掃海艇 あおしま、宮崎港 (海上自衛隊、宮崎港フェリーターミナル、新別府川の河口、一ツ葉入江、阿波岐原森林公園、公園、一ツ葉有料道路、一ツ葉橋、フェリー)  (宮崎県 宮崎市 港)







<標高、位置>  宮崎港 フェリー発着所  (宮崎港フェリーターミナル)は
標高 数 m
 北緯31度54分39秒  東経131度27分27秒

<標高、位置>  宮崎港 漁港は
標高 数 m
 北緯31度53分55秒  東経131度27分22秒

<標高、位置>  新別府川(しんびゅうがわ)の河口は
標高 0 m
 北緯31度54分56秒  東経131度27分34秒


 「宮崎港フェリーターミナル」は宮崎県 宮崎市 港 3丁目14番地 にあります。

 海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」は2005年2月9日に完成しました。
「あおしま」は中型掃海艇で海中の機雷 (きらい)を除去して、他の船が安全に航海できるようにします。 排水量は基準: 510トン、全長: 9.4 m、深さ: 4.5 m、きっ水: 3.0 m、ディーゼルエンジン (900 hp/670 kW)2基、電動機 (130 kW/170 hp)、スクリュープロペラは2軸、速力は14ノット (25.9 km/h)、乗員: 45人、武装はM61-M20mm 多銃身機銃1門、レーダーは対水上捜索用、ソナーは可変深度式、機雷処分具2機、普通掃海具、感応掃海具。

 「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。

 「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。

 「江田川 (えだがわ)」は江田神社 (市民の森)が源流となっています。 宮崎県中央部の新別府川 (しんびゅうがわ)の支流です。 江田川は1級河川、延長 4.8 km、流域 6.3 平方キロメートル。 流域の約50 %が農地で稲作、ハウス園芸が行われています。 東部にシーガイア、サンビーチ 一ツ葉、一ツ葉稲荷神社、阿波岐原森林公園などがあります。 源流の江田神社の東側では山崎ホタルの里 (山崎ホタルピア)があり、ゲンジボタルが見られます。 江田川にはコウホネ、ミズキンバイ、ホテイアオイなどが自生しています。

 「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。


写真A: 宮崎港フェリーターミナルの建物です。 南を見たものです。 「宮崎港フェリーターミナル」は宮崎県 宮崎市 港 3丁目14番地 にあります。



写真B: 宮崎カーフェリー時刻表、関西航路運賃表、宮崎カーフェリー乗車券発売窓口、大阪行などと書いてあります。



写真C: 繁忙期設定期間、旅客運賃表、A”LINE 大島運輸 乗車券発売所、阪神−宮崎−奄美 (あまみ)−沖縄 (おきなわ)などと書いてあります。



写真D: 奥にカーフェリーの赤と白の船体が見えます。 波止場 (はとば)に行くドアが開いています。 木のベンチ、丸い壁時計、公衆電話、トイレなどの案内標識も天井 (てんじょう)にあります。 室内のベンチやカーフェリーの近くに人が見えます。



写真E: カーフェリーの船着場の少し北に海上自衛隊の掃海艇 (そうかいてい)「あおしま」が停泊しています。 内部の一般公開が行われていました。 左寄り遠くにオーシャン45のホテルが見えています。 左に外灯も並 (なら)んでいます。 見学者たちも見えます。 北を見たもの。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真F: 宮崎港に停泊している海上自衛隊の「掃海艇 あおしま」です。 「あおしま」の大きな2つの煙突 (えんとつ)、白っぽいタラップ、甲板 (かんぱん)にも人が見えます。 右に黄色の装備、白い装備なども見えています。 左にテント、受付所、バスも見えます。 北東を見たものです。
海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」は2005年2月9日に完成しました。
「あおしま」は中型掃海艇で海中の機雷 (きらい)を除去して、他の船が安全に航海できるようにします。 排水量は基準: 510トン、全長: 9.4 m、深さ: 4.5 m、きっ水: 3.0 m、ディーゼルエンジン (900 hp/670 kW)2基、電動機 (130 kW/170 hp)、スクリュープロペラは2軸、速力は14ノット(25.9 km/h)、乗員: 45人、武装はM61-M20mm 多銃身機銃1門、レーダーは対水上捜索用、ソナーは可変深度式、機雷処分具2機、普通掃海具、感応掃海具。



写真G: 甲板 (かんぱん)に多くの見学者や自衛官がいます。 海上自衛隊の掃海艇 あおしま。 宮崎港にて。



写真H: 白っぽいタラップに「掃海艇 あおしま」と書いてあります。 中央右寄りに黒いボートのようなものもあります。 右端に白地に赤の旭日旗 (きょくじつき、朝日を描いた旗です。)が立っています。 中央左にレーダーのアンテナのようなものもあります。 その他にも高いアンテナが数本あります。 高い柱に日章旗 (日本の国旗)が見えます。
海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」は2005年2月9日に完成しました。
「あおしま」は中型掃海艇で海中の機雷 (きらい)を除去して、他の船が安全に航海できるようにします。 排水量は基準: 510トン、全長: 9.4 m、深さ: 4.5 m、きっ水: 3.0 m、ディーゼルエンジン (900 hp/670 kW)2基、電動機 (130 kW/170 hp)、スクリュープロペラは2軸、速力は14ノット(25.9 km/h)、乗員: 45人、武装はM61-M20mm 多銃身機銃1門、レーダーは対水上捜索用、ソナーは可変深度式、機雷処分具2機、普通掃海具、感応掃海具。



写真I: 「掃海艇 あおしま」の機銃です。 数本の銃身があります。 輪がいくつもある照準器、射撃する人を守る金属の大きな防御板も2枚見えます。 遠くにクロマツ林が見えます。
M61-M20mm 多銃身機銃です。



写真J: 「掃海艇 あおしま」の甲板 (かんぱん)です。 さらに一段高いところにも見学者がいます。



写真K: 奥に「あおしま」の機銃が見えます。 甲板の上です。



写真L: 「掃海艇 あおしま」の柱を見上げたものです。 多くのロープのようなものを張 (は)ってあります。 ハシゴも見えます。



写真M: 北を見たものです。 「あおしま」の甲板 (かんぱん)に錨 (いかり)を上げ下げする大きな鎖 (くさり)、機銃の左に銃弾を送り込 (こ)む弾帯が見えます。 甲板の端 (はし)には網の柵 (さく)があります。



写真N: 「掃海艇 あおしま」の高い柱と数本の長いアンテナです。 柱には日章旗 (国旗)、風向計・風速計も見えます。



写真O: 「掃海艇 あおしま」の艦橋 (戦闘、航海の指揮をとる所です。)と両側の大きな双眼鏡です。



写真P: 双眼鏡の左に探照灯 (サーチライト)があります。 甲板のネット付き柵 (さく)があります。 南東を見たものです。 遠くに8個ぐらいの大きな円筒形の石油タンク、宮崎港近くの建物が見えます。



写真Q: 黄色の装備に「AOSHIMA」と書いてあります。 旭日旗 (きょくじつき)も描いてあります。 左にスクリューのようなものがあります。



写真R: 「掃海艇 あおしま」の船尾の旭日旗 (きょくじつき)です。 奥に宮崎港のフェリーも見えます。 南を見たものです。



写真S: 2つの白い装備があります。 奥に赤い浮きのようなものがあります。 南東を見たものです。



写真T: 右「掃海艇 あおしま」の船尾にある旭日旗 (きょくじつき)です。 「あおしま」から南を見たものです。 宮崎港に停泊しているフェリーが見えます。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真U: 「海上自衛隊」と書いてあるボートがあります。 下にもボートがあります。 東を見たものです。



写真V: 海上自衛隊の掃海艇「あおしま」です。 左右に大きな2つの煙突 (えんとつ)があります。 宮崎港にて。



写真W: 宮崎港に停泊している海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」です。 一般公開が行われました。



写真X: 掃海艇を見学して上陸しました。 「艇内 (ていない)一般公開中 掃海艇あおしま」と書いてあります。 ロープで岸壁のボラードにつないであります。 宮崎港にて。



写真Y: 西から見た海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」の前部です。 左端に受付所のテントがあります。 宮崎県 宮崎市にある宮崎港にて。
海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」は2005年2月9日に完成しました。
「あおしま」は中型掃海艇で海中の機雷 (きらい)を除去して、他の船が安全に航海できるようにします。 排水量は基準: 510トン、全長: 9.4 m、深さ: 4.5 m、きっ水: 3.0 m、ディーゼルエンジン (900 hp/670 kW)2基、電動機 (130 kW/170 hp)、スクリュープロペラは2軸、速力は14ノット(25.9 km/h)、乗員: 45人、武装はM61-M20mm 多銃身機銃1門、レーダーは対水上捜索用、ソナーは可変深度式、機雷処分具2機、普通掃海具、感応掃海具。



写真Z: 海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」の後部です。
海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」は2005年2月9日に完成しました。
「あおしま」は中型掃海艇で海中の機雷 (きらい)を除去して、他の船が安全に航海できるようにします。 排水量は基準: 510トン、全長: 9.4 m、深さ: 4.5 m、きっ水: 3.0 m、ディーゼルエンジン (900 hp/670 kW)2基、電動機 (130 kW/170 hp)、スクリュープロペラは2軸、速力は14ノット(25.9 km/h)、乗員: 45人、武装はM61-M20mm 多銃身機銃1門、レーダーは対水上捜索用、ソナーは可変深度式、機雷処分具2機、普通掃海具、感応掃海具。



写真AA: 遠くに宮崎港の近くの建物が見えます。 南東を見たものです。



写真AB: 南を見たものです。 カーフェリー、外灯、車、遠くにワシントン椰子 (やし)も見えます。 宮崎港です。



写真AC: 海上自衛隊関係のテントです。 右端は掃海艇あおしまです。 北東を見たものです。



写真AD: 北西を見たものです。 宮崎港。



写真AE: 西を見たものです。 松林が見えます。



写真AF: 南西を見たものです。 宮崎港です。



写真AG: 南を見たものです。 宮崎港です。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真AH: 自衛官の絵が書いてあります。 顔の部分は穴になっていて、そこから顔が写真の時に写 (うつ)ります。



写真AI: 宮崎港の北端のようすです。 北東を見たものです。 奥に防波堤があります。



写真AJ: 宮崎港の北端は新別府川 (しんびゅうがわ)の河口になっています。 ここが新別府川の河口です。 左が上流になっています。 対岸に阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)があります。 北を見たものです。
新別府川 (しんびゅうがわ)の河口です。 左奥から川は流れています。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。 以前、対岸の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。 昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。

「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。

「江田川 (えだがわ)」は江田神社 (市民の森)が源流となっています。 宮崎県中央部の新別府川 (しんびゅうがわ)の支流です。 江田川は1級河川、延長 4.8 km、流域 6.3 平方キロメートル。 流域の約50 %が農地で稲作、ハウス園芸が行われています。 東部にシーガイア、サンビーチ 一ツ葉、一ツ葉稲荷神社、阿波岐原森林公園などがあります。 源流の江田神社の東側では山崎ホタルの里 (山崎ホタルピア)があり、ゲンジボタルが見られます。 江田川にはコウホネ、ミズキンバイ、ホテイアオイなどが自生しています。

「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真AK: 河口近くの新別府川です。 北西を見たものです。 左に橋と水門の建物、一ツ葉有料道路のワシントン椰子 (やし)が見えます。 対岸は阿波岐原森林公園 (あわきがはらしんりんこうえん)になっています。 手前では魚釣りをしています。
新別府川 (しんびゅうがわ)の河口付近です。 左奥から川は流れています。 宮崎港(一ツ葉入江)に注(そそ)いでいます。 以前、対岸の護岸のところできれいな色の野鳥「カワセミ」を見たことがあります。 昭和30年頃はこの新別府川の河口南岸に一ツ葉入江の「渡し舟(わたしぶね)」がありました。 手漕(てこ)ぎの渡し舟で入江の東岸に渡っていました。 子供だった私も友人と釣竿(つりざお)を持ち入江の対岸(東岸)に渡し舟で渡り、魚を釣(つ)りました。 一ツ葉入江ではハゼ、ワタリガニなどが釣れたのを覚えています。 また、新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。
「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。

「江田川 (えだがわ)」は江田神社 (市民の森)が源流となっています。 宮崎県中央部の新別府川 (しんびゅうがわ)の支流です。 江田川は1級河川、延長 4.8 km、流域 6.3 平方キロメートル。 流域の約50 %が農地で稲作、ハウス園芸が行われています。 東部にシーガイア、サンビーチ 一ツ葉、一ツ葉稲荷神社、阿波岐原森林公園などがあります。 源流の江田神社の東側では山崎ホタルの里 (山崎ホタルピア)があり、ゲンジボタルが見られます。 江田川にはコウホネ、ミズキンバイ、ホテイアオイなどが自生しています。

「阿波岐原森林公園」は宮崎県 宮崎市 新別府町 上和田 1336-1 にあります。 広いので新別府町、山崎町、阿波岐原町にまたがっています。 昭和32年(1956年)2月4日に阿波岐原森林公園を広域公園に決定し、開設は昭和61年4月1日です。 都市計画公園区域 390.9 ha 。 主な施設(周辺施設を含む)はみやざき臨海公園(サンマリーナ宮崎、サンビーチ一ツ葉)、宮崎市フェニックス自然動物園、国際海浜エントランス、、フローランテ宮崎、市民の森、シーガイア、新別府公園、フェニックス カントリー クラブなどです。



写真AL: 西を見たものです。 右は新別府川です。 宮崎港の北端です。



写真AM: 南西を見たものです。 左にフェリーが見えます。 外灯、車、松林も見えています。



写真AN: 右に掃海艇 「あおしま」やフェリーが見えます。 左に大きな円筒形の石油タンクや建物が見えます。 南東を見たものです。 宮崎港。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。



写真AO: 東南東を見たものです。 右に大きな円筒形の石油タンクが見えます。 魚釣りの人達が手前にいます。 宮崎港。



写真AP: 東を見たものです。 宮崎港の北端です。 奥に宮崎港の防波堤があります。



写真AQ: 南を見たものです。 掃海艇 「あおしま」やフェリーが見えます。 外灯、東屋 (あずまや)、松林もあります。



写真AR: 海上自衛隊 掃海艇 「あおしま」のタラップ、自衛官の3つの絵、受付所などのテントも見えます。 南を見たものです。 宮崎港。



写真AS: 近くにあるトイレです。



写真AT: 奥に新別府川の水門の四角の建物が見えます。 その手前に一ツ葉有料道路が通っています。 右はトイレ、ワシントン椰子 (やし)、駐車場、プランターの花も見えています。 北西を見たものです。



写真AU: 駐車場の奥は左右に一ツ葉有料道路が通っています。 奥の一ツ葉有料道路のワシントン椰子 (やし)と夾竹桃 (きょうちくとう)の木が並んでいます。 西を見たものです。



写真AV: 一ツ葉有料道路以外にもワシントン椰子 (やし)があります。 外灯も見えます。



写真AW: 奥に宮崎港の松林があります。 南東を見たものです。 芝生 (しばふ)、東屋 (あずまや)、敷石 (しきいし)もあります。 公園になっています。



写真AX: 左に宮崎港の水面が見えます。 フェニックス ロベレニーを植えてあります。 松林、東屋 (あずまや)も見えます。 東南東を見たものです。



写真AY: 東を見たものです。 フェニックス ロベレニーの並木 (なみき)、宮崎港の水面、外灯、左端のトイレ、松林も見えます。



写真AZ: トイレです。



写真BA: 北西を見たものです。



写真BB: 北西を見たものです。 奥にイオンモールの建物が見えます。 左端は新別府川の水門の建物です。



写真BC: 一ツ葉有料道路です。 道路の中央にはワシントン椰子 (やし)があります。 その右に夾竹桃 (きょうちくとう)の白い花が見えます。 北西を見たものです。



写真BD: 北東を見たものです。 先ほどのトイレも見えます。



写真BE: 東北東を見たものです。 東屋 (あずまや)、松林、ワシントン椰子 (やし)、芝生 (しばふ)があります。



写真BF: 松林、東屋 (あずまや)、ワシントン椰子、ビロウ樹、芝生があります。



写真BG: 南を見たものです。 右からワシントン椰子 (やし)、夾竹桃 (きょうちくとう)、ビロウ樹があります。 右は一ツ葉有料道路です。



写真BH: 一ツ葉有料道路の赤と白の夾竹桃 (きょうちくとう)の花が見えます。 南西を見たものです。



写真BI: 一ツ葉有料道路の中央にワシントン椰子 (やし)、左端に夾竹桃 (きょうちくとう)が見えます。 西北西を見たものです。



写真BJ: 左からワシントン椰子 (やし)、夾竹桃 (きょうちくとう)、ビロウ樹があります。 一ツ葉有料道路です。 北西を見たものです。



写真BK: 旧道の一ツ葉橋です。 この古い橋のところに、昔は五厘橋 (ごりんばし)がありました。 昔はこの下を新別府川が流れていました。 北西を見たものです。 新別府川の河口より少し上流には五厘橋(ごりんばし)がありました。 これは昔に橋を造った人が通行料 5厘(りん)(円の1000分の1を厘と言います。)を徴収したのでこの名前が付きました。 五厘橋の少し下流の新別府川南岸でまだ小さい鰻(うなぎ)が釣れたことがあります。



写真BL: 旧道の一ツ葉橋です。 新別府川にかかっている橋です。



写真BM: 「ひとつばはし」と書いてあります。 旧道の一ツ葉橋です。



写真BN: 「新別府川」と書いてあります。 旧道の一ツ葉橋です。



写真BO: 「昭和40年3月竣工 (しゅんこう、完成することです。)」と書いてあります。 旧道の一ツ葉橋です。



写真BP: 旧道の一ツ葉橋です。



写真BQ: 宮崎港に戻 (もど)ってきました。 海上自衛隊 掃海艇 あおしま も見えています。 北を見たものです。



写真BR: 宮崎港に停泊している「掃海艇 あおしま」です。 「あおしま」の一般公開が行われていました。



写真BS: 一般公開が行われている海上自衛隊の掃海艇 あおしま です。 宮崎港。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)