西都市立歴史民俗資料館、西都市立図書館、西都市公民館、西都市立 妻中学校 (伊東マンショの像、二宮金次郎 像、佐土原領境を示す石造道標、西都市 勤労青少年ホーム)  (宮崎県 西都市 大字妻、大字右松)







<標高、位置>  「西都市歴史民俗資料館」は
標高 約10 m
 北緯32度06分26秒  東経131度24分09秒

<標高、位置>  「西都市立図書館」は
標高 約10 m
 北緯32度06分25秒  東経131度24分10秒

<標高、位置>  「西都市勤労青少年ホーム」は
標高 約10 m
 北緯32度06分24秒  東経131度24分09秒

<標高、位置>  「西都市公民館」は
標高 約10 m

 北緯32度06分23秒  東経131度24分09秒

<標高、位置>  「西都市立 妻中学校」は
標高 約10 m
 北緯32度06分25秒  東経131度24分06秒


 「西都市歴史民俗資料館」は宮崎県 西都市 大字妻 1241-1 にあります。
 西都市の遺物、文化財、民俗芸能を展示してあります。 考古展示室、歴史展示室、民族展示室、特別展示室があります。

 「西都市公民館」は宮崎県 西都市 大字右松 2606番地1 にあります。

 「西都市立図書館」は宮崎県 西都市 大字右松 2606番地1 にあります。
 西都市に住んでいる人は誰でも利用できます。 西都市情報コーナー、新聞・雑誌の閲覧コーナー、利用者使用検索コーナー、DVD・CD視聴コーナー、インターネット利用コーナー (閲覧のみです。)があります。

 「西都市勤労青少年ホーム」は宮崎県 西都市 大字右松 260 にあります。 (西都市立図書館の隣 (とな)りにあります。)
 西都市に住んでいる人か、勤務先が西都市にある人が利用できます。 年齢制限はありません。 活動・出会いの場です。 体育室、音楽室、集会室があります。

 「西都市立 妻中学校」は宮崎県 西都市 大字右松 2534番地 にあります。
 1947年5月8日に開校しました。 当時は妻町立妻中学校でした。 1955年4月1日に西都町ができて西都町立妻中学校に改称されました。 1958年11月1日に西都市ができて西都市立妻中学校に改称されました。

 「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 伊東マンショは西都市の都於郡城 (とのこおりじょう)で生まれました。 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
 都於郡城跡の伊東マンショの像の説明板から、
 「伊東満所(マンショ)」は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。
 一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。
 ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。


写真A: 「西都市公民館」と入り口に書いてあります。



写真B: 西都市公民館です。



写真C: 「西都市立歴史民俗資料館」と書いてあります。
「西都市歴史民俗資料館」は宮崎県 西都市 大字妻 1241-1 にあります。
 西都市の遺物、文化財、民俗芸能を展示してあります。 考古展示室、歴史展示室、民族展示室、特別展示室があります。



写真D: 西都市立歴史民俗資料館です。



写真E: 二宮金次郎の像と右に石碑 (せきひ)があります。



写真F: 説明板、石造物、石碑 (せきひ)などが見えます。



写真G: 「石造文化財」の説明板があります。
 近年、著しき開発行為等によって多くの石造文化財が消滅している。 これらは、歴史を語り継 (つ)ぐ貴重な市民の共有財産でもある。
 特にこの石標は、江戸時代の佐土原領境を示した道標で、西都市の南端「茶屋」に立てられていたものを、昭和58年10月、土地の開発に起因し移管したものである。 一昔時代前頃までの市内には、各所にこれらの石造道標を多く見受けることも容易であった。
 なおこの説明板は、沖縄県 八重山郡 竹富村 西表「山崎国雄 氏」の篤志寄贈によるものである。
昭和59年 西都市教育委員会
と書かれています。



写真H: 「勤労青少年ホーム」と書いてあります。 西都市立図書館の隣 (とな)りにあります。
「西都市勤労青少年ホーム」は宮崎県 西都市 大字右松 260 にあります。 (西都市立図書館の隣 (とな)りにあります。)
 西都市に住んでいる人か、勤務先が西都市にある人が利用できます。 年齢制限はありません。 活動・出会いの場です。 体育室、音楽室、集会室があります。



写真I: 西都市立 妻中学校です。 グラウンド、鉄棒、木、校舎などが見えます。
「西都市立 妻中学校」は宮崎県 西都市 大字右松 2534番地 にあります。
 1947年5月8日に開校しました。 当時は妻町立妻中学校でした。 1955年4月1日に西都町ができて西都町立妻中学校に改称されました。 1958年11月1日に西都市ができて西都市立妻中学校に改称されました。



写真J: 妻中学校です。 野球部が練習しています。



写真K: 西都市立 妻中学校です。 野球部が練習しています。



写真L: ネット、ゴールが見えます。 妻中学校です。



写真M: 西都市立妻中学校。



写真N: 西都市立図書館です。
「西都市立図書館」は宮崎県 西都市 大字右松 2606番地1 にあります。
 西都市に住んでいる人は誰でも利用できます。 西都市情報コーナー、新聞・雑誌の閲覧コーナー、利用者使用検索コーナー、DVD・CD視聴コーナー、インターネット利用コーナー (閲覧のみです。)があります。



写真O: 「西都市立図書館」と書いてあります。



写真P: 西都市歴史民俗資料館です。
「西都市歴史民俗資料館」は宮崎県 西都市 大字妻 1241-1 にあります。
 西都市の遺物、文化財、民俗芸能を展示してあります。 考古展示室、歴史展示室、民族展示室、特別展示室があります。



写真Q: 右に伊東マンショの像があります。 西都市歴史民俗資料館です。



写真R: 伊東マンショの像です。



写真S: 「伊東満所 胸像」と書いてあります。 西都市歴史民俗資料館にあります。
「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 伊東マンショは西都市の都於郡城 (とのこおりじょう)で生まれました。 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
 都於郡城跡の伊東マンショの像の説明板から、
 「伊東満所(マンショ)」は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。
 一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。
 ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。



写真T: 「西都市歴史民俗資料館」と書いてあります。
「西都市歴史民俗資料館」は宮崎県 西都市 大字妻 1241-1 にあります。
 西都市の遺物、文化財、民俗芸能を展示してあります。 考古展示室、歴史展示室、民族展示室、特別展示室があります。



写真U: 西都市歴史民俗資料館の入り口です。



写真V: 「定礎 平成4年3月」と書いてあります。 西都市歴史民俗資料館です。



写真W: 以前は妻中学校にあった二宮金次郎 像が、今は西都市歴史民俗資料館に移されています。



写真X: 左に車道があります。 二宮金次郎 像の右に石碑 (せきひ)があります。



写真Y: 背中には薪 (まき)を背負 (せお)い、手には本を広げています。 二宮金次郎 像です。
二宮金次郎 (二宮尊徳)は江戸時代末期の篤農家 (とくのうか)です。 相模 (さがみ、今の神奈川県です。)の人です。 605箇所 (かしょ)の町村を復興させました。 1787年に生まれて1856年に亡くなりました。



写真Z: 斜 (なな)め横から見た二宮金次郎 像です。



写真AA: 後ろから見た二宮金次郎 像です。 背中に薪 (まき)を背負 (せお)っています。



写真AB: 奥に西都市歴史民俗資料館の駐車場が見えます。 手前は二宮金次郎 像です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)