小林城跡 (三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城)、城山公園 (西郷どんの道、せごどんの道、西郷隆盛の道、山之神の神社、石氷川(いしごおりがわ)の大手橋、実報寺、霧島山、霧島連山、霧島山系、霧島連山の展望、高千穂峰の展望)  (宮崎県 小林市 大字真方 字下の馬場)







<標高、位置>  小林城跡 (三ツ山城跡、三ノ城跡、三山城跡、宇賀城跡)のある城山公園は
標高 223 m
 北緯32度00分08秒  東経130度59分05秒

<標高、位置>  小林城跡 (城山公園)の登城口は
標高 約180 m
 北緯32度00分09秒  東経130度58分58秒


 「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方 字下ノ馬場 にあります。
 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板から、
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。

 小林城跡は市指定史跡です。 別名は三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城です。 伊東48城の一つです。 これとは別に、北原 氏の居城であった小林市 細野 城山、鳥居元にある吉富城(亀固城)もはじめは三ツ山城と呼ばれていたという説もあります。 小林城跡のまわりとの標高差は約40 m です。 南側に主郭(しゅかく)があります。 北東側に3段の平らな所があります。 本丸跡、曲輪(くるわ、平らな所)、空堀(からぼり)、土塁(どるい)が残っています。 小林城は東、北、西に石氷川(岩瀬川)がU字型に曲がって流れていて、自然の堀となっています。 南側は急な斜面で城山は独立峰となっています。 築城ははっきりしませんが、応永年間(1394年〜1428年)に北原 氏が造りました。 1561年(永禄4年)に伊東義祐が落城させ、米良重方(筑後守)を城主としました。 1566年(永禄9年)に島津義久と島津義弘、島津歳久が攻撃しましたが、米良重方(筑後守)は城に籠(こも)って島津を撃退しました。 このとき、城の水の手口(東側)から城を攻めていた島津義弘は負傷しました。 「水の手」は城での用水を取る所の呼び名が地名になったものです。 島津義久は城の下の馬場(西側)、島津歳久は城の南側から城を攻めました。 米良重方(筑後守)は須木城や三ツ山城の城主(三ツ山地頭)で、1572年(元亀3年)、えびの市の木崎原の戦いで伊東軍の殿(しんがり、軍を引き上げる時に最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。)軍となり戦死しました。 1576年(天正4年)に島津の城となり、川上忠兄(島津の家臣)が城主となりました。
 小林城の城主は米良重方(米良筑後守、伊東の家臣)、伊東勘解由、川上忠兄(島津の家臣)などです。
 明治の初め頃までは小林郷の各区から集まって小林城で毎年、郷土舞踊「輪太鼓踊り」の競演が行われていました。 これが伝承されて現在の小林市の「輪太鼓踊り」となりました。
 小林麓(ふもと)は地頭仮屋を中心とした地域で、小林城跡の近くです。 小林麓には武家門、西郷どんの道、江戸時代の藩校「文行堂」跡などがあります。

 三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 「真方地区の文化財」の説明板から、
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など。

 「西郷(隆盛)どんの道」の説明板から、
 明治維新により新しい政府が生まれましたが、日本の進路をめぐる意見の対立から、明治政府と西郷支持者の間で、西南戦争(1877年)が起こりました。
 田原坂(熊本県 植木町)で、政府軍に敗(やぶ)れた西郷軍は、小林を2回通って退却していますが、2回目に延岡から高千穂・西米良・須木を経由(けいゆ)して、1877年(明治10年)8月28日 この地を通過し鹿児島へ帰りました。
 旧鹿児島藩に属した小林からも多くの人が西郷軍について参加しました。
 小林には、今も薩摩弁(さつまべん)をはじめ薩摩文化の名残(なご)りが、たくさん伝わっています。

 「実報寺」は宮崎県 小林市 大字真方 793-1 にあります。 1973年(昭和48年)12月17日に建立されました。 開基(かいき)は日蓮正宗 大石寺 第66世法主 日達上人です。


写真A: 国道265号線です。 右の小さな山が小林城跡です。 手前に約1 km ちょっと行くと小林市の中心部(本町商店街)で国道221号線に出ます。 先に進むと陰陽石、須木のすきむらんど、西米良村に行きます。 北東を見たもの。 「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方(まがた) 字下ノ馬場 にあります。



写真B: この独立峰の山が小林城跡で、城山公園になっています。 南西から見たもの。 小林城跡は三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡とも呼(よ)びます。 岩瀬川の支流である石氷川がU字型に曲がっていてその中心部の山に小林城跡があります。
「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方 字下ノ馬場 にあります。
 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板から、
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。

 小林城跡は市指定史跡です。 別名は三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城です。 伊東48城の一つです。 これとは別に、北原 氏の居城であった小林市 細野 城山、鳥居元にある吉富城(亀固城)もはじめは三ツ山城と呼ばれていたという説もあります。 小林城跡のまわりとの標高差は約40 m です。 南側に主郭(しゅかく)があります。 北東側に3段の平らな所があります。 本丸跡、曲輪(くるわ、平らな所)、空堀(からぼり)、土塁(どるい)が残っています。 小林城は東、北、西に石氷川(岩瀬川)がU字型に曲がって流れていて、自然の堀となっています。 南側は急な斜面で城山は独立峰となっています。 築城ははっきりしませんが、応永年間(1394年〜1428年)に北原 氏が造りました。 1561年(永禄4年)に伊東義祐が落城させ、米良重方(筑後守)を城主としました。 1566年(永禄9年)に島津義久と島津義弘、島津歳久が攻撃しましたが、米良重方(筑後守)は城に籠(こも)って島津を撃退しました。 このとき、城の水の手口(東側)から城を攻めていた島津義弘は負傷しました。 「水の手」は城での用水を取る所の呼び名が地名になったものです。 島津義久は城の下の馬場(西側)、島津歳久は城の南側から城を攻めました。 米良重方(筑後守)は須木城や三ツ山城の城主(三ツ山地頭)で、1572年(元亀3年)、えびの市の木崎原の戦いで伊東軍の殿(しんがり、軍を引き上げる時に最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。)軍となり戦死しました。 1576年(天正4年)に島津の城となり、川上忠兄(島津の家臣)が城主となりました。
 小林城の城主は米良重方(米良筑後守、伊東の家臣)、伊東勘解由、川上忠兄(島津の家臣)などです。
三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 明治の初め頃までは小林郷の各区から集まって小林城で毎年、郷土舞踊「輪太鼓踊り」の競演が行われていました。 これが伝承されて現在の小林市の「輪太鼓踊り」となりました。
 小林麓(ふもと)は地頭仮屋を中心とした地域で、小林城跡の近くです。 小林麓には武家門、西郷どんの道、江戸時代の藩校「文行堂」跡などがあります。



写真C: 来た道を振り返ったもの。 この先、約1 km のところで国道221号線に出ます。 南を見た景色です。



写真D: 小林城跡は標高 約220 m で、平地からの標高差は約40 m です。



写真E: 国道265号線の近くです。



写真F: ちょうど歩道の工事が行われていました。



写真G: この山城(三ツ山城、小林城)で伊東と島津の激戦がありました。 それはえびの市の木崎原の戦いの少し前(6年前)のことです。



写真H: 南を見たものです。



写真I: バス停「下の馬場 小林市コミュニティバス」が見えます。 右の建物の奥は小林城跡です。



写真J: バス停「下の馬場 小林市コミュニティバス」です。 国道265号線にあります。



写真K: 右に「歴史の道」の標識棒(標柱)があります。 左に石氷川の大手橋が見えます。 国道265号線。 北を見た景色です。
この信号機の右が小林城跡の登城口です。



写真L: 小林城跡の国道265号線の反対側(北西)にも山があります。



写真M: 小林城跡に近い国道265号線にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。



写真N: 国道265号線にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。



写真O: 「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。



写真P: 小林城跡に近い国道265号線にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。



写真Q: 「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。



写真R: 来た道を振り返ったもの。



写真S: 国道265号線の大手橋交差点です。 ここに小林城跡への登城口があります。 左に大手橋が見えます。 北を見たもの。



写真T: 大手橋交差点の近くです。



写真U: 石氷川の大手橋が見えます。



写真V: これが小林城跡への登城口です。 「小林城跡」と書いてある標柱があります。
両側はコンクリートの壁になっています。



写真W: 大手橋交差点です。 北を見たもの。



写真X: 大手橋の上の車が見えます。 登城口から見たものです。



写真Y: 登城口から見た大手橋交差点です。



写真Z: 来た道を振り返ったもの。



写真AA: このコンクリートの壁が登城口の良い目印(めじる)しになります。



写真AB: 小林城跡への登城路です。 奥に小林城跡の城山が見えます。 東を見たもの。



写真AC: 「小林城跡」と書いてあります。



写真AD: 両側が高くなっている坂道を上(のぼ)ります。 奥の山が小林城跡です。



写真AE: ここは交差点になっています。 ミラーがあります。 小林城跡へは奥の細い道を上ります。 車も通ることができます。



写真AF: 小林城跡 (城山公園)でゲートボールを楽しんだ人達が帰っているところです。 来た道を振り返ったもの。 西を見たもの。



写真AG: ここで登城路が右に曲がっています。



写真AH: 小林城跡の説明板が見えます。 その左に本丸などに行く細い道があります。 奥に曲輪(くるわ、平らな所)があります。 上に山之神神社の建物が見えます。



写真AI: 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板の左の細い登り坂を進むと本丸、空堀(からぼり)などがあります。



写真AJ: 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板があります。
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。
平成6年11月20日 小林市教育委員会
と書かれています。
三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真AK: この坂道を少し登ると曲輪(くるわ、平らな所)があります。 右の建物はトイレです。



写真AL: 来た道を振り返ったもの。



写真AM: 城山公園(小林城跡)にあるトイレです。



写真AN: これが本丸より一段低い曲輪(くるわ、平らな所)です。



写真AO: 小林城跡(三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城)の曲輪です。



写真AP: 曲輪のそばにシラス台地の崖(がけ)があります。 この崖の上に本丸跡があります。
シラス(白砂)は大隅・薩摩両半島や都城市付近に広く分布する火山灰、軽石の層です。 現在の鹿児島湾を形成している昔の姶良(あいら)火山、阿多火山などの噴出物が堆積(たいせき)したものです。



写真AQ: シラス台地の崖と左は赤い鳥居(とりい)です。



写真AR: 山之神を祀(まつ)っている神社です。



写真AS: 来た道(登城路)を振り返ったもの。



写真AT: 建物が2つあります。 左はトイレです。



写真AU: 山之神を祀(まつ)ってあります。



写真AV: 階段があります。



写真AW: 鳥居に「山之神」と彫(ほ)ってあります。



写真AX: 山之神の神社です。



写真AY: 「山之神建立(こんりゅう)の経緯(けいい)」の説明板があります。



写真AZ: 堂宇献納の事が書いてあります。



写真BA: しめ縄、御幣(ごへい)、榊(さかき)、お酒などがあります。



写真BB: 車が止まっていました。



写真BC: 小林城跡から見た景色です。 北西を見たもの。
遠くの山の左寄りにさらに遠い(薄く見えています。)山が見えています。 これは西米良村にある「石堂山(標高 1547.4 m)」と思われます。



写真BD: 小林城跡の曲輪(くるわ、平らな所)から見た景色です。 西を見たもの。



写真BE: 小林城跡の曲輪(くるわ)から見た景色です。 南西を見た景色です。 霧島連山が見えます。



写真BF: 曲輪(くるわ)から見た景色です。 南西を見た景色。 霧島連山の一部が見えます。



写真BG: 宮崎県 小林市の小林城跡から霧島連山が美しく見えます。
右から甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。
小林城跡の曲輪(くるわ、平らな所)から南西を見た景色です。



写真BH: 霧島連山が見えます。 右から新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。
南西を見た景色です。 手前に刈(か)り取った稲を束(たば)ねたものを田んぼに並(なら)べてあります。 黄色に実った田んぼもあります。



写真BI: 住宅地も見えます。



写真BJ: 左は曲輪(くるわ、平らな所)です。



写真BK: シラス台地の崖(がけ)の上に木や竹が茂(しげ)っています。 崖の上に本丸跡があります。



写真BL: 小林城跡(三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城)の曲輪、山之神の神社です。 崖の上に本丸跡があります。
白いシラスの崖が目立ちます。
シラス(白砂)は大隅・薩摩両半島や都城市付近に広く分布する火山灰、軽石の層です。 現在の鹿児島湾を形成している昔の姶良(あいら)火山、阿多火山などの噴出物が堆積(たいせき)したものです。



写真BM: 小林城跡 (城山公園)です。



写真BN: 小林城跡 (城山公園)。 北を見たもの。



写真BO: 小林城跡の曲輪(くるわ、平らな所)です。



写真BP: 曲輪も崖も白っぽいシラスです。
シラス(白砂)は大隅・薩摩両半島や都城市付近に広く分布する火山灰、軽石の層です。 現在の鹿児島湾を形成している昔の姶良(あいら)火山、阿多火山などの噴出物が堆積(たいせき)したものです。



写真BQ: 小林城跡(城山公園)です。



写真BR: 城山公園(小林城跡)ではゲートボールなどが行われているそうです。



写真BS: 小林城跡の曲輪(くるわ、平らな所)から見たもの。 中央は甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)で、左は韓国岳(からくにだけ、1700 m)です。 霧島連山です。



写真BT: 霧島連山の一部です。 右から韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)です。 南西を見た景色です。
手前に国道265号線が少し見えます。 車も見えています。



写真BU: 霧島連山の一部です。 右から夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。 宮崎県 小林市にある小林城跡 (城山公園)の曲輪から南西を見たもの。



写真BV: 高千穂峰が美しい。 右から矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。 手前の田んぼに黄色に実った稲が見えます。



写真BW: 小林城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の端(はし)のところです。



写真BX: 霧島連山が美しく見えます。 右から甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。 右手前に、曲輪の端にあるススキの穂が見えています。



写真BY: 右から甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)が見えています。



写真BZ: 右から韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。
住宅地、農家、田んぼ、森、小山などが見えます。 小林城跡から南南西を見た景色です。



写真CA: 小林城跡から南を見た景色です。



写真CB: この崖(がけ)は絶壁になっています。 小林市にある小林城跡。



写真CC: 崖の上部はこのようになっています。 小林城跡。



写真CD: 崖の上の木です。 崖の上は本丸跡になっています。



写真CE: 北西を見たものです。 小林城跡の曲輪。
曲輪の端(はし)に止めてある車が見えています。
遠くの山の左寄りにさらに遠い(薄く見えています。)山が見えています。 これは西米良村にある「石堂山(標高 1547.4 m)」と思われます。



写真CF: シラスの崖はなかなか美しい。 所々に穴が開(あ)いています。 下に崖が崩(くず)れた土砂が見えます。
城山公園(小林城跡、三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城)です。



写真CG: シラスの崖を近くから見るとこのようになっています。
小林城跡。



写真CH: シラスの崖(がけ)の下部です。



写真CI: 曲輪の南端のところです。



写真CJ: シラス崖に植物の蔓(つる)、根などが見えます。



写真CK: シラスの崖に木の根、蔓(つる)が見えています。 崖の上部です。



写真CL: 本丸跡の木がせり出しています。



写真CM: シラス崖に穴もあります。



写真CN: 北を見たもの。 曲輪と崖。 崖の上は本丸跡です。



写真CO: 小林城跡の曲輪です。



写真CP: 小林城跡の曲輪。



写真CQ: 曲輪です。



写真CR: 曲輪と崖。



写真CS: 「この施設は「宝くじ助成施設」です。 小林市」とトイレの壁に書いてあります。



写真CT: 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板の所に戻(もど)って来ました。 左に本丸などに行く細い道があります。



写真CU: これから、この坂道を登って本丸跡、空堀(からぼり)などの所に行きます。



写真CV: 「昭和52年度 急傾斜地崩壊対策事業 宮崎県土木部」と書いてあります。



写真CW: この道を登って小林城の本丸跡、空堀などに行きます。



写真CX: この道を進んでいきます。



写真CY: ここは道の土砂が流れるのを防ぐ横棒がいくつか設置してあります。



写真CZ: 第二次世界大戦のときの防空壕(ぼうくうごう)と思われる洞穴(ほらあな)があります。 柵(さく)、ロープがあります。



写真DA: 第二次世界大戦のときの防空壕(ぼうくうごう)と思われる洞穴(ほらあな)。



写真DB: ここは下り坂になっています。



写真DC: ここは登りになっています。 この先で道(遊歩道)は2つに分かれます。



写真DD: 杉の木も見えます。



写真DE: 人家や遠く北西に小山が見えます。 小林城跡から見たもの。



写真DF: 小林城跡の道から西を見たもの。



写真DG: この遊歩道を登ります。 手すりがあります。



写真DH: 「本丸跡」とうっすらと読める道標があります。



写真DI: 「大手門、空堀跡」と書いてある道しるべがあります。



写真DJ: 二股(ふたまた)に分かれた道の右の方の道を登ります。 杉の木の根が遊歩道に見えます。 奥に手すりがあります。



写真DK: 来た道を振り返ったもの。



写真DL: 来た道を振り返ったものです。 土石流止めのコンクリートの壁が見えます。



写真DM: 小林城跡の本丸跡に行く道から見たもの。 右から甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)が見えています。 これらは霧島連山の一部です。



写真DN: 霧島連山の1つ、甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)が左に見えます。 小林城の西に広がる風景です。 人家、山などが見えます。



写真DO: 小林城跡の遊歩道です。 この先に本丸跡があります。



写真DP: 小林城跡の道です。 見えている木は杉の木です。



写真DQ: 杉の木の中部です。



写真DR: 杉の木の上部です。



写真DS: 杉の木の上部。 手前に他の木の枝があります。



写真DT: 小林城跡の様子(ようす)です。



写真DU: ここは階段と手すりがあります。 登りになっています。



写真DV: 遊歩道の上部の様子(ようす)です。



写真DW: 遊歩道の近くです。



写真DX: 遊歩道の手すりと階段。 この先に本丸跡があります。



写真DY: 木の名前「イヌビワ」と書いてあります。 奥の木がイヌビワです。 イヌビワは子供の頃(ころ)は「ムスブテ」と呼(よ)んでいました。



写真DZ: 小林城跡のイヌビワの木です。



写真EA: 小林城跡にあるイヌビワの木の上部です。



写真EB: このような小さな葉の植物が木に張り付いて育っていました。



写真EC: 小林城の本丸跡へと登っていきます。



写真ED: 「本丸跡」と書いてある道標があります。



写真EE: 緩(ゆる)やかな坂道を登って行きます。 もうすぐ本丸跡です。



写真EF: 小林城の本丸跡に着きました。 まわりに遊歩道があります。 本丸跡は雑木林(ぞうきばやし)になっています。



写真EG: 本丸跡の周囲は崖(がけ)になっています。 ロープが安全のために張(は)ってあります。



写真EH: 小林城の本丸跡の遊歩道を進みます。



写真EI: この奥は崖(がけ)になっています。



写真EJ: 本丸跡のまわりの木です。



写真EK: 本丸跡のまわりに遊歩道があります。



写真EL: 右にテレビ共同受信アンテナのコンクリートの柱が見えます。 山陰(か)げで電波が弱い所にこのアンテナからケーブルで配(くば)っているものと思われます。



写真EM: 宮崎県 小林市 真方 下の馬場にある小林城の「本丸跡 (ほんまるあと)」です。 中央にベンチ、右にテレビの受信アンテナのポールがあります。
 「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方 字下ノ馬場 にあります。
 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板から、
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。

 小林城跡は市指定史跡です。 別名は三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城です。 伊東48城の一つです。 これとは別に、北原 氏の居城であった小林市 細野 城山、鳥居元にある吉富城(亀固城)もはじめは三ツ山城と呼ばれていたという説もあります。 小林城跡のまわりとの標高差は約40 m です。 南側に主郭(しゅかく)があります。 北東側に3段の平らな所があります。 本丸跡、曲輪(くるわ、平らな所)、空堀(からぼり)、土塁(どるい)が残っています。 小林城は東、北、西に石氷川(岩瀬川)がU字型に曲がって流れていて、自然の堀となっています。 南側は急な斜面で城山は独立峰となっています。 築城ははっきりしませんが、応永年間(1394年〜1428年)に北原 氏が造りました。 1561年(永禄4年)に伊東義祐が落城させ、米良重方(筑後守)を城主としました。 1566年(永禄9年)に島津義久と島津義弘、島津歳久が攻撃しましたが、米良重方(筑後守)は城に籠(こも)って島津を撃退しました。 このとき、城の水の手口(東側)から城を攻めていた島津義弘は負傷しました。 「水の手」は城での用水を取る所の呼び名が地名になったものです。 島津義久は城の下の馬場(西側)、島津歳久は城の南側から城を攻めました。 米良重方(筑後守)は須木城や三ツ山城の城主(三ツ山地頭)で、1572年(元亀3年)、えびの市の木崎原の戦いで伊東軍の殿(しんがり、軍を引き上げる時に最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。)軍となり戦死しました。 1576年(天正4年)に島津の城となり、川上忠兄(島津の家臣)が城主となりました。
 小林城の城主は米良重方(米良筑後守、伊東の家臣)、伊東勘解由、川上忠兄(島津の家臣)などです。
三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 明治の初め頃までは小林郷の各区から集まって小林城で毎年、郷土舞踊「輪太鼓踊り」の競演が行われていました。 これが伝承されて現在の小林市の「輪太鼓踊り」となりました。
 小林麓(ふもと)は地頭仮屋を中心とした地域で、小林城跡の近くです。 小林麓には武家門、西郷どんの道、江戸時代の藩校「文行堂」跡などがあります。



写真EN: 小林城 本丸跡に設置してあるテレビの受信アンテナです。 左にベンチも見えます。



写真EO: 小林城 本丸跡に設置してあるテレビの受信アンテナ。



写真EP: 小林城 本丸跡から西を見たもの。



写真EQ: 小林城 本丸跡から西を見た景色です。 田んぼ、人家、山、携帯電話の基地局アンテナなどが見えます。



写真ER: 小林城 本丸跡にあるベンチです。



写真ES: 本丸跡にあるテレビ受信アンテナのポールと電気関係の機器が入っている箱です。



写真ET: 小林市にある小林城の本丸跡です。



写真EU: 桜の切り株(かぶ)から芽が出て育っていました。 本丸跡。 左下はベンチです。



写真EV: 小林城の本丸跡です。 いろいろな木が茂(しげ)っています。



写真EW: 小林城跡です。



写真EX: 左はテレビ受信アンテナのポールです。 小林城跡。



写真EY: 本丸跡には竹林もあります。



写真EZ: 小林城 本丸跡の竹の間から霧島連山の高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えています。
南西を見たもの。



写真FA: 本丸跡の周囲には遊歩道があります。 右は崖で安全のためにロープが張ってあります。



写真FB: 本丸跡はこのように木が茂っています。



写真FC: 本丸跡の木を見上げたものです。



写真FD: 本丸跡の遊歩道です。 右は崖になっています。



写真FE: 小林城 本丸跡を歩きます。



写真FF: 小林城 本丸跡の地面の様子(ようす)です。



写真FG: 木が折れて倒(たお)れています。 小林城 本丸跡。



写真FH: 木の間から南の下方の景色が見えます。 本丸跡。



写真FI: 本丸跡の遊歩道です。



写真FJ: 本丸跡の木の中部です。



写真FK: 本丸跡の木の上部です。



写真FL: 周囲の遊歩道から本丸跡の中心部を見たものです。 いろいろな種類の木があります。 雑木林(ぞうきばやし)になっています。



写真FM: 木の「はりぎり」と書いてあります。 まわりにハリ桐(ぎり)の葉が落ちています。 この幹(みき)にも緑色の小さい葉の植物が張り付いて育っていました。



写真FN: 「ハリギリの葉」が地面に落ちていました。



写真FO: 小林城 本丸跡。



写真FP: 本丸跡のハリギリの上部です。



写真FQ: ハリギリの中部です。



写真FR: 本丸跡の遊歩道を歩いていきます。



写真FS: 小林城 本丸跡です。



写真FT: 本丸跡。



写真FU: 小林城 本丸跡の中心部を見たものです。 このようになっています。



写真FV: 小林城跡です。



写真FW: 小林城 本丸跡の遊歩道です。



写真FX: 本丸跡の遊歩道です。 ロープも見えます。



写真FY: 自然に育った栗(くり)の実と栗のイガが落ちていました。 小林城 本丸跡。



写真FZ: 小林城 本丸跡にあったクリの実とイガです。



写真GA: 本丸跡のまわりに遊歩道が続いています。 右は南の崖(がけ)です。


写真GB: 本丸跡の遊歩道です。



写真GC: 本丸跡の様子(ようす)です。



写真GD: 本丸跡には笹(ささ)もあります。



写真GE: 本丸跡にある篠(しの、小さめの竹)です。



写真GF: 小林城 本丸跡の雑木林の中はこのようになっています。



写真GG: 小林城 本丸跡の雑木林の中です。



写真GH: 本丸跡の雑木林です。



写真GI: 篠(しの、小さい細い竹)が生(は)えています。



写真GJ: 小林城 本丸跡の篠(しの、小さい細い竹)です。



写真GK: 本丸跡の雑木林の中の様子(ようす)です。



写真GL: 小林城 本丸跡です。



写真GM: 本丸跡。



写真GN: 左は崖(がけ)になっています。



写真GO: 木のアオキの葉が見えます。



写真GP: 小林城 本丸跡です。



写真GQ: ドングリと落ち葉が見えます。 小林市にある小林城 本丸跡。



写真GR: 落ち葉がたくさんあります。



写真GS: 本丸跡にあるテレビ受信アンテナのポール、ベンチのところです。



写真GT: 小林城 本丸跡にあるテレビ受信アンテナの所に戻って来ました。



写真GU: 野草の「キランソウの花」が咲いていました。 小林城 本丸跡。



写真GV: 「キランソウの花」が咲いていました。 小林城 本丸跡。



写真GW: 切り株(かぶ)から新しい芽が出ています。 本丸跡。



写真GX: 先ほど登ってきた道を下(くだ)ります。 緑色の小さい葉の植物が張り付いて育っている木の所に戻って来ました。



写真GY: 先ほどの遊歩道を下(くだ)ります。



写真GZ: 杉の木のそばの遊歩道のところに戻って来ました。



写真HA: 西の景色が木の葉の間に見えます。



写真HB: 先ほどの「大手門、空堀跡」の道標の所に戻って来ました。



写真HC: 今度ははじめの2股(また)の遊歩道を別のコースに進みます。



写真HD: 下(くだ)って行くと平らな所に出ます。



写真HE: 杉の木が植えてあります。



写真HF: 杉の木の中部です。



写真HG: 杉の木の上部です。 手前に別の種類の木の枝があります。



写真HH: 遊歩道の右手の様子(ようす)です。



写真HI: 遊歩道の近くの様子です。



写真HJ: ここは平らな所になっています。



写真HK: 黄色に黄葉した木の葉が落ちていました。



写真HL: 遊歩道が続いています。



写真HM: この左右は小林城跡の「土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さなとりでの事。)」が残っています。 中央は遊歩道です。



写真HN: 小林城跡にある土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さなとりでの事。)です。



写真HO: こちらも土塁です。 小林城跡。



写真HP: 小林城跡の様子(ようす)です。



写真HQ: 「空堀跡(からぼりあと)へ」と書いてあります。



写真HR: 来た道を振り返ったもの。 土塁が見えます。



写真HS: 振り返ったもの。 土塁が見えます。



写真HT: 杉の木の奥に孟宗竹(もうそうだけ)が見えます。 小林城跡の遊歩道です。



写真HU: 小林城跡の孟宗竹の竹林です。 この左は空堀(からぼり、水のない堀(ほり))が残っています。



写真HV: 小林城跡にある見事な孟宗竹(もうそうだけ)です。



写真HW: 孟宗竹(もうそうだけ)の上部です。



写真HX: この竹林の左手は空堀(からぼり)になっています。 小林城跡の遊歩道。



写真HY: 孟宗竹(もうそうだけ)の葉が落ちています。



写真HZ: 孟宗竹(もうそうだけ)のそばを遊歩道が通っています。 小林城跡。



写真IA: 遊歩道の近くの様子(ようす)です。 小林城跡。



写真IB: 小林城跡はこのようになっています。



写真IC: 杉の木と孟宗竹(もうそうだけ)が見えます。
 「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方 字下ノ馬場 にあります。
 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板から、
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。

 小林城跡は市指定史跡です。 別名は三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城です。 伊東48城の一つです。 これとは別に、北原 氏の居城であった小林市 細野 城山、鳥居元にある吉富城(亀固城)もはじめは三ツ山城と呼ばれていたという説もあります。 小林城跡のまわりとの標高差は約40 m です。 南側に主郭(しゅかく)があります。 北東側に3段の平らな所があります。 本丸跡、曲輪(くるわ、平らな所)、空堀(からぼり)、土塁(どるい)が残っています。 小林城は東、北、西に石氷川(岩瀬川)がU字型に曲がって流れていて、自然の堀となっています。 南側は急な斜面で城山は独立峰となっています。 築城ははっきりしませんが、応永年間(1394年〜1428年)に北原 氏が造りました。 1561年(永禄4年)に伊東義祐が落城させ、米良重方(筑後守)を城主としました。 1566年(永禄9年)に島津義久と島津義弘、島津歳久が攻撃しましたが、米良重方(筑後守)は城に籠(こも)って島津を撃退しました。 このとき、城の水の手口(東側)から城を攻めていた島津義弘は負傷しました。 「水の手」は城での用水を取る所の呼び名が地名になったものです。 島津義久は城の下の馬場(西側)、島津歳久は城の南側から城を攻めました。 米良重方(筑後守)は須木城や三ツ山城の城主(三ツ山地頭)で、1572年(元亀3年)、えびの市の木崎原の戦いで伊東軍の殿(しんがり、軍を引き上げる時に最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。)軍となり戦死しました。 1576年(天正4年)に島津の城となり、川上忠兄(島津の家臣)が城主となりました。
 小林城の城主は米良重方(米良筑後守、伊東の家臣)、伊東勘解由、川上忠兄(島津の家臣)などです。
三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 明治の初め頃までは小林郷の各区から集まって小林城で毎年、郷土舞踊「輪太鼓踊り」の競演が行われていました。 これが伝承されて現在の小林市の「輪太鼓踊り」となりました。
 小林麓(ふもと)は地頭仮屋を中心とした地域で、小林城跡の近くです。 小林麓には武家門、西郷どんの道、江戸時代の藩校「文行堂」跡などがあります。



写真ID: 孟宗竹(もうそうだけ)のそばの遊歩道です。 振り返ったもの。



写真IE: 孟宗竹(もうそうだけ)の竹林のところは「空堀跡 (からぼりあと)」です。 深い空堀が見えています。 小林市にある小林城跡。



写真IF: 深い空堀(からぼり)とその奥の高い所が見えています。 小林城跡にある空堀です。



写真IG: 小林市にある小林城跡の「空堀(からぼり)」が見えています。



写真IH: 空堀(からぼり)の近くの遊歩道です。



写真II: 空堀の近くの様子(ようす)です。



写真IJ: 遊歩道に深い穴があります。 棒(ぼう)が立ててあります。



写真IK: 緑色のアオキの木の葉が見えます。



写真IL: 小林市にある小林城跡です。



写真IM: 「コブシ」と木の名前が書いてあります。 緑色の小さな葉の植物が幹(みき)に張り付いて育っていました。



写真IN: コブシの中部です。



写真IO: 小林城跡の遊歩道です。 左に黄色と黒の通称「虎(とら)ロープ」が張(は)ってあります。



写真IP: 「あらかし」と木の名前が書いてあります。



写真IQ: アラカシの中部です。



写真IR: 左手は崖(がけ)になっています。 小林城跡の遊歩道です。



写真IS: 木の間から太陽が遊歩道を照(て)らしています。



写真IT: 小林城跡の遊歩道。



写真IU: 奥のほうが高くなっています。



写真IV: ここは登り階段が造ってあります。



写真IW: ここは本丸跡と思われます。



写真IX: 本丸跡の様子(ようす)です。



写真IY: 小林城 本丸跡です。



写真IZ: 本丸跡です。



写真JA: 先ほどの本丸跡にある栗(くり)のイガとクリの実が多く落ちています。



写真JB: 地面の様子です。



写真JC: このあたりは初めに通った本丸跡の遊歩道です。 城跡を遊歩道は一回りして、本丸跡に戻(もど)って来ました。 小林城跡。



写真JD: 本丸跡の遊歩道です。



写真JE: はじめに見たテレビ受信アンテナとポールの所に出ました。 小林城の本丸跡。



写真JF: 桜の切り株(かぶ)から小枝が伸びています。 左はベンチです。 本丸跡。



写真JG: はじめの、遊歩道が2股(また)に分かれる所に戻(もど)って来ました。 手前は杉の木です。 小林城跡。



写真JH: 「大手門、空堀跡」の道標の所に戻って来ました。



写真JI: 土石流を防ぐコンクリートの壁が見えてきました。 小林城跡の遊歩道。



写真JJ: 下って来て三叉路(さんさろ)の所に戻って来ました。 右にミラーがあります。 小林城跡への登城路です。
ここで左(南)に曲がります。



写真JK: 三叉路(さんさろ)を南に曲がると牛舎が見えます。 小林城跡の近くです。



写真JL: 和牛が元気に育っていました。



写真JM: 「佐藤製麺所」の看板(かんばん)があります。



写真JN: 丸っこい石で出来た石垣(いしがき)があります。



写真JO: 門があります。 以前は武家門があったのかもしれません。



写真JP: 武家門のような門と屋敷(もと武家屋敷かもしれません。)、道路です。 ここは小林市 真方(まがた)で、小林城跡の近くです。



写真JQ: 丸っこい石で出来た石垣(いしがき)があります。



写真JR: 脇道(わきみち)もあります。



写真JS: 小林城跡の近くの様子です。



写真JT: ここで道路は左(東)に曲がります。 ミラーが見えます。



写真JU: 来た道を振り返ったもの。



写真JV: 東を見た景色です。 刈り取った稲を束(たば)ねて田んぼに並べてあります。 小山が見えます。



写真JW: 左の山が小林城跡 (城山公園)の城山です。



写真JX: 城山の手前に熟(う)れた柿の実が鈴なりになっています。
 「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方 字下ノ馬場 にあります。
 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板から、
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。

 小林城跡は市指定史跡です。 別名は三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城です。 伊東48城の一つです。 これとは別に、北原 氏の居城であった小林市 細野 城山、鳥居元にある吉富城(亀固城)もはじめは三ツ山城と呼ばれていたという説もあります。 小林城跡のまわりとの標高差は約40 m です。 南側に主郭(しゅかく)があります。 北東側に3段の平らな所があります。 本丸跡、曲輪(くるわ、平らな所)、空堀(からぼり)、土塁(どるい)が残っています。 小林城は東、北、西に石氷川(岩瀬川)がU字型に曲がって流れていて、自然の堀となっています。 南側は急な斜面で城山は独立峰となっています。 築城ははっきりしませんが、応永年間(1394年〜1428年)に北原 氏が造りました。 1561年(永禄4年)に伊東義祐が落城させ、米良重方(筑後守)を城主としました。 1566年(永禄9年)に島津義久と島津義弘、島津歳久が攻撃しましたが、米良重方(筑後守)は城に籠(こも)って島津を撃退しました。 このとき、城の水の手口(東側)から城を攻めていた島津義弘は負傷しました。 「水の手」は城での用水を取る所の呼び名が地名になったものです。 島津義久は城の下の馬場(西側)、島津歳久は城の南側から城を攻めました。 米良重方(筑後守)は須木城や三ツ山城の城主(三ツ山地頭)で、1572年(元亀3年)、えびの市の木崎原の戦いで伊東軍の殿(しんがり、軍を引き上げる時に最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。)軍となり戦死しました。 1576年(天正4年)に島津の城となり、川上忠兄(島津の家臣)が城主となりました。
 小林城の城主は米良重方(米良筑後守、伊東の家臣)、伊東勘解由、川上忠兄(島津の家臣)などです。
三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 明治の初め頃までは小林郷の各区から集まって小林城で毎年、郷土舞踊「輪太鼓踊り」の競演が行われていました。 これが伝承されて現在の小林市の「輪太鼓踊り」となりました。
 小林麓(ふもと)は地頭仮屋を中心とした地域で、小林城跡の近くです。 小林麓には武家門、西郷どんの道、江戸時代の藩校「文行堂」跡などがあります。



写真JY: 左奥の道から来ました。 右上は小林城跡の城山です。



写真JZ: 曲がり角の近くです。



写真KA: 色付いた柿の実が多く見えます。



写真KB: 刈り取った田んぼが見えます。



写真KC: 刈り取った稲を束(たば)ねて田んぼに並べてあります。



写真KD: 刈り取った田んぼも美しい。 この田んぼは小林城跡の高台(曲輪)から見えていました。 まわりは住宅地になっています。



写真KE: 小林城跡の城山です。
 「小林城跡(三ツ山城跡、三ノ山城跡、三山城跡、宇賀城跡)」は宮崎県 小林市 大字真方 字下ノ馬場 にあります。
 「小林城の由来(ゆらい)」の説明板から、
 小林城は、永禄(えいろく)9年(1566年)9月に伊東義祐(よしすけ)が島津氏に備(そな)えて築いたものといわれています。
 伊東氏はこの城を拠り所(よりどころ)に島津義弘が守る飯野城を攻めようと計画しました。 これを事前に知った島津軍は同年10月26日にここを先制攻撃しました。 戦いは、城の壕は死体で埋(う)まり、200頭もの牛馬が焼き殺されるという大激戦となりました。
 伊東軍は良く守り、また須木からの援軍を得、ついに島津軍を退(しりぞ)けました。
 その後、天正4年(1576年)に伊東氏が高原城を攻略されてからは島津氏の領有となりました。

 小林城跡は市指定史跡です。 別名は三ツ山城、三ノ山城、三山城、宇賀城です。 伊東48城の一つです。 これとは別に、北原 氏の居城であった小林市 細野 城山、鳥居元にある吉富城(亀固城)もはじめは三ツ山城と呼ばれていたという説もあります。 小林城跡のまわりとの標高差は約40 m です。 南側に主郭(しゅかく)があります。 北東側に3段の平らな所があります。 本丸跡、曲輪(くるわ、平らな所)、空堀(からぼり)、土塁(どるい)が残っています。 小林城は東、北、西に石氷川(岩瀬川)がU字型に曲がって流れていて、自然の堀となっています。 南側は急な斜面で城山は独立峰となっています。 築城ははっきりしませんが、応永年間(1394年〜1428年)に北原 氏が造りました。 1561年(永禄4年)に伊東義祐が落城させ、米良重方(筑後守)を城主としました。 1566年(永禄9年)に島津義久と島津義弘、島津歳久が攻撃しましたが、米良重方(筑後守)は城に籠(こも)って島津を撃退しました。 このとき、城の水の手口(東側)から城を攻めていた島津義弘は負傷しました。 「水の手」は城での用水を取る所の呼び名が地名になったものです。 島津義久は城の下の馬場(西側)、島津歳久は城の南側から城を攻めました。 米良重方(筑後守)は須木城や三ツ山城の城主(三ツ山地頭)で、1572年(元亀3年)、えびの市の木崎原の戦いで伊東軍の殿(しんがり、軍を引き上げる時に最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。)軍となり戦死しました。 1576年(天正4年)に島津の城となり、川上忠兄(島津の家臣)が城主となりました。
 小林城の城主は米良重方(米良筑後守、伊東の家臣)、伊東勘解由、川上忠兄(島津の家臣)などです。
三ツ山城 (三山城、小林城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 明治の初め頃までは小林郷の各区から集まって小林城で毎年、郷土舞踊「輪太鼓踊り」の競演が行われていました。 これが伝承されて現在の小林市の「輪太鼓踊り」となりました。
 小林麓(ふもと)は地頭仮屋を中心とした地域で、小林城跡の近くです。 小林麓には武家門、西郷どんの道、江戸時代の藩校「文行堂」跡などがあります。



写真KF: 小林城跡の城山。



写真KG: 下に、先ほどの小林城跡の曲輪(くるわ、平らな所)にあるシラスの崖(がけ)が見えます。



写真KH: この田んぼは小林城跡の高台(曲輪)から見えました。



写真KI: このように藁(わら)が束(たば)ねてあります。



写真KJ: 東に進みます。 左は小林城跡の城山です。 孟宗竹(もうそうだけ)が見えます。



写真KK: 城山に孟宗竹(モウソウダケ)の竹林が見えます。



写真KL: 北を見たもの。 小林城跡の城山です。



写真KM: 野草であるセイタカアワダチソウの黄色の花が見えています。



写真KN: 来た道を振り返ったもの。 左は田んぼです。



写真KO: 小林城跡の山城の南側を進みます。 東を見たもの。



写真KP: 山城の崖(がけ)です。 北を見たもの。



写真KQ: 北を見たもの。 ここに細い道があるのかもしれません。



写真KR: 道路の南側に小川が流れています。



写真KS: 小林城跡の南沿(ぞ)いの道を東に進みます。 右は小川です。



写真KT: 小林城の城山です。 南から見たもの。 崖(がけ)が見えます。
1566年(永禄9年)に伊東の城であった小林城を島津が攻めた時には、このあたりの城の南側からは島津歳久が攻撃しました。



写真KU: 奥は城山です。 北を見たもの。



写真KV: 左は人家、右は小川が流れています。



写真KW: ケイトウの赤い花が咲いていました。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。 東を見たもの。



写真KX: 左奥に実った稲が見えます。 三叉路の所から南を見た景色です。



写真KY: 南東を見た景色です。 稲が色づいていました。



写真KZ: 東に進みます。



写真LA: 小川と橋です。



写真LB: 小林城跡の南側の様子(ようす)です。



写真LC: 左にモウソウダケの竹林があります。



写真LD: 城山の下の様子です。 モウソウダケの竹林が見えます。 このあたりは道が北へ向かいます。



写真LE: 城山の崖(がけ)が見えます。



写真LF: 城山を下から見たものです。



写真LG: さらに道を北に進みます。 奥に国道265号線が通っています。 国道は城山のところで直角に曲がっています。



写真LH: うどん・そば屋さん「ひむか」があります。 国道265号線沿(ぞ)いです。 南を見たもの。 奥は小林城跡の城山です。



写真LI: 「ひむか」と壁に書いてあります。 「釜揚うどん 釜揚そば ひむか」と暖簾(のれん)に書いてあります。



写真LJ: 北東を見た景色です。 国道265号線の「水の手橋」が見えます。



写真LK: 北を見たもの。



写真LL: 北西を見たもの。 国道265号線。



写真LM: 西を見た景色です。 左は小林城跡の城山です。 「うどん」の看板(かんばん)が見えます。



写真LN: 南西を見た景色です。 城山が見えます。



写真LO: 来た道を振り返ったもの。 右はうどん屋さんです。 手前は国道265号線。
1566年(永禄9年)に伊東の城であった小林城を島津が攻めた時には、この水の手口(城の東側)からは島津義弘が攻撃しました。 そのときに島津義久は負傷しました。



写真LP: 南を見たもの。 右は来た道です。



写真LQ: 「ムラサキシキブの実」が付いていました。



写真LR: うどん屋さんの角(かど)です。



写真LS: 北を見たもの。



写真LT: バス停「水の手橋」、「西郷どんの道」の標柱、「西郷(隆盛)どんの道」の説明板などが見えます。



写真LU: バス停「水の手橋 小林市コミュニティバス」があります。 奥に歴史の道の標柱と説明板が見えます。



写真LV: 「西郷どんの道 歴史の道」の標柱と説明板が国道265号線にあります。 奥は小林城跡の城山です。



写真LW: 小林城跡 城山の北の崖(がけ)です。 国道265号線に「西郷どんの道 歴史の道」の標柱と説明板があります。



写真LX: 小林城跡に近い国道265号線にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。 これは小林城跡に上る前に見たものと同様なものと思われます。



写真LY: 小林城跡に近い国道265号線にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。 これは小林城跡に上る前に見たものと同様なものと思われます。



写真LZ: 小林城跡に近い国道265号線にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。 これは小林城跡に上る前に見たものと同様なものと思われます。



写真MA: 「西郷(隆盛)どんの道」の説明板があります。
 明治維新により新しい政府が生まれましたが、日本の進路をめぐる意見の対立から、明治政府と西郷支持者の間で、西南戦争(1877年)が起こりました。
 田原坂(熊本県 植木町)で、政府軍に敗(やぶ)れた西郷軍は、小林を2回通って退却していますが、2回目に延岡から高千穂・西米良・須木を経由(けいゆ)して、1877年(明治10年)8月28日 この地を通過し鹿児島へ帰りました。
 旧鹿児島藩に属した小林からも多くの人が西郷軍について参加しました。
 小林には、今も薩摩弁(さつまべん)をはじめ薩摩文化の名残(なご)りが、たくさん伝わっています。
真方一区 まがた城山会
と書かれています。



写真MB: 説明板の下の方です。



写真MC: 国道265号線です。 東方向を見たもの。 西郷隆盛が西南戦争で西郷軍を解散した後に、延岡、高千穂、西米良、須木を経(へ)て鹿児島の城山に帰る時にこの道を通りました(西郷どんの道)



写真MD: 西を見たもの。 西郷どんの道です。 この道を先に進んで鹿児島へ西郷隆盛らは帰りました。 国道265号線。



写真ME: 小林城跡 城山の裾(すそ)を国道265号線は通っています。



写真MF: 国道265号線から見た小林城跡です。 南を見たものです。



写真MG: 城山の下を通っている国道265号線。 「真方地区の文化財」の説明板と「小林城跡 永禄9年 伊東義祐 築城、小林市教育委員会」の標柱が城山の下にあります。 道路標識も見えます。 国道265号線。



写真MH: 国道265号線沿(ぞ)いです。



写真MI: 「真方地区の文化財」の説明板と「小林城跡 永禄9年 伊東義祐 築城、小林市教育委員会」の標柱が城山の下にあります。



写真MJ: 「真方地区の文化財」の説明板と「小林城跡 永禄9年 伊東義祐 築城、小林市教育委員会」の標柱が城山の下にあります。



写真MK: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真ML: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真MM: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真MN: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真MO: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真MP: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真MQ: 「真方地区の文化財」の説明板です。
小林城跡: 戦国時代末期、伊東義祐が島津氏に対抗して築城。 元和元年(1615年)に廃城。
文行堂跡: 江戸時代の藩校跡
地頭仮屋跡: 江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所であったが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。
伊東塚: 木崎原の戦い(1572年)で島津軍に敗れた伊東軍の将兵が葬(ほうむ)られている(県指定史跡)。
有楽椿(うらくつばき): 市指定天然記念物
小林城関連の地名: 上の馬場、下の馬場、向江馬場、水の手など
小林市街へ、小林高校、伊東塚、上の馬場、地頭仮屋跡、下の馬場、文行堂跡、小林城跡、大手橋、向江馬場、水の手、有楽椿、国道265号線、石氷川(いしごおりがわ)、真方地区体育館、須木村へ、などが載っている地図も載っています。
平成10年3月31日 小林市教育委員会
◯「わ」伝心小林
よか人 よかまち よか自然 小林市
と書かれています。



写真MR: 「小林城跡 永禄9年 伊東義祐 築城、小林市教育委員会」と書いてある標柱もそばにあります。



写真MS: 「小林城跡 永禄9年 伊東義祐 築城、小林市教育委員会」と書いてある標柱。



写真MT: 「小林城跡 永禄9年 伊東義祐 築城、小林市教育委員会」と書いてある標柱もそばにあります。



写真MU: 小林城跡 城山の下を通っている国道265号線。



写真MV: 小林城跡 城山の様子(ようす)です。 北から見たもの。



写真MW: 飲料水の自動販売機が見えます。



写真MX: 小林城跡の北側はこのように見えます。



写真MY: 小林城跡を北から見たもの。 モウソウダケも見えます。



写真MZ: 来た道を振り返ったもの。



写真NA: 小林城跡と国道265号線。



写真NB: 「コカ・コーラ ゼロ」を飲みました。



写真NC: 城山のそばに家が見えます。 国道265号線。



写真ND: 左端は小林城跡です。



写真NE: 小林城跡のそばに日蓮正宗 実報寺があります。 国道265号線沿いです。
「実報寺」は宮崎県 小林市 大字真方 793-1 にあります。 1973年(昭和48年)12月17日に建立されました。 開基(かいき)は日蓮正宗 大石寺 第66世法主 日達上人です。



写真NF: 宮崎県 小林市 真方にある日蓮正宗 実報寺の中です。 右にソテツの木があります。



写真NG: 「日蓮正宗 実報寺」と書いてある石碑(せきひ)があります。 山門に「本因山」と書いてあります。
山門の中に松の木が見えます。 石灯籠(いしどうろう)もいくつか見えます。
「実報寺」は宮崎県 小林市 大字真方 793-1 にあります。 1973年(昭和48年)12月17日に建立されました。 開基(かいき)は日蓮正宗 大石寺 第66世法主 日達上人です。



写真NH: 日蓮正宗 実報寺。



写真NI: 「御聖訓 妙とは 蘇生(そせい)の義なり (法華題目抄)」と書いてあります。



写真NJ: 日蓮正宗 実報寺から見た小林城跡です。



写真NK: 来た道を振り返ったもの。 右は小林城跡。



写真NL: 左は日蓮正宗 実報寺。



写真NM: 実報寺、国道265号線、小林城跡が見えます。



写真NN: 右は実報寺です。 国道265号線を先に行くと小林城跡の登城口、大手橋、小林市の中心部に行きます。



写真NO: 右から霧島連山の甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)の一部、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)が見えます。



写真NP: 「日蓮正宗 実報寺」の看板(かんばん)が国道265号線にあります。
「実報寺」は宮崎県 小林市 大字真方 793-1 にあります。 1973年(昭和48年)12月17日に建立されました。 開基(かいき)は日蓮正宗 大石寺 第66世法主 日達上人です。



写真NQ: 日蓮正宗 実報寺の建物です。



写真NR: 国道265号線の道路標識があります。



写真NS: 「↑国道265号線 小林市街、→県道410号線 ひばり野 岡原」と書いてあります。



写真NT: 国道265号線のそばに石氷川(いしごおりがわ)流れています。 この石氷川がU字型に曲がっていて、その中心に小林城跡があります。



写真NU: 石氷川(いしごおりがわ)と大手橋が見えます。 
右から霧島連山の甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えます。



写真NV: 石氷川(いしごおりがわ)にかかっている大手橋(昭和38年7月 竣工)の先に、右から霧島連山の甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)の一部、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えます。



写真NW: 左に小林城跡の登城口、右に大手橋が見えます。 国道265号線。



写真NX: 国道265号線の大手橋 交差点です。



写真NY: はじめに通った小林城跡の登城口、登城路が見えます。
「←国道265号線 須木、→国道265号線 小林市街」と書いてあります。
1566年(永禄9年)に伊東の城であった小林城を島津が攻めた時には、このあたり、下の馬場(城の南側)からは島津義久が攻撃しました。



写真NZ: 小林城跡 登城口のそばはこのようにコンクリートの壁があります。 右に登城口があります。



写真OA: 来た道を振り返ったもの。



写真OB: 小林城跡の石氷川(いしごおりがわ)と大手橋です。



写真OC: 大手橋の歩道です。



写真OD: 大手橋 交差点です。



写真OE: 「大手橋」と書いてあります。



写真OF: 橋に「大手橋」と書いてあります。



写真OG: 「昭和38年7月 竣工」と大手橋に書いてあります。



写真OH: 石氷川(いしごおりがわ)を大手橋から見たもの。 南を見た景色です。



写真OI: 県道410号線にある大手橋(昭和38年7月 竣工)です。 先に行くと向江馬場があります。 西を見たもの。 奥に小山が見えます。



写真OJ: 大手橋に「石氷川」と書いてあります。



写真OK: 大手橋に「おおてはし」と書いてあります。



写真OL: 石氷川(いしごおりがわ)を大手橋から見たものです。 手前は欄干(らんかん)です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)