伊東塚、地頭仮屋跡、文行堂跡(藩校跡)、小林麓 (ふもと)、西郷どんの道 (西郷隆盛の道) (伊東加賀守の五輪塔、伊東又二郎の墓、伊東新次郎の墓、大手橋、石氷川、真方簡易郵便局、愛宕神社 (あたごじんじゃ)、小林高等学校 (小林高校)、小林昭和幼稚園、小林城跡、小林盆地、霧島山、霧島連山、霧島山系、霧島連山の展望、高千穂峰の展望、九州中央山地)  (宮崎県 小林市 真方)







<標高、位置>  藩校「文行堂 跡」は
標高 約190 m
 北緯32度00分03秒  東経130度58分51秒

<標高、位置>  地頭仮屋 跡は
標高 約190 m
 北緯31度59分59秒  東経130度58分53秒

<標高、位置>  伊東塚は
標高 約210 m
 北緯31度59分56秒  東経130度58分29秒

<標高、位置>  県立 小林高等学校 (小林高校)は
標高 約210 m
 北緯31度59分53秒  東経130度58分26秒

<標高、位置>  愛宕神社 (あたごじんじゃ)は
標高 215 m
 北緯31度59分48秒  東経130度58分51秒

<標高、位置>  大手橋は
標高 約180 m
 北緯32度00分10秒  東経130度58分57秒

<標高、位置>  小林城跡 (三ツ山城跡、三ノ城跡、三山城跡、宇賀城跡)のある城山公園は
標高 223 m
 北緯32度00分08秒  東経130度59分05秒

<標高、位置>  小林城跡 (城山公園)の登城口は
標高 約180 m
 北緯32度00分09秒  東経130度58分58秒


 「伊東塚 (いとうづか)」は宮崎県 小林市 大字真方 字上ノ馬場 160-2 にあります。
「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版から、
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守(伊東側の大将でした。)など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守(伊東側の大将でした。)たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。

 「伊東塚」は伊東側が造りました。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いから三ツ山城(後の小林城)が島津の所有になった天正4年(1576年)までの4年間はこのあたりは伊東の領地でした。 また、慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守(伊東側の大将でした。)たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 今の伊東塚のところには昌寿寺がありましたが、明治のはじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 すべて供養塔なので、下には遺体はありません。 しかし、米良重方(筑後守、三ツ山城主でした。)だけは須木城下の米良家の菩提寺(ぼだいじ)である一麟寺(現在は廃寺になっています。)に首が島津義弘から返されたので、そこに弔(とむ)われています。 一方、[島津義弘が伊東方の名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市、県指定史跡)へ葬(ほおむ)られた。 その他の首はえびの市にある首塚に埋(う)められ供養されている。]という説もあります。

 宮崎県 えびの市にある「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板から、
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。

 「地頭仮屋 跡」は 宮崎県 小林市 大字真方 字上の馬場にあります。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。

 「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに小林城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。

 「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。

 「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。


写真A: 国道265号線の大手橋交差点です。 そばに小林城跡の登城口、石氷川にかかっている大手橋があります。 南を見たものです。 先(南)に進むと藩校 文行堂 跡、地頭仮屋跡、伊東塚や小林市の中心部に行きます。 手前(北)に進むと陰陽石、須木のすきむらんど大吊橋などに行きます。



写真B: これが小林城跡の登城口です。 奥の山が小林城跡です。 「小林城跡」の標柱が見えます。 信号の右に「大手橋」と書いてある道路標識があります。



写真C: 登城口の北のところです。



写真D: 北を見た景色です。 国道265号線。



写真E: 石氷川(岩瀬川)と大手橋が見えます。 北西を見たものです。



写真F: 大手橋の歩道の部分です。 左に車道の部分が見えます。 西を見た景色です。



写真G: 交通信号機の右に「大手橋」と書いてあります。



写真H: 橋に「大手橋」と書いてあります。



写真I: 橋に「昭和38年7月竣工」と書いてあります。



写真J: 橋から見た石氷川(岩瀬川)です。 南を見たものです。



写真K: 石氷川(岩瀬川)にかかっている大手橋です。 昭和38年7月に竣工(完成)しました。
これから橋を西に渡ります。



写真L: 大手橋です。



写真M: 「石氷川」と橋に書いてあります。



写真N: 「おおてはし」と書いてあります。 左は大手橋の歩道の部分です。



写真O: 大手橋から見た石氷川(岩瀬川)です。 北を見たもの。



写真P: 橋を西に渡ると、酒まんじゅうなどを売っている店があります。 県道410号線です。



写真Q: ここで道が右に曲がっています。 県道410号線。



写真R: このあたりは向江馬場といわれる地区です。 県道410号線です。 左に元、武家屋敷と思われる敷地があります。 北を見た景色です。



写真S: このあたりは向江馬場という地区です。 西を見たもの。 この石垣(いしがき、野面積み(のづらづみ)の方式で造られています。 野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。)の敷地は元、武家屋敷であったと思われます。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに小林城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。 薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真T: 小林市 大字真方 字向江馬場です。 この石垣は昔は武家屋敷だったのでしょう。



写真U: 向江馬場という地区です。



写真V: 西を見たもの。



写真W: 向江馬場の細い道です。 南を見たものです。



写真X: このあたりは左右に昔は武家屋敷があったと思われます。 西を見たもの。 向江馬場。



写真Y: 大手橋のところに戻(もど)って来ました。 奥(東)に小林城跡の城山が見えます。



写真Z: 大手橋と小林城跡です。



写真AA: 小林城跡のある城山です。



写真AB: 国道265号線から見た小林城跡です。 北東を見たもの。



写真AC: 小林城跡のシラスの崖(がけ)も見えます。 国道265号線から見たもの。



写真AD: 右の茶色の2階建ての奥に小林城跡の城山が見えます。 国道265号線。 北を見た景色です。
国道265号線から西に細い道(旧道)が通っています。 ここを西に進みます。 そうすると藩校「文行堂 跡(あと)」、西郷どんの道、武家屋敷跡などがあります。



写真AE: この旧道を西に進みます。 国道265号線との角(かど)のそばに「うしみず整骨院」があって、良い目印になります。 そうすると藩校「文行堂 跡(あと)」、西郷どんの道、武家屋敷跡などがあります。



写真AF: 旧道沿(ぞ)いに武家屋敷の武家門があります。 西を見たもの。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに小林城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。 薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真AG: 武家門と石垣(いしがき、野面積み(のづらづみ)方式で造られています。 野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。)のある武家屋敷があります。



写真AH: ここで旧道は西向きから南向きに曲がっています。 来た道を振り返ったもの。 ミラーがあります。



写真AI: 武家屋敷と武家門です。



写真AJ: 「西郷どんの道」の標識棒(標柱)が道の西沿(ぞ)いに見えます。 南を見たものです。 しばらく先(南)に行くと右手に藩校「文行堂 跡(あと)があります。



写真AK: 小林城跡に近い国道265号線のそばの旧道にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱です。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。
明治維新により新しい政府が生まれましたが、日本の進路をめぐる意見の対立から、明治政府と西郷支持者の間で、西南戦争(1877年)が起こりました。
 田原坂(熊本県 植木町)で、政府軍に敗(やぶ)れた西郷軍は、小林を2回通って退却していますが、2回目に延岡から高千穂・西米良・須木を経由(けいゆ)して、1877年(明治10年)8月28日 この地を通過し鹿児島へ帰りました。
 旧鹿児島藩に属した小林からも多くの人が西郷軍について参加しました。
 小林には、今も薩摩弁(さつまべん)をはじめ薩摩文化の名残(なご)りが、たくさん伝わっています。



写真AL: 小林城跡に近い国道265号線のそばの旧道にある「西郷どんの道 歴史の道」の標柱。
「西郷どんの道 明治10年8月28日通過、歴史の道 真方1区 まがた城山会 建立」と書いてあります。
明治維新により新しい政府が生まれましたが、日本の進路をめぐる意見の対立から、明治政府と西郷支持者の間で、西南戦争(1877年)が起こりました。
 田原坂(熊本県 植木町)で、政府軍に敗(やぶ)れた西郷軍は、小林を2回通って退却していますが、2回目に延岡から高千穂・西米良・須木を経由(けいゆ)して、1877年(明治10年)8月28日 この地を通過し鹿児島へ帰りました。
 旧鹿児島藩に属した小林からも多くの人が西郷軍について参加しました。
 小林には、今も薩摩弁(さつまべん)をはじめ薩摩文化の名残(なご)りが、たくさん伝わっています。



写真AM: 旧道をさらに先に行く(藩校 文行堂跡を通り過ぎて。)と道のそばに古い石碑(せきひ)があります。 これも歴史的なものと思われます。 碑文(ひぶん)は薄くなっていてよく読めませんでした。



写真AN: 道のそばに古い石碑(せきひ)があります。 これも歴史的なものと思われます。 碑文(ひぶん)は薄くなっていてよく読めませんでした。



写真AO: 石碑の裏側です。



写真AP: 横から見た石碑(せきひ)です。



写真AQ: 宮崎県 小林市にある藩校 文行堂跡です。 生徒数は約35名でした。 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。 ここは旧道より少し高台になっています。 今は2反(たん)(2反は600坪、1980平方メートル)の広さのトウモロコシ畑になっていました。 この標柱は旧道から見えます。



写真AR: 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。 ここは旧道より少し高台になっています。 今は2反(たん)の広さのトウモロコシ畑になっていました。 この標柱は旧道から見えます。
「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。



写真AS: 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。 ここは旧道より少し高台になっています。 今は2反(たん)の広さのトウモロコシ畑になっていました。



写真AT: 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。



写真AU: 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。 ここは旧道より少し高台になっています。 今は2反(たん)の広さのトウモロコシ畑になっていました。 この標柱は旧道から見えます。



写真AV: 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。 ここは旧道より少し高台になっています。 今は2反(たん)の広さのトウモロコシ畑になっていました。 この標柱は旧道から見えます。



写真AW: 「文行堂跡 江戸時代の藩校跡、平成10年3月31日建立、小林市教育委員会管理」と書いた標識棒(標柱)が旧道の西沿いにあります。



写真AX: 右に藩校 文行堂跡の標識棒(標柱)が見えます。 このように藩校跡は旧道より少し高台になっています。 南西を見たもの。
この藩校 文行堂は明治10年の西南戦争のときに焼失しました。



写真AY: 藩校 文行堂跡です。 右にトウモロコシ(とうきび)が見えます。 南西を見たもの。
「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。



写真AZ: 藩校跡は今はトウモロコシ畑(2反(たん)の広さ)などになっています。 西を見たもの。
「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。



写真BA: 藩校 文行堂の跡には古い石垣(いしがき、野面積み(のづらづみ)の方式で造られています。 野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。)が残っていて見えています。
「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。



写真BB: 藩校 文行堂の跡に残っている古い石垣。
「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。



写真BC: 「西郷どんの道」に藩校 文行堂跡は沿(そ)っています。 北を見た景色です。 文行堂は明治10年の西南戦争のときに焼失しました。



写真BD: 北を見たもの。 旧道(西郷どんの道)と藩校跡です。



写真BE: 左の白い建物も藩校 文行堂跡にあります。 東を見たもの。



写真BF: 奥にトウモロコシ畑が見えます。 藩校 文行堂跡です。



写真BG: 藩校跡です。



写真BH: 西を見たもの。



写真BI: 藩校跡です。



写真BJ: 先ほどの藩校 文行堂跡の標柱が見えています。 東を見たもの。



写真BK: 藩校跡から見た先ほどの「藩校 文行堂跡」の標柱。 東を見たもの。



写真BL: 文行堂跡です。
「藩校 文行堂 跡」は宮崎県 小林市 大字真方にあります。
文行堂は江戸時代の藩校です。 生徒数は約35名でした。



写真BM: 文行堂跡です。 北を見たもの。 トウモロコシ畑になっていました。



写真BN: 藩校跡です。 北西を見たもの。



写真BO: 藩校 文行堂跡です。 西を見たもの。



写真BP: 藩校跡。



写真BQ: 藩校跡。 南東を見たもの。



写真BR: 文行堂跡です。 東を見たもの。



写真BS: 藩校 文行堂跡。 北を見たもの。 トウモロコシ畑は2反の広さがあるそうです。



写真BT: 藩校跡。 北を見たもの。



写真BU: 藩校跡の近くです。 道は旧道(西郷どんの道)です。 西を見たもの。



写真BV: 「ヒオウギスイセン」の花が咲いていました。



写真BW: 「オシロイバナの花」が咲いていました。



写真BX: 「キバナコスモスの花」が咲いていました。



写真BY: ここは三叉路(さんさろ)になっています。 右奥に行くと先ほどの古い石碑(せきひ)があります。 西を見たもの。



写真BZ: 旧道(西郷どんの道)沿(ぞ)いに縫製(ほうせい)工場があります。



写真CA: 西郷どんの道(西郷隆盛の道)です。 北を見たもの。



写真CB: 左に藩校 文行堂跡があります。 標識棒(標柱)とトウモロコシ畑が見えます。 北を見たもの。



写真CC: 左は藩校跡です。 北を見たもの。



写真CD: 藩校 文行堂跡にいく旧道と国道265号線の交差点より少し南のところです。 道は国道265号線です。 南を見たものです。
国道265号線沿(ぞ)いの西側に「地頭仮屋跡」があります。
「史跡 地頭仮屋跡、平成17年3月設置、小林市教育委員会」と書いてある標識棒(標柱)があります。



写真CE: 南西を見たもの。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに小林城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。 薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真CF: 国道265号線から西を見ると、少し高くなっていて森があります。 そこが地頭仮屋跡です。



写真CG: 北西を見たものです。



写真CH: 北を見た景色です。 国道265号線です。 この先に藩校 文行堂跡に行く旧道との交差点、小林城跡、須木のすきむらんど大吊橋、西米良村などがあります。



写真CI: 北東を見たもの。 道は国道265号線。



写真CJ: 南東を見た景色です。 道は国道265号線。



写真CK: 南を見たものです。 国道265号線を先に進むと、「伊東塚」に行く道との交差点、小林市の中心部、国道221号線(約1 km 先)に行きます。



写真CL: 「史跡 地頭仮屋跡、平成17年3月設置、小林市教育委員会」と書いてある標識棒(標柱)があります。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。



写真CM: 「史跡 地頭仮屋跡、平成17年3月設置、小林市教育委員会」と書いてある標識棒(標柱)。



写真CN: 「史跡 地頭仮屋跡、平成17年3月設置、小林市教育委員会」と書いてある標識棒(標柱)と国道265号線です。
「地頭仮屋 跡」は 宮崎県 小林市 大字真方 字上の馬場にあります。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。



写真CO: 「史跡 地頭仮屋跡、平成17年3月設置、小林市教育委員会」と書いてある標識棒(標柱)があります。



写真CP: 宮崎県 小林市にある「地頭仮屋跡」です。 ここは少し登り坂になっています。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。



写真CQ: 地頭仮屋跡の高い木です。 西を見たもの。



写真CR: 東を見たもの。 国道265号線が見えます。



写真CS: 北を見たもの。



写真CT: 北西を見たものです。



写真CU: 小林市にある地頭仮屋跡です。 森の中に細い道があります。 西を見たもの。



写真CV: 小林市にある地頭仮屋跡です。 南を見たものです。 里芋(さといも)が見えます。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに小林城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。 薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真CW: 地頭仮屋跡です。 南東を見たもの。 キバナコスモスの花が見えます。



写真CX: 東を見たもの。 国道265号線が見えます。



写真CY: 国道265号線の東に孟宗竹(もうそうだけ)の竹林があります。 東を見たもの。



写真CZ: 「ホトトギスの花」が咲いていました。



写真DA: 小林市にある地頭仮屋跡です。 北を見たもの。 人家があります。



写真DB: 小林市にある地頭仮屋跡。 森になっていてその中に細い道があります。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。



写真DC: 地頭仮屋跡の木を見上げたものです。



写真DD: 小林市にある地頭仮屋跡はこのようになっています。 南を見たものです。
「地頭仮屋 跡」は 宮崎県 小林市 大字真方 字上の馬場にあります。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。



写真DE: 地頭仮屋跡です。
地頭仮屋は江戸時代〜明治4年(1871年)まで小林の治所(役所)でした。 明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。



写真DF: 地頭仮屋跡の様子(ようす)です。



写真DG: 地頭仮屋跡の森です。



写真DH: 左に里芋(さといも)の葉が見えています。 地頭仮屋跡の道です。



写真DI: 国道265号線です。 南を見たものです。 左にバス停「上の馬場 小林市コミュニティバス」が見えます。
先に進むと、「伊東塚」に行く道との交差点、小林市の中心部、国道221号線に行きます。



写真DJ: バス停「上の馬場 小林市コミュニティバス」が国道265号線にあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに小林城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。 薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真DK: 国道265号線の店です。 左は国道265号線。



写真DL: 南を見たものです。 左奥に国道265号線は続いています。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。 ここを右(西)に行っても「伊東塚」、小林高等学校(小林高校)に行くことができます。



写真DM: 国道265号線に「上ノ馬場」と書いてあります。 南を見たものです。



写真DN: さらに国道265号線を南に進みます。



写真DO: 信号機の左に「愛宕神社前(あたごじんじゃまえ)」と書いてあります。



写真DP: 「←宮崎 都城 国道221号線、水俣 人吉 小林I.C 国道221号線→、500 m 先」と書いてある道路標識があります。



写真DQ: 東にコンビニ店があります。 手前は国道265号線。



写真DR: 信号機の左に「仲町」と書いてあります。



写真DS: ガソリン スタンド店、コンビニ店がある交差点から北西に曲がって進みます。 右はガソリン スタンド店のマークです。



写真DT: 花屋さんのある交差点で北に曲がって行くとこの三叉路(さんさろ)に出ます。 「陰陽石 須木 →」の標識が見えます。
ここを左(西)に曲がります。



写真DU: 「陰陽石 須木 →」の標識があります。



写真DV: 西に進みます。



写真DW: 中央に茶色の屋根の体育館が見えてきました。 これが小林高等学校(小林高校)です。 「伊東塚 (いとうづか)」はその北にある墓地の中にあります。



写真DX: ここは三叉路(さんさろ)になっています。 左に霧島連山の一部が見えます。 右の道を奥(西)に進みます。 小林高校の茶色の屋根の体育館が見えています。



写真DY: 中央に小林高校の校舎が見えます。 左は「ふきやま」医院です。 伊東塚は校舎の右(北)にある墓地の中にあります。



写真DZ: 宮崎県 小林市にある小林高等学校の建物です。 その右(北)に「伊東塚」があります。 西を見たもの。



写真EA: 右上に「ふきやま 眼科 耳鼻科」と書いてあります。 小林高校の望遠鏡が入っていると思われる金属製のドーム、校舎もみえます。 奥に霧島連山が見えます。 南西を見たもの。



写真EB: 右は小林高等学校(小林高校)の校舎です。 南を見たもの。



写真EC: 小林高校の校舎です。 南西を見たもの。



写真ED: 右の一般の墓地の中に「伊東塚」があります。 左は小林高校。 西を見たもの。



写真EE: 一般墓地の階段の上に「伊東塚」の説明版、2つの六地蔵塔などが見えます。 北西を見たもの。
「伊東塚 (いとうづか)」は宮崎県 小林市 大字真方 字上ノ馬場 160-2 にあります。



写真EF: まわりは一般の墓地になっています。



写真EG: 伊東塚のそばを車道が通っています。 東を見たもの。 左に施設の看板(かんばん)があります。



写真EH: 伊東塚です。 石灯籠(いしどうろう)、墓、植木も見えます。
「伊東塚 (いとうづか)」は宮崎県 小林市 大字真方 字上ノ馬場 160-2 にあります。



写真EI: 左に六地蔵塔が2つ、「県指定史跡 伊東塚」の説明版、石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)、墓などが見えます。
「伊東塚」は伊東側が造りました。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いから三ツ山城(後の小林城)が島津の所有になった天正4年(1576年)までの4年間はこのあたりは伊東の領地でした。 また、慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 今の伊東塚のところには昌寿寺がありましたが、明治のはじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 すべて供養塔なので、下には遺体はありません。 しかし、米良重方(筑後守、三ツ山城主でした。)だけは須木城下の米良家の菩提寺(ぼだいじ)である一麟寺(現在は廃寺になっています。)に首が島津義弘から返されたので、そこに弔(とむ)われています。 一方、[島津義弘が伊東方の名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市、県指定史跡)へ葬(ほおむ)られた。 その他の首はえびの市にある首塚に埋(う)められ供養されている。]という説もあります。



写真EJ: 右端に説明版、2つの六地蔵塔、水道の蛇口(じゃぐち)があります。 西を見たもの。



写真EK: 墓地の車道側に小林高校の校舎があります。 南西を見たもの。



写真EL: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真EM: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真EN: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真EO: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真EP: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真EQ: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真ER: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真ES: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)」の説明版です。
指定年月日 昭和9年4月17日
 都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治(おさ)めていた伊東義祐 氏は、元亀3年(1572年)5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山(みつのやま、小林)から、飯野上江(えびの市)を経(へ)て、島津 氏 家臣の守る加久藤城を攻めさせました。 ところが、思わぬ抵抗に遭(あ)い、伊東軍は木崎原(えびの市 飯野)に退却しました。
 飯野城で伊東 氏の攻撃に備(そな)えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
 この戦いは島津 氏側の大勝利に終わり、その後敗(やぶ)れた伊東 氏は以前の勢力を取り戻(もど)すことはできず、かわって島津 氏が日向国を治(おさ)めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東 軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬(ほうむ)り、この墓は後に伊東塚と呼(よ)ばれるようになりました。
 慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 また文化14年(1817年)小林地頭 市田長門守 源義宣は石碑(せきひ)を建てて「後の今を視(み)るにひとし云々(うんぬん)」の名文を彫(ほ)り、広く世に伝えました。
平成14年11月1日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真ET: 2つの六地蔵塔と説明板です。 北を見たもの。



写真EU: 右は六地蔵塔です。



写真EV: 西を見たもの。



写真EW: 六地蔵塔の上部です。 地蔵像がそれぞれ6つ彫(ほ)ってあります。



写真EX: 2つの六地蔵塔の中部です。



写真EY: 2つの六地蔵塔の下部です。



写真EZ: 右手前は石灯籠(いしどうろう)、左手前は伊東塚です。 北東を見たもの。



写真FA: 伊東塚がある墓地の東側です。



写真FB: 左の建物は小林高校、右は伊東塚がある墓地です。



写真FC: 伊東塚に登る階段です。



写真FD: 伊東塚の説明板、2つの六地蔵塔、石灯籠(いしどうろう)、木などが見えます。
「伊東塚 (いとうづか)」は宮崎県 小林市 大字真方 字上ノ馬場 160-2 にあります。



写真FE: 宮崎県 小林市にある伊東塚です。 北を見たもの。



写真FF: 小林市にある伊東塚。



写真FG: 伊東塚の2つの説明板、石灯籠(いしどうろう)、石碑(せきひ)、木、遠くに小林高校の校舎が見えます。 南を見たものです。



写真FH: 遠くに須木の山並み(やまなみ)が見えます。 伊東塚の多くの墓が見えます。 手前の石で囲(かこ)ってある敷地内が伊東塚です。 北東を見たもの。
宮崎県 えびの市にある「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板から、
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。



写真FI: 伊東塚の墓があります。 奥は一般の墓地です。 北西を見たものです。 遠くに須木の山々が見えます。
手前の石で囲(かこ)ってある敷地内が伊東塚です。



写真FJ: これが伊東塚の全(すべ)てです。 北を見たもの。
「伊東塚」は伊東側が造りました。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いから三ツ山城(後の小林城)が島津の所有になった天正4年(1576年)までの4年間はこのあたりは伊東の領地でした。 また、慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 今の伊東塚のところには昌寿寺がありましたが、明治のはじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 すべて供養塔なので、下には遺体はありません。 しかし、米良重方(筑後守、三ツ山城主でした。)だけは須木城下の米良家の菩提寺(ぼだいじ)である一麟寺(現在は廃寺になっています。)に首が島津義弘から返されたので、そこに弔(とむ)われています。 一方、[島津義弘が伊東方の名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市、県指定史跡)へ葬(ほおむ)られた。 その他の首はえびの市にある首塚に埋(う)められ供養されている。]という説もあります。



写真FK: 左手前は伊東塚の敷地内にある石灯籠(いしどうろう)です。 石で囲ってある敷地内が伊東塚です。 北を見たもの。



写真FL: 手前の石で囲ってある敷地内が伊東塚です。 北西を見たものです。



写真FM: 中央に伊東塚の説明板、石碑(せきひ)、右は石灯籠、左は木、説明板、標識棒(標柱)です。 南西を見たもの。



写真FN: 木の右に標識棒(標柱)、左に説明板の裏が見えます。



写真FO: 南を見たものです。 伊東塚への登り口が見えます。



写真FP: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)、昭和9年4月17日、平成3年12月1日建立、宮崎県教育委員会 小林市教育委員会」の標柱があります。



写真FQ: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)、昭和9年4月17日、平成3年12月1日建立、宮崎県教育委員会 小林市教育委員会」の標柱。



写真FR: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)、昭和9年4月17日、平成3年12月1日建立、宮崎県教育委員会 小林市教育委員会」の標柱があります。



写真FS: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)、昭和9年4月17日、平成3年12月1日建立、宮崎県教育委員会 小林市教育委員会」の標柱。



写真FT: 「県指定史跡 伊東塚 (いとうづか)、昭和9年4月17日、平成3年12月1日建立、宮崎県教育委員会 小林市教育委員会」の標柱があります。



写真FU: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真FV: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真FW: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真FX: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真FY: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真FZ: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GA: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。


写真GB: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GC: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GD: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GE: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GF: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GG: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GH: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GI: 「伊東塚顕彰碑」に刻(きざ)まれている言葉。
解説
 伊東塚は元亀3年(1572年)5月4日 松齢 公こと島津義弘 公が伊東 氏に大勝利した木崎原の戦いで、戦没した伊東 氏の家臣220人余りを祀(まつ)ったものです。
しかし、木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔(くようとう)の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守(伊東側の大将でした。)、伊東又二郎、伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守(三ツ山城(後の小林城)の城主)、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚9基だけになってしまいました。
当時 小林の地頭だった市田長門守源義宣はこれを大変残念に思い、文化14年(1817年)、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。
平成11年6月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真GJ: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GK: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GL: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GM: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GN: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GO: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GP: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GQ: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GR: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GS: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GT: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GU: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。



写真GV: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。 左は石灯籠(いしどうろう)です。



写真GW: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。 左は石灯籠。



写真GX: 伊東塚の敷地内にある「伊東塚顕彰碑」、小林の地頭だった市田長門守源義宣が文化14年(江戸時代後期、1817年)、伊東塚の保存と後世に木崎原の戦いを語り伝えるため、この碑(ひ)を建てました。 右は伊東塚顕彰碑の説明板です。



写真GY: 右手前の石灯籠(いしどうろう、大正14年3月14日建立)と左の伊東塚が見えます。



写真GZ: 石灯籠(大正14年3月14日建立)の下部です。



写真HA: もう一つの石灯籠(大正14年3月14日建立)です。 左は石碑(せきひ)、右は伊東塚です。



写真HB: 石灯籠(大正14年3月14日建立)と石碑の下部です。



写真HC: 大正14年3月14日にこの石灯籠(いしどうろう)は造られました。



写真HD: 伊東塚の敷地の北の部分に、えびの市での「木崎原の戦い」で戦死した伊東側の人の墓が並んでいます。 木崎原の戦いは1572年の島津義弘などと伊東との戦いです。 日向国(今の宮崎県)のほとんどを治(おさ)めていた伊東は、この木崎原の戦いで負けてから急速に勢力を失いました。



写真HE: 小林市にある伊東塚です。
左から3番目は五輪塔です。
慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守(伊東側の大将でした。)たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。



写真HF: 宮崎県 小林市にある伊東塚です。



写真HG: 1572年にえびの市での「木崎原の戦い」で島津に敗(やぶ)れて戦死した伊東側の人の墓です。 伊東塚。



写真HH: 南西を見たもの。 石碑と石碑の説明板が見えます。



写真HI: 南を見たものです。



写真HJ: 伊東塚の敷地には砂利(じゃり)が敷き詰(つ)めてあります。



写真HK: 東を見たもの。 伊東塚の敷地のまわりは一般の墓が多くあります。



写真HL: 北東を見たもの。 左手前の伊東塚とまわりの一般の墓地が見えます。 奥に施設の建物が見えます。



写真HM: 伊東塚の墓の下に今でもシキミ(あるいは榊(さかき))と思われる枝が供(そな)えてあります。 北を見たもの。



写真HN: 左端は伊東又二郎の墓、左から2番目は伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)の墓です。
伊東塚の墓の下に今でもシキミ(あるいは榊(さかき))と思われる枝が供(そな)えてあります。 北西を見たものです。



写真HO: 西を見たもの。



写真HP: 南西を見たもの。



写真HQ: 南を見たものです。



写真HR: 中央は伊東又二郎の墓です。



写真HS: 中央は伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)の墓です。 左は伊東又二郎の墓。



写真HT: 中央が大将だった伊東 加賀守(祐安)のための五輪塔で、下に2つの古い石製の花瓶(かびん)のようなものがあります。
慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守(伊東側の大将でした。)たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。
「伊東塚」は伊東側が造りました。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いから三ツ山城(後の小林城)が島津の所有になった天正4年(1576年)までの4年間はこのあたりは伊東の領地でした。 また、慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 今の伊東塚のところには昌寿寺がありましたが、明治のはじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 すべて供養塔なので、下には遺体はありません。 しかし、米良重方(筑後守、三ツ山城主でした。)だけは須木城下の米良家の菩提寺(ぼだいじ)である一麟寺(現在は廃寺になっています。)に首が島津義弘から返されたので、そこに弔(とむ)われています。 一方、[島津義弘が伊東方の名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市、県指定史跡)へ葬(ほおむ)られた。 その他の首はえびの市にある首塚に埋(う)められ供養されている。]という説もあります。



写真HU: 伊東側の大将だった伊東加賀守(祐安)の五輪塔です。
慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守(伊東側の大将でした。)たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。
「伊東塚」は伊東側が造りました。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いから三ツ山城(後の小林城)が島津の所有になった天正4年(1576年)までの4年間はこのあたりは伊東の領地でした。 また、慶安3年(1650年)島津の武将 五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。 今の伊東塚のところには昌寿寺がありましたが、明治のはじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 すべて供養塔なので、下には遺体はありません。 しかし、米良重方(筑後守、三ツ山城主でした。)だけは須木城下の米良家の菩提寺(ぼだいじ)である一麟寺(現在は廃寺になっています。)に首が島津義弘から返されたので、そこに弔(とむ)われています。 一方、[島津義弘が伊東方の名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市、県指定史跡)へ葬(ほおむ)られた。 その他の首はえびの市にある首塚に埋(う)められ供養されている。]という説もあります。



写真HV: 宮崎県 小林市にある伊東塚です。



写真HW: 小林市にある伊東塚です。



写真HX: 小林高校の北にある伊東塚です。 北を見たもの。



写真HY: 左の墓の下に古い石製の花瓶(かびん)のようなものが見えます。 中央のものは四角柱の形をしていて、面白(おもしろ)い図柄(ずがら)が彫(ほ)ってあります。



写真HZ: 伊東塚の前に、古い石製の花瓶(かびん)のようなものがあります。



写真IA: 伊東塚です。



写真IB: 左端は伊東又二郎の墓です。 左から2番めのは伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)の墓です。 小林市にある伊東塚。



写真IC: 左端は伊東又二郎の墓です。 左から2番めのは伊東新次郎(槍(やり)の名手でしたが、三角田で島津義弘と一騎打ちをして戦死しました。)の墓です。 伊東塚。



写真ID: 手前は裏(北)から見た伊東塚です。



写真IE: 手前は裏(北)から見た伊東塚。



写真IF: 斜(なな)め裏(北西)から見た伊東塚です。



写真IG: 手前は裏(北)から見た伊東塚です。
宮崎県 えびの市にある「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板から、
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。



写真IH: 裏(北)から見た伊東塚。



写真II: 手前は裏(北)から見た伊東塚です。
宮崎県 えびの市にある「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板から、
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。



写真IJ: 伊東塚の下部です。



写真IK: 伊東塚の下部。



写真IL: 伊東加賀守を供養(くよう)する五輪塔の下部です。 小林市にある伊東塚。



写真IM: 伊東塚の下部です。



写真IN: 伊東塚の敷地内にある木です。



写真IO: 木(ツバキ)の下部です。 伊東塚。



写真IP: 西を見た景色です。 左は小林高校。 伊東塚のある墓地の南西の角(かど)付近です。



写真IQ: 北を見たもの。 下り坂になっています。 右は伊東塚がある墓地です。



写真IR: 東を見たもの。 左は墓地、右は小林高等学校です。



写真IS: 小林高等学校の体育館です。



写真IT: 東を見た景色です。 右は小林高校。



写真IU: 左は小林高校。



写真IV: 西を見たもの。 左は小林高等学校。



写真IW: 南西を見たもの。 霧島連山が美しく見えます。 左は小林高校のグラウンドなどがあります。
右から甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)が見えます。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真IX: 小林高校のそばから見た霧島連山です。 左端は高千穂峰です。
右から韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真IY: 小林高等学校。 南を見たものです。



写真IZ: 南西を見た景色です。 手前は小林高等学校。
右から甑岳(こしきだけ、標高 1301.4 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)が見えます。



写真JA: 霧島連山です。
右から韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)が見えます。



写真JB: 小林高校の広場に車が止まっていました。 背景は霧島連山です。
右から夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。



写真JC: 高千穂峰がきれいに見えます。
右から矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。



写真JD: 「KOBAYASHI CITY、3H2O、ホタルの絵」があるマンホールです。



写真JE: 西を見た景色です。



写真JF: 南西を見たもの。 手前は小林高等学校。



写真JG: 南を見た景色です。



写真JH: 小林高校の建物が見えます。 南東を見た景色です。



写真JI: 東を見たもの。 茶色の屋根の体育館も見えます。



写真JJ: 小林高等学校の望遠鏡が入っていると思われる金属のドームも見えます。 手前は車が止まっている広場です。 南西を見たもの。



写真JK: 小林高校の体育館などです。



写真JL: 東を見たもの。 右は小林高校です。



写真JM: 小林高校の国旗掲揚台(けいようだい)のポールです。



写真JN: 小林高校の北側には小川があります。
左奥は伊東塚のある墓地です。 東を見たもの。



写真JO: 伊東塚の入り口です。 北を見たもの。



写真JP: バス停「伊東塚前、小林市コミュニティバス」があります。



写真JQ: 南を見たものです。 「ふきやま」医院の建物と看板(かんばん)も見えます。



写真JR: 「ふきやま」と書いてある看板が建物の上にあります。 南を見たものです。



写真JS: 遠くに霧島連山が見えます。 建物は小林高等学校、手前は伊東塚のある墓地です。 南西を見たもの。



写真JT: 右は小林高校、左は施設の建物です。



写真JU: 墓地のそばから北東を見た景色です。 小林盆地(ぼんち)の北東側の山々です。 山並み(やまなみ)、田んぼ、人家などが見えます。 中央の手前の山は小林城跡と思われます。 遠くの山は九州中央山地です。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真JV: 北を見た景色です。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真JW: 北西を見たもの。 色付いた木の葉が見えます。



写真JX: 北西を見たものです。 小林盆地の北西の山々です。 山に送電線鉄塔が約4本見えます。 手前に紅葉したケヤキの木があります。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真JY: 北を見た景色です。 中央右寄りの薄く見える一番遠くの山は、西米良村にある「石堂山(標高 1547.4 m)」と思われます。 山に送電線鉄塔が約8本見えます。 九州中央山地です。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真JZ: 北を見たものです。 九州中央山地の山々が美しく見えます。



写真KA: 北を見たものです。 遠くの九州中央山地が見えます。



写真KB: 北西を見た景色です。 木が色づいています。



写真KC: 北西を見たものです。 左手前のイチョウが黄色になっています。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真KD: 北西を見たものです。



写真KE: 北西を見たもの。
「小林盆地 (こばやしぼんち)」は宮崎県 小林市街地を中心にして高原町にも広がる直径 約10 km の盆地です。 東から北は九州中央山地、西から南は霧島連山に囲(かこ)まれています。 標高は約150〜300 m です。 小林盆地は約52万年前に大噴火したカルデラ(小林カルデラ)です。 カルデラの輪郭(りんかく)はあまりはっきりしていません。 カルデラは火山の中心部、周辺にある円形の著しく広い凹地(くぼち)です。 多くは直径1 km 以上で、噴火後に起こる火山中央部の陥没(かんぼつ)でできたものです。



写真KF: 東に進みます。



写真KG: たくさんの柿の実が色づいています。



写真KH: 愛宕神社(あたごじんじゃ)がある小山を西から見たものです。 鳥居(とりい)が見えます。
「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。



写真KI: 愛宕神社の鳥居です。 西から見たもの。



写真KJ: 南から見た愛宕神社(あたごじんじゃ)のある山です。



写真KK: 鳥居(とりい)が見えます。



写真KL: 小林市にある愛宕神社(あたごじんじゃ)の一の鳥居(とりい)です。 左は小林昭和幼稚園になっています。 北を見た景色です。
「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。



写真KM: 「愛宕神社」と書いてある額(がく)が鳥居にあります。



写真KN: 西に小林昭和幼稚園があります。 藤棚(ふじだな)が見えます。



写真KO: 赤色の二の鳥居です。 階段が奥に見えます。
「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。



写真KP: 二の鳥居の下部です。



写真KQ: 宮崎県 小林市にある愛宕神社の階段です。 上に社殿が見えています。



写真KR: 階段の上の様子(ようす)です。



写真KS: 階段から見上げたものです。 木が覆(おお)っています。



写真KT: 大きな杉の幹(みき)が階段の部分まで大きくなっています。



写真KU: 小林市にある愛宕神社の拝殿、手水舎(ちょうずや)、石灯籠(いしどうろう)などが見えます。
「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。



写真KV: 愛宕神社の建物です。



写真KW: 古い石碑(せきひ)がいくつかあります。



写真KX: 小林市にある愛宕神社(あたごじんじゃ)の拝殿、石灯籠(いしどうろう)です。
「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。



写真KY: 手水舎(ちょうずや)です。



写真KZ: 愛宕神社の御手洗(みたらい)です。 龍の口から水が出ています。



写真LA: 愛宕神社の境内(けいだい)です。



写真LB: 愛宕神社の建物です。



写真LC: 愛宕神社の境内。 階段を登り終わった所です。



写真LD: 平らな上面の石があります。



写真LE: 愛宕神社の御手洗(みたらい)。



写真LF: 拝殿の東の方です。



写真LG: 愛宕神社です。



写真LH: 右は小林市にある愛宕神社の本殿、左は拝殿です。



写真LI: 西を見たもの。 拝殿、石灯籠も見えます。



写真LJ: 拝殿から本殿に上がる階段、屋根裏も見えます。 彫刻(ちょうこく)が見えます。



写真LK: 愛宕神社の本殿です。
「愛宕神社 (あたごじんじゃ)」は宮崎県 小林市 大字真方 1031-1 にあります。



写真LL: 本殿の下部です。



写真LM: 本殿の東の方です。



写真LN: 愛宕神社の本殿です。



写真LO: 旗竿(はたざお)などを立てる物が本殿のそばにあります。



写真LP: 右は本殿です。 西から見たもの。



写真LQ: 左は本殿、右は拝殿です。 小林市にある愛宕神社。



写真LR: 拝殿と境内(けいだい)です。



写真LS: 拝殿の西の方です。



写真LT: 愛宕神社の境内です。



写真LU: 境内(けいだい)。



写真LV: 拝殿の西の方です。



写真LW: 本殿の北の方です。



写真LX: 本殿と右は拝殿です。 西から見たものです。



写真LY: 木の根のまわりをコンクリートで囲(かこ)ってあります。



写真LZ: 木の中部です。



写真MA: 拝殿の西にある石灯籠(いしどうろう)です。



写真MB: 西側にある愛宕神社への登り口です。 奥に鳥居があります。 はじめに見えた鳥居があります。



写真MC: 西にある登り口の下に鳥居(とりい)があります。



写真MD: 愛宕神社の拝殿と石灯籠(いしどうろう)です。



写真ME: 社殿の西の境内(けいだい)です。



写真MF: 南側の階段です。



写真MG: 「楠(くすのき)の実」が落ちていました。 良い香りがします。



写真MH: 愛宕神社の階段を降りてきました。 南に高千穂峰(たかちほのみね)などの霧島連山が見えます。 一の鳥居(とりい)も見えます。



写真MI: 一の鳥居(とりい)と霧島連山です。
右から夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、矢岳(やたけ、1131.6 m)、高千穂峰(たかちほのみね、1574.0 m)が見えます。



写真MJ: 一の鳥居の西に小林昭和幼稚園があります。



写真MK: 「←5 km 陰陽石、6 km 三之宮峡」の標識があります。 左にはじめに通ったガソリンスタンドの黄色屋根が見えます。 東を見たもの。



写真ML: 国道265号線を北に行くと真方簡易郵便局が道沿い(東)にあります。
「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。



写真MM: 真方簡易郵便局の赤いポスト、建物が見えます。
「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。



写真MN: 宮崎県 小林市にある真方簡易郵便局です。
「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。



写真MO: 国道265号線にある真方簡易郵便局です。
「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。



写真MP: 真方簡易郵便局のポストと看板(かんばん)です。
「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。



写真MQ: 真方簡易郵便局の建物と看板、ポストです。
「真方簡易郵便局 (まがたかんいゆうびんきょく)」は宮崎県 小林市 真方 310−12 にあります。



写真MR: ここは下り坂になっています。 少し先の右手に小林城跡があります。 国道265号線。 北を見た景色です。



写真MS: 国道265号線から北を見た景色です。 須木(すき)の山々が見えます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)