿や、奈良正倉院と同一の物を含む銅鏡 (現在は西の正倉院に保管)を社宝とするなど、古代史の謎(なぞ)とロマンが漂(ただよ)う南郷村を代表する存在といえます。 祀られている禎嘉王 (ていかおう)は、663年に滅(ほろ)んだ朝鮮半島の古代国家、百済国 (くだらこく)から亡命した王族といわれています。 木城町 比木神社 (ひきじんじゃ)に祀(まつ)られた息子 (むすこ)の福智王と対面する「師走祭り」など、神門神社は百済王伝説の舞台として、1300年の時を越えた神秘を今に伝えています。
<願掛けひょうたん>
 中から生命や宝物が生まれるとして、繁栄の象徴とされてきたひょうたん。 神門神社ゆかりの韓国では、ひょうたんは朴 (パク)と呼ばれ、古代朝鮮王朝の始祖がパクのような大卵から生まれたという言い伝えがあります。 日本でも神霊の容器として、また災難よけのお守りとして、縁起物とされてきました。
 願掛けひょうたんは、そのような神聖な力を借りて、火・水・病の厄よけや子宝・安産の祈願に、絵馬と同じように願を掛けていただくものです。 また、ここ神門神社では離れ離れになった百済王の子孫が年に一度再会する師走祭りがおこなわれ、それにあやかった「再会」の祈願にも、願掛けひょうたんは御利益があります。
神門神社宮司
と書かれています。



写真CS: 「神門神社 参拝案内」の説明板があります。
<神門神社 (みかどじんじゃ)>
 養老2年 (718年)の創建といわれ、平城京発掘により確認された技法が使われている本殿や、奈良正倉院と同一の物を含む銅鏡 (現在は西の正倉院に保管)を社宝とするなど、古代史の謎(なぞ)とロマンが漂(ただよ)う南郷村を代表する存在といえます。 祀られている禎嘉王 (ていかおう)は、663年に滅(ほろ)んだ朝鮮半島の古代国家、百済国 (くだらこく)から亡命した王族といわれています。 木城町 比木神社 (ひきじんじゃ)に祀(まつ)られた息子 (むすこ)の福智王と対面する「師走祭り」など、神門神社は百済王伝説の舞台として、1300年の時を越えた神秘を今に伝えています。
<願掛けひょうたん>
 中から生命や宝物が生まれるとして、繁栄の象徴とされてきたひょうたん。 神門神社ゆかりの韓国では、ひょうたんは朴 (パク)と呼ばれ、古代朝鮮王朝の始祖がパクのような大卵から生まれたという言い伝えがあります。 日本でも神霊の容器として、また災難よけのお守りとして、縁起物とされてきました。
 願掛けひょうたんは、そのような神聖な力を借りて、火・水・病の厄よけや子宝・安産の祈願に、絵馬と同じように願を掛けていただくものです。 また、ここ神門神社では離れ離れになった百済王の子孫が年に一度再会する師走祭りがおこなわれ、それにあやかった「再会」の祈願にも、願掛けひょうたんは御利益があります。
神門神社宮司
と書かれています。



写真CT: 「歴史の謎 (なぞ)とロマンの漂う悠久の里、本殿、御参拝は左階段奥の本殿におきまして二礼二拍手一礼にてお参り下さい。 神門神社」と書いてあります。



写真CU: (末社ではなく)仮拝殿があります。 しめ縄、お賽銭箱 (さいせんばこ)が見えます。



写真CV: 石段の上に拝殿の屋根が見えます。



写真CW: 石段の両側には木があります。



写真CX: 社殿がある境内 (けいだい)です。 石灯籠 (いしどうろう)、御手洗 (みたらい)が見えます。



写真CY: 右から拝殿、説明板、石灯籠 (いしどうろう)があります。 下には砂利 (じゃり)を敷き詰 (つ)めてあります。 手前は石段の手すりです。



写真CZ: 宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門 96-2 にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」です。 巴(ともえ)の紋 (もん)が見えます。 拝殿の屋根の上に狛犬 (こまいぬ)のような像が左右に見えます。 屋根の一番高い所にシャチホコのような像が左右に見えます。



写真DA: 左端は神門神社の拝殿です。 石灯籠 (いしどうろう)も見えます。



写真DB: 神門神社の境内 (けいだい)です。



写真DC: 美郷町 南郷区 神門にある「神門神社」の上部です。
「神門神社 (みかどじんじゃ)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 大字神門 字小路前田 96-2 にあります。 南郷村は平成18年(2006年)1月1日に西郷村、北郷村と合併して美郷町になりました。 神門神社と地名(大字名)の神門 (みかど)は百済王の伝説の帝 (みかど)を連想させます。
 神門神社は旧郷社で奈良時代 718年(養老2年)の創建です。 神門神社の祭神は大山祇神、百済(くだら)の禎嘉王(ていかおう)、伯智王(百済王の第3王子)、倉稲魂命、品陀和気命(応神天皇)などです。 神門神社の本殿は国指定重要文化財に平成12年12月4日指定されました。 神門神社には百済王 禎嘉王(ていかおう)の亡命伝説があり、それに関連する師走祭りは国の無形民族文化財になっています。 禎嘉王と第3王子の伯智王は神門神社、第1王子の福智王は比木神社 (木城町)、禎嘉王の妻で福智王の母 之伎野(しぎの)は大年神社 (高鍋町の鴫野(しぎの))に祀(まつ)られています。 第2王子の華智王は伊佐賀 (いさか)神社 (神門神社から約7 km 東、東郷町 下三ヶ中水流)に祀られています。 「師走祭り」は木城町の比木神社 (ひきじんじゃ)から片道約 90 km の行程で美郷町の南郷区にある神門神社まで行列行進します。 復路もあります。 第1王子の福智王の御神体が以前は全行程徒歩・荷馬車で9泊10日かかりましたが、昭和23年から自動車も用いて2泊3日になりました。
古代に朝鮮半島の南西部にあった「百済(くだら、346年〜660年)」と日本は関係がありました。 日本書紀には領土を奪われた百済に任那(みまな)の1部を譲(ゆず)り渡したり、援軍を送ったことが書かれています。 百済から倭(わ)朝廷に貢(みつ)いだり、王族を人質として差し出したことも載っているそうです。 西暦660年、百済が滅亡したとき、百済王と王族、貴族など数1000人の百済人が倭国 (わこく、日本のことです。)に亡命し、多くの人が朝廷に仕(つか)えました。
禎嘉王、福智王の名前は日本書紀や三国史記(朝鮮の現存最古の史書で、50巻。 高麗の仁宗の命で作成され、1145年にできました。 新羅、高句麗、百済の3国の歴史を記してあります。)には載(の)っていないそうです。
この神門神社の創建は西暦718年で、百済の滅亡は660年です。 神門神社の創建は百済の滅亡後58 年たったときです。 朝鮮半島の白村江河口での白村江の戦い (倭国・百済遺民の連合 軍と、唐・新羅連合軍との戦争です。 倭国・百済遺民が大敗しました。 百済王の一族、豊璋王の弟・善光(禅広とも書きます。)は、倭国に亡命し、朝廷から百済王という姓氏が与えられて、朝廷に仕えました。 豊璋王は高句麗に亡命していましたが、捕らえられて幽閉されました。)は663年です。 神門神社の創建は白村江の戦いの55年後です。 朝廷内の内乱である「壬申の乱 (じんしんのらん)」は672年です。 神門神社の創建は壬申の乱から46年後です。



写真DD: 神門神社の境内 (けいだい)です。 説明板があります。



写真DE: 石灯籠 (いしどうろう)の左奥が登ってきた石段です。



写真DF: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DG: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DH: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DI: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DJ: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DK: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DL: 「有形文化財」の説明板があります。
一、銅鏡33面 (昭和40年8月17日県指定)。 二、馬鈴、馬鐸 (ばたく)。 三、板絵観音菩薩正体1面 (昭和40年8月17日県指定)。 四、大瓷2個。 五、神門神社本殿。 以上の宝物等は文化財として極めて価値の高いものであるが、瓷、銅鏡、板絵などいずれも大陸文化の影響が強いということは、この神社の伝承と深くかかわっていると思われる。
南郷村教育委員会
と書かれています。



写真DM: 神門神社の境内 (けいだい)です。 2つの石灯籠 (いしどうろう)も見えます。 この石灯籠の間から石段を登ってきました。



写真DN: 神門神社の拝殿です。



写真DO: 神門神社の拝殿です。 屋根の下に彫り物 (ほりもの)があります。



写真DP: 宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 大字神門にある「神門神社」の拝殿です。



写真DQ: 奥に神門神社の赤く塗(ぬ)ってある本殿が見えます。 右は拝殿です。



写真DR: 拝殿の横木に象の彫り物 (ほりもの)があります。 「神門神社」と書いてある額(がく)があります。 しめ縄、御幣 (ごへい)も見えます。 奥に巴 (ともえ)の紋 (もん)がある幕があります。



写真DS: 鈴のヒモ、「奉納」と書いてあるお賽銭箱 (おさいせんばこ)も見えます。



写真DT: 拝殿の石段です。



写真DU: 柱の下部はこのようになっています。



写真DV: お賽銭箱 (おさいせんばこ)です。



写真DW: 拝殿の中です。



写真DX: 太鼓 (たいこ)と2本のバチです。



写真DY: 幟 (のぼり)もあります。



写真DZ: 「神門神社」と書いてある額 (がく)です。



写真EA: しめ縄をしてある杉の木が4本見えています。



写真EB: 杉の木の中部です。



写真EC: 杉の木の上部です。



写真ED: 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑があります。
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
と彫 (ほ)られています。
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真EE: 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑があります。
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
と彫 (ほ)られています。
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真EF: 「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
と彫 (ほ)られています。
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真EG: 「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
と彫 (ほ)られています。
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真EH: 奥の赤い建物が神門神社の本殿です。



写真EI: 左の拝殿から本殿に行くところを外から見たものです。



写真EJ: 社殿の下部です。



写真EK: 中央は拝殿です。



写真EL: 拝殿の下部です。



写真EM: いくつかの石碑 (せきひ)があります。 左奥の石碑は「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑です。



写真EN: 本殿の上には、保護のための外側の建物が覆 (おお)っています。



写真EO: 御神籤 (おみくじ)をしばりつける所があります。



写真EP: 左は百済の館です。 奥に美郷町 南郷区の山並み (やまなみ)が見えます。 南を見たものです。



写真EQ: 百済の館と塀 (へい)です。 南東を見たものです。 美郷町 南郷区の山々が見えます。
「百済の館」は日韓交流の資料館で、百済国の最後の王都であった大韓民国の古都「扶餘 (プヨ)」の王宮跡に建っている元 国立博物館の「客舎」をモデルにして、日韓交流のシンボルとして建設されました。 敷石、瓦 (かわら)は韓国から取り寄せました。 軒 (のき)や梁 (りょう)の赤、青、緑といった極彩色の丹青 (タンチョン)は韓国の名工の作業です。 館内には、百済時代の国宝、重要文化財のレプリカなどが多く展示されています。 日本全国の百済の文化の足跡も紹介されています。



写真ER: 見下 (お)ろした「百済の館」です。 屋根の様子 (ようす)がよく分かります。 右奥にコンビニ店が見えます。



写真ES: 東を見た景色です。 美郷町 南郷区の山々が見えます。 手前は百済の館です。 韓国風の塀(へい)が見えます。



写真ET: 左に社務所が見えます。 右奥は「西の正倉院 (にしのしょうそういん)」の屋根です。 塀 (へい)も見えます。



写真EU: 右に「西の正倉院」の門があります。 左は社務所、入場券売り場です。 奥に西の正倉院が見えます。



写真EV: 社務所です。 飲料水の自動販売機もあります。 おみやげ品なども販売しています。



写真EW: 左は伝統芸能伝承館で右は社務所です。 北を見たもの。



写真EX: 伝統芸能伝承館です。



写真EY: 「手づくり郷土 (ふるさと)賞 建設大臣 亀井静香 宮崎県 南郷村 平成9年7月 寄贈 (社)九州建設弘済会」と書いてあります。



写真EZ: 宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門 62-1 にある「西の正倉院」です。 神門神社、百済の館のそばにあります。 北東を見たものです。
「西の正倉院 (しょうそういん)」と「百済の館 (くだらのやかた)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門 62-1 にあります。
百済の館は平成2年(1990年)11月に完成しました。 西の正倉院は約16億円の建設費と延べ10年をかけて、平成8年(1996年)5月に完成しました。
 西の正倉院には百済の王族の遺品と言われてるもの、師走祭りに関連するものなど、神門神社に昔から伝わっているものを展示してあります。 造りは校倉造り(あぜくらづくり)です。 六角形の木を積んだものを校倉造りと呼(よ)んでいます。 奈良にある宮内庁の正倉院の設計図、木曽の桧(ひのき)を用いてあります。 ただし、入り口の階段だけは観光客用に造ったもので、奈良の正倉院にはこの階段はありません。 ここの鏡は17面ありますが、古墳から出土したものではなく、長年保管されてきたものなので保存状態がよく、顔が写(うつ)るほどです。 最も鏡が多いのは奈良の正倉院、2番目が伊勢神宮、3番目がここの神門神社です。 須恵器 (すえき)は穀物を入れるもので、ここにあるのは鑑定の結果、百済焼だそうです。 鉾(ほこ)は1006本あります。 禎嘉王、福智王の名前は日本書紀や三国史記(朝鮮の現存最古の史書で、50巻。 高麗の仁宗の命で作成され、1145年にできました。 新羅、高句麗、百済の3国の歴史を記してあります。)には載(の)っていないそうです。
 古代に朝鮮半島の南西部にあった「百済(くだら、346年〜660年)」と日本は関係がありました。 日本書紀には領土を奪われた百済に任那(みまな)の1部を譲(ゆず)り渡したり、援軍を送ったことが書かれています。 百済から倭(わ)朝廷に貢(みつ)いだり、王族を人質として差し出したことも載っているそうです。 西暦660年、百済が滅亡したとき、百済王と王族、貴族など数1000人の百済人が倭国 (わこく、日本のことです。)に亡命し、多くの人が朝廷に仕(つか)えました。



写真FA: 東を見たものです。 西の正倉院の塀 (へい)が見えます。



写真FB: 西の正倉院と前の広場です。



写真FC: 左は社務所、説明板、右は西の正倉院です。



写真FD: 左は西の正倉院の門、奥は社務所です。 説明板があります。



写真FE: 内側から見た西の正倉院の門です。 奥の森は神門神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)です。



写真FF: 門の下部です。



写真FG: 「西の正倉院」の建物の入り口です。 高い床 (ゆか)になっているので、階段があります。 床は大きな丸太 (まるた)で支えています。



写真FH: 西の正倉院の中央上部です。



写真FI: 角 (かど)の部分はこのように木材を組み合わせてあります。 こちらにも扉 (とびら)があります。 西の正倉院の西端部分です。



写真FJ: 西の正倉院の東端部分です。 こちらにも扉 (とびら)があります。



写真FK: 宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 神門にある「西の正倉院 (にしのしょうそういん)」です。



写真FL: 美郷町 南郷区 神門にある「西の正倉院」です。



写真FM: 西の正倉院の上部です。



写真FN: 西の正倉院の上部。



写真FO: 「西の正倉院 御案内」の説明板があります。
 西の正倉院建設のきっかけは、百済王族の遺品と呼ばれる神門神社収蔵の古代の鏡群の中に奈良正倉院 南倉37号鏡と同一品の「唐花六花鏡」が存在する事からでありました。
 また、神門神社には百済伝説にまつわる古代から中世、近世と千年以上に渡って尊崇され手厚く保護されてきた事を示す有力な歴史資料が集積されており、この貴重な文化財を展示、収蔵する施設として、奈良正倉院の実物大博物館「西の正倉院」を建設したものであります。
 西の正倉院の建築には、奈良国立文化財研究所の学術支援、宮内庁の協力、建設省建築研究所の協力のほか、古代建造物の修理や設計に豊富な経験をもつ建築家が参加しました。
 造営用材は村内はもとより全国にその可能性を調査し、長野県の木曽の国有林天然桧 (ひのき)を調達する事ができました。
 この壮大な計画は準備期間5年、建築に5年、延 10年の歳月を要しております。
 外構の門や塀 (へい)、瓦 (かわら)の紋様等に至るまで天平時代の様式で統一されておりますが、床下の高さ2.5 m、全高13 m、4階建のビルに匹敵するスケールを体感できる空間であります。
 古代ロマンにふけりながら御見学いただければ幸いです。
南郷村長
と書かれています。



写真FP: 「西の正倉院 御案内」の説明板があります。
 西の正倉院建設のきっかけは、百済王族の遺品と呼ばれる神門神社収蔵の古代の鏡群の中に奈良正倉院 南倉37号鏡と同一品の「唐花六花鏡」が存在する事からでありました。
 また、神門神社には百済伝説にまつわる古代から中世、近世と千年以上に渡って尊崇され手厚く保護されてきた事を示す有力な歴史資料が集積されており、この貴重な文化財を展示、収蔵する施設として、奈良正倉院の実物大博物館「西の正倉院」を建設したものであります。
 西の正倉院の建築には、奈良国立文化財研究所の学術支援、宮内庁の協力、建設省建築研究所の協力のほか、古代建造物の修理や設計に豊富な経験をもつ建築家が参加しました。
 造営用材は村内はもとより全国にその可能性を調査し、長野県の木曽の国有林天然桧 (ひのき)を調達する事ができました。
 この壮大な計画は準備期間5年、建築に5年、延 10年の歳月を要しております。
 外構の門や塀 (へい)、瓦 (かわら)の紋様等に至るまで天平時代の様式で統一されておりますが、床下の高さ2.5 m、全高13 m、4階建のビルに匹敵するスケールを体感できる空間であります。
 古代ロマンにふけりながら御見学いただければ幸いです。
南郷村長
と書かれています。



写真FQ: 「西の正倉院 御案内」の説明板があります。
 西の正倉院建設のきっかけは、百済王族の遺品と呼ばれる神門神社収蔵の古代の鏡群の中に奈良正倉院 南倉37号鏡と同一品の「唐花六花鏡」が存在する事からでありました。
 また、神門神社には百済伝説にまつわる古代から中世、近世と千年以上に渡って尊崇され手厚く保護されてきた事を示す有力な歴史資料が集積されており、この貴重な文化財を展示、収蔵する施設として、奈良正倉院の実物大博物館「西の正倉院」を建設したものであります。
 西の正倉院の建築には、奈良国立文化財研究所の学術支援、宮内庁の協力、建設省建築研究所の協力のほか、古代建造物の修理や設計に豊富な経験をもつ建築家が参加しました。
 造営用材は村内はもとより全国にその可能性を調査し、長野県の木曽の国有林天然桧 (ひのき)を調達する事ができました。
 この壮大な計画は準備期間5年、建築に5年、延 10年の歳月を要しております。
 外構の門や塀 (へい)、瓦 (かわら)の紋様等に至るまで天平時代の様式で統一されておりますが、床下の高さ2.5 m、全高13 m、4階建のビルに匹敵するスケールを体感できる空間であります。
 古代ロマンにふけりながら御見学いただければ幸いです。
南郷村長
と書かれています。



写真FR: 「西の正倉院、百済の館 展示物御案内」が社務所にあります。



写真FS: 「博物館入場料 常設展、大人 500円 15名以上の団体1名につき 400円、高校生 400円 15名以上の団体1名につき 300円、小中学生 300円 15名以上の団体1名につき 200円、*本館の入場料は百済の館とセット料金となっています。 開館時間 9:30〜17:00 入館は16:30まで
と書いてあります。



写真FT: 美郷町 南郷区 神門にある「神門神社」の社務所の中です。 ひょうたん、破魔矢 (はまや)、お守りなどを販売しています。



写真FU: 美郷町 南郷区 神門にある「神門神社」の社務所の中。 陶器の湯のみ、本、おみくじ、竹細工の籠(かご)などを販売しています。 テーブル、椅子 (いす)も見えます。



写真FV: 「百済の里 KUDARANOSATO/南郷村」のポスターがあります。



写真FW: 「百済の里 KUDARANOSATO/南郷村」のポスターがあります。
西の正倉院の写真があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)