江田駅、江田神社 (律令時代の江田駅、えだえき、律令時代は大化の改新から平安初期までの約3世紀間、江田神社の神木のコブ、市民の森、フローランテ宮崎、宮崎ガス)  (宮崎県 宮崎市 阿波岐原町 字 産母)







 律令時代の「江田駅 (えだえき)」は江田神社の境内 (けいだい)にありました。
<標高、位置>  江田神社は
標高 約10 m
 北緯31度57分38秒  東経131度27分53秒


 駅使 (えきし)は天皇から駅鈴をもらって行き来しました。 駅鈴はいろいろな国にも置かれました。 大切な情報をすばやく中央と地方との間に伝えるために、駅路は直線的なものが多くありました。 集落などとは無関係に造られ、道幅も 6 m を超えていました。 駅には駅舎があり、駅長がいて、給食、宿泊、馬の中継などを行いました。 駅長の下に駅子がいて駅馬をひきました。 駅の維持のため駅田 (えきでん)が大路4町、中路3町、小路2町与えられました。 駅戸がその駅田を耕 (たがや)しました。 駅子は120人から130人ほどでした。
 律令時代 (りつりょうじだい、大和朝廷時代と摂関時代との間で、大化時代と荘園時代との間です。 大化の改新 (西暦 645年)後から奈良時代・平安初期までの約3世紀間です。)の物資や手紙などの運搬拠点であった「江田駅」は宮崎市 阿波岐原町 (あわきがはらちょう)の江田神社周辺にあったと言われています。 当時、宮崎県内には16の駅がありました。 律令時代は中央集権制度が整 (ととの)い始めた頃 (ころ)で駅には数頭の馬が飼 (か)われていました。 何が事件などがあると、すぐに中央へ連絡するようになっていました。 

 江田神社は宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127にあります。 山崎街道(県道宮崎島之内線)沿いにあり、「市民の森」の南側です。 837年に官社となった日向国式内四座(都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社)の一つです。 由緒のある神社です。
 「江田神社由緒記」の看板(かんばん)から。
社名 江田神社
御祭神 伊邪那岐尊(イザナギノミコト) 伊邪那美尊(イザナミノミコト)(但伊邪那美尊ハ安徳天皇壽永二年正月配祀)
御祭日 例大祭十一月十二日 祈年祭二月十七日 新嘗祭十一月二十三日 大祓祭六月三日 特殊神事茅ノ輪潜リ
 本神社は太古の御創建にしてその創立の年代は詳かならざるもこの地一帯は古来 日向の橘の小戸阿波岐原としてイザナギの大神禊祓の霊跡と伝承せられて縁起最も極めて深き社ならむ禊祓の際アマテラス皇大神、素佐鳴尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝えすなわち上代における中つ瀬と称せる御池本社を去ること約5丁の東北に現在す後、世人入り江を開墾して江田と称し里人俗に当社を産母様と称へて今日に至る
仁明天皇承和4年丁己8月官社に列せられ文徳天皇仁寿元年辛未正月従4位下を授けられ清和天皇貞観元年己十月従4位上に進められその後丹融天皇天禄元年二月までに天変地妖兵革等の年母に叙位8回におよび正一位に昇階ありしと伝う醍醐天皇の延喜年間において延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ祈年新当の奉幣を承け居りしが後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来しついに一村落の産土神と同様の取り扱いをうけるに至れり
明治維新に際し明治6年5月25日に社格「縣社(県社)」に列され同40年2月9日神饌幣帛料共進を指定され今日に至る
 1662年(江戸時代初期)に大津波で神殿を失って、しばらく衰退していました。 地元では「産母様(やぼさま)」と親しんで呼ばれています。
 続日本後記(837年)に、都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社を官社にすることが記(しる)されているそうです。


写真A: 宮崎県 宮崎市 阿波岐原町 (あわきがはらちょう) 字 産母にある江田神社の境内 (けいだい)に古代の江田駅跡の説明版が2013年12月12日に立てられました。 手前は市民の森の中の舗装道 (ほそうどう)です。 右奥に江田神社の社殿に行く細い道が見えます。



写真B: 西を見たものです。 奥に山崎街道が左右に通っていて、その車が見えています。



写真C: 「江田神社 近道はこちら。」の看板 (かんばん)もあります。 この江田駅の説明版は江田神社の社殿の北西にあります。 まわりは自然林です。
駅使 (えきし)は天皇から駅鈴をもらって行き来しました。 駅鈴はいろいろな国にも置かれました。 大切な情報をすばやく中央と地方との間に伝えるために、駅路は直線的なものが多くありました。 集落などとは無関係に造られ、道幅も 6 m を超えていました。 駅には駅舎があり、駅長がいて、給食、宿泊、馬の中継などを行いました。 駅長の下に駅子がいて駅馬をひきました。 駅の維持のため駅田 (えきでん)が大路4町、中路3町、小路2町与えられました。 駅戸がその駅田を耕 (たがや)しました。 駅子は120人から130人ほどでした。



写真D: 江田神社の境内 (けいだい)にある「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真E: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真F: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真G: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真H: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真I: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真J: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真K: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真L: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真M: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真N: 「古代の江田駅跡」の説明版です。
 この付近は古代の江田駅跡である。 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資及び手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られた。 そして、約30里ごとに、駅が作られた。 駅には、駅馬が置かれた。 日向国では、16の駅が作られた。 その1つが、江田駅であり、この江田神社の敷地内にあったと伝承 (でんしょう)されている。
律令時代…西暦700年〜1000年頃、官道…現在の国道のようなもの、約30里…約16 km (当時の1里は約550 m)、駅馬・・・「はゆま」と呼ばれていた、江田駅…駅馬は5頭置かれていた。
日向16駅
豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。
それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ。
という官道 (今の国道。)がありました。

豊後路より) 臼杵郡 長井 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津 しまづ 都城市郡元、大隅路へ
国府 (西都市)から分岐して
国府 (西都市)、諸県郡 亜榔 あや 綾町、諸県郡 野後 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真  まさき えびの市真幸、肥後路へ。



写真O: 江田駅 説明板の近くの自然林です。



写真P: 自然林の上方です。



写真Q: 江田駅の説明板から江田神社の社殿に行く細い道です。 南を見たものです。 木の根が道に見えます。



写真R: 説明板付近から東を見たものです。 市民の森の舗装道路です。



写真S: 説明板の近くから北西を見たものです。 「市民の森」の東屋 (あずまや)も見えます。



写真T: 説明板の近くから西を見たものです。 奥の左右に山崎街道が通っています。



写真U: 山崎街道の自動車が見えます。 右奥は市民の森の建物です。 西を見たものです。



写真V: 「つばきの並木路」と書いてあります。 市民の森です。



写真W: 山崎街道の東西に「市民の森」が広がっています。 市民の森の建物も見えます。



写真X: 山崎街道です。 北を見たもの。



写真Y: 北西を見たものです。



写真Z: 山崎街道です。 南を見たものです。



写真AA: 山崎街道から見た「市民の森」です。 東を見たものです。 車止め、看板 (かんばん)もあります。



写真AB: 江田駅の説明板から江田神社の社殿に行く道は黄色に色付いた木の葉が美しい。



写真AC: 道にある木の根がおもしろいと思います。



写真AD: 木立 (こだち)の間に江田神社の社殿が見えます。 東を見たものです。



写真AE: 宮崎市にある「江田神社」です。 北を見たもの。
江田神社は宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127にあります。 山崎街道(県道宮崎島之内線)沿いにあり、「市民の森」の南側です。 837年に官社となった日向国式内四座(都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社)の一つです。 由緒のある神社です。
 「江田神社由緒記」の看板(かんばん)から。
社名 江田神社
御祭神 伊邪那岐尊(イザナギノミコト) 伊邪那美尊(イザナミノミコト)(但伊邪那美尊ハ安徳天皇壽永二年正月配祀)
御祭日 例大祭十一月十二日 祈年祭二月十七日 新嘗祭十一月二十三日 大祓祭六月三日 特殊神事茅ノ輪潜リ
 本神社は太古の御創建にしてその創立の年代は詳かならざるもこの地一帯は古来 日向の橘の小戸阿波岐原としてイザナギの大神禊祓の霊跡と伝承せられて縁起最も極めて深き社ならむ禊祓の際アマテラス皇大神、素佐鳴尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝えすなわち上代における中つ瀬と称せる御池本社を去ること約5丁の東北に現在す後、世人入り江を開墾して江田と称し里人俗に当社を産母様と称へて今日に至る
仁明天皇承和4年丁己8月官社に列せられ文徳天皇仁寿元年辛未正月従4位下を授けられ清和天皇貞観元年己十月従4位上に進められその後丹融天皇天禄元年二月までに天変地妖兵革等の年母に叙位8回におよび正一位に昇階ありしと伝う醍醐天皇の延喜年間において延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ祈年新当の奉幣を承け居りしが後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来しついに一村落の産土神と同様の取り扱いをうけるに至れり
明治維新に際し明治6年5月25日に社格「縣社(県社)」に列され同40年2月9日神饌幣帛料共進を指定され今日に至る
 1662年(江戸時代初期)に大津波で神殿を失って、しばらく衰退していました。 地元では「産母様(やぼさま)」と親しんで呼ばれています。
 続日本後記(837年)に、都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社を官社にすることが記(しる)されているそうです。



写真AF: 江田神社の参道です。 奥に二の鳥居 (とりい)、石灯籠 (いしどうろう)も見えます。 南を見たものです。



写真AG: 「江田神社 由緒記」の説明板があります。



写真AH: 「江田神社 由緒記」の説明板です。



写真AI: 「江田神社 由緒記」の説明板。



写真AJ: 「江田神社 由緒記」の説明板です。



写真AK: 江田神社の神木です。 しめ縄 (なわ)がしてあります。 下部に木のコブが見えています。 このコブは参拝に来た人がいつも触(さわ)ります。 右に二の鳥居 (とりい)があります。



写真AL: 江田神社の神木の中部です。



写真AM: 江田神社の神木の上部です。



写真AN: これが江田神社の神木のコブです。 手で触 (さわ)ると御利益があると言われています。



写真AO: 異なる角度から見た宮崎市にある「江田神社の神木のコブ」です。 多くの人が触(さわ)ってコブがツルツルに光っています。



写真AP: 南を見たものです。 江田神社の二の鳥居 (とりい)とその奥に小さく一の鳥居が見えます。 江田神社の参道です。



写真AQ: 北を見たもの。 右に神木、奥に社殿が見えます。 参拝者も見えています。



写真AR: 御神籤 (おみくじ)をしばりつける所です。



写真AS: 江田神社の社務所です。



写真AT: 江田神社 社務所では御札 (おふだ)、お守りなどを販売しています。



写真AU: 駐車場の近くにある「みそぎの碑 (ひ)」です。 みそぎの碑には「海、日、月」と彫 (ほ)ってあります。 みそぎの碑の説明板も右にあります。



写真AV: 「みそぎの碑 (ひ)」です。 みそぎの碑には「海 (スサノオ)、日 (アマテラス)、月 (ツクヨミ)」と彫 (ほ)ってあります。



写真AW: 「みそぎの碑」の説明板です。
イザナギ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、江田神社、みそぎの池について書かれています。



写真AX: 「宮崎の神話」の説明板もあります。
「ここ阿波岐原 (あわきがはら)で神は「みそぎ」をし、太陽の神を産んだ。」と書いてあります。



写真AY: 「ガイドボランティア 待機所」と書いてある小屋が駐車場のそばにあります。 「みやざき 神話・観光ガイド ボランティア協議会」、「神話のふるさと みやざき」と書いてある幟 (のぼり)もあります。



写真AZ: 「古事記編纂 (へんさん) 1300年」、「ガイド無料」、「ガイドボランティア 待機所」と書いてある小屋が駐車場のそばにあります。 「みやざき 神話・観光ガイド ボランティア協議会」、「神話のふるさと みやざき」と書いてある幟 (のぼり)もあります。



写真BA: 江田神社の駐車場です。 右に「ガイドボランティア 待機所」が見えます。



写真BB: 江田神社の一の鳥居 (とりい)、石灯籠 (いしどうろう)です。 奥に二の鳥居、外灯も見えます。 左に山崎街道が見えています。 北を見たもの。
江田神社は宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127にあります。 山崎街道(県道宮崎島之内線)沿いにあり、「市民の森」の南側です。 837年に官社となった日向国式内四座(都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社)の一つです。 由緒のある神社です。
 「江田神社由緒記」の看板(かんばん)から。
社名 江田神社
御祭神 伊邪那岐尊(イザナギノミコト) 伊邪那美尊(イザナミノミコト)(但伊邪那美尊ハ安徳天皇壽永二年正月配祀)
御祭日 例大祭十一月十二日 祈年祭二月十七日 新嘗祭十一月二十三日 大祓祭六月三日 特殊神事茅ノ輪潜リ
 本神社は太古の御創建にしてその創立の年代は詳かならざるもこの地一帯は古来 日向の橘の小戸阿波岐原としてイザナギの大神禊祓の霊跡と伝承せられて縁起最も極めて深き社ならむ禊祓の際アマテラス皇大神、素佐鳴尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝えすなわち上代における中つ瀬と称せる御池本社を去ること約5丁の東北に現在す後、世人入り江を開墾して江田と称し里人俗に当社を産母様と称へて今日に至る
仁明天皇承和4年丁己8月官社に列せられ文徳天皇仁寿元年辛未正月従4位下を授けられ清和天皇貞観元年己十月従4位上に進められその後丹融天皇天禄元年二月までに天変地妖兵革等の年母に叙位8回におよび正一位に昇階ありしと伝う醍醐天皇の延喜年間において延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ祈年新当の奉幣を承け居りしが後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来しついに一村落の産土神と同様の取り扱いをうけるに至れり
明治維新に際し明治6年5月25日に社格「縣社(県社)」に列され同40年2月9日神饌幣帛料共進を指定され今日に至る
 1662年(江戸時代初期)に大津波で神殿を失って、しばらく衰退していました。 地元では「産母様(やぼさま)」と親しんで呼ばれています。
 続日本後記(837年)に、都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社を官社にすることが記(しる)されているそうです。



写真BC: 江田神社の境内 (けいだい)にあるトイレです。 右は山崎街道。 南を見たものです。



写真BD: 山崎街道の南方向です。 このあたりは歩道、左に遊歩道も整備されています。



写真BE: 左はトイレです。



写真BF: 大きな楠 (くすのき)があります。 トイレの近くです。



写真BG: クスノキの中部です。



写真BH: クスノキの上部です。 江田神社の境内 (けいだい)。



写真BI: 自然林の中を遊歩道が通っています。 南を見たものです。 右に山崎街道が見えます。



写真BJ: 北を振 (ふ)り返ったものです。 トイレが見えます。 左はクスノキです。



写真BK: 遊歩道が南に続いています。



写真BL: 江田神社の遊歩道です。



写真BM: 遊歩道と交 (まじ)わる細い道です。 東を見たものです。 下り坂になっています。



写真BN: 西を見たものです。 左右に山崎街道が通っています。



写真BO: 「ドングリの実」が落ちていました。



写真BP: 江田神社の遊歩道。 南を見たものです。



写真BQ: 遊歩道はここでも細い道と交差します。 南を見たもの。



写真BR: 東を見たものです。 下り坂になっています。



写真BS: 西を見たものです。



写真BT: 南西を見たものです。 江田神社の遊歩道です。



写真BU: 遊歩道と交差する道です。 東を見たものです。



写真BV: 西を見たもの。



写真BW: さらに南に遊歩道を進みます。



写真BX: 大きな十字路にある「あとひきラーメン」と「SOLATO ガソリンスタンド」、左寄りに山崎にあるNTTの携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真BY: 来た道を振り返ったものです。



写真BZ: ラーメン店、ガソリンスタンドが見えます。 「山崎町北」の交差点です。 手前は遊歩道の南端です。



写真CA: 十字路から西に「宮崎ガスのガスタンク」がいくつも見えます。 ビロウ樹の並木が見えます。 奥に進むと芳士に行きます。



写真CB: 南西を見たものです。



写真CC: 東にフローランテ宮崎の建物、左寄りに閉鎖されたオーシャン ドームが見えます。 檳榔樹 (ビロウ樹)の並木が見えます。



写真CD: 西を見たものです。 ビロウ樹の並木が続いています。 山崎街道の「山崎町北」です。



写真CE: 北西を見たものです。 「山崎町北」の交差点。



写真CF: 「山崎町北」と信号機のそばに書いてあります。 県道11号線の標識があります。



写真CG: 「熟 (う)れたクスノキの実」が落ちていました。



写真CH: 「県道 11号線 宮崎」、「国道10号線まで 5 km、宮崎市 阿波岐原」と道路標識に書いてあります。 山崎街道です。



写真CI: 江田神社の境内 (けいだい)にある東屋 (あずまや)です。 中にベンチとテーブルが見えます。 バス停「バス 江田神社 宮崎交通」と外灯があります。 大きなクスノキも見えます。 北を見たもの。



写真CJ: バス停「バス 江田神社 宮崎交通」が山崎街道にあります。 右は江田神社の境内 (けいだい)です。



写真CK: 江田神社の一の鳥居 (とりい)が見えています。 木立 (こだち)の間にトイレの建物も見えます。 北を見たものです。



写真CL: 県道11号線 (山崎街道)の歩道を北に歩きました。



写真CM: 宮崎市 阿波岐原町 (あわきがはらちょう)にある「江田神社」の一の鳥居 (とりい)、二の鳥居、石灯籠 (いしどうろう)、石碑 (せきひ)、外灯、駐車場も見えます。



写真CN: 「江田神社」と彫 (ほ)ってある石碑があります。 上の四角の白っぽい部分は以前は「県社」と書いてあったと思います。 右は一の鳥居です。 駐車場、山崎街道も見えます。



写真CO: 江田神社の駐車場に戻 (もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)