宮崎港、阿波岐原森林公園、一ツ葉入江 (海上自衛隊 輸送艦 しもきた、あわきがはらしんりんこうえん、一ツ葉入り江、宮崎港水門、砂洲(さす)、新別府川の河口、一ツ葉橋、五厘橋 (ごりんばし)、新別府川、江田川、一ツ葉公園)  (宮崎県 宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町)







<標高、位置>  宮崎港 フェリー発着所は
標高 数 m
 北緯31度54分39秒  東経131度27分27秒

<標高、位置>  宮崎港 漁港は
標高 数 m
 北緯31度53分55秒  東経131度27分22秒

<標高、位置>  宮崎港水門は
標高 数 m
 北緯31度53分50秒  東経131度27分23秒

<標高、位置>  新別府川(しんびゅうがわ)の河口は
標高 0 m
 北緯31度54分56秒  東経131度27分34秒

<標高、位置>  一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)は
標高 0 m
 北緯31度55分17秒  東経131度27分50秒

<標高、位置>  宮崎港 南防波堤の根元は
標高 数 m
 北緯31度54分46秒  東経131度28分08秒

<標高、位置>  宮崎港 内防波堤は
標高 数 m
 北緯31度55分22秒  東経131度28分20秒

<標高、位置>  阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)は
標高 数 m
 北緯31度55分08秒  東経131度27分36秒


 「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。

  「宮崎港水門ゲート」の金属製の説明板から、
「宮崎港水門ゲート、1987年5月、管理者 宮崎県、型式 ステンレス製桁構造ローラゲート、純径間x扉高 18.0 m x 9.8 m、設置数 1門、扉体重量 115.0 ton、施工 扉体工 株式会社 田原製作所、本体工 株式会社 志多組。」
宮崎港水門ゲートは大淀川の河口近くの北岸にあり、宮崎港と大淀川の間にあります。

 「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。

 「江田川 (えだがわ)」は江田神社 (市民の森)が源流となっています。 宮崎県中央部の新別府川 (しんびゅうがわ)の支流です。 江田川は1級河川、延長 4.8 km、流域 6.3 平方キロメートル。 流域の約50 %が農地で稲作、ハウス園芸が行われています。 東部にシーガイア、サンビーチ 一ツ葉、一ツ葉稲荷神社、阿波岐原森林公園などがあります。 源流の江田神社の東側では山崎ホタルの里 (山崎ホタルピア)があり、ゲンジボタルが見られます。 江田川にはコウホネ、ミズキンバイ、ホテイアオイなどが自生しています。

 「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。

 「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。


写真A: 宮崎港の南端にある宮崎港水門です。 大淀川と宮崎港の間にあり、船も下を通ります。 南東を見たもの。
「宮崎港水門ゲート」の金属製の説明板から、
「宮崎港水門ゲート、1987年5月、管理者 宮崎県、型式 ステンレス製桁構造ローラゲート、純径間x扉高 18.0 m x 9.8 m、設置数 1門、扉体重量 115.0 ton、施工 扉体工 株式会社 田原製作所、本体工 株式会社 志多組。」
宮崎港水門ゲートは大淀川の河口近くの北岸にあり、宮崎港と大淀川の間にあります。



写真B: 宮崎港の漁港です。 左寄りに漁業組合の建物が見えます。 漁船が停泊(ていはく)しています。 宮崎港水門橋の上から北西を見たものです。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真C: 宮崎港の漁港に魚船がつながれています。



写真D: 宮崎港で魚釣りをしている人が見えます。



写真E: 左手前に漁業組合の建物があります。 マンション、生コンクリート工場も見えます。



写真F: 漁業組合の建物が3つ見えます。 右の建物に「宮崎ちりめん」と書いてあります。 このあたりは、「ちりめんじゃこ」を広場で天日干しにし乾燥させる工場がいくつかあります。 ちりめんとは白い小さな魚です。 だいだい色の物は宮崎港の施設です。 漁港に車も止まっています。



写真G: 左に漁船の燃料を入れる大きな円筒形のタンクが見えます。



写真H: 西を見た景色です。 左に大淀川の一ツ葉大橋、宮崎市終末処理場のタンク、 白いちりめんの工場、漁船の燃料タンクも見えます。



写真I: 東を見た景色です。 右に大淀川の河口、左に船を引き上げる場所も見えます。



写真J: 漁港に多くの漁船が停泊しています。



写真K: 宮崎港の漁船です。 北東を見たもの。



写真L: 宮崎港の漁船です。



写真M: 左遠くに高層ホテルのオーシャン45、その右にラグゼ一ツ葉が見えます。 奥の方(北)には貨物船、フェリーなどが停泊します。



写真N: 遠くに高く尖(とが)った黒っぽい海上自衛隊 輸送艦「しもきた」が見えます。 その右に高層ホテルのオーシャン45、ラグゼ一ツ葉も見えます。 手前のだいだい色の大きな船は輸送船です。 左に円筒形をした石油タンクもあります。 北を見たもの。



写真O: 左端にちりめんを天日干しする台が4つ並(なら)んでいます。 北西を見たものです。



写真P: ちりめん乾燥工場が岸壁のそばに見えます。



写真Q: 港東にある会社が多く集まっている所です。 宮崎港の東(海寄り)の建物です。 北を見たもの。 手前に大淀川の河口があります。



写真R: 「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」と高い建物に書いてあります。 港東という地名の所です。 東を見たもの。



写真S: 右奥に円筒形をした石油タンクがいくつか見えます。 北を見たもの。



写真T: 来た道を振り返ったもの。 遠くに高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」の建物が見えます。 左は石油タンクです。 南を見た景色です。



写真U: 多くの石油タンクがあります。 左の建物でタンクローリー車に石油を積(つ)み込(こ)みます。 南東を見たもの。



写真V: ここでタンクローリー車に石油を積み込みます。 奥にも石油タンクが見えます。 東を見たもの。



写真W: 左端でこの道はT 字路になっています。 そこに「立入禁止」の看板(かんばん)が見えます。



写真X: 北を見たもの。



写真Y: 来た道を振り返ったもの。 左に「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」の建物が見えます。 南を見た景色です。



写真Z: 門に「ローリー車出口 ご注意願います。」と書いてあります。 タンクローリー車に石油を積み込む場所です。 東を見たもの。



写真AA: T 字路になっています。 「立入禁止」の看板などがあります。 ゲートも見えます。 北を見たもの。



写真AB: 東を見た景色です。 石油タンクなどがあります。



写真AC: 東南東を見た景色です。 石油タンクも多くあります。



写真AD: 南を見た景色です。 左寄りに高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」の建物が見えます。 左の広場で時々、宮崎県警察の白バイの訓練が行われています。



写真AE: 南西を見た景色です。 宮崎港になっている一ツ葉入江が見えます。 車も止まっています。



写真AF: 西を見た景色です。 宮崎港です。 右端の黄色のものは「移動式 オイルフェンス巻き取り機」です。 港に油が多量に流れ出た時に油が広がるのを防ぎます。



写真AG: 右寄りの対岸に海上自衛隊 輸送艦「しもきた」が停泊しています。 「しもきた」の一般公開が行われています。 黄色のものは「移動式 オイルフェンス巻き取り機」です。 北東を見たもの。



写真AH: 左に海上自衛隊 輸送艦「しもきた」が見えます。 北西を見たもの。



写真AI: 北を見たもの。



写真AJ: 北東を見たもの。



写真AK: 東を見た景色です。 石油タンクが多く見えます。 その手前の広場で時々、宮崎県警察の白バイの訓練が行われています。



写真AL: 「不法投棄禁止、各自ゴミは持ち帰り、港を気持ちよく利用しましょう! 不法投棄をした者は、法に基づき、罰せられます。 宮崎県中部港湾事務所長 宮崎県北警察署長」と書いてある看板があります。



写真AM: 海上自衛隊 輸送艦「しもきた」が見えます。 一般公開が行われていました。



写真AN: 北西を見た景色です。 右寄りに高層ホテルのオーシャン45が見えます。



写真AO: 北を見たもの。



写真AP: 北東を見たもの。



写真AQ: 東を見たもの。



写真AR: 東を見た景色です。 タンクローリー車に石油を積み込む場所が見えます。



写真AS: 南東を見たもの。 石油タンクが見えます。



写真AT: 南東を見た景色です。 高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」の建物が見えます。



写真AU: 南東を見たもの。 会社の建物が見えます。



写真AV: 南を見た景色です。 右寄りに四角の宮崎港水門が見えます。 車が多く岸壁(がんぺき)に止まっています。 外灯が多く見えます。



写真AW: 対岸にも石油タンクが見えます。 左端は宮崎港水門です。 南西を見たものです。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真AX: 宮崎港の西岸の様子(ようす)です。 左寄りに漁業組合の大きな建物が見えています。 東岸から見たもの。



写真AY: 西岸にあるワシントン椰子(やし)の木が多く見えます。 手前に魚釣りをしている人が見えます。



写真AZ: 黄色の「移動式 オイルフェンス巻き取り機」が見えます。 港の水面に黄色の浮き標識が見えます。 手前に魚釣りをしている人が見えます。 西を見た景色です。



写真BA: 宮崎港の西岸に海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が停泊しています。 一般公開されていました。 艦内を見学することが出来ました。



写真BB: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が停泊しています。 一般公開されていました。 艦内を見学することが出来ました。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真BC: 左端は輸送艦です。 その右に宮崎市中央卸売市場の高い看板も見えます。 右寄りにショッピングセンターのイオンモールの建物も白く見えます。 この森は阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。 北西を見た景色です。



写真BD: 北西を見た景色です。 対岸の森は阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。 一ツ葉入江が工事され、宮崎港になっています。



写真BE: 北を見た景色です。 遠くに右から高層ホテル オーシャン45、民間放送のMRT 中波放送アンテナ、ラグゼ一ツ葉が見えます。 手前は宮崎港の東岸が見えています。



写真BF: 北東を見たもの。



写真BG: 宮崎港にある「移動式 オイルフェンス巻き取り機、宮崎石油基地株式会社」です。 港に油が多量に流れ出た時に油が広がるのを防ぎます。



写真BH: 「移動式 オイルフェンス巻取機、宮崎石油基地株式会社」と書いてあります。 宮崎港の東岸にあります。



写真BI: 宮崎港の東岸壁での魚釣りです。



写真BJ: 宮崎港での魚釣りです。 南を見た景色です。 右に船をつなぐロープをかける大きな鉄製のものが3個見えています。



写真BK: 右端に宮崎港の白い船、左寄りに宮崎港水門も見えます。 南西を見た景色です。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真BL: 中央右寄りに大きな漁業組合の建物も見えています。 白い船、多くの石油タンクも見えます。



写真BM: 宮崎港の西岸です。 円筒形の建物も見えます。 ワシントン椰子(やし)も右に見えています。



写真BN: 右の大きな2階建ての建物は「宮崎港 フェリー乗り場」です。 宮崎港の西岸にあります。 西を見た景色です。



写真BO: 大きな2階建ての建物は「宮崎港 フェリー乗り場」です。 西を見た景色です。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真BP: 右端は海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。 宮崎港。 黄色の浮き標識が水面に見えます。



写真BQ: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。 宮崎港の西岸に停泊しています。 右に宮崎市中央卸売市場の高い看板(かんばん)が見えます。



写真BR: 対岸の森は阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。 北西を見た景色です。



写真BS: 北を見たもの。 遠くに民間放送 MRT 中波ラジオ放送アンテナ、高層ホテルのオーシャン45、ラグゼ一ツ葉が見えます。 手前は「移動式 オイルフェンス巻き取り機」です。



写真BT: 「移動式 オイルフェンス巻き取り機」です。



写真BU: 北を見たもの。 遠くに民間放送 MRT 中波ラジオ放送アンテナ、高層ホテルのオーシャン45、ラグゼ一ツ葉が見えます。



写真BV: 南を見た景色です。 宮崎港の東岸です。



写真BW: 宮崎港の東岸には多くの会社があります。 南を見たもの。



写真BX: 宮崎港の東岸。 南西を見たものです。



写真BY: 西を見た景色です。 宮崎港の水面が見えます。



写真BZ: 北西を見た景色です。 中央左寄りに高い黒っぽい輸送艦 「しもきた」が見えます。



写真CA: 北を見たもの。 右は会社の建物です。



写真CB: 南を見た景色です。 左に飲料水の自動販売機も見えます。 このあたりは港東という地名です。



写真CC: 飲料水の自動販売機です。



写真CD: コカ・コーラ zero を飲みました。



写真CE: 南を見たもの。 ここはこの車道の南端です。 骨材が山のように積んであります。 資材置き場のようです。



写真CF: 南西を見たものです。



写真CG: 西を見たもの。



写真CH: ガラスを砕(くだ)いたものが山のように積(つ)んであります。



写真CI: 北を見たもの。



写真CJ: 北東を見たもの。



写真CK: 東を見たもの。



写真CL: 「骨材関係車両以外 進入禁止 中部港湾事務所」と書いてある看板(かんばん)があります。 南東を見たもの。



写真CM: 南を見たもの。 骨材が山のように積んであります。



写真CN: 来た道を振り返ったもの。 左寄りに高層ホテル オーシャン45が見えます。 北を見たもの。



写真CO: ここは「阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)」の入り口です。 車道を右に行くと海水浴場のサンビーチ一ツ葉、ヨットハーバーのサンマリーナ宮崎に行きます。 左に行くと宮崎港に行きます。 奥に行くと一ツ葉稲荷神社に出ます。 手前に行くと阿波岐原森林公園です。 左の建物はステーキ店の「ミヤチク」です。 北西を見た景色です。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真CP: 阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)の入り口の十字路です。 右の建物は肉料理店の「ミヤチク」です。 左は蕎麦屋(そばや)になっています。 西を見たもの。



写真CQ: 左端の道を右奥(西)に行くとショッピングセンターのイオンモールに行きます。 南西を見たものです。



写真CR: この信号を右奥(西)に行くとショッピングセンターのイオンモールに行きます。 南西を見たものです。



写真CS: 「阿波岐原森林公園、管理事務所、駐車場、トイレ、思い出とゴミは持ち帰りましょう。 阿波岐原森林公園 管理事務所」と書いてある大きな看板(かんばん)があります。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真CT: ここが阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。 遊歩道が見えます。 東を見たもの。



写真CU: 南東に車で進めます。 駐車場、管理事務所、トイレなどもあります。 阿波岐原森林公園。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真CV: 「阿波岐原森林公園」と書いてあります。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真CW: この先に駐車場などがあります。



写真CX: 「阿波岐原森林公園 遊歩道」の地図です。



写真CY: 「阿波岐原森林公園 遊歩道」の地図です。
阿波岐原森林公園 管理事務所、イオンモール、一ツ葉公園、一ツ葉入り江、釣護岸、展望台、サンマリーナ宮崎、マリンセンター、みやざき臨海公園、サンビーチ一ツ葉、南ビーチ、北ビーチ、一ツ葉有料道路、ラグゼ一ツ葉、コテージヒムカなどが載(の)っています。



写真CZ: 「阿波岐原森林公園 遊歩道」の地図です。
阿波岐原森林公園 管理事務所、イオンモール、一ツ葉公園、一ツ葉入り江、釣護岸、展望台、サンマリーナ宮崎、マリンセンター、みやざき臨海公園、サンビーチ一ツ葉、南ビーチ、北ビーチ、一ツ葉有料道路、ラグゼ一ツ葉、コテージヒムカなどが載(の)っています。



写真DA: 奥に駐車場と阿波岐原森林公園管理事務所があります。



写真DB: こちらに車道が延(の)びています。 この先にも駐車場があり、広い車道に出ます。 両側は黒松林になっています。 南を見たもの。



写真DC: こちらは車止めがあり、遊歩道になっています。 黒松が茂(しげ)っています。 東を見たもの。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真DD: 阿波岐原森林公園です。 一ツ葉公園とも呼(よ)びます。 南を見たもの。



写真DE: こちらにも駐車場があります。 南を見たもの。



写真DF: 多くの看板(かんばん)があります。 右奥にビロウ樹が見えます。 南東を見たもの。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真DG: 駐車場に車を止めました。 北西を見たものです。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真DH: ビロウ樹並木(なみき)があります。 その左に海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えています。 南を見たもの。



写真DI: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 右はビロウ樹です。 南を見たもの。



写真DJ: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。 艦尾に海上自衛隊の旗があります。 右は外灯など宮崎港の施設です。 南を見たもの。



写真DK: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。 艦尾に海上自衛隊の旗が見えます。



写真DL: 一ツ葉入江の方に歩いていきます。 東を見たもの。



写真DM: スピーカー、アンテナなどがあるポールが見えます。



写真DN: 右寄りに海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 このあたりは草原になっています。 南を見たもの。



写真DO: 奥に宮崎港の水面が見えます。 南東を見たもの。



写真DP: 東を見たもの。 草原になっています。



写真DQ: 北を見たもの。 阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。



写真DR: スピーカー、アンテナがあるポールが見えます。 北西を見たもの。



写真DS: 北西を見た景色です。 右はスピーカー、アンテナがあるポールです。



写真DT: 西を見たもの。



写真DU: 南西を見た景色です。 ここが新別府川 (しんびゅうがわ)の河口(川口)です。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。 以前、手前の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。 右奥から川は流れています。 石垣の護岸が見えます。 遠くにワシントン椰子(やし)、右にビロウ樹もあります。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真DV: 新別府川 (しんびゅうがわ)の河口です。 右奥から川は流れています。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。 以前、手前の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。 左端に海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 宮崎港の外灯、東屋(あずまや)も見えます。 南西を見た景色です。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真DW: 南を見たもの。 左に東岸の高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」が見えます。 水面に浮きの標識、自衛艦、宮崎港の岸壁(がんぺき)が見えます。



写真DX: 南東を見たもの。 左は南防波堤、東岸に多くの石油タンク、高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」も見えます。 この奥は日向灘(太平洋)になっています。



写真DY: 東を見た景色です。 右は南防波堤で左は内防波堤です。 宮崎港の水面が広がっています。
昔は一ツ葉入江の東岸は大淀川の河口までずっと続いていました。 宮崎港の工事で砂丘の東岸を掘(ほ)り、船が通る水路を造りました。 この水路が見えています。 水路の南には南防波堤、北には内防波堤が建設されました。



写真DZ: 東を見た景色です。 左は一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)に突(つ)き出た半島のようなものです。 これは宮崎港の工事が行われる前はありませんでした。 宮崎港の建設で水の流れが変わり、このような砂洲(さす)が出来ました。 (このような砂洲の代表的なものは京都府 宮津市 宮津湾の砂洲(さす)で、日本三景の1つになっていて延長3 km の白砂の松林です(天橋立(あまのはしだて))。



写真EA: 北西を見たもの。 スピーカー、アンテナのポールが見えます。



写真EB: 西を見た景色です。 左奥にビロウ樹が見えます。



写真EC: 南西を見た景色です。 新別府川の川口です。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。  以前、手前の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真ED: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 海上自衛隊の旗が艦尾にあります。 その下に大きなプロペラが2つ見えます。 これは積(つ)まれているホバークラフトのプロペラです。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真EE: 新別府川 (しんびゅうがわ)の川口です。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。 左に宮崎港の東屋(あずまや)、外灯が見えます。 以前、手前の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。
「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真EF: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 海上自衛隊の旗が艦尾にあります。 その下に大きなプロペラが2つ見えます。 これは積(つ)まれているホバークラフトのプロペラです。



写真EG: 宮崎港です。 南を見た景色です。 遠く右寄りに宮崎港水門も見えます。 自衛艦の高いアンテナ、レーダーアンテナなども見えます。



写真EH: 水面に赤い浮きの標識があります。 遠くは宮崎港の東岸です。 この対岸も昔は一ツ葉入江の南北に続いた細長い砂丘(さきゅう)でした。 南東を見たもの。



写真EI: 東岸に多くの石油タンク、右に高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」も見えています。 この奥は日向灘(太平洋)になっています。 南東を見たもの。



写真EJ: 宮崎港の東岸です。 この奥は日向灘(太平洋)になっています。 右端に石油タンクがあります。 南東を見たもの。



写真EK: 宮崎港の南防波堤が見えます。 東南東を見た景色です。



写真EL: 東を見た景色です。 中央、右に南防波堤が、左端に内防波堤が見えます。 内防波堤の先端に赤い照明の標識があります。 船は南防波堤と内防波堤の間を通って宮崎港に出入りします。



写真EM: 東を見た景色です。 内防波堤とその先端の赤い照明標識が見えます。 一ツ葉入江は左に延(の)びています。



写真EN: 東を見た景色です。 魚釣りの人が見えます。 左は長く東に伸びた砂洲(さす)で、木も茂(しげ)ってきています。



写真EO: 北東を見たもの。 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の中にある東に伸びた砂洲です。



写真EP: 北西を見たものです。 スピーカー、アンテナのあるポールが見えます。



写真EQ: 西を見たもの。 ビロウ樹が見えます。



写真ER: 新別府川の川口の護岸が見えます。 左にワシントン椰子(やし)、右にビロウ樹があります。 南西を見たものです。



写真ES: 新別府川の川口です。 この護岸できれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。



写真ET: 新別府川 (しんびゅうがわ)の川口です。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。 以前、手前の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真EU: 東を見た景色です。 左は一ツ葉入江の中に伸びた砂洲(さす)の部分です。 宮崎港の建設で東岸の砂丘を掘(ほ)って船が通る水路を造りました。 それで水の流れが変わりこの砂洲が出来ました。



写真EV: 北東を見たもの。



写真EW: 釣り人が見えます。 左は一ツ葉入江の中を東に伸びた砂洲です。



写真EX: 岸に枯木などの漂着物が見えます。



写真EY: 東を見た景色です。 ここの2つの防波堤(南防波堤、内防波堤)の間を通って船が宮崎港に出入りします。



写真EZ: 南防波堤が見えます。



写真FA: 左の南防波堤と東岸です。



写真FB: 東岸に石油タンクが多く見えます。 そこでタンクローリー車に石油を積み込(こ)みます。



写真FC: 左端に高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」が見えます。 東岸には多くの会社があります。



写真FD: 南を見た景色です。 中央付近に宮崎港水門、右に自衛艦が見えます。



写真FE: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 海上自衛隊の旗が艦尾にあります。 その下に大きなプロペラが2つ見えます。 これは積(つ)まれているホバークラフトのプロペラです。



写真FF: 新別府川 (しんびゅうがわ)の川口です。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真FG: 南西を見たものです。



写真FH: 西を見たもの。



写真FI: 木が生(は)えています。



写真FJ: 右にスピーカー、アンテナのポールが見えます。



写真FK: 南を見た景色です。 手前に漂着物が多く見えます。



写真FL: 東を見た景色です。 左は東に伸びた砂洲です。 魚釣りの人が見えます。



写真FM: 伸びた砂洲には漂着物があります。



写真FN: 伸びた砂洲に「ハマヒルガオの花」が咲いていました。



写真FO: 伸びた砂洲にハマヒルガオが群生していて花が咲いていました。



写真FP: 波に揉(も)まれて丸くなった軽石です。



写真FQ: 来た砂洲に足跡が付いています。 南西を見たものです。 自衛艦も見えます。



写真FR: 南南東を見た景色です。 中央付近に高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」、右端に小さく宮崎港水門が見えます。



写真FS: 東を見た景色です。 ここを通って船が宮崎港に出入りします。



写真FT: 左は一ツ葉入江の中に東に伸びた砂洲です。 小さな白波が見えます。



写真FU: 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の中の東に伸びた砂洲。



写真FV: 北西を見た景色です。



写真FW: 小さくスピーカー、アンテナのポールが見えます。



写真FX: 西を見たもの。 左端に自衛艦が見えます。 東に伸びた砂洲です。



写真FY: 東に伸びた砂洲です。 南西を見たものです。



写真FZ: 南東を見たもの。 南防波堤も見えます。



写真GA: 東を見た景色です。 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)はこの左(北)にまだ延(の)びています。


写真GB: 東に伸びた砂洲に古い小舟が置いてあります。 左は一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分です。 中央付近の細い水路を通って左の入江と右の入江(宮崎港)はつながっています。



写真GC: 一ツ葉入江の北部分が見えます。 遠くに右から民間放送 MRTの中波の放送アンテナ、ラグゼ 一ツ葉、高層ホテルのオーシャン45が見えます。 左奥は阿波岐原森林公園です。 北を見たもの。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GD: 阿波岐原森林公園です。 北西を見たものです。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GE: 阿波岐原森林公園です。 北西を見たものです。



写真GF: 西を見たもの。 手前は東に伸びた砂洲です。 自衛艦も見えます。



写真GG: 伸びた砂洲から南を見た景色です。 中央左寄りに高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」、右寄りに小さく宮崎港水門が見えます。 小さな白波が打ち寄せています。



写真GH: 南東を見たもの。 東に伸びた砂洲に小さな白波が打ち寄せています。



写真GI: 北西を見たものです。 阿波岐原森林公園です。 右は一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GJ: 一ツ葉入江の砂洲よりも北の部分です。 高層ホテルのオーシャン45とラグゼ 一ツ葉 (ひとつば)が右寄りに見えています。 北北西を見たものです。



写真GK: 手前の伸びた砂洲にモーターボートが置いてあります。 中央付近に民間放送 MRTの中波の放送アンテナ、その左にラグゼ 一ツ葉、高層ホテルのオーシャン45が見えます。 北を見た景色です。
ここ一ツ葉入り江の北端部分と一ツ葉の砂丘、一ツ葉の海岸(砂浜)には子供の頃に、学校の3月の別れ遠足で毎年来ていました。 海の砂浜でそのころは塩田を用いた塩作りが行われていました。 入り江の北端西部にはコンクリートの家の土台が当時残っていました。 そこから南遠くの海岸付近の海で第2次世界大戦中に敷設(ふせつ)された機雷(触れたりすると爆発して敵の船を沈めるもの。)を爆発させて破棄(はき)する時の大きな煙りと爆発音が聞こえたことを思い出します(昭和30年前後の頃。)。 その少し西の松林にブランコの遊具がありました。 当時は、おもちゃのような小舟に釣り針を付けた長い釣り糸をとりつけ風下に流して、ボラ釣りが行われていました。 私の海、波、砂浜の原風景はこの一ツ葉です。
阿波岐原森林公園です。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GL: 一ツ葉入江の北部分です。 右(南)に細く伸びて南の一ツ葉入江(宮崎港)とつながっています。 モーターボートが置いてあります。 北北東を見た景色です。
ここ一ツ葉入り江の北端部分と一ツ葉の砂丘、一ツ葉の海岸(砂浜)には子供の頃に、学校の3月の別れ遠足で毎年来ていました。 海の砂浜でそのころは塩田を用いた塩作りが行われていました。 入り江の北端西部にはコンクリートの家の土台が当時残っていました。 そこから南遠くの海岸付近の海で第2次世界大戦中に敷設(ふせつ)された機雷(触れたりすると爆発して敵の船を沈めるもの。)を爆発させて破棄(はき)する時の大きな煙りと爆発音が聞こえたことを思い出します(昭和30年前後の頃。)。 その少し西の松林にブランコの遊具がありました。 当時は、おもちゃのような小舟に釣り針を付けた長い釣り糸をとりつけ風下に流して、ボラ釣りが行われていました。 私の海、波、砂浜の原風景はこの一ツ葉です。
阿波岐原森林公園です。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GM: 奥の高い部分は昔からの海岸沿(ぞ)いの南北に伸びた砂丘です。 その手前で一ツ葉入江(ひとつばいりえ)の北部分と南部分(宮崎港)がつながっています。 東南東を見た景色です。 手前は東に伸びた砂洲です。
阿波岐原森林公園です。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GN: 東を見た景色です。 右にテトラポットが積んであります。 奥の高い部分は昔からの海岸沿(ぞ)いの南北に伸びた砂丘です。



写真GO: テトラポットが積んであります。 東を見た景色です。



写真GP: 南防波堤が見えます。 東南東を見た景色です。



写真GQ: 左は南防波堤、右は東岸です。 砂洲から南東を見たもの。



写真GR: 右に高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」と中央付近に石油タンクが多く見えます。 南東を見たもの。



写真GS: 左に高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」が見えます。 南東を見たもの。



写真GT: 中央付近に四角の宮崎港水門が見えます。 南を見た景色です。



写真GU: 南西に海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。



写真GV: 北西を見たものです。 スピーカー、アンテナがあるポールも見えます。 手前に古い小舟があります。



写真GW: 北西を見たものです。 阿波岐原森林公園です。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真GX: 一ツ葉入江のそばにある阿波岐原森林公園。



写真GY: 阿波岐原森林公園です。



写真GZ: 一ツ葉にある阿波岐原森林公園です。



写真HA: 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)と阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。 電柱も4本見えています。 北西を見たものです。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真HB: 一ツ葉入江と阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。 右に高層ホテル オーシャン45が見えます。 北西を見たものです。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真HC: 長く伸びた砂洲から東を見た景色です。 手前に流木が見えます。



写真HD: 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分です。 岸にモーターボートもあります。 左奥は阿波岐原森林公園、右奥は古くからある海岸沿いの砂丘です。 北を見た景色です。



写真HE: 砂地の植物です。
「コウボウシバの葉」です。
「コウボウシバ(弘法芝)」はカヤツリグサ科の多年草です。 日本、東南アジアの海岸砂地に自生しています。 地下茎から高さ約20 cm の茎を出します。 雌雄同株。 花は5月頃、穂状花序に咲きます。



写真HF: 東を見た景色です。 ここを通って船が宮崎港に出入りします。



写真HG: 左に、右の入江と左(北)の入江をつないている細い水路があります。 奥の高い部分は古くからある海岸沿いの砂丘です。 手前は東に伸びた砂洲です。 東を見た景色です。



写真HH: 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分が見えます。 北東を見た景色です。



写真HI: 一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分です。 長く伸びた砂洲から北を見た景色です。
ここ一ツ葉入り江の北端部分と一ツ葉の砂丘、一ツ葉の海岸(砂浜)には子供の頃に、学校の3月の別れ遠足で毎年来ていました。 海の砂浜でそのころは塩田を用いた塩作りが行われていました。 入り江の北端西部にはコンクリートの家の土台が当時残っていました。 そこから南遠くの海岸付近の海で第2次世界大戦中に敷設(ふせつ)された機雷(触れたりすると爆発して敵の船を沈めるもの。)を爆発させて破棄(はき)する時の大きな煙りと爆発音が聞こえたことを思い出します(昭和30年前後の頃。)。 その少し西の松林にブランコの遊具がありました。 当時は、おもちゃのような小舟に釣り針を付けた長い釣り糸をとりつけ風下に流して、ボラ釣りが行われていました。 私の海、波、砂浜の原風景はこの一ツ葉です。



写真HJ: 北西を見たものです。 岸にモーターボートが置いてあります。 奥は阿波岐原森林公園です。



写真HK: 西を見たもの。 奥に阿波岐原森林公園が見えます。 長く伸びた砂洲から。



写真HL: 砂洲に貝殻(かいがら)が落ちていました。



写真HM: 東を見たもの。 左に細くなった入江が延(の)びていて広い一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分とつながっています。



写真HN: ここで左の入江の北部分と右の南部分(宮崎港)がつながっています。 東を見たもの。



写真HO: 右の所で一ツ葉入江の北部分と南部分(宮崎港)がつながっています。 宮崎港の工事前は手前の東に伸びた砂洲は無かったので、一ツ葉入江は大淀川のところまでほぼ同じ幅で南北に延びていました。 北東を見た景色です。
ここ一ツ葉入り江の北端部分と一ツ葉の砂丘、一ツ葉の海岸(砂浜)には子供の頃に、学校の3月の別れ遠足で毎年来ていました。 海の砂浜でそのころは塩田を用いた塩作りが行われていました。 入り江の北端西部にはコンクリートの家の土台が当時残っていました。 そこから南遠くの海岸付近の海で第2次世界大戦中に敷設(ふせつ)された機雷(触れたりすると爆発して敵の船を沈めるもの。)を爆発させて破棄(はき)する時の大きな煙りと爆発音が聞こえたことを思い出します(昭和30年前後の頃。)。 その少し西の松林にブランコの遊具がありました。 当時は、おもちゃのような小舟に釣り針を付けた長い釣り糸をとりつけ風下に流して、ボラ釣りが行われていました。 私の海、波、砂浜の原風景はこの一ツ葉です。
阿波岐原森林公園です。
「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真HP: このようにして一ツ葉入江の北部分は南部分(宮崎港)とつながっています。 北を見た景色です。
ここ一ツ葉入り江の北端部分と一ツ葉の砂丘、一ツ葉の海岸(砂浜)には子供の頃に、学校の3月の別れ遠足で毎年来ていました。 海の砂浜でそのころは塩田を用いた塩作りが行われていました。 入り江の北端西部にはコンクリートの家の土台が当時残っていました。 そこから南遠くの海岸付近の海で第2次世界大戦中に敷設(ふせつ)された機雷(触れたりすると爆発して敵の船を沈めるもの。)を爆発させて破棄(はき)する時の大きな煙りと爆発音が聞こえたことを思い出します(昭和30年前後の頃。)。 その少し西の松林にブランコの遊具がありました。 当時は、おもちゃのような小舟に釣り針を付けた長い釣り糸をとりつけ風下に流して、ボラ釣りが行われていました。 私の海、波、砂浜の原風景はこの一ツ葉 (ひとつば)です。



写真HQ: 北西を見たものです。 奥は阿波岐原森林公園です。 右は一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分です。



写真HR: 西を見たもの。 東に伸びた砂洲が見えています。 歩いてきた足跡が付いています。 奥は阿波岐原森林公園です。



写真HS: 南西を見た景色です。 中央左寄りに四角の宮崎港水門、右に自衛艦が見えています。 一ツ葉入江の南部分(宮崎港)です。



写真HT: 南東を見たもの。 中央右寄りに高い「JA 宮崎経済連 肥料供給センター」が見えています。



写真HU: 東を見たもの。 この左が延(の)びて一ツ葉入江の北部分とつながっています。



写真HV: 長く伸びた砂洲の東端近くから南を見た景色です。



写真HW: 東を見たもの。 この左が延(の)びて一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分とつながっています。



写真HX: ここは細い水路になっています。 東を見たもの。 奥の高い部分は古くからある海岸沿いの砂丘です。



写真HY: このようになっていて一ツ葉入江の北部分と南部分(宮崎港)がつながっています。 北東を見たもの。 奥の高い部分は古くからある海岸沿いの砂丘です。



写真HZ: 東に伸びた砂洲の先端(東端)付近から一ツ葉入江 (ひとつばいりえ)の北部分を見た景色です。 北を見た景色です。



写真IA: 東に伸びた砂洲の東端付近から北西を見たものです。 一ツ葉入江の北部分が見えます。 奥は阿波岐原森林公園。



写真IB: 東に伸びた砂洲の東端付近から西を見たもの。 砂洲の奥に阿波岐原森林公園が見えます。



写真IC: 東に伸びた砂洲の東端付近から南西を見た景色です。 自衛艦と左寄りに小さく四角の宮崎港水門が見えます。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真ID: 東に伸びた砂洲の東端付近から南を見た景色です。



写真IE: 一ツ葉入江の北部分と南部分をつないでいる細い部分です。 水は流れていました。 海の潮の満ち引きで北部分に水が流れ込んだり、出て行ったりするものと思われます。 東を見たもの。 高いところは古くからある海岸沿いの砂丘です。



写真IF: 東に伸びた砂洲の東端付近から南東を見たもの。 テトラポットが見えます。



写真IG: 東に伸びた砂洲の東端付近から南西を見た景色です。 自衛艦が見えます。



写真IH: 砂洲に「蟹(かに)の穴」と思われるものがありました。



写真II: 砂洲にあった「蟹(かに)の穴」と思われるもの。



写真IJ: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が見えます。 海上自衛隊の旗が艦尾にあります。 その下に大きなプロペラが2つ見えます。 これは積(つ)まれているホバークラフトのプロペラです。



写真IK: 阿波岐原森林公園に戻って来ました。



写真IL: 阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)に看板(かんばん)があります。 「宮崎・日南海岸リゾート」、「国際海浜コンベンションリゾートゾーン」、「宮崎県」の看板があります。



写真IM: はじめの駐車場です。



写真IN: 阿波岐原森林公園のすぐ西に片側2車線の車道があります。 奥は一ツ葉有料道路です。 このあたりの通行料は無料です。 奥に行くと海水浴場のサンビーチ一ツ葉、ヨットハーバーのサンマリーナ宮崎があります。 手前には宮崎港があります。



写真IO: 江田川が新別府川に合流するところに水門があります。 これが水門です。 左に「一ツ葉橋 (大淀川の一ツ葉大橋とは別のものです。)」が見えます。 南西を見たものです。
「江田川 (えだがわ)」は江田神社 (市民の森)が源流となっています。 宮崎県中央部の新別府川 (しんびゅうがわ)の支流です。 江田川は1級河川、延長 4.8 km、流域 6.3 平方キロメートル。 流域の約50 %が農地で稲作、ハウス園芸が行われています。 東部にシーガイア、サンビーチ 一ツ葉、一ツ葉稲荷神社、阿波岐原森林公園などがあります。 源流の江田神社の東側では山崎ホタルの里 (山崎ホタルピア)があり、ゲンジボタルが見られます。 江田川にはコウホネ、ミズキンバイ、ホテイアオイなどが自生しています。



写真IP: 左は新別府川 (しんびゅうがわ)にかかっている一ツ葉橋(大淀川の一ツ葉大橋とは別のものです。)です。 右は江田川が新別府川に合流するところにある水門です。 高いワシントン椰子(やし)が見えます。 南西を見たものです。



写真IQ: 新別府川にかかっている一ツ葉有料道路の続きの車道にある一ツ葉橋 (大淀川の一ツ葉大橋とは別のものです。)です。 南西を見たもの。



写真IR: 新別府川にある一ツ葉橋です。 左側が下流です。 南を見た景色です。
「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真IS: 一ツ葉橋から東を見た景色です。 新別府川の河口が見えます。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真IT: 一ツ葉橋から東を見た景色です。 新別府川の河口が見えます。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。
「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真IU: 西を見たもの。 右と左に水門があります。 右は江田川のもので、左は新別府川のものでしょう。



写真IV: 一ツ葉橋です。 奥に新別府川の水門があります。 西を見たもの。



写真IW: 南を見た景色です。 一ツ葉橋です。 左側が下流です。



写真IX: 左端が新別府川の川口。 中央左寄りに高いものが見えます。 これは海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の上部です。
一ツ葉橋から南東を見た景色です。 新別府川の河口が見えます。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真IY: 一ツ葉橋から東を見た景色です。 新別府川の河口が見えます。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真IZ: 北東を見たもの。



写真JA: 北を見た景色です。 一ツ葉橋から。



写真JB: 右寄りにショッピングセンターのイオンモールが見えています。 中央付近に宮崎市中央卸売市場の高い看板、建物が見えます。 左端は水門です。 北東を見たもの。



写真JC: 西を見たもの。 一ツ葉橋の上です。



写真JD: 西を見たもの。 新別府川の水門が見えます。 右は宮崎市中央卸売市場です。 左に屋根の尖(とが)った介護施設のケアフルも見えます。
「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真JE: 南東を見たもの。 駐車場、トイレ、林の上に自衛艦の上部が見えます。 これから自衛艦の方に行きます。



写真JF: 駐車場です。 南を見た景色です。 ワシントン椰子(やし)が見えます。



写真JG: 南東を見たもの。 左寄りにトイレ、林の上に自衛艦の上部が見えます。



写真JH: 左はトイレです。 南を見た景色です。



写真JI: 南西を見たもの。 車道から駐車場に入る道があります。 ワシントン椰子(やし)が多く植えてあります。



写真JJ: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」が宮崎港に停泊(ていはく)しています。 艦内の一般公開が行われていました。 左の白いテントはその受け付けです。 東を見たもの。



写真JK: 「輸送艦「しもきた」 広報予定」の掲示(けいじ)があります。



写真JL: 宮崎県 宮崎市にある宮崎港に停泊中の海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。 手前に東屋(あずまや)もあります。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真JM: 一般公開受け付けの白いテントもあります。 宮崎港の自衛艦です。



写真JN: 輸送艦 「しもきた」の前部です。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真JO: 輸送艦 「しもきた」の中部の上部です。 宮崎港。



写真JP: 輸送艦 「しもきた」の中部の下部です。 右寄りに白いタラップ(人が入船する所。)が見えます。 宮崎港にて。



写真JQ: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の中部です。 右寄りに大砲のように見えるものもあります。



写真JR: 一般公開の受け付けテントです。



写真JS: 海上自衛隊の制帽(せいぼう)です。 テントの中で。
まわりを海に囲まれた日本において、海上自衛隊は、海からの侵略を防ぎ、我が国をとりまく海の安全を守るという役目を担(にな)っています。 本格的な侵略事態はもとより、新たな驚異や多様な事態に際し、海上自衛隊が迅速に対応するために、日々訓練を重ねています。 また、平素から我が国の領海とその周辺を常時警戒監視しています。 そして海上自衛隊は、我が国の平和と安全の確保に直接結びつく様々(さまざま)な活動を行なっています。 (海上自衛隊のパンフレットから。)



写真JT: 東北東を見た景色です。 先ほど歩いたところも見えています。 外灯があります。



写真JU: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の後部です。 東を見たもの。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真JV: 宮崎港に停泊中の海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。



写真JW: 南東を見たもの。 東屋(あずまや)があります。



写真JX: ワシントン椰子(やし)もあります。



写真JY: 来た道を振り返ったもの。 右は受け付けのテントです。 西を見たもの。



写真JZ: 北西を見たものです。



写真KA: 北東を見た景色です。 先ほど歩いた東に伸びた砂洲(さす)も見えます。



写真KB: 「しもきた」と船尾に書いてあります。 海上自衛隊の旗も見えます。



写真KC: 輸送艦 「しもきた」の船尾です。



写真KD: 自衛艦です。 係留してあるロープが見えます。



写真KE: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」です。 宮崎港。



写真KF: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」。 だいだい色の大砲のように見えるものもあります。 宮崎港。



写真KG: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の中部です。



写真KH: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の前部です。



写真KI: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の中部です。



写真KJ: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の中部。



写真KK: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の上部です。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真KL: 一般公開されていました。 私も中を見学することが出来ました。



写真KM: 海上自衛隊 輸送艦 「しもきた」の上部です。



写真KN: 救命ボートが見えます。
「海上自衛隊 輸送艦 しもきた」は基準排水量: 8900 t、全長: 178.0 m、最大幅: 25.8 m、喫水(きっすい): 6.0 m、機関: ディーゼルx2、馬力: 26400 ps、速力: 22 kt、乗員: 146 名、陸自隊員: 330 名。 自衛艦の名称は艦種ごとにそれぞれ天象(天体の現象)、海象、山岳、河川、名所旧跡などから命名することになっています。 輸送艦には半島の名が付与されています。 この艦名は青森県の下北半島に由来(ゆらい)しています。 海上自衛隊の輸送艦「しもきた」として2代目に当たります。 ホバークラフト(LCAC(輸送用エアクッション艇))を2隻(せき)載せています。 このホバークラフトは排水量: 約155 t、全長: 26.7 m、最大幅: 14.3 m、高さ: 7.6 m、最大速力: 約90 km/h、航続距離: 約200 NM、機関: TF40Bガスタービンx4 16000 ps、乗員: 5 名、搭載可能重量: 約50 t、搭載可能人員: 180 名。 輸送艦「しもきた」は2002年3月に就役(しゅうえき)した大型輸送艦です。 輸送艦は自衛隊の人員、装備、作戦用資材などを海上輸送することを任務としています。 大規模災害時の住民の救助、物資の輸送など国民生活の安定に幅広く役立っています。 また、国際緊急援助活動、テロ特措法(とくそほう)に参加するなど国連の平和維持活動に大きく寄与しています。



写真KO: 一ツ葉橋の南端から南東を見たもの。 駐車場と自衛艦が見えます。



写真KP: 一ツ葉橋の南端から新別府川の川口を見た景色です。
新別府川は宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真KQ: 新別府川の河口が見えます。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真KR: 新別府川の河口が見えます。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。
昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真KS: ショッピングセンターのイオンモールが北西に見えます。 左端は水門です。



写真KT: 車道沿(ぞ)いに「夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花」が咲いていました。



写真KU: 「夾竹桃 (きょうちくとう)の花」が咲いていました。



写真KV: 一ツ葉橋の北端近くのここを右(東)に曲がって進みます。 北を見た景色です。



写真KW: 北を見た景色です。 高層ホテルのオーシャン45が見えます。



写真KX: この道を進みます。



写真KY: 「ワルナスビの花」が咲いていました。
「ワルナスビ(悪茄子)」はナス科の多年草です。 アメリカ合衆国の原産で、日本、アジア、ヨーロッパ、オセアニアに帰化している外来種です。 茎や葉に鋭いトゲがあり、地下茎がよく広がります。 除草剤も効きにくく、耕うん機ですきこむと切れた地下茎の1つ1つから芽が出て独立した個体に育ちます。 ワルナスビの名称はこのような性質から名付けられました。 花は白または淡青色で春から秋まで咲き続けます。 果実は球形で黄色に熟(じゅく)します。 全草がソラニンを含んで有毒です。 家畜が食べると時には中毒死することもあります。



写真KZ: 東屋(あずまや)が黒松の森の中にあります。 阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)です。



写真LA: 広場が見えます。 阿波岐原森林公園。



写真LB: はじめの駐車場に戻(もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)