刀工 田中国広 誕生地、綾雛山まつり (県指定文化財、有名な刀工、田中国広 生誕地、田中国広 生家跡、国広の両親の墓、刃口の水 (はぐちの水)、堀川國廣、堀川国広、中部グリーンロード、古屋地区の棚田(たなだ)、みかん山 (日向夏みかん畑)、蜜蜂の巣箱 (養蜂場)、綾町の山里 古屋、古屋国廣地区営農研修館、尾原地区営農センター、綾町から見た九州中央山地の展望、綾南川、田中国広の胸像が両端にある三本松橋、田中国広の像、綾町のタイムカプセル、綾町体育館、綾町武道館、綾町文化ホール、綾ひな山祭り、綾町産業観光案内所、綾町役場)  (宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 古屋、尾原)







<標高、位置>  刀工 田中国広 誕生地は
標高 約50 m
 北緯31度59分17秒  東経131度15分37秒

<標高、位置>  田中国広の両親の墓は
標高 約60 m
 北緯31度59分16秒  東経131度15分36秒

<標高、位置>  刃口(はぐち)の水は
標高 約80 m
 北緯31度59分06秒  東経131度15分14秒

<標高、位置>  古屋国廣地区営農研修館は
標高 約40 m
 北緯31度59分19秒  東経131度15分43秒

<標高、位置>  尾原地区営農センターは
標高 約80 m
 北緯31度59分06秒  東経131度15分15秒


 刀工 「田中国広」誕生地は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にあります。
 田中国広の両親の墓地にある「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板から、
 刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。 長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
 日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。 刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
 主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。 その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
 その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。 足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。 優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。

 「田中国広の生家跡」にある石碑(せきひ)の碑文から、(刀工 田中国広宅跡は昭和8年12月5日に県指定文化財になりました。)
「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月

 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 京都の堀川に住んだので堀川国広の別名もあります。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中、綾城、南綾川の三本松橋の両端にもあります。

 田中国広が使用した「刃口(はぐち)の水」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字尾原にあります。


写真A: 綾町(あやちょう)にある県道26号線です。 右奥に綾町役場があります。 この十字路は「綾町役場前」交差点です。
手前に「↑綾雛山まつり (ひなやままつり) 駐車場」の看板(かんばん)があります。 田中国広 誕生地に行くにはここを左に曲がります。 奥に行くと綾照葉大吊橋、小林市 須木に行きます。 右に曲がると綾城、綾馬事公苑があります。 手前に行くと国富町、宮崎市に行きます。 西を見たものです。



写真B: 「綾町役場前」交差点です。 西を見たもの。



写真C: 南綾川(本城川)を渡って進むとこのようなところがあります。 綾町 大字入野 字古屋です。 この先の三叉路(さんさろ)を右(南)に曲がって「田中国広 誕生地」に行きます。



写真D: 牛舎もあります。



写真E: まわりの様子です。



写真F: 来た道を振り返ったもの。 奥に行くと綾南川(本城川)の三本松橋があります。



写真G: ここを先に進むと「田中国広 誕生地」があります。



写真H: この三叉路(さんさろ)を西に曲がって進みます。 そばに古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)があります。



写真I: 木のそばに「名刀匠 田中国広 (田中國廣) 生誕地」の標識棒(標柱)があります。 左に棚田(たなだ)が見えます。 南西を見た景色です。



写真J: 南を見た景色です。 これは中部グリーンロードです。 先に進むと高岡町 赤谷に行きます。



写真K: 南東を見たもの。 墓地があります。



写真L: 東を見たものです。 左は古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)です。 田中国広 生家跡に行く三叉路はこの近くにあります。



写真M: 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)です。 青色の飲料水自動販売機が見えます。 北東を見たものです。



写真N: 「カルピスソーダ」を飲みました。



写真O: 北西を見たものです。



写真P: 西を見たもの。 この道を進んで田中国広 生家跡に行きます。 左に「名刀匠 田中国広 (田中國廣) 生誕地」の標識棒(標柱)があります。



写真Q: 「名刀匠 田中国広 (田中國廣) 生誕地」の標識棒(標柱)があります。 三叉路(さんさろ)の近くです。 南西を見た景色です。



写真R: 「レンゲの花」が咲いていました。



写真S: 「スミレの花」が咲いていました。



写真T: 「名刀匠 田中国広 (田中國廣) 生誕地」の標識棒(標柱)とそばの木です。 三叉路の近くです。



写真U: 西に集落が見えます。 ここは綾町 大字入野 字古屋です。 南綾川の南側です。 山が見えます。



写真V: 南西を見た景色です。 棚田(たなだ)が見えます。 右の大きな家の左上に大きな木が見えます。 これが「町指定 ふるさとの木「榎(えのき)」で、樹齢 約200年、高さ 18 m です。 この木の手前に「田中国広 生家跡」があります。



写真W: 南を見た景色です。 右に棚田(たなだ)があります。 これは中部グリーンロードです。 先に進むと高岡町 赤谷に行きます。



写真X: 左に墓場があります。 山も見えます。 南東を見たもの。



写真Y: 東を見たものです。 墓地があります。 奥に山があります。



写真Z: 北東を見たものです。 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)が見えます。 右に山が見えています。



写真AA: 北を見た景色です。



写真AB: 北西を見たものです。



写真AC: この道を西に進んで田中国広 生家跡に行きます。 集落の奥に山があります。 西を見たもの。



写真AD: 古屋地区の集落と田んぼです。 奥に山があります。 南西を見た景色です。



写真AE: 古屋地区の棚田(たなだ)が見えます。 南西を見た景色です。



写真AF: 南を見た景色です。 古屋地区の棚田(たなだ)です。 田んぼにはレンゲも咲いています。



写真AG: 南東を見たもの。 手前にレンゲが咲いている棚田(たなだ)があります。 左は先ほどの三叉路(さんさろ)です。 中部グリーンロードが見えます。



写真AH: 来た道を振り返って東を見た景色です。 遠くの山に携帯電話の基地局アンテナが見えます。 三叉路にある木、墓場、古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)も見えます。



写真AI: 北東を見たものです。



写真AJ: 西を見た景色です。 古屋地区の集落が見えます。 この集落に「田中国広 生家跡」があります。 山もあります。 この山の中腹に「田中国広の両親の墓」があります。 この山を越える道を進むとみかん山があって尾原地区の集落があり、そこに田中国広が使用した「刃口(はぐち)の水跡」があります。



写真AK: 古屋地区の集落に近付きました。



写真AL: 古屋地区の棚田(たなだ)にレンゲの花が多く咲いていました。



写真AM: 左奥に町指定 ふるさとの木「エノキ」が見えます。 その手前が「田中国広 生家跡」です。 もうすぐです。



写真AN: 石碑(せきひ)があります。 これが「田中国広 生家跡」です。 刀工 田中国広宅跡は昭和8年12月5日に県指定文化財になりました。 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にあります。 東を見たものです。
 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 京都の堀川に住んだので堀川国広の別名もあります。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中、綾城、南綾川の三本松橋の両端にもあります。



写真AO: 田中国広 生家跡の近くに町指定 ふるさとの木「エノキ」があります。 樹齢 約200年、高さ 18 m です。 古屋地区にあります。



写真AP: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にある「田中国広 生家跡 (誕生地、生誕地)」です。 刀工 田中国広宅跡は昭和8年12月5日に県指定文化財になりました。 石の階段、石碑(せきひ)、植木、大きな木の切り株が石垣(いしがき)の上にあります。



写真AQ: 「鍛刀師 國廣之史跡地」と書いてある石碑(せきひ)が見えます。 昭和8年3月に建立(こんりゅう)されました。



写真AR: 「鍛刀師 國廣之史跡地」と書いてある石碑(せきひ)が見えます。 昭和8年3月に建立(こんりゅう)されました。



写真AS: 「鍛刀師 國廣之史跡地」と書いてある石碑(せきひ)の下部です。 昭和8年3月に建立(こんりゅう)。



写真AT: 「鍛刀師 國廣之史跡地」と書いてある石碑(せきひ)の下部。 昭和8年3月に建立(こんりゅう)。



写真AU: 石碑(せきひ)のある所に大きな木の切り株(かぶ)があります。 植木もあります。



写真AV: 石碑(せきひ)の所にある大きな木の切り株(かぶ)。



写真AW: 石の階段、石も見えます。



写真AX: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真AY: 石碑の下の方です。



写真AZ: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BA: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BB: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BC: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BD: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BE: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BF: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BG: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BH: 「鍛刀の名工 田中国広 通称覚右衛門 幼名 鷹忠 肥後国 生る祖父 大学助実忠 日向に来て此(こ)の地に住す始め古屋にて刀剣を鍛するに当(あた)り國廣あるいは日州古屋藤原國廣の銘す 故ありて亡命し上杉に仕(つか)へ兵隊長たり天正年間 豊臣秀吉に従ひ上洛(じょうらく、京都に行くこと。)信濃守を賜(たまわ)り二条三条に転居 鍛刀に専念す 豊臣征韓を挙あるや石田三成の軍に従ひ朝鮮に渡り釜山に於(お)いて鍛刀したるものありと伝う凱旋(がいせん)の時 日向富田の浜に上陸し同地に於6振の刀を鍛(きた)えたるありといえども無名なり伊東祐兵 飫肥(おび)に封せらるるやその幕下に仕(つか)え専(もっぱ)ら鍛刀す晩年にいたり京都の堀川に住し鍛刀の著名なるものかって野州足利において鍛する所の名刀多し天正18年の作あり 古屋の宅地跡に錆鉄(さびてつ)の存するあり 此(こ)の地より西約十町を距るところにある清泉を刃口の水と口碑(言い伝え)に伝う 州検地の事あり細川侍奉行として下向又時に國廣 役として日向に下りしたるありと法華嶽薬師 して刀を鍛(きた)ふ薬師堂光と銘す又 穂北 調殿にて實國と銘す 慶長19年没す子なし す古屋の居跡に父 旅伯庵國昌 夫妻 墓碑 中従之 祭領とす 田中家に伝う所の 鎚 鉄床 り並に概要を記して後世に ふと
昭和8年3月 有長 田中」
と石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。



写真BI: 田中国広 誕生地の石碑(せきひ)。



写真BJ: 田中国広 生誕地です。



写真BK: 田中国広 生誕地。



写真BL: 田中国広 誕生地です。



写真BM: 田中国広 生家跡の近くにある町指定 ふるさとの木「エノキ」の中部、下部です。 樹齢 約200年、高さ 18 m です。 古屋地区にあります。



写真BN: 田中国広 生家跡の近くにある町指定 ふるさとの木「エノキ」です。 樹齢 約200年、高さ 18 m 。



写真BO: 田中国広 生家跡の近くにある町指定 ふるさとの木「エノキ」の上部です。 樹齢 約200年、高さ 18 m 。



写真BP: 石碑の近くです。 奥に大きなエノキの木があります。



写真BQ: 石碑の近くから西を見たもの。 左寄りに、杉林の下にある「田中国広の両親の墓」の説明板が白く小さく見えます。



写真BR: 田中国広 誕生地の石碑近くから、西を見たもの。 杉林の右寄りの所に「田中国広の両親の墓」、この山を越えて下った所に「刃口の水 (はぐちのみず)跡」の泉(井戸)があります。



写真BS: 田中国広 誕生地の石碑と田中国広の両親の墓の間の道のそばです。



写真BT: 田中国広 生誕地の石碑の近くです。



写真BU: 来た道を振り返ったもの。 右に石碑が見えます。



写真BV: 車道から見た石碑です。



写真BW: 田中国広 誕生地の石碑から南東に下る道があります。 この奥には先ほど見えていた棚田(たなだ)があります。 右に大きなエノキの木があります。



写真BX: 近くの様子(ようす)です。 東を見たものです。 この奥は棚田(たなだ)になっています。



写真BY: 北東を見たものです。



写真BZ: 北を見たものです。 石碑はこの家の左にあります。



写真CA: 細い下り坂から石碑などを見上げたもの。 右寄りに石碑が見えています。 北西を見たものです。



写真CB: 細い下り坂から見上げたもの。 この右に石碑があります。



写真CC: 車道の右に「田中国広の両親の墓」が見えて来ました。 白い説明板、石垣(いしがき)、柵(さく)が見えます。 ここは登り坂になっています。 西を見たもの。



写真CD: 田中国広の両親の墓は山の斜面の所にあります。



写真CE: 田中国広 両親の墓のそばに杉林があります。



写真CF: 両親の墓に行く途中(とちゅう)です。



写真CG: 南を見たものです。



写真CH: 東を見たものです。 田中国広 生家跡の近くにある町指定 ふるさとの木「エノキ」です。 樹齢 約200年、高さ 18 m 。



写真CI: 来た道を振り返ったもの。 田中国広 誕生地の石碑が小さく見えます。



写真CJ: 北を見たものです。



写真CK: これが宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にある「田中国広の両親の墓」です。 説明板も見えます。
 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 京都の堀川に住んだので堀川国広の別名もあります。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中、綾城、南綾川の三本松橋の両端にもあります。



写真CL: 綾町 大字入野 字古屋にある「田中国広の両親の墓」です。
石段、石垣、説明板、杉の木、大きな石碑(せきひ)などが見えます。



写真CM: 両親の墓の近くです。 孟宗竹(もうそうだけ)の竹林も奥に見えます。



写真CN: 「田中国広 両親の墓」です。 山の斜面の所にあります。



写真CO: 「田中国広 両親の墓」。 山の斜面の所にあります。 左にミラーがあります。



写真CP: さらに坂道を登って山を越えて下ると田中国広ゆかりの「刃口の水跡 (はぐちのみずあと)」があります。



写真CQ: この石段を登って「田中国広 両親の墓」に行きます。



写真CR: 「刀匠 国広 遺跡」と書いてある石碑(せきひ)が杉の木の下にあります。



写真CS: 入り口に「刀匠 田中国広 遺跡」と彫(ほ)ってあります。



写真CT: 「宮崎県指定文化財 昭和8年12月5日」と彫(ほ)ってあります。



写真CU: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にある田中国広の両親の墓地に「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板があります。



写真CV: 「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板があります。
 刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。 長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
 日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。 刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
 主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。 その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
 その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。 足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。 優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。
平成6年1月 綾町
県指定文化財
と書かれています。



写真CW: 「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板があります。
 刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。 長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
 日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。 刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
 主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。 その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
 その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。 足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。 優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。
平成6年1月 綾町
県指定文化財
と書かれています。



写真CX: 「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板があります。
 刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。 長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
 日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。 刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
 主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。 その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
 その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。 足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。 優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。
平成6年1月 綾町
県指定文化財
と書かれています。



写真CY: 「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板があります。
 刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。 長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
 日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。 刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
 主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。 その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
 その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。 足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。 優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。
平成6年1月 綾町
県指定文化財
と書かれています。



写真CZ: 「刀工 田中国広(國廣)について」の説明板があります。
 刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。 長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
 日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。 刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
 主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。 その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
 その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。 足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。 優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。
平成6年1月 綾町
県指定文化財
と書かれています。



写真DA: 上の方の石段の上に「田中国広の両親の墓」と石碑(せきひ)などがあります。 左にソテツの木が見えます。 右には杉の木が見えます。



写真DB: 「田中国広の両親の墓」は杉の木の近くにあります。 ここは山の斜面になっています。 北を見たものです。



写真DC: 「両親の墓」の杉林です。



写真DD: 「この近辺のたき火、たばこの吸い殻(がら)の投げ捨ては、禁止いたします。 綾町教育委員会」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DE: 上の方の石段とその下です。



写真DF: 右に漢詩の詩碑があります。 墓地の柵(さく)も見えます。



写真DG: 右寄りは説明板を横から見たもので左に漢詩の詩碑が見えます。



写真DH: 来た道を振り返ったもの。 道の奥に先ほどの「鍛刀師 國廣之史跡地」と書いてある石碑(せきひ)、その右上に町指定 ふるさとの木「エノキ」 (樹齢 約200年、高さ 18 m )が見えます。 東を見たものです。



写真DI: 両親の墓の近くです。 大きなエノキの木も見えます。



写真DJ: 「田中国広の両親の墓地」です。



写真DK: ソテツの木、石段も見えます。



写真DL: 車道、柵(さく)、石碑、杉の木も見えます。



写真DM: この車道を先に登って行くとみかん山(畑)、田中国広ゆかりの「刃口の水 (はぐちのみず)」があります。



写真DN: 南を見たものです。



写真DO: 南東を見たもの。



写真DP: 「この近辺のたき火、たばこの吸い殻(がら)の投げ捨ては、禁止いたします。 綾町教育委員会」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DQ: 奥の3つの墓が「田中国広の両親の墓」などです。 左の石碑と右の手前の石塔は近年になって造られたものです。



写真DR: 両親の墓地には杉の木もあります。



写真DS: 「田中国広の両親の墓」です。



写真DT: 斜面になっています。 手前に柵(さく)も見えます。



写真DU: 説明板の裏、漢詩の詩碑も見えます。 車道をおばあさんが手押し車で歩いていらっしゃいました。



写真DV: 墓地の入り口を見たものです。 下と上の石段があります。 石碑、説明板の裏、杉の木、左下に漢詩の詩碑も見えます。



写真DW: 「田中国広の両親の墓地」の石段です。 見下ろしたもの。



写真DX: 車道、杉の木も見えます。



写真DY: 西を見たもの。 右にソテツの木、左に杉の木も見えます。



写真DZ: 北西を見たものです。 右に大きな石碑、ソテツの木、奥に杉林も見えます。 綾町にある「田中国広 両親の墓地」です。



写真EA: 北を見たものです。



写真EB: 奥の3つの墓の2つが「田中国広の両親の墓」です。 手前の石塔は近年になって造られたものです。 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にあります。



写真EC: 田中国広の両親の墓地です。 山の斜面になっています。



写真ED: 奥の3つの墓の2つが「田中国広の両親の墓」です。 宮崎県 綾町(あやちょう)にあります。



写真EE: 「刀匠 国広 顕彰碑」が父母の墓地にあります。
昭和45年1月20日 綾町長
と書かれています。



写真EF: 「刀匠 国広 顕彰碑」が父母の墓地にあります。
昭和45年1月20日 綾町長
と書かれています。



写真EG: 「刀匠 国広 顕彰碑」が父母の墓地にあります。
昭和45年1月20日 綾町長
と書かれています。



写真EH: 「刀匠 国広 顕彰碑」が父母の墓地にあります。
昭和45年1月20日 綾町長
と書かれています。



写真EI: 綾町にある田中国広の父母の墓地です。



写真EJ: 田中国広の父母の墓地。



写真EK: 田中国広の父母の墓地です。



写真EL: 石碑の裏です。



写真EM: 石碑の裏。



写真EN: 石碑の裏です。



写真EO: 石碑の側面です。



写真EP: 石碑の側面。



写真EQ: 石碑の側面です。



写真ER: 後ろの3つの墓の2つが田中国広の父母の墓です。
手前の石塔には「旅泊庵」と石塔に彫(ほ)ってあります。 国広の父母(旅伯庵 國昌 夫妻) 墓碑。 梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)も彫ってあります。 昭和62年建立 綾町長 郷田實。



写真ES: 石塔の下部です。



写真ET: 「旅泊庵」と石塔に彫(ほ)ってあります。 国広の父母(旅伯庵 國昌 夫妻) 墓碑。 旅泊庵とは田中国広の父(田中国昌(実忠))のことです。 梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)も彫ってあります。 昭和62年建立 綾町長 郷田實。



写真EU: 父母の墓地にある石塔。 梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)も彫ってあります。



写真EV: 田中国広の父母の墓地にある石塔。 梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)も彫ってあります。



写真EW: 父母の墓地にある石塔。 梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)も見えます。



写真EX: 父母の墓地にある石塔。 梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)も見えています。



写真EY: 石塔の下部。



写真EZ: 石塔の上部です。



写真FA: 石塔の中部です。



写真FB: 「昭和62年建立 綾町長 郷田實」
と彫(ほ)ってあります。 田中国広の父母の墓地にある石塔です。



写真FC: 横から見た石塔の上部。



写真FD: 横から見た石塔の下部。



写真FE: 石塔の後ろの左寄りにある墓(供養碑)です。



写真FF: 石塔の後ろの3つの墓の1つです。



写真FG: 石塔の後ろの3つの墓の1つです。 これに梵語(ぼんご、サンスクリット語、古代インドの文語)が彫ってあります。



写真FH: 石塔の後ろの3つの墓の1つです。



写真FI: 石塔の後ろの3つの墓の1つです。



写真FJ: 石塔の後ろの3つの墓の1つ。



写真FK: 石塔の後ろの3つの墓の2つです。 寄り添(そ)うように立っています。 これが田中国広の父母の墓と思われます。
左に南天(なんてん)の葉と思われるものが見えます。



写真FL: 石塔の後ろの3つの墓の2つ。 寄り添(そ)うように立っています。 これが田中国広の父母の墓と思われます。



写真FM: 石塔の後ろの3つの墓の2つです。 寄り添(そ)うように立っています。 これが田中国広の父母の墓と思われます。



写真FN: 石塔の後ろの3つの墓の2つ。 寄り添(そ)うように立っています。 これが田中国広の父母の墓と思われます。



写真FO: 漢詩の詩碑です。 田中国広の父母の墓地。



写真FP: 田中国広の父母の墓地にある漢詩の詩碑です。



写真FQ: 漢詩の詩碑の裏です。



写真FR: 漢詩 詩碑の裏の上部です。 奥は説明板です。



写真FS: 父母の墓地から西へ坂道を登っていきます。



写真FT: 山の峠(とうげ)に近づきました。



写真FU: 坂道を登るとみかん山(畑)などがあります。



写真FV: みかん山のみかんの実に白い紙の袋が多くかけてあります。



写真FW: みかん山、人家も見えます。



写真FX: 来た坂道を振り返ったもの。



写真FY: 田中国広の父母の墓から「刃口の水跡 (はぐちのみずあと)」に行く途中(とちゅう)です。 春の良い散歩コース(綾の山里)を楽しめました。



写真FZ: 北を見た景色です。



写真GA: 北に九州中央山地の山が見えています。


写真GB: 途中(とちゅう)に「カフェ 種子」があります。



写真GC: 田中国広の両親の墓から「刃口の水跡」に行く途中(とちゅう)にある「カフェ 種子」です。



写真GD: 「ヤツデ」が実を付けていました。



写真GE: 「土筆(つくし)」が道端(みちばた)に生(は)えていました。



写真GF: ちょうど黄色の「日向夏みかん」の収穫(しゅうかく)が行われていました。



写真GG: 「日向夏」の収穫作業です。 奥に孟宗竹(モウソウダケ)もあります。



写真GH: この道を進んで「刃口の水 (はぐちのみず)」に行きます。



写真GI: 土から滲(し)み出た水のところが茶色になっています。 鉄分が多い水だと思われます。



写真GJ: 南を見た景色です。 白い紙の袋をかけたみかん畑、黄色のみかん山、民家も見えます。



写真GK: ミカンが実ったみかん山です。 田中国広の父母の墓から「刃口の水」に行く途中(とちゅう)です。



写真GL: 消防の「ホース格納箱」があります。



写真GM: 2つ目の低めの峠(とうげ)です。 奥に進み、坂道を下ります。



写真GN: 坂道を下って行くと尾原地区営農センター(尾原公民館)の建物が見えてきます。 右に広場があります。



写真GO: 「尾原地区営農センター」と書いてあります。



写真GP: 尾原地区営農センター(尾原公民館)です。



写真GQ: 来た道を振り返ったもの。 尾原地区営農センター(尾原公民館)が見えます。



写真GR: 尾原地区営農センター(尾原公民館)の近くです。



写真GS: ここは三叉路(さんさろ)になっています。 右の木の下に石碑(せきひ)が見えます。 これが「刃口の水 (はぐちのみず)」です。



写真GT: 三叉路の道です。 この奥に養蜂場があって蜜蜂を養っているところがあります。



写真GU: 田中国広ゆかりの「刃口の水」へはこの三叉路をこちらに進みます。



写真GV: ここが刀工 田中国広ゆかりの「刃口の水 (はぐちのみず)」です。 石碑(せきひ)、石垣(いしがき)などが見えます。 この中に下る石段があり、底に「刃口の水」があります。
 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 京都の堀川に住んだので堀川国広の別名もあります。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中、綾城、南綾川の三本松橋の両端にもあります。



写真GW: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字尾原にある刀工 田中国広ゆかりの「刃口の水 (はぐちのみず)」です。



写真GX: 3つの石碑(せきひ)、石垣(いしがき)などが見えます。 刃口の水跡です。



写真GY: 「刃口の水」の近くです。 右が刃口の水。



写真GZ: 「刃口の水」の近く。



写真HA: 「田中國広ノ刃口之水跡」と彫(ほ)ってある石碑が入り口にあります。 右上に別の石碑、左にも石垣が見えます。



写真HB: 「田中國広ノ刃口之水跡」と彫(ほ)ってある石碑です。



写真HC: 「田中國広ノ刃口之水跡」と彫(ほ)ってある石碑。



写真HD: 「刀工 國廣の刃口の水」と彫ってある石碑。 石碑の裏には:
「國廣は享禄4年(1531年)古屋に生まれ我国 刀工界の大御所として其(そ)の名は高く、國廣が鍛刀用に汲(く)み取った水が此(こ)の刃口の水である。
 作刀工程において最も大事な刃口の水として使用した泉であったが、近年の道路拡張などにて埋め立てられ、その面影もなく正(まさ)に荒廃せんとするを憂慮し昔日(せきじつ)の泉を復元して日本一の刀工 國廣の業績を偲(しの)び後世に伝えんと顕彰碑(けんしょうひ)を建立したものである。
平成4年3月吉日 綾町役場
と彫(ほ)ってあります。



写真HE: 「刀工 國廣の刃口の水」と彫ってある石碑があります。 石碑の裏には:
「國廣は享禄4年(1531年)古屋に生まれ我国 刀工界の大御所として其(そ)の名は高く、國廣が鍛刀用に汲(く)み取った水が此(こ)の刃口の水である。
 作刀工程において最も大事な刃口の水として使用した泉であったが、近年の道路拡張などにて埋め立てられ、その面影もなく正(まさ)に荒廃せんとするを憂慮し昔日(せきじつ)の泉を復元して日本一の刀工 國廣の業績を偲(しの)び後世に伝えんと顕彰碑(けんしょうひ)を建立したものである。
平成4年3月吉日 綾町役場
と彫(ほ)ってあります。



写真HF: 「刀工 國廣の刃口の水」と彫ってある石碑があります。 石碑の裏には:
「國廣は享禄4年(1531年)古屋に生まれ我国 刀工界の大御所として其(そ)の名は高く、國廣が鍛刀用に汲(く)み取った水が此(こ)の刃口の水である。
 作刀工程において最も大事な刃口の水として使用した泉であったが、近年の道路拡張などにて埋め立てられ、その面影もなく正(まさ)に荒廃せんとするを憂慮し昔日(せきじつ)の泉を復元して日本一の刀工 國廣の業績を偲(しの)び後世に伝えんと顕彰碑(けんしょうひ)を建立したものである。
平成4年3月吉日 綾町役場
と彫(ほ)ってあります。



写真HG: 石碑の裏には:
「國廣は享禄4年(1531年)古屋に生まれ我国 刀工界の大御所として其(そ)の名は高く、國廣が鍛刀用に汲(く)み取った水が此(こ)の刃口の水である。
 作刀工程において最も大事な刃口の水として使用した泉であったが、近年の道路拡張などにて埋め立てられ、その面影もなく正(まさ)に荒廃せんとするを憂慮し昔日(せきじつ)の泉を復元して日本一の刀工 國廣の業績を偲(しの)び後世に伝えんと顕彰碑(けんしょうひ)を建立したものである。
平成4年3月吉日 綾町役場
と彫(ほ)ってあります。



写真HH: 中央のところを下って「刃口の水」の所に行きます。 右は大きな石碑です。



写真HI: 石碑が2つ見えます。



写真HJ: この石碑もそばにあります。 平成4年3月に建立されました。
「史跡(刃口の水跡)荒廃せんとするを嘆(なげ)き同志相謀(はか)り往時の姿の復元に協力したものである。 平成4年3月吉日 尾原大明神会」と彫ってあります。



写真HK: 「史跡(刃口の水跡)荒廃せんとするを嘆(なげ)き同志相謀(はか)り往時の姿の復元に協力したものである。 平成4年3月吉日 尾原大明神会」と彫ってあります。



写真HL: 「史跡(刃口の水跡)荒廃せんとするを嘆(なげ)き同志相謀(はか)り往時の姿の復元に協力したものである。 平成4年3月吉日 尾原大明神会」と彫ってあります。



写真HM: 「刃口の水跡」の入り口です。 中から見たもの。



写真HN: 「刃口の水跡」の入り口。 石畳(いしだたみ)になっています。



写真HO: 右下に下る石段が見えます。



写真HP: 底の草があるところが「刃口の水 (はぐちのみず)」です。



写真HQ: この石段を下って「刃口の水」に行きます。 まわりは石垣(いしがき)になっています。



写真HR: 「刃口の水」に降りる石段です。



写真HS: 刃口の水、石垣、石段などが見えます。



写真HT: 石垣と左手前は石段です。



写真HU: 石畳(いしだたみ)と石碑です。



写真HV: 石碑のそばに「桃の花」が咲いていました。



写真HW: 刃口の水のそばにあった「桃の花」です。



写真HX: 刃口の水のそばにある桃の木と「桃の花」です。



写真HY: 「刃口の水」を階段の上から見下(お)ろしたもの。



写真HZ: 見下ろした「刃口の水」です。



写真IA: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字尾原にある刀工 田中国広ゆかりの「刃口の水 (はぐちのみず)」です。



写真IB: 綾町にある刃口の水です。



写真IC: この「刃口の水」を口に入れてみました。 爽(さわ)やかな水でした。 田中国広ゆかりの「刃口の水」。



写真ID: 刃口の水の畔(ほとり)に「水神」と彫られた石造物があります。



写真IE: 水神様と細長い葉の草があります。 刃口の水。



写真IF: 石垣、水神様、細長い葉の植物が見えます。



写真IG: 石垣の角(かど)と細長い葉の草が見えます。



写真IH: 刃口の水のそばから石段を見上げたものです。



写真II: 刃口の水のそばから石段を見上げたもの。



写真IJ: 刃口の水のそばの石段と石垣。



写真IK: 石段の下部です。



写真IL: 新しい木が刃口の水のそばに植えてあります。



写真IM: 手前に新しく植えた木が見えます。 「刃口の水」の石垣と3つの石碑も見えます。



写真IN: 近くに野鳥のメジロなどのために「切ったミカン」が枝に刺(さ)してありました。



写真IO: 三叉路(さんさろ)のそばから見たものです。 この奥に養蜂場があります。



写真IP: 「刃口の水」の近くにある「蜜蜂 (みつばち)の巣箱」です。 広場に蜜蜂の巣箱が多くあります。 養蜂場です。



写真IQ: 蜜蜂の巣箱です。 下のスリット(隙間(すきま))に2匹の蜜蜂(みつばち)が見えています。 巣箱から出てきた所です。



写真IR: 「刃口の水」から田中国広の父母の墓の方に戻(もど)る途中(とちゅう)です。 広場のそばに「夏の交通安全運動 実施中、交通安全は家庭・地域から、古屋公民館」の看板(かんばん)があります。



写真IS: 「菜の花」が咲いていました。



写真IT: みかん山です。 黄色のミカンと白い紙の袋をかぶせてあるミカンの実が山に見えます。 手前にネギ、野菜などが見えます。



写真IU: みかん山、みかん畑、手前は田んぼです。 人家も見えます。



写真IV: 右に団地が見えています。 このなかに「カフェ 種子」があります。



写真IW: 「モクレンの花」が咲いていました。



写真IX: 日向夏みかんの収穫作業です。



写真IY: 「種子 cafe →100 m」の看板、建設業の看板、不動産屋の看板があります。 団地への入り口付近です。



写真IZ: 「シロバナタンポポの花」が咲いていました。



写真JA: 「レンゲの花」が田んぼに咲いていました。



写真JB: 田中国広の両親の墓の所に戻(もど)って来ました。



写真JC: 左に「田中国広の生家跡」、中央に大きなエノキの木が見えて来ました。
「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」。



写真JD: 大きなエノキの木のそばです。 祠(ほこら)があります。 そばにカヌーも置いてありました。
「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」。



写真JE: 大きなエノキ、祠(ほこら)、右に石碑(せきひ)があります。



写真JF: 大きなエノキの中部です。 「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」。



写真JG: 奥は大きなエノキ。



写真JH: 「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」と彫ってある石碑があります。



写真JI: 「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」と彫ってある石碑。



写真JJ: 「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」と彫ってある石碑があります。



写真JK: 大きなエノキの下にある祠(ほこら)です。 右奥はエノキ。



写真JL: 大きなエノキにはシダ類などが生えています。
「町指定 ふるさとの木 エノ木、昭和57年10月1日 指定綾町、樹齢役200年 高さ18 m 」。



写真JM: 大きなエノキにはシダ類などが生えています。



写真JN: 「ウンナンオウバイの花」が咲いていました。



写真JO: 入り口に白い石灰がまいてあります。 牛舎があって牛が口蹄疫(こうていえき)に罹(かか)らないようにするためでしょう。



写真JP: 遠くの山に携帯電話の基地局アンテナがあります。 その右下に古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)の屋根が見えます。



写真JQ: 近くの景色です。



写真JR: 遠くに綾町の家並み(いえなみ)が見えます。 南綾川の北の山も見えます。



写真JS: 「鯉(こい)のぼり」が上がっていました。



写真JT: 左は古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)です。 中部グリーンロードの三叉路(さんさろ)が見えてきました。



写真JU: 「ノイバラの花」が咲いていました。



写真JV: 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)から三叉路を見たものです。



写真JW: 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)です。



写真JX: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字入野 字古屋にある「古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)」です。



写真JY: 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)。



写真JZ: 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)に花が植えてありました。 左は中部グリーンロードです。 北を見た景色です。



写真KA: 古屋公民館 (古屋国廣地区営農研修館)の近くです。



写真KB: 「非核平和宣言の町 綾町」の看板(かんばん)があります。



写真KC: 「古屋国廣地区営農研修館」と書いてあります。



写真KD: 中央に茶色屋根の綾町 武道館、白い大きな建物の綾町 文化ホールが見えます。 綾南川(本庄川)にかかっている三本松橋のところが少し盛り上がっています。 綾町の北の九州中央山の山並み(やまなみ)が見えます。 先に進むと県道26号線に交(まじ)わります。 手前に行くと先ほどの田中国広 誕生地があります。 北を見た景色です。



写真KE: 三本松橋の少し南から北西を見たものです。 九州中央山地の山々が見えます。 右から掃部岳(かもんだけ、標高 1223 m)、釈迦ヶ岳(しゃかがだけ、831 m)、大森岳(標高 1109 m)、七熊山(標高 929 m)などが見えているかもしれません。 南綾川の堤防も見えます。



写真KF: 西を見たもの。



写真KG: 東を見たものです。



写真KH: 北北東を見たものです。 三本松橋、綾南川の北にある、左から綾町 体育館、綾町 武道館、綾町 文化ホールなども見えます。



写真KI: 北北西を見た景色です。 南綾川の堤防が見えます。 綾町の町並み(まちなみ)も見えます。 九州中央山地が見え、左寄りの山の上に送電線鉄塔が見えています。 児湯郡 木城町にある小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線の送電線鉄塔です。



写真KJ: 綾町から見える九州中央山地です。 右寄りの山の上に送電線鉄塔があります。 児湯郡 木城町にある小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線の送電線鉄塔です。



写真KK: 綾町から見た九州中央山地です。 中央の山の上に送電線鉄塔が見えます。 児湯郡 木城町にある小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線の送電線鉄塔です。



写真KL: 西を見たもの。 近くに「とうふ」屋さんがあります。



写真KM: 南綾川にある「三本松橋」の南端です。 北を見たものです。



写真KN: 「さんぼんまつはし」と書いてあります。



写真KO: 綾町にある三本松橋には「刀工 田中国広の胸像」が両端に1つずつあります。 これは南端の田中国広の像です。 昭和62年11月竣工(しゅんこう、完成すること。)しました。
田中国広の像はこの橋の両端に2つ、綾城に1つ、宮崎市にある天神山公園に1つあります。
綾城に田中国広の弟子の国路の刀が展示されています。



写真KP: 綾町の三本松橋の南端にある「刀工 田中国広の銅像」です。 左に綾南川の右岸(下流を見て右)の堤防の上の道も見えます。
 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 京都の堀川に住んだので堀川国広の別名もあります。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中、綾城、南綾川の三本松橋の両端にもあります。



写真KQ: 胸像の下に「刀匠 田中國廣」と彫(ほ)ってあります。



写真KR: 「昭和62年11月竣工」と彫ってあります。



写真KS: 三本松橋から南綾川の上流を見たものです。 河川敷(かせんじき)に野焼きの跡が黒く見えています。 遠くの山が見えます。



写真KT: 川の水面の上に野鳥の「バン」が泳いでいました。



写真KU: 綾町(あやちょう)にある綾南川の「三本松橋」です。 北を見たものです。 右に茶色屋根の休憩所(きゅうけいしょ)も見えます。



写真KV: 橋の北端に「三本松橋」と書いてあります。



写真KW: 渡ってきた橋を振り返ったもの。 先(南)に進むと田中国広 誕生地に行きます。 南を見た景色です。



写真KX: 綾町にある綾南川の「三本松橋」北端にある「刀工 田中国広の胸像 (銅像)」です。 橋を渡って進むと田中国広 誕生地があります。
田中国広の像はこの橋の両端に2つ、綾城に1つ、宮崎市にある天神山公園に1つあります。



写真KY: 綾町にある三本松橋の北端にある「刀工 田中国広の像」です。
 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 京都の堀川に住んだので堀川国広の別名もあります。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中、綾城、南綾川の三本松橋の両端にもあります。



写真KZ: 「刀匠 田中國廣」と橋に書いてあります。



写真LA: 橋に「綾南川」と書いてあります。



写真LB: 橋から綾南川の下流を見たもの。



写真LC: 綾南川の上流を見たものです。 山並みが美しい。



写真LD: 三本松橋の南端近くに「水の恵み すみじ庵」があります。



写真LE: 綾南川の三本松橋の北端近くに「綾町 体育館」があります。



写真LF: 体育館の南隣(とな)りに「綾町 武道館」があります。



写真LG: 南を見たものです。



写真LH: 綾町 文化ホールです。



写真LI: 綾町 文化ホール。



写真LJ: 「綾町武道館」です。



写真LK: 「綾町体育館」です。



写真LL: 綾町体育館。



写真LM: 左は綾町 文化ホール、右は体育館、武道館です。 南を見たもの。



写真LN: 綾町 文化ホールです。



写真LO: 綾町 文化ホール。 東を見たものです。



写真LP: 綾町 文化ホールのそばに「タイムカプセル」が埋(う)めてあります。
タイムカプセルの石碑(せきひ)があります。
大自然にいだかれたこの大地に眠るタイムカプセルは綾町が昭和7年10月1日に町制を施行してから昭和57年で50周年を迎えたことを記念してこれまで先人のみなさま方の強い郷土愛に育(はぐく)まれ躍進し続けた歩みや現在の姿を収録するとともに、25年、50年後の未来像や夢、期待などを収納しています。
解筒日 西暦2007年10月1日・西暦2032年10月1日
昭和58年3月吉日 綾町長 郷田 實
と書いてあります。



写真LQ: 綾町のタイムカプセルが埋(う)めてあります。



写真LR: 「町制施行75周年記念タイムカプセル、解筒日 西暦2032年10月」と書いてあります。



写真LS: 「綾町 文化ホール」です。



写真LT: 県道26号線です。 「↑綾雛山まつり (あやひなやままつり) 駐車場」の看板(かんばん)があります。 西を見たもの。 右奥に綾町役場があります。 この十字路を左に曲がると綾町 体育館、武道館、文化ホールや「刀工 田中国広」誕生地があります。



写真LU: 「綾町役場前」と交通信号機のそばに書いてあります。 右奥に綾町役場があります。 西を見たもの。



写真LV: 宮崎県 東諸県郡 綾町で行われる雛山まつりの「雛山 (ひなやま)」です。 中央に雛人形 (ひなにんぎょう)が飾ってあります。 まわりを桃の花、菜の花、多種の野菜、日向夏みかんなどで飾ってあります。 綾町役場前の交差点の近くにこの雛山がありました。



写真LW: 「物産品店 手つくり ほんもの処(どころ)」です。 左奥に綾町役場が少し見えています。 北東を見たものです。



写真LX: 「物産品店 手つくり ほんもの処(どころ)」です。



写真LY: 「綾町 産業観光案内所」です。 「物産品店 手つくり ほんもの処(どころ)」の南にあります。



写真LZ: 綾町役場の東にある「物産品店 手つくり ほんもの処(どころ)」には日向夏みかんなどいろいろなミカンも販売しています。



写真MA: 「物産品店 手つくり ほんもの処(どころ)」の中です。



写真MB: 左奥に綾町役場の茶色の建物が見えます。 中央はアイス工房です。 ソフトクリームなどを販売しています。 右上に見えている屋根の一部は「物産品店 手つくり ほんもの処(どころ)」です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)