佐土原城 (佐土原城祭り、鶴松館、佐土原城址公園、島津入城410年記念事業、宮崎市 佐土原地区交流センター、うずら車、神代こま (ぶんぐるま)、佐土原人形、鯨羊羹 (くじらようかん)、宮崎市のイメージ キャラクター「ミッシ」、佐土原小学校、弁天山、佐土原神社、佐土原保育園、久峰総合公園、鴨汁 (かもじる)、一ツ瀬焼き)  (宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島)







<標高、位置>  佐土原城本丸跡は
標高 約69 m
 北緯32度02分48秒  東経131度25分18秒

<標高、位置>  鶴松館 (かくしょうかん、二の丸跡)は
標高 約10 m
 北緯32度02分53秒  東経131度25分33秒

<標高、位置>  弁天山 (べんてんやま)は
標高 約50 m
 北緯32度03分00秒  東経131度25分38秒

<標高、位置>  佐土原神社は
標高 約10 m
 北緯32度02分57秒  東経131度25分39秒

<標高、位置>  久峰総合公園は
標高 約40 m
 北緯32度01分20 秒  東経131度27分37 秒

<標高、位置>  久峰総合公園の展望台は
標高 88.7 m
 北緯32度01分27秒  東経131度27分40秒


 「佐土原城跡 (鶴松館)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 8202−1 にあります。
 佐土原城の歴史は、
14世紀頃 田島 氏 (伊東の分家です。)が佐土原城を造りました。 1427年頃 田島 氏を伊東が滅 (ほろ)ぼし伊東の城となりました。 1536年 伊東義祐 (よしすけ)が佐土原城主になりました。 1537年 火災になり、伊東義祐は宮崎城へ移りました。 その5年後に佐土原城を修築しました。 1568年 伊東が日向国の大半を支配しました。 1572年 伊東が木崎原の戦いで島津に大敗しました。 1577年 伊東一族が大分県の大友を頼り豊後 (ぶんご)に落ち延びました。 1578年 大友宗麟 (そうりん)が木城町の高城川合戦 (耳川の戦いとも言う。)で大敗しました。 1579年 島津家久が佐土原城主になりました。 1588年 島津家久が急死し、その子の豊久が継 (つ)ぎました。 1600年 31歳だった島津豊久が関が原の戦いで討ち死にしました。 その結果、佐土原城は徳川家康の家臣 庄田三太夫 (しょうださんだゆう)が治 (おさ)めました。 1603年 島津以久 (ゆきひさ)が佐土原藩の初代藩主になりました。 1604年 島津以久が佐土原城に入城しました。 1610年 島津以久が亡くなり、忠興 (ただおき)が継ぎ、そばの山の上にあった本丸を麓 (ふもと)の館 (やかた)に移しました。 1612年 菩提寺の高月院を建立しました。 1869年 明治時代になり、最後の藩主の島津忠寛 (ただひろ)が広瀬へ転城し、翌年に広瀬城は廃城となりました。 1871年 廃藩置県。 1993年 佐土原城跡資料館 「鶴松館」がオープンしました。 2004年 佐土原城跡が国指定史跡となりました。

 天正7年 (1579年)に伊東に変わり島津家久が佐土原城主になりました。 その8年後、天正15年 (1587年)に家久は佐土原城で急死しました。 その後に家久の子である豊久が後継者になりました。 島津豊久は豊臣秀吉に従って功を立てました。 島津豊久は慶長5年 (1600年)の関が原の戦いに伯父 (おじ)の島津義弘に従って西軍として参戦しました。 島津豊久は島津義弘の身代わりとなって戦死しました。 豊久には子供がいなかったので、佐土原城と領地は徳川家康に明け渡しとなりました。 島津豊久の一族と家臣は、鹿児島の本家の計 (はか)らいで鹿児島の吹上町永吉 (今の日置市。)に移りました。 その3年後 (慶長9年(1604年))の2月に鹿児島の垂水 (たるみず、今の垂水市。)から家久のいとこの島津以久 (ゆきひさ)が佐土原城に入城しました。 これは徳川家康から島津以久が佐土原の領地をもらったからです。 これが江戸時代の3万石 佐土原藩の始まりです。 島津家久と島津豊久の墓は宮崎県 宮崎市 佐土原町と鹿児島県 吹上町の永吉にあります。

 「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。

 佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。

 「久峰うずら車」の佐土原町伝統工芸品保存会のパンフレットから、
うずら車は宮崎県指定伝統的工芸品です。 東北地方を代表する民芸品に「こけし」があり、これに対して九州地方だけに、うずら車のように「車」の付いた木製民芸品があります。 前者は静的であり、後者が動的であるのは気候風土の影響と考えられます。 これら九州地方の車玩具 (がんぐ)の発生についてはいろいろな説がありますが、久峰うずら車は、昔し百済 (くだら)から来た100歳の僧が、長生きの記念として奉納したのが始まりと言われています。 1400年前、新羅国 (しらぎこく)の高僧、日羅上人が開基したと伝えられる、佐土原町の久峰観音は、安産、無病、長寿の御利益があるといわれ、その縁起物としてまた子供のお土産 (みやげ)として、門前で売られていたものです。 この玩具は、前世紀初め頃には外国にも輸出され、玩具界の西の関取として注文に応じきれない程 (ほど)の名声を博した記録もあります。 制作にはタラの木を用い手斧 (ておの)で削 (けず)っただけで生地を生かし、絵柄も優しく女性的で、単純で素朴さがかえって親しみやすさを醸 (かも)し出しています。 久峰うずら車は雌雄一対が特徴になっています。

 「久峰うずら車」の説明書から、
久峰うずら車は、安産、開運、長寿等、久峰観音 (585年建立)の縁起物 (えんぎもの)として伝わっています。
 うずら車の発祥については、500年〜800年の歴史を持つとも言われ、落人達が伝えた、木地師や木挽 (こびき)達が伝えた、帰化人が伝えた、久峰観音の開基に伴う百済の僧が伝えた等々、種々の説がありますが、最近では、郷土史研究家によると、熊本県湯前から西米良を経 (へ)て一ツ瀬川添 (ぞ)いに伝わり、久峰地区に住んでいた、木挽衆によって山から里への土産として持ち帰っていたものを名前もキジからウヅラに変化させて、伝説を生みながら久峰観音の縁日 (えんにち)に合わせてお守りとして売り出した、という説が一番史実に近いものと言われるようになりました。
 製作にはイヌダラ (カラスザンショウ)の木を使い、初期のころには手斧 (ておの)で削 (けず)っただけの素朴なもので、絵付けの材料も、自然の植物の花や実の汁 (しる)等を使っていました。 久峰うずら車は雄と雌 (めす)で一対 (いっつい)となっており、日向夫婦うずら車として6月と12月の縁日には、安産祈願のお守りとしてもてはやされていました。
 先の戦争を境に、現代玩具 (がんぐ)の氾濫 (はんらん)に追われるように衰退の一途 (いっと)をたどる中で、宮崎県認定工芸士 兵頭正一 氏が唯一の継承者として製法を受け継いでいます。

 「鯨羊羹 (くじらようかん)」は佐土原の伝統的な銘菓です。
鯨ようかんは米の粉を練 (ね)って、餡 (あん)をはさみ蒸 (む)したものです。 日持ちはあまりしません。 鯨ようかんの由来 (ゆらい)は、佐土原藩 4代藩主の島津忠高が26歳で亡くなりました。 その子の万吉丸はまだ1歳だったため、世継 (よつ)ぎ争いが起こりました (松木事件)。 その中で、万吉丸の母である松寿院が「息子 (むすこ)と藩が、鯨 (くじら)のように力強くたくましく育ってほしい。」と願って鯨に似たような羊羹 (ようかん)を作らせました。 その後、万吉丸は5代藩主 (6代とも言う。)島津惟久となり、名君と言われました。

 宮崎市のイメージ キャラクターは「ミッシ」です。 かわいい女の子の姿をしています。 佐土原城に来ていました。
「ミッシちゃん」は宮崎市の自然・神話・食から3つの「シ」をとって名付けられました。

 「四半的 (しはんまと)」は弓道の一種で、宮崎県 日南市 飫肥 (おび)を中心に伝わっています。 日南市無形民俗文化財に指定されています。 的 (まと)までの距離が4間半 (8.2 m)、矢の長さが4尺半 (1.36 m)、的の直径が4寸半 (13.6 cm)であることから、四半的と呼ばれます。 歴史的には、1567年 (永禄10年)に伊東義祐 (よしすけ、佐土原城の城主でもありました。)が島津忠親が居城する飫肥城 (おびじょう)を攻撃しました。 島津は援軍を送ってきましたが、竹で作った半弓を持った農民たちが迎え撃 (う)ち伊東義祐が戦いに勝利しました。 このことから、伊東義祐が農民たちに娯楽 (ごらく)で弓を使うことを許しました。 これが四半的の始まりです。


写真A: 久峰総合公園に武者行列の幟 (のぼり)などが奥に見えます。
久峰総合公園は宮崎県宮崎市佐土原町下那珂13754番地にあります。 公園内の高低差は約60 mです。
 「久峰総合公園」の説明板から
 佐土原町の都市基幹公園で総面積24ヘクタール、運動公園的性格も兼ねた町民の憩(いこ)いの場として、総合的な利用に供する公園です。 主な施設として、メイン広場、芝生広場、草スキー場、展望台、遊歩道、冒険広場、陸上競技場、パターゴルフ場、テニスコート、弓道場などがあります。
 展望台の近くには安産などでお参りする久峰観音があります。 公園には約830本の桜の木があるそうです。 平成10年(1998年)5月に野球場が完成して久峰総合公園はグランドオープンしました。



写真B: 奥に電波塔がある山が見えます。 手前は久峰総合公園の駐車場です。



写真C: 久峰総合公園の建物、外灯もあります。



写真D: こちら側も奥は山になっています。



写真E: 駐車場の入り口、車道も見えます。 東を見たものです。



写真F: 南を見たものです。 車道の奥に建物が見えます。



写真G: 武者行列の人たち、車道の車も見えます。 車道を奥に進むと佐土原町 那珂 (なか)に行きます。 手前に進むとJR佐土原駅に行きます。



写真H: 久峰総合公園の大きな「うずら車」や武者行列の幟 (のぼり)、観客も見えます。



写真I: 武者行列の人たちも見えています。



写真J: 丸に十の字の島津の家紋 (かもん)のある幟 (のぼり)がたくさん見えます。 都城島津の家紋とは微妙に異なります。 佐土原島津の家紋が標準的な島津の家紋です。 「島津入城410年記念」、「佐土原」と書いてある幟 (のぼり)もあります。



写真K: 久峰総合公園が今日の武者行列の出発点です。 これから佐土原城跡の鶴松館 (かくしょうかん)まで歩いて行進します。



写真L: 観客たちも集まっています。



写真M: 鎧 (よろい)姿の人達もいます。



写真N: 子供の武者行列も出発点にいます。



写真O: 左は子供武者行列、右は一般の武者行列です。 宮崎市 佐土原町 下田島にある出発点の久峰総合公園。



写真P: 島津入城410年記念事業の武者行列です。 これは後島津の島津以久 (ゆきひさ)が佐土原城に入城してから410年になるのを記念した祭りです。 それより前には前島津の島津家久、島津豊久が佐土原城にいました。 すなわち島津が佐土原城に入城したのは、410年より前の事になります。
佐土原中学校のそばにある天昌寺跡の墓地に前島津の墓があります。 正面中央の4基の大きな五輪の塔は、前島津の1代と2代の殿様などの墓です。 左から家久(いえひさ)、豊久(とよひさ)、家久夫人、家久母堂(母)の墓です。 これらは昭和50年代に発見されました。
西都市 都於郡(とのこおり)にある大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩(さつま)に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。



写真Q: 左寄りに久峰総合公園の展望台に登る長い石段が小さく見えます。



写真R: 子供の武者行列の兜 (かぶと)に「丸に十の字」の島津の家紋があります。 この兜は紙製で皆で手作りしたものだそうです。 子供の武者行列は足に靴 (くつ)を履 (は)いています。 久峰総合公園の展望台に登る長い石段も見えています。 右に鉄砲隊の武者もいます。 白の幟 (のぼり)、赤の幟もあります。



写真S: 左寄りに鉄砲を持った人もいます。 大人の武者行列は草鞋 (わらじ)を履 (は)いています。



写真T: 出発点に待機する武者行列の人達です。



写真U: 武者行列の先頭の人達です。



写真V: 左に子供武者行列の先頭が見えます。



写真W: 子供の武者行列と奥に大人の武者行列が整列しています。



写真X: 「島津以久 (ゆきひさ) 公」と書いてある幟 (のぼり)もあります。 島津以久は佐土原 後島津の第1代の城主です。 この島津以久が佐土原城に鹿児島県 垂水市 (たるみずし)から来て入城してから410年の祭りです。



写真Y: 武者行列です。



写真Z: 鉄砲隊の真 (ま)新しい幟 (のぼり)です。



写真AA: 観客たちも集まっています。 久峰総合公園です。



写真AB: 子供の武者行列です。



写真AC: 久峰総合公園に勢揃 (せいぞろ)いした武者たちです。



写真AD: 左に久峰総合公園の展望台に登る長い石段が見えます。 中央付近に女武者行列の人達も見えています。 長刀 (なぎなた)を持っています。
 


写真AE: 久峰総合公園に集合して出発時間を待っています。



写真AF: 赤い幟 (のぼり)、白い幟も見えます。



写真AG: 槍 (やり)を数本持った人もいます。



写真AH: 左に観客がいます。



写真AI: 赤色の鎧 (よろい)、兜 (かぶと)の人もいます。



写真AJ: 子供の武者行列の紙製鎧 (よろい)、兜 (かぶと)がよく分かります。 精巧に出来ています。



写真AK: 槍 (やり)隊の武者たちが見えます。



写真AL: 子供武者行列の刀が見えます。



写真AM: 右端が島津以久 (ゆきひさ)の役の人です。 兜 (かぶと)に大きな飾りが付いています。



写真AN: 「島津以久 公」と書いてある幟 (のぼり)と島津以久 (右端)です。



写真AO: ナギナタを持った女武者行列の人たちが左に見えます。 鎧 (よろい)を着てワラジを履 (は)いています。 



写真AP: 女武者行列の人達です。



写真AQ: 女武者行列の人達。



写真AR: 女武者行列の人達です。 刀、薙刀 (なぎなた)、ワラジも見えます。



写真AS: 観客たちです。



写真AT: 奥に左右に車道が通っています。



写真AU: 島津以久の後ろ姿も見えます (中央左寄り)。



写真AV: 武者行列の後部から見た久峰総合公園の展望台に登る長い石段。 展望台も上部に少し白く見えています。



写真AW: 山の上にある携帯電話の基地局アンテナの左下に、久峰総合公園の展望台が見えます。



写真AX: 女武者行列です。 背中 (せなか)の衣装などはこのようになっています。



写真AY: 武者行列を後ろから見たものです。



写真AZ: 左は観客です。



写真BA: 久峰総合公園の立木などです。



写真BB: 奥に先ほどの駐車場が見えます。



写真BC: 男女の武者行列です。



写真BD: 女武者行列の人達です。 いよいよ出発して宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原城へ行進します。



写真BE: 武者行列が歩き始めました。 出発です。



写真BF: 行進を始めたときの幟 (のぼり)です。 右端は女武者行列です。



写真BG: 出発点から進み始めました。



写真BH: これから車道を東へ進みます。 途中 (とちゅう)でJR佐土原駅に寄 (よ)ります。



写真BI: 左に久峰総合公園の大きなうずら車が2つ見えます。



写真BJ: 女武者行列も歩き始めました。 ナギナタを手に持っています。



写真BK: 大人の武者行列の最後尾です。 この後に子供の武者行列が続きます。 子供の武者行列も佐土原町 上田島の佐土原城へいっしょに行進します。



写真BL: 久峰総合公園の出発点を出る武者行列。



写真BM: 右に見えている子供の武者行列がこの後に続いて行進します。



写真BN: 車道の車も見えます。



写真BO: 出発点に勢揃 (ぞろ)いした子供の武者行列です。



写真BP: 側面から見た子供武者行列です。 いよいよ出発して佐土原城へ行進します。



写真BQ: 観客たちも見えます。



写真BR: 子供の武者行列の出発です。



写真BS: 久峰総合公園のそばの車道を行進する子供の武者行列。 がんばって佐土原城まで歩きます。



写真BT: 久峰総合公園のそばの車道を行進する子供の武者行列。



写真BU: 良い天気に恵 (めぐ)まれました。



写真BV: 久峰総合公園 駐車場のそばの車道を行進する武者行列。 女武者行列が見えます。
大人の武者行列は約30 人で、子供の武者行列は約60 人です。



写真BW: 女武者行列の後に子供の武者行列が続いて行進します。 さあ出発です。 佐土原町 上田島の佐土原城へ向かいます。



写真BX: 子供の武者行列は約60 人です。



写真BY: 久峰総合公園 駐車場の近くの車道を進む子供の武者行列です。



写真BZ: 子供の武者行列 (約60人)も佐土原城へ行進します。



写真CA: 槍 (やり)を持った子供武者行列の人達です。 後方は観客です。



写真CB: 久峰総合公園の駐車場です。 ガードマンもいます。 右寄りに子供の武者行列も見えます。



写真CC: ここは宮崎市 佐土原町 上田島にある「佐土原城」の近くです。 「宮崎市 佐土原地区交流センター」の駐車場と建物が見えます。 左の山が佐土原城跡です。 鶴松館 (かくしょうかん、二の丸跡)は左の山の奥にあります。 右寄りの山は弁天山 (べんてんやま、標高 約50 m)です。



写真CD: 北を見たものです。 宮崎市 佐土原町 上田島にある「宮崎市 佐土原地区交流センター」です。 佐土原城 祭りの駐車場になっていました。



写真CE: 奥に宝塔山公園の山も見えます。 手前は佐土原地区交流センターです。



写真CF: 東を見たものです。



写真CG: 南東を見たものです。 山と農業用ビニールハウスも見えます。



写真CH: 南を見たものです。



写真CI: 左寄りに農業用ビニールハウスの暖房のための円筒形 重油タンク、車道の奥の建物も見えます。 南西を見たものです。



写真CJ: 西を見たものです。 佐土原城跡にある送電線鉄塔も左寄りの山の上に見えます。
佐土原城の本丸跡は奥の山の上にあります。



写真CK: 北西を見たものです。 中央に弁天山も見えます。



写真CL: 車道の奥に佐土原城 祭りの出店のテントが白く見えます。 佐土原地区交流センターの駐車場から見たものです。



写真CM: 車道にある「←佐土原城址歴史資料館 鶴松館」の標識が見えます。 右は佐土原地区交流センターです。



写真CN: 宮崎市 佐土原町 上田島にある佐土原地区交流センターです。 駐輪場、芝生 (しばふ)も見えます。



写真CO: 「島津入城410年記念」のポスターがあります。



写真CP: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。



写真CQ: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。



写真CR: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。



写真CS: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。
シャトルバスのご案内もあります。



写真CT: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。
鹿児島県 垂水市、霧島市福山町、宮崎市高岡町、宮崎市 (宮崎神宮まで)、宮崎市佐土原町 (佐土原城まで)の5箇所 (かしょ)で武者行列が行われました。



写真CU: 鹿児島県 垂水市、霧島市福山町、宮崎市高岡町、宮崎市 (宮崎神宮まで)、宮崎市佐土原町 (佐土原城まで)の5箇所 (かしょ)で武者行列が行われました。



写真CV: 「島津太鼓 (たいこ)フェスティバル」同時開催。 場所: 佐土原歴史資料館「鶴松館」、時間: 10:30〜 おすしと地どれカモ汁のふるまい、11:00〜 オープニングイベント、12:30〜 入城の儀、13:00〜15:30 アトラクション、15:30〜18:00 島津太鼓フェスティバル、18:00〜 花火。
地場産品の出店あり ゆっくりおくつろぎいただける飲食スペースをご用意しております。
「武者行列」
平成26年2月9日(日)〜11日(火)
コースは、2月9日(日) 鹿児島県垂水市〜霧島市福山町〜宮崎市高岡町、2月10日(月9 宮崎市高岡町域〜宮崎市役所〜宮崎神宮、2月11日(火) 久峰総合公園〜佐土原歴史資料館「鶴松館」。
「ウオーキング」
平成26年2月10日(月)・11日(火)
10日(月) 高岡町域内(武者屋敷周辺散策、月知梅公園、穆佐(むかさ)方面)、11日(火)佐土原町域内(上田島方面史跡)。
と書いてあります。



写真CW: 「島津太鼓 (たいこ)フェスティバル」同時開催。 場所: 佐土原歴史資料館「鶴松館」、時間: 10:30〜 おすしと地どれカモ汁のふるまい、11:00〜 オープニングイベント、12:30〜 入城の儀、13:00〜15:30 アトラクション、15:30〜18:00 島津太鼓フェスティバル、18:00〜 花火。
地場産品の出店あり ゆっくりおくつろぎいただける飲食スペースをご用意しております。
「武者行列」
平成26年2月9日(日)〜11日(火)
コースは、2月9日(日) 鹿児島県垂水市〜霧島市福山町〜宮崎市高岡町、2月10日(月9 宮崎市高岡町域〜宮崎市役所〜宮崎神宮、2月11日(火) 久峰総合公園〜佐土原歴史資料館「鶴松館」。
「ウオーキング」
平成26年2月10日(月)・11日(火)
10日(月) 高岡町域内(武者屋敷周辺散策、月知梅公園、穆佐(むかさ)方面)、11日(火)佐土原町域内(上田島方面史跡)。
と書いてあります。



写真CX: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。



写真CY: 「島津入城410年記念」のポスター。 「宮崎市制90周年プレイベント、時代を越え、いま島津がよみがえる。 島津入城410年記念事業実行委員会、共催 宮崎市」と書いてあります。



写真CZ: 「宮崎市 佐土原地区交流センター」の入り口です。



写真DA: 「宮崎市 佐土原地区交流センター」と書いてあります。



写真DB: 車道の奥に佐土原城跡があります。 鶴松館の建物と手前に祭りの出店テントが見えます。 西を見たものです。



写真DC: 鶴松館の建物、塀 (へい)、トイレが見えます。 祭りの舞台 (ぶたい)、テントも見えています。 手前は車道です。



写真DD: 鶴松館の駐車場に祭りのテントが多く出来ていました。



写真DE: 「←佐土原城址歴史資料館 鶴松館」の標識があります。 右奥は弁天山です。



写真DF: 鶴松館と佐土原地区交流センターの間の車道に車が見えます。



写真DG: 弁天山 (べんてんやま)と手前に斎場 (さいじょう)もあります。



写真DH: 北を見たものです。 右寄り遠くに佐土原小学校の鉄筋コンクリートの校舎が見えます。 左の山は弁天山です。



写真DI: 左手前に「宮崎市佐土原地区交流センター」と書いてあります。



写真DJ: 佐土原城跡への入り口です。



写真DK: 右奥に弁天山があります。



写真DL: 弁天山の手前に斎場があります。 左は鶴松館です。 北を見たものです。



写真DM: 写真の中央に佐土原小学校の建物が少し見えます。



写真DN: 南を見たものです。



写真DO: 「国指定史跡 佐土原城跡 歴史資料館」と書いてあります。 公衆電話ボックスもあります。



写真DP: 「鶴松館 駐車場入口 入館無料」と書いてあります。
「ウォーキング ゴール地点、お疲れ様でした。 入城イベント・アトラクションをお楽しみください。 ふるまいもあります。 島津入城410年記念事業実行委員会」と書いてある看板 (かんばん)もあります。



写真DQ: 「丸に十の字の島津の家紋 (かもん)、佐土原城 鶴松館 宮崎市佐土原歴史資料館」と書いてある幟 (のぼり)があります。 佐土原城の入り口です。 西を見たものです。



写真DR: 「シャトルバスのりば、約20分間隔で巡回しています。 (運行時間 10時〜19時)。
佐土原城と久峰総合公園の間を巡回しています。」
と書いてあります。



写真DS: 鶴松館の駐車場にテントが多く張 (は)られています。 奥は弁天山、斎場です。



写真DT: 鶴松館 (かくしょうかん)の駐車場に出店のテントが多く張 (は)られています。



写真DU: 西を見たものです。 トイレも見えます。



写真DV: ここにもテントがあります。



写真DW: 振り返って見たものです。



写真DX: 「鶴松館 史跡 佐土原城址公園 駐車場」の看板 (かんばん)があります。
「佐土原城跡 (鶴松館)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 8202−1 にあります。
 佐土原城の歴史は、
14世紀頃 田島 氏 (伊東の分家です。)が佐土原城を造りました。 1427年頃 田島 氏を伊東が滅 (ほろ)ぼし伊東の城となりました。 1536年 伊東義祐 (よしすけ)が佐土原城主になりました。 1537年 火災になり、伊東義祐は宮崎城へ移りました。 その5年後に佐土原城を修築しました。 1568年 伊東が日向国の大半を支配しました。 1572年 伊東が木崎原の戦いで島津に大敗しました。 1577年 伊東一族が大分県の大友を頼り豊後 (ぶんご)に落ち延びました。 1578年 大友宗麟 (そうりん)が木城町の高城川合戦 (耳川の戦いとも言う。)で大敗しました。 1579年 島津家久が佐土原城主になりました。 1588年 島津家久が急死し、その子の豊久が継 (つ)ぎました。 1600年 31歳だった島津豊久が関が原の戦いで討ち死にしました。 その結果、佐土原城は徳川家康の家臣 庄田三太夫 (しょうださんだゆう)が治 (おさ)めました。 1603年 島津以久 (ゆきひさ)が佐土原藩の初代藩主になりました。 1604年 島津以久が佐土原城に入城しました。 1610年 島津以久が亡くなり、忠興 (ただおき)が継ぎ、そばの山の上にあった本丸を麓 (ふもと)の館 (やかた)に移しました。 1612年 菩提寺の高月院を建立しました。 1869年 明治時代になり、最後の藩主の島津忠寛 (ただひろ)が広瀬へ転城し、翌年に広瀬城は廃城となりました。 1871年 廃藩置県。 1993年 佐土原城跡資料館 「鶴松館」がオープンしました。 2004年 佐土原城跡が国指定史跡となりました。



写真DY: 「国指定史跡 佐土原城 会所跡」の標識があります。



写真DZ: 佐土原城の祭りのテントです。



写真EA: 多くのテントが張られています。 奥は弁天山。 北を見たものです。



写真EB: 外灯もあります。



写真EC: 鶴松館の建物、塀 (へい)が見えます。 左は祭りの舞台 (ぶたい)です。 西を見たものです。



写真ED: 左はトイレです。



写真EE: 佐土原城跡には高い送電線鉄塔があります。 右は舞台です。



写真EF: 舞台に「島津入城410年記念」、「第9回 島津太鼓(たいこ)フェスティバル」と書いてあります。 舞台の右と左に大きなスピーカーが見えます。 舞台の上に太鼓 (たいこ)をいくつも置いてあります。



写真EG: 中央のテントには音響機器が置いてあります。 後ろは鶴松館です。



写真EH: 観客も見えます。



写真EI: このようなテントもあります。 奥は弁天山です。



写真EJ: 観客も集まっています。 ここはもともと駐車場です。



写真EK: 東を見たものです。 奥に佐土原地区交流センターの建物が見えます。



写真EL: トイレも見えます。



写真EM: 関係者の車も近くまで来ていました。



写真EN: 舞台の左に出演者たちの車も見えます。



写真EO: 舞台に「宮崎市制90周年プレイベント 島津入城410年記念 時代を越え、いま島津がよみがえる。」、「第9回 島津太鼓(たいこ)フェスティバル」と書いてあります。



写真EP: 宮崎市 佐土原町 上田島にある佐土原城です。 石段、門、建物も見えます。 左に見える山の上に佐土原城の本丸跡があります。
「佐土原城跡 (鶴松館)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 8202−1 にあります。
 佐土原城の歴史は、
14世紀頃 田島 氏 (伊東の分家です。)が佐土原城を造りました。 1427年頃 田島 氏を伊東が滅 (ほろ)ぼし伊東の城となりました。 1536年 伊東義祐 (よしすけ)が佐土原城主になりました。 1537年 火災になり、伊東義祐は宮崎城へ移りました。 その5年後に佐土原城を修築しました。 1568年 伊東が日向国の大半を支配しました。 1572年 伊東が木崎原の戦いで島津に大敗しました。 1577年 伊東一族が大分県の大友を頼り豊後 (ぶんご)に落ち延びました。 1578年 大友宗麟 (そうりん)が木城町の高城川合戦 (耳川の戦いとも言う。)で大敗しました。 1579年 島津家久が佐土原城主になりました。 1588年 島津家久が急死し、その子の豊久が継 (つ)ぎました。 1600年 31歳だった島津豊久が関が原の戦いで討ち死にしました。 その結果、佐土原城は徳川家康の家臣 庄田三太夫 (しょうださんだゆう)が治 (おさ)めました。 1603年 島津以久 (ゆきひさ)が佐土原藩の初代藩主になりました。 1604年 島津以久が佐土原城に入城しました。 1610年 島津以久が亡くなり、忠興 (ただおき)が継ぎ、そばの山の上にあった本丸を麓 (ふもと)の館 (やかた)に移しました。 1612年 菩提寺の高月院を建立しました。 1869年 明治時代になり、最後の藩主の島津忠寛 (ただひろ)が広瀬へ転城し、翌年に広瀬城は廃城となりました。 1871年 廃藩置県。 1993年 佐土原城跡資料館 「鶴松館」がオープンしました。 2004年 佐土原城跡が国指定史跡となりました。



写真EQ: 佐土原城の二の丸跡にある鶴松館 (かくしょうかん)です。 西を見たものです。



写真ER: 「佐土原城 内堀跡、この下に内堀があり御城と家中屋敷を区分した。」と書いてある標識があります。 左上は鶴松館の塀 (へい)です。



写真ES: テントの下にはテーブル、椅子 (いす)があります。 斎場の駐車場にある車、その奥に弁天山が見えます。 北を見たもの。



写真ET: 南から見た弁天山 (べんてんやま)です。



写真EU: 内堀跡の標識と塀 (へい)です。



写真EV: 鶴松館の建物は駐車場より少し高いところにあります。



写真EW: 鶴松館の石段です。 門の近くにあります。



写真EX: 奥に舞台も見えます。



写真EY: 東を見たものです。



写真EZ: 大きなテントの中です。



写真FA: 門の前に木製のプランターが並べてありパンジーなどの花が咲いていました。



写真FB: 鶴松館の屋根の上に「丸に十の字」の島津の家紋 (かもん)を書いてある瓦 (かわら)が見えます。 手前は門です。



写真FC: 鶴松館の門です。



写真FD: 門の左の方です。 外灯もあります。



写真FE: スピーカー、椅子 (いす)が置いてあります。 左下は石段です。



写真FF: 石段の上から見たものです。 舞台 (ぶたい)、テント、トイレ、車も見えます。



写真FG: 多くの人達が集まっています。 石段の上から東を見たもの。 佐土原地区交流センターも見えます。



写真FH: 大きなテントもあります。 左は弁天山です。 石段の上から見たものです。



写真FI: 弁天山を南から見たものです。 こちらにも椅子 (いす)とマイク、スピーカーが設置してあります。 弁天山の手前に斎場の駐車場があります。



写真FJ: 門の右の方です。 花を植えてあるプランターも見えます。



写真FK: 石段のそばから見た門です。



写真FL: 外灯、スピーカーもあります。



写真FM: 木製のプランターにパンジーなどの花が咲いていました。



写真FN: 左にかがり火の台があります。 薪 (まき)を入れてあります。 「国指定史跡 佐土原城跡 二の丸跡 宮崎市教育委員会」と書いてある標識が門のそばにあります。 左下は木製プランターです。



写真FO: 「鶴松館」と書いてある門標があります。 鶴松館の門です。 奥に鶴松館の建物が見えます。



写真FP: 左に潜 (くぐ)り戸があります。



写真FQ: 「鶴松館」と書いてある門標。
鶴松館の門にある「鶴松館」の文字。 佐土原城は昔、鶴松城と言われていたことからこの建物は鶴松館と名付けられました。 この門札は2005年に106歳で亡くなられた島津久子さんの筆。



写真FR: 塀 (へい)の内側はこのようになっています。 左は受付所です。



写真FS: 右は受付所です。 ここは門の内側です。



写真FT: 宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島にある「鶴松館」の建物です。



写真FU: 左にも建物が見えます。



写真FV: 左は門です。



写真FW: 鶴松館の建物の上部です。



写真FX: 塀 (へい)のそばにあるかがり火の台と薪 (まき)です。



写真FY: 塀 (へい)とかがり火の台です。



写真FZ: 塀、弁天山、斎場の駐車場が見えます。 右は二の丸跡の標識です。



写真GA: 左は「国指定史跡 佐土原城跡 二の丸跡 宮崎市教育委員会」と書いてある標識です。 佐土原小学校の建物が左寄りに見えます。 右端は佐土原地区交流センターです。 宝塔山公園のある山も見えています。



写真GB: 門から東を見たものです。 右に舞台 (ぶたい)も見えます。



写真GC: 右端は塀 (へい)、左端は舞台 (ぶたい)です。



写真GD: 門の左にもかがり火の台と薪 (まき)があります。



写真GE: 右端は門です。



写真GF: 鶴松館の門を下から見たものです。 このようになっています。
鶴松館の門にある「鶴松館」の文字。 佐土原城は昔、鶴松城と言われていたことからこの建物は鶴松館と名付けられました。 この門札は2005年に106歳で亡くなられた島津久子さんの筆。



写真GG: 門から祭りの会場を見たものです。



写真GH: 佐土原城跡にある送電線鉄塔と舞台 (ぶたい)です。 左右に大きなスピーカーが数個あります。 舞台には5個の太鼓 (たいこ)があり、人が打っています。



写真GI: 今日はこの舞台でいろいろな催 (もよお)しがあります。



写真GJ: 本番前の太鼓 (たいこ)の練習のようです。



写真GK: 行列は鴨 (かも)汁と握り寿司 (すし)の無料ふるまいのためのものです。 鴨汁は地元でとれたカモを入れてあります。



写真GL: 右のテントのそばで焼き鳥の煙 (けむり)が立ち上 (のぼ)っています。 ふるまいのための長い行列です。



写真GM: ふるまいのための行列の最後尾が見えます。 奥に佐土原地区交流センターが見えます。 右下は花の苗 (なえ)などを販売しています。



写真GN: 水色の帽子 (ぼうし)と水色のスカートの女の子達が箸 (はし)や無料ふるまいの握り寿司を行列の人に配っていました。



写真GO: 祭りの出店のテントが並 (なら)んでいます。 左奥は弁天山です。



写真GP: 「はしまき」、「たこ焼き」などの幟 (のぼり)なども見えます。



写真GQ: 祭りの出店です。 焼き鶏 (とり)の炭火焼きの煙 (けむり)が広がっています。 東を見たものです。



写真GR: テントは広場にU字型に並 (なら)んでいます。



写真GS: 「一ツ瀬焼」の焼き物の販売をしています。



写真GT: 一ツ瀬焼きの販売です。 右に花などの苗 (なえ)を売っています。 佐土原城祭り。



写真GU: テントのそばから鶴松館を見たものです。 西を見たもの。



写真GV: 水色の帽子 (ぼうし)の少女がふるまいの箸 (はし)を配 (くば)っています。



写真GW: 私もふるまいのための行列に並びました。 行列から見た鶴松館です。



写真GX: 少女がふるまいの握り寿司 (すし)を持って来ました。 丸いテーブルでおいしくいただきました。 マグロの握り寿司です。
 


写真GY: その後にテントの中でふるまいの鴨汁をもらいました。 広場の丸いテーブルに並べて食べたり飲んだりしました。



写真GZ: 佐土原町でとれたカモを使った「地どれ鴨汁 (かもじる)」です。 おいしいダシが出ていました。 これは無料ふるまいです。



写真HA: 佐土原城祭りでのふるまいの「地どれ鴨汁 (かもじる)」です。 ニンジン、白菜、大根なども入っています。 あったかい鴨汁でした。



写真HB: テントの下にこのように「地どれ鴨汁 (かもじる)」が用意してあります。 割り箸 (ばし)も見えます。



写真HC: 「ふるまい (数量限定)」と書いてあります。 テーブルに鴨汁が入った発泡スチロールの容器が並 (なら)んでいます。 奥で鴨汁を作っています。 女性たちがふるまいをしています。



写真HD: 本部席のテントです。 係りの人たちがいます。



写真HE: 石段の上です。



写真HF: 石段の上から東を見たものです。 マイクも見えます。



写真HG: 折りたたみ椅子 (いす)も並 (なら)んでいます。



写真HH: 左に舞台が見えます。



写真HI: 佐土原城祭りに集まった人たちが増えてきました。



写真HJ: 右に三脚 (さんきゃく)の上にカメラを載 (の)せているのが見えます。 西を見たもの。



写真HK: 石段の上から。



写真HL: 「佐土原城」の幟 (のぼり)が見えます。



写真HM: 佐土原城跡に集まった観客たちです。 テントに提灯 (ちょうちん)も下がっています。 幟 (のぼり)も数本見えます。 奥に宝塔山公園がある山も見えます。 左奥の建物は斎場 (さいじょう)です。



写真HN: 右奥の建物は佐土原地区交流センターです。



写真HO: 「宮崎県 宮崎市 佐土原町 一ツ瀬焼窯元 (かまもと)」と書いてあります。



写真HP: 一ツ瀬焼きの陶器 (とうき)です。



写真HQ: 馬の形の焼き物なども見えます。



写真HR: 佐土原町にある一ツ瀬焼のコーヒーカップ、湯飲み、茶碗 (ちゃわん)、皿 (さら)も並べてあります。



写真HS: 箸 (はし)置きの付いた皿もあります。 一ツ瀬焼き。



写真HT: 一ツ瀬焼きの皿などを販売しています。



写真HU: 一ッ瀬焼きのところに「トンボ (蜻蛉)の言い伝え」が書いてあります。
勝ち虫・・・試合に勝てる試験に勝てる。 上に向かって飛び、落ちる事はない。 前へ (未来)へ進み、後を (過去)を振り返らない。 子孫繁栄の尊重。
と書いてあります。



写真HV: 「幸喜焼 窯元 (かまもと)」と書いてあります。 置物、湯飲み、徳利 (とっくり)、皿などを販売しています。



写真HW: 「火鉢 (ひばち)工房」と書いてあります。 内側に銅板がある木製火鉢、椅子 (いす)、まな板、入れ物、棚 (たな)などを販売しています。 「いちょう まな板 800円」と書いてあります。



写真HX: 大きな木製の火鉢 (ひばち)です。 内側は銅板になっています。 佐土原城祭り。



写真HY: くじらサブレ、佐土原 焼せんべい、かまあげちりめん、トロロするめ、ししゃも みりん干し、カワハギみりん干し、ハタハタみりん干し、タラキムチ、あじ子などを販売しています。



写真HZ: 太刀魚浜焼、小いわし、えの葉入りちりめんなどが並んでいます。



写真IA: ちりめん、かえりちりめん、ちりめんモンスターなどを販売しています。 試食もあります。 佐土原城祭り。



写真IB: 「1つかみ 250円」と書いてあります。



写真IC: 「佐土原逸品」、「生姜 (しょうが)うどん 300円」と書いてあります。 佐土原城祭り。



写真ID: 「名物 佐土原まんじゅう」を売っています。



写真IE: 焼きそば店です。



写真IF: 「ご汁 1杯 150円」、「ウイング」、「焼きそば」、「煮まめ」と書いてあります。 鍋 (なべ)では呉汁 (ごじる)を作っています。



写真IG: 右に佐土原名物 鯨羊羹 (くじらようかん)、左に佐土原名物 佐土原人形を売っています。 佐土原城祭り。



写真IH: 佐土原人形と佐土原人形の幟 (のぼり)があります。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真II: 長峰の鯨ようかん、阪本の鯨ようかんを売っています。 阪本の鯨ようかん、長峰の鯨ようかんが見えます。 佐土原城祭り。
「鯨羊羹 (くじらようかん)」は佐土原の伝統的な銘菓です。
鯨ようかんは米の粉を練 (ね)って、餡 (あん)をはさみ蒸 (む)したものです。 日持ちはあまりしません。 鯨ようかんの由来 (ゆらい)は、佐土原藩 4代藩主の島津忠高が26歳で亡くなりました。 その子の万吉丸はまだ1歳だったため、世継 (よつ)ぎ争いが起こりました (松木事件)。 その中で、万吉丸の母である松寿院が「息子 (むすこ)と藩が、鯨 (くじら)のように力強くたくましく育ってほしい。」と願って鯨に似たような羊羹 (ようかん)を作らせました。 その後、万吉丸は5代藩主 (6代とも言う。)島津惟久となり、名君と言われました。



写真IJ: いろいろな佐土原人形を売っています。 シャンシャン馬の佐土原人形も見えます。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真IK: ひな祭りの内裏雛 (だいりびな)、豆雛、犬の佐土原人形も販売しています。 佐土原城祭り。



写真IL: まんじゅうを2つに割ったものを持っている人形、犬、お雛様 (ひなさま)の佐土原人形もあります。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真IM: 駒 (こま)、犬の佐土原人形もあります。



写真IN: 馬の佐土原人形も販売しています。



写真IO: 午年 (うまどし)なので馬の佐土原人形が多く並んでいます。



写真IP: 「製造・販売 (小売) 伝統的工芸品 佐土原人形 佐土原人形店 ますや 宮崎市佐土原町上田島」と書いてあります。



写真IQ: 射的 (しゃてき)の店もあります。 これは的 (まと)の部分です。



写真IR: 射的 (しゃてき)の鉄砲も見えます。



写真IS: 射的屋さんです。 手前には景品が入っています。



写真IT: 「佐土原町 伝統的 工芸保存会」と書いてあります。



写真IU: 「佐土原町 伝統的 工芸保存会」のテントでは佐土原名物の「うずら車」の絵塗りを一般の人にやってもらい完成したものを100円で販売していました。 左に手本のウズラ車が見えます。 右に絵塗りの時の絵筆が瓶 (びん)の中にあります。
「久峰うずら車」の佐土原町伝統工芸品保存会のパンフレットから、
うずら車は宮崎県指定伝統的工芸品です。 東北地方を代表する民芸品に「こけし」があり、これに対して九州地方だけに、うずら車のように「車」の付いた木製民芸品があります。 前者は静的であり、後者が動的であるのは気候風土の影響と考えられます。 これら九州地方の車玩具 (がんぐ)の発生についてはいろいろな説がありますが、久峰うずら車は、昔し百済 (くだら)から来た100歳の僧が、長生きの記念として奉納したのが始まりと言われています。 1400年前、新羅国 (しらぎこく)の高僧、日羅上人が開基したと伝えられる、佐土原町の久峰観音は、安産、無病、長寿の御利益があるといわれ、その縁起物としてまた子供のお土産 (みやげ)として、門前で売られていたものです。 この玩具は、前世紀初め頃には外国にも輸出され、玩具界の西の関取として注文に応じきれない程 (ほど)の名声を博した記録もあります。 制作にはタラの木を用い手斧 (ておの)で削 (けず)っただけで生地を生かし、絵柄も優しく女性的で、単純で素朴さがかえって親しみやすさを醸 (かも)し出しています。 久峰うずら車は雌雄一対が特徴になっています。



写真IV: 「絵付体験 1コ 100円」と書いてあります。 手本の「うずら車」もいくつか見えます。
うずら車は佐土原町にある久峰観音ゆかりの伝統工芸品です。



写真IW: 「久峰うずら車」の説明書があります。
 久峰うずら車は、安産、開運、長寿等、久峰観音 (585年建立)の縁起物 (えんぎもの)として伝わっています。
 うずら車の発祥については、500年〜800年の歴史を持つとも言われ、落人達が伝えた、木地師や木挽 (こびき)達が伝えた、帰化人が伝えた、久峰観音の開基に伴う百済の僧が伝えた等々、種々の説がありますが、最近では、郷土史研究家によると、熊本県湯前から西米良を経 (へ)て一ツ瀬川添 (ぞ)いに伝わり、久峰地区に住んでいた、木挽衆によって山から里への土産として持ち帰っていたものを名前もキジからウヅラに変化させて、伝説を生みながら久峰観音の縁日 (えんにち)に合わせてお守りとして売り出した、という説が一番史実に近いものと言われるようになりました。
 製作にはイヌダラ (カラスザンショウ)の木を使い、初期のころには手斧 (ておの)で削 (けず)っただけの素朴なもので、絵付けの材料も、自然の植物の花や実の汁 (しる)等を使っていました。 久峰うずら車は雄と雌 (めす)で一対 (いっつい)となっており、日向夫婦うずら車として6月と12月の縁日には、安産祈願のお守りとしてもてはやされていました。
 先の戦争を境に、現代玩具 (がんぐ)の氾濫 (はんらん)に追われるように衰退の一途 (いっと)をたどる中で、宮崎県認定工芸士 兵頭正一 氏が唯一の継承者として製法を受け継いでいます。
佐土原町伝統的工芸品保存会
と書かれています。



写真IX: 「久峰うずら車」の説明書があります。
 久峰うずら車は、安産、開運、長寿等、久峰観音 (585年建立)の縁起物 (えんぎもの)として伝わっています。
 うずら車の発祥については、500年〜800年の歴史を持つとも言われ、落人達が伝えた、木地師や木挽 (こびき)達が伝えた、帰化人が伝えた、久峰観音の開基に伴う百済の僧が伝えた等々、種々の説がありますが、最近では、郷土史研究家によると、熊本県湯前から西米良を経 (へ)て一ツ瀬川添 (ぞ)いに伝わり、久峰地区に住んでいた、木挽衆によって山から里への土産として持ち帰っていたものを名前もキジからウヅラに変化させて、伝説を生みながら久峰観音の縁日 (えんにち)に合わせてお守りとして売り出した、という説が一番史実に近いものと言われるようになりました。
 製作にはイヌダラ (カラスザンショウ)の木を使い、初期のころには手斧 (ておの)で削 (けず)っただけの素朴なもので、絵付けの材料も、自然の植物の花や実の汁 (しる)等を使っていました。 久峰うずら車は雄と雌 (めす)で一対 (いっつい)となっており、日向夫婦うずら車として6月と12月の縁日には、安産祈願のお守りとしてもてはやされていました。
 先の戦争を境に、現代玩具 (がんぐ)の氾濫 (はんらん)に追われるように衰退の一途 (いっと)をたどる中で、宮崎県認定工芸士 兵頭正一 氏が唯一の継承者として製法を受け継いでいます。
佐土原町伝統的工芸品保存会
と書かれています。



写真IY: 「久峰うずら車」の説明書があります。
 久峰うずら車は、安産、開運、長寿等、久峰観音 (585年建立)の縁起物 (えんぎもの)として伝わっています。
 うずら車の発祥については、500年〜800年の歴史を持つとも言われ、落人達が伝えた、木地師や木挽 (こびき)達が伝えた、帰化人が伝えた、久峰観音の開基に伴う百済の僧が伝えた等々、種々の説がありますが、最近では、郷土史研究家によると、熊本県湯前から西米良を経 (へ)て一ツ瀬川添 (ぞ)いに伝わり、久峰地区に住んでいた、木挽衆によって山から里への土産として持ち帰っていたものを名前もキジからウヅラに変化させて、伝説を生みながら久峰観音の縁日 (えんにち)に合わせてお守りとして売り出した、という説が一番史実に近いものと言われるようになりました。
 製作にはイヌダラ (カラスザンショウ)の木を使い、初期のころには手斧 (ておの)で削 (けず)っただけの素朴なもので、絵付けの材料も、自然の植物の花や実の汁 (しる)等を使っていました。 久峰うずら車は雄と雌 (めす)で一対 (いっつい)となっており、日向夫婦うずら車として6月と12月の縁日には、安産祈願のお守りとしてもてはやされていました。
 先の戦争を境に、現代玩具 (がんぐ)の氾濫 (はんらん)に追われるように衰退の一途 (いっと)をたどる中で、宮崎県認定工芸士 兵頭正一 氏が唯一の継承者として製法を受け継いでいます。
佐土原町伝統的工芸品保存会
と書かれています。



写真IZ: これが佐土原名物の「神代コマ」です。 「ぶんぐるま」と呼ばれることもあります。 竹で作られた独楽 (こま)です。 今うなり音を響かせながら回っています。
佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。



写真JA: 神代こまが板の上からずれて地面の上で回っています。



写真JB: 神代独楽 (こま)の側面にはこのようなスリット (細長い穴)があります。 そのため唸 (うな)り音がします。
佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。



写真JC: 神代こま (ぶんごま)には島津の家紋 (かもん)である「丸に十の字」が側面にあります。
佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。



写真JD: 回すために細い紐 (ひも)を使います。 このように巻いてから両手でヒモを左右に引っ張り、神代こまを回転します。 3個の神代こまです。 佐土原城祭り。
佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。



写真JE: 回し始めたときの「神代こま」です。 手に回すための細い紐 (ひも)が見えています。



写真JF: 「人形工房 陶月 佐土原人形」の人形が多く並 (なら)んでいます。 お雛 (ひな)様、犬や猫の動物の人形、二つに割った饅頭 (まんじゅう)を手に持った人形などの佐土原人形を販売しています。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真JG: 「人形工房 陶月 佐土原人形」と書いてあります。



写真JH: 陶月の佐土原人形です。 佐土原城祭り。



写真JI: 鹿児島県 垂水市 (たるみずし)からの出店もあります。 佐土原の後島津初代の島津以久 (ゆきひさ)が垂水からここ宮崎市 佐土原に移住したので、垂水市の出店もあるのです。



写真JJ: 島津以久 (ゆきひさ)、佐土原入城410年の垂水市での記念行事の写真が出店のそばに展示してありました。



写真JK: 島津以久 (ゆきひさ)、佐土原入城410年の垂水市での記念行事の写真が出店のそばに展示してありました。



写真JL: 島津以久 (ゆきひさ)、佐土原入城410年の垂水市での記念行事の写真が出店のそばに展示してありました。



写真JM: 島津以久 (ゆきひさ)、佐土原入城410年の垂水市での記念行事の写真が出店のそばに展示してありました。



写真JN: 「垂水市観光協会」の法被 (はっぴ)を着た人が店にいらっしゃいます。 垂水市の野菜、焼きイモなどの物産品を販売しています。 佐土原城祭り。



写真JO: 鹿児島県 垂水市のだんご、インゲン豆、いこもち、豚みそなどを販売しています。



写真JP: インゲン豆、漬物 (つけもの)、だんごなども並んでいます。 垂水市のテントです。



写真JQ: 炭火もも焼も販売しています。



写真JR: 炭火もも焼き、フライドポテトも並んでいます。



写真JS: たこ焼き、チーズたこ焼き、えびマヨ、ジャンボたこ焼き、フライドポテトを販売している「くじら屋」です。



写真JT: りんご飴 (あめ)、いちご飴、ぶどう飴も売っています。



写真JU: たこ焼き、りんご飴 (あめ)、いちご飴、ぶどう飴を販売しています。



写真JV: 箸巻き (はしまき)を販売しています。



写真JW: 焼きそばコーナーです。



写真JX: 「生いかのてり焼き」のコーナーです。



写真JY: 「佐土原料理飲食業組合」のところです。 チキン南蛮 (なんばん)の串 (くし)(焼き南蛮)を販売しています。



写真JZ: 「佐土原料理飲食業組合」のところです。 肉まん、中華ちまき、あんまん、焼南蛮 (なんばん)なども販売しています。



写真KA: ふるまいのテントなどです。



写真KB: 奥に舞台 (ぶたい)も見えます。
「佐土原城跡 (鶴松館)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 8202−1 にあります。
 佐土原城の歴史は、
14世紀頃 田島 氏 (伊東の分家です。)が佐土原城を造りました。 1427年頃 田島 氏を伊東が滅 (ほろ)ぼし伊東の城となりました。 1536年 伊東義祐 (よしすけ)が佐土原城主になりました。 1537年 火災になり、伊東義祐は宮崎城へ移りました。 その5年後に佐土原城を修築しました。 1568年 伊東が日向国の大半を支配しました。 1572年 伊東が木崎原の戦いで島津に大敗しました。 1577年 伊東一族が大分県の大友を頼り豊後 (ぶんご)に落ち延びました。 1578年 大友宗麟 (そうりん)が木城町の高城川合戦 (耳川の戦いとも言う。)で大敗しました。 1579年 島津家久が佐土原城主になりました。 1588年 島津家久が急死し、その子の豊久が継 (つ)ぎました。 1600年 31歳だった島津豊久が関が原の戦いで討ち死にしました。 その結果、佐土原城は徳川家康の家臣 庄田三太夫 (しょうださんだゆう)が治 (おさ)めました。 1603年 島津以久 (ゆきひさ)が佐土原藩の初代藩主になりました。 1604年 島津以久が佐土原城に入城しました。 1610年 島津以久が亡くなり、忠興 (ただおき)が継ぎ、そばの山の上にあった本丸を麓 (ふもと)の館 (やかた)に移しました。 1612年 菩提寺の高月院を建立しました。 1869年 明治時代になり、最後の藩主の島津忠寛 (ただひろ)が広瀬へ転城し、翌年に広瀬城は廃城となりました。 1871年 廃藩置県。 1993年 佐土原城跡資料館 「鶴松館」がオープンしました。 2004年 佐土原城跡が国指定史跡となりました。



写真KC: 佐土原城祭りです。 南を見たものです。



写真KD: 佐土原城祭りの広場です。 東を見たものです。



写真KE: 神代こま (ぶんぐるま)が勢 (いきお)い良く回っています。
佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。



写真KF: 佐土原伝統工芸品の神代ごま (ぶんぐるま)です。



写真KG: かなり長く回っています。



写真KH: 少しすりこぎ運動を独楽 (こま)が始めました。



写真KI: 神代こまの係の人がいます。 地面の上でコマが回っています。



写真KJ: 神代こまには「丸に十の字」の島津の家紋 (かもん)が付いています。



写真KK: 回転させるための細紐 (ひも)を軸 (じく)に巻きつけてあるコマ3個です。
佐土原町の名物 「ぶんぐるま」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。



写真KL: 回し始めたばかりのコマです。 紐 (ひも)も見えます。



写真KM: 回っているコマと寝かせてあるコマが見えます。



写真KN: 佐土原人形です。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真KO: 陶月が制作した佐土原人形です。



写真KP: 鹿児島県 垂水市 (たるみずし)からの出店です。



写真KQ: 佐土原の武者行列が鹿児島県 垂水市でも行われました。 その時の写真です。 椅子 (いす)の上に置いてあります。



写真KR: 垂水市での写真が展示してありました。



写真KS: 垂水市での写真を展示。



写真KT: 鹿児島県 垂水市での写真が展示されていました。



写真KU: 鹿児島県 垂水市の物産品を販売しています。 佐土原城祭りです。



写真KV: 垂水市の出店です。



写真KW: 鹿児島県 垂水市からの出店。



写真KX: 焼き鳥屋さんです。



写真KY: 「炭火もも焼」と書いてあります。



写真KZ: 「フライドポテト」、「九州烈火 もも焼 炭火焼」と書いてあります。



写真LA: くじら屋のたこ焼きコーナーです。



写真LB: アメりんご、アメいちごも販売しています。



写真LC: あめリンゴもぶら下げてあります。



写真LD: たこ焼きの出店です。



写真LE: 箸 (はし)巻きのコーナーです。



写真LF: 「はしまき」が並 (なら)んでいます。



写真LG: 焼きそば店です。



写真LH: 「生いかのてり焼」のコーナーです。



写真LI: 串 (くし)に刺 (さ)したチキン南蛮 (なんばん)です。



写真LJ: 肉まん、中華ちまき、あんまん、焼南蛮 (やきなんばん)などを販売している佐土原料理飲食業組合の出店です。



写真LK: 会場のテントです。



写真LL: 西を見たものです。 鶴松館 (かくしょうかん)が見えます。



写真LM: 南を見たものです。



写真LN: 東を見たものです。



写真LO: 出店が並んでいます。 佐土原城祭り。



写真LP: 「うずら車」の色付けコーナーです。



写真LQ: うずら車は佐土原名物です。 この女性が指導して私もうずら車に色付けをしました。



写真LR: 手前に色付け前の木製うずら車があります。 これに私が色付けをしました。
「久峰うずら車」の佐土原町伝統工芸品保存会のパンフレットから、
うずら車は宮崎県指定伝統的工芸品です。 東北地方を代表する民芸品に「こけし」があり、これに対して九州地方だけに、うずら車のように「車」の付いた木製民芸品があります。 前者は静的であり、後者が動的であるのは気候風土の影響と考えられます。 これら九州地方の車玩具 (がんぐ)の発生についてはいろいろな説がありますが、久峰うずら車は、昔し百済 (くだら)から来た100歳の僧が、長生きの記念として奉納したのが始まりと言われています。 1400年前、新羅国 (しらぎこく)の高僧、日羅上人が開基したと伝えられる、佐土原町の久峰観音は、安産、無病、長寿の御利益があるといわれ、その縁起物としてまた子供のお土産 (みやげ)として、門前で売られていたものです。 この玩具は、前世紀初め頃には外国にも輸出され、玩具界の西の関取として注文に応じきれない程 (ほど)の名声を博した記録もあります。 制作にはタラの木を用い手斧 (ておの)で削 (けず)っただけで生地を生かし、絵柄も優しく女性的で、単純で素朴さがかえって親しみやすさを醸 (かも)し出しています。 久峰うずら車は雌雄一対が特徴になっています。



写真LS: 色付け前のうずら車には鉛筆 (えんぴつ)で下絵が書いてあります。



写真LT: 手本のうずら車も奥に見えます。 華やか色のほうが雄 (おす)で地味な色のほうが雌 (めす)です。 鳥は一般にそのような色になっています。 人間とは逆 (ぎゃく)です。



写真LU: 布の上に私が色付けしたうずら車が載 (の)せてあります。 「絵付体験 1個 ¥100」と書いてあります。 右に絵の具と皿、絵筆、水を入れるスポイトがあります。
「久峰うずら車」の佐土原町伝統工芸品保存会のパンフレットから、
うずら車は宮崎県指定伝統的工芸品です。 東北地方を代表する民芸品に「こけし」があり、これに対して九州地方だけに、うずら車のように「車」の付いた木製民芸品があります。 前者は静的であり、後者が動的であるのは気候風土の影響と考えられます。 これら九州地方の車玩具 (がんぐ)の発生についてはいろいろな説がありますが、久峰うずら車は、昔し百済 (くだら)から来た100歳の僧が、長生きの記念として奉納したのが始まりと言われています。 1400年前、新羅国 (しらぎこく)の高僧、日羅上人が開基したと伝えられる、佐土原町の久峰観音は、安産、無病、長寿の御利益があるといわれ、その縁起物としてまた子供のお土産 (みやげ)として、門前で売られていたものです。 この玩具は、前世紀初め頃には外国にも輸出され、玩具界の西の関取として注文に応じきれない程 (ほど)の名声を博した記録もあります。 制作にはタラの木を用い手斧 (ておの)で削 (けず)っただけで生地を生かし、絵柄も優しく女性的で、単純で素朴さがかえって親しみやすさを醸 (かも)し出しています。 久峰うずら車は雌雄一対が特徴になっています。



写真LV: 私が色付けした佐土原名物の「ウズラ車」です。 佐土原城祭り。
「久峰うずら車」の説明書から、
 久峰うずら車は、安産、開運、長寿等、久峰観音 (585年建立)の縁起物 (えんぎもの)として伝わっています。
 うずら車の発祥については、500年〜800年の歴史を持つとも言われ、落人達が伝えた、木地師や木挽 (こびき)達が伝えた、帰化人が伝えた、久峰観音の開基に伴う百済の僧が伝えた等々、種々の説がありますが、最近では、郷土史研究家によると、熊本県湯前から西米良を経 (へ)て一ツ瀬川添 (ぞ)いに伝わり、久峰地区に住んでいた、木挽衆によって山から里への土産として持ち帰っていたものを名前もキジからウヅラに変化させて、伝説を生みながら久峰観音の縁日 (えんにち)に合わせてお守りとして売り出した、という説が一番史実に近いものと言われるようになりました。
 製作にはイヌダラ (カラスザンショウ)の木を使い、初期のころには手斧 (ておの)で削 (けず)っただけの素朴なもので、絵付けの材料も、自然の植物の花や実の汁 (しる)等を使っていました。 久峰うずら車は雄と雌 (めす)で一対 (いっつい)となっており、日向夫婦うずら車として6月と12月の縁日には、安産祈願のお守りとしてもてはやされていました。
 先の戦争を境に、現代玩具 (がんぐ)の氾濫 (はんらん)に追われるように衰退の一途 (いっと)をたどる中で、宮崎県認定工芸士 兵頭正一 氏が唯一の継承者として製法を受け継いでいます。



写真LW: 私が色付けしたうずら車を側面から見たものです。



写真LX: 私が色付けした「うずら車」を正面から見たものです。 「うづら」と中央に書いてあります。



写真LY: 斜め上から見たうずら車です。 車輪も付いています。
「久峰うずら車」の佐土原町伝統工芸品保存会のパンフレットから、
うずら車は宮崎県指定伝統的工芸品です。 東北地方を代表する民芸品に「こけし」があり、これに対して九州地方だけに、うずら車のように「車」の付いた木製民芸品があります。 前者は静的であり、後者が動的であるのは気候風土の影響と考えられます。 これら九州地方の車玩具 (がんぐ)の発生についてはいろいろな説がありますが、久峰うずら車は、昔し百済 (くだら)から来た100歳の僧が、長生きの記念として奉納したのが始まりと言われています。 1400年前、新羅国 (しらぎこく)の高僧、日羅上人が開基したと伝えられる、佐土原町の久峰観音は、安産、無病、長寿の御利益があるといわれ、その縁起物としてまた子供のお土産 (みやげ)として、門前で売られていたものです。 この玩具は、前世紀初め頃には外国にも輸出され、玩具界の西の関取として注文に応じきれない程 (ほど)の名声を博した記録もあります。 制作にはタラの木を用い手斧 (ておの)で削 (けず)っただけで生地を生かし、絵柄も優しく女性的で、単純で素朴さがかえって親しみやすさを醸 (かも)し出しています。 久峰うずら車は雌雄一対が特徴になっています。



写真LZ: 宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島での佐土原城祭りの舞台 (ぶたい)です。 鶴松館の広場で行われました。 少女たちの踊 (おど)りです。 元気よく踊っています。



写真MA: 鶴松館の石段のそばです。



写真MB: 宮崎市佐土原歴史資料館と書いてあります。



写真MC: 宮崎市佐土原歴史資料館の周辺地図です。



写真MD: 出土文化財管理センターと鶴松館の配置図です。



写真ME: 佐土原城の祭りの舞台 (ぶたい)で女の子たちがダンスをしています。



写真MF: 舞台の上でダンスを披露しています。



写真MG: いろいろな踊りが演じられました。



写真MH: ダンスや踊りの出演者たちです。 佐土原城祭り。



写真MI: 出演者たちです。



写真MJ: 総出演のダンスです。



写真MK: 一生懸命に踊っています。



写真ML: 男の子たちのダンスが始まりました。 皆さん元気です。



写真MM: 「五月会」と書いてある幟 (のぼり)があります。 呉汁 (ごじる)の鍋 (なべ)も見えます。



写真MN: 「ご汁 1杯 150円」と書いてあります。 右上はその鍋 (なべ)です。



写真MO: 佐土原城祭りで呉汁 (ごじる)を飲みました。 ネギも入れてあります。



写真MP: おいしそうな呉汁 (ごじる)です。



写真MQ: 昔に佐土原 前島津の人達が後島津の人たちと入れ替わって、鹿児島県 日置市に移りました。 そこの薩摩乃国 吹上青松太鼓 (たいこ)も佐土原城祭りに出演します。 その太鼓などを運んできたトラックです。 「一期一会」と書いてあります。 「吹上青松太鼓保存振興会の太鼓」です。



写真MR: 宮崎市のイメージ キャラクター 「ミッシ」です。 かわいい女の子の姿をしています。 佐土原城に来ていました。
「ミッシちゃん」は宮崎市の自然・神話・食から3つの「シ」をとって名付けられました。



写真MS: 宮崎市のイメージ キャラクター 「ミッシちゃん」の後ろ姿です。 手を引かれて歩いています。 佐土原城。



写真MT: 「ひむか神話街道 佐土原」の説明板があります。



写真MU: 佐土原の地図が載 (の)っています。



写真MV: 佐土原の地図です。



写真MW: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真MX: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真MY: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真MZ: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真NA: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真NB: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真NC: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真ND: 鶴松館、巨田神社、佐野原聖地、佐土原藩十六烈士の墓、大光寺、高月院も載 (の)っています。 巨田神楽 (こたかぐら)、越網猟、いろは口説踊り (くどきおどり)、ダンジリ喧嘩 (けんか)、国民宿舎 石崎浜荘 (今は歓鯨館になっています。)、久峰総合公園の説明もあります。 ひむか神話街道についても載っています。



写真NE: 左は弁天山 (べんてんやま)です。 武者行列が左の歩道の奥に見えて来ました。



写真NF: 佐土原小学校の建物です。



写真NG: 弁天山のそばにある佐土原神社の鳥居 (とりい)が見えます。 左は佐土原保育園です。



写真NH: 弁天山の下を通っている武者行列です。 幟 (のぼり)も見えます。 右に「佐土原保育園←」の看板 (かんばん)も見えます。



写真NI: 佐土原神社の前を通っている武者行列です。 薙刀 (なぎなた)を持った女武者行列も見えます。 右端は子供の武者行列です。 皆さん、久峰総合公園から歩いて来られました。



写真NJ: 佐土原神社の前を進む子供の武者行列です。



写真NK: 武者行列の法螺貝 (ほらがい)を吹いている人です。



写真NL: 太鼓 (たいこ)を打っている武者、右に鐘 (かね)を叩 (たた)いている武者も見えます。



写真NM: 鶴松館の石段の下で、鉄砲隊が空砲を射 (う)っています。 火薬の煙 (けむ)りが見えます。
「佐土原城跡 (鶴松館)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 8202−1 にあります。
 佐土原城の歴史は、
14世紀頃 田島 氏 (伊東の分家です。)が佐土原城を造りました。 1427年頃 田島 氏を伊東が滅 (ほろ)ぼし伊東の城となりました。 1536年 伊東義祐 (よしすけ)が佐土原城主になりました。 1537年 火災になり、伊東義祐は宮崎城へ移りました。 その5年後に佐土原城を修築しました。 1568年 伊東が日向国の大半を支配しました。 1572年 伊東が木崎原の戦いで島津に大敗しました。 1577年 伊東一族が大分県の大友を頼り豊後 (ぶんご)に落ち延びました。 1578年 大友宗麟 (そうりん)が木城町の高城川合戦 (耳川の戦いとも言う。)で大敗しました。 1579年 島津家久が佐土原城主になりました。 1588年 島津家久が急死し、その子の豊久が継 (つ)ぎました。 1600年 31歳だった島津豊久が関が原の戦いで討ち死にしました。 その結果、佐土原城は徳川家康の家臣 庄田三太夫 (しょうださんだゆう)が治 (おさ)めました。 1603年 島津以久 (ゆきひさ)が佐土原藩の初代藩主になりました。 1604年 島津以久が佐土原城に入城しました。 1610年 島津以久が亡くなり、忠興 (ただおき)が継ぎ、そばの山の上にあった本丸を麓 (ふもと)の館 (やかた)に移しました。 1612年 菩提寺の高月院を建立しました。 1869年 明治時代になり、最後の藩主の島津忠寛 (ただひろ)が広瀬へ転城し、翌年に広瀬城は廃城となりました。 1871年 廃藩置県。 1993年 佐土原城跡資料館 「鶴松館」がオープンしました。 2004年 佐土原城跡が国指定史跡となりました。



写真NN: 整列した武者行列の人達です。 一番前に女武者行列の人達、左に子供の武者行列の人達が見えます。



写真NO: 長い行程を歩いて来られました。 佐土原城祭りの武者行列の人達です。



写真NP: これから武者行列の記念撮影が行われます。



写真NQ: 後ろに鶴松館の建物が見えます。 「島津以久 (ゆきひさ) 公」、「島津入城410年記念」と書いてある幟 (のぼり)もあります。



写真NR: 宮崎市 佐土原町 上田島にある鶴松館の建物です。



写真NS: 武者行列の人達が鶴松館の庭に集まっています。



写真NT: 鶴松館の庭に集合した武者行列の参加者です。



写真NU: 鶴松館を背景に記念撮影が行われました。



写真NV: 子供武者行列の人達もいます。



写真NW: ポーズをとっている武者行列の人達です。



写真NX: 武者行列の参加者たちです。



写真NY: 武者行列の参加者。 鶴松館にて。



写真NZ: 武者行列の参加者たちです。



写真OA: 武者行列の人達です。 鶴松館の庭にて。



写真OB: 記念撮影です。



写真OC: 四半的 (しはんまと)の俵 (たわら)などが鶴松館の庭にあります。
「四半的 (しはんまと)」は弓道の一種で、宮崎県 日南市 飫肥 (おび)を中心に伝わっています。 日南市無形民俗文化財に指定されています。 的 (まと)までの距離が4間半 (8.2 m)、矢の長さが4尺半 (1.36 m)、的の直径が4寸半 (13.6 cm)であることから、四半的と呼ばれます。 歴史的には、1567年 (永禄10年)に伊東義祐 (よしすけ、佐土原城の城主でもありました。)が島津忠親が居城する飫肥城 (おびじょう)を攻撃しました。 島津は援軍を送ってきましたが、竹で作った半弓を持った農民たちが迎え撃 (う)ち伊東義祐が戦いに勝利しました。 このことから、伊東義祐が農民たちに娯楽 (ごらく)で弓を使うことを許しました。 これが四半的の始まりです。



写真OD: 鶴松館です。 奥に小さめの建物があります。



写真OE: 宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島にある鶴松館の建物です。



写真OF: 鉄砲隊の人たちです。 鶴松館にて。



写真OG: このような石があります。



写真OH: 「四半的弓道を楽しもう! 年齢には関係なく歩行できれば可。 四半的弓道佐土原協会」と書いてあります。
「四半的 (しはんまと)」は弓道の一種で、宮崎県 日南市 飫肥 (おび)を中心に伝わっています。 日南市無形民俗文化財に指定されています。 的 (まと)までの距離が4間半 (8.2 m)、矢の長さが4尺半 (1.36 m)、的の直径が4寸半 (13.6 cm)であることから、四半的と呼ばれます。 歴史的には、1567年 (永禄10年)に伊東義祐 (よしすけ、佐土原城の城主でもありました。)が島津忠親が居城する飫肥城 (おびじょう)を攻撃しました。 島津は援軍を送ってきましたが、竹で作った半弓を持った農民たちが迎え撃 (う)ち伊東義祐が戦いに勝利しました。 このことから、伊東義祐が農民たちに娯楽 (ごらく)で弓を使うことを許しました。 これが四半的の始まりです。



写真OI: 佐土原町 上田島にある鶴松館の建物です。



写真OJ: 鶴松館の北側の様子 (ようす)です。



写真OK: 鶴松館の庭園です。 石灯籠 (いしどうろう)、庭石、立木、敷石 (しきいし)などがあります。



写真OL: 鶴松館の庭園です。



写真OM: 鶴松館の受付です。



写真ON: 武者行列の人たちが門から出ています。



写真OO: 鶴松館の建物の入り口です。



写真OP: 佐土原城祭りの舞台 (ぶたい)では子供の神楽 (かぐら)が奉納されています。



写真OQ: 佐土原高校の弦楽部の生徒さん達です。 鶴松館の入り口付近です。



写真OR: 武者行列の島津以久 役の人が佐土原地区交流センターの方へ向かっています。 東を見たものです。



写真OS: 終わった武者行列の人が車道を渡ろうとしています。



写真OT: 佐土原城跡の近くにある弁当屋さん「味の京屋」です。 右奥は佐土原地区交流センターです。 北を見たもの。



写真OU: 南東を見た景色です。 左に、山の上の茶屋遺跡にある携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真OV: 東を見たものです。 右に、山の上の茶屋遺跡にある携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真OW: 北東を見た景色です。 



写真OX: 山の上に茶屋遺跡にある携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真OY: 左寄(よ)り、山の下に大きな屋根の崇称寺 (しゅうしょうじ)が見えています。



写真OZ: 紙製の立派な子供武者行列の兜 (かぶと)です。 丸に十の字の島津の家紋 (かもん)が付いています。



写真PA: 後ろから見た子供武者行列の兜 (かぶと)です。



写真PB: 「人形工房 陶月」の佐土原人形です。 佐土原城祭り。



写真PC: 「陶月」の佐土原人形です。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真PD: 「陶月」の佐土原人形。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真PE: 「陶月」の佐土原人形です。
「佐土原人形」は宮崎県 宮崎市 佐土原町で江戸時代から作られている名物、伝統工芸品です。 400年以上の歴史を持つ佐土原町の伝統工芸です。 佐土原町 上田島にある「ますや」は約160年前に創業した老舗です。 ひな人形、節句人形など各種の佐土原人形を作っています。 昔からの手法は「手押し型」と呼(よ)ばれます。 粘土を棒で伸ばし型に押し付けて形を作ります。 水性絵の具を重ねて図柄、色を付けます。



写真PF: 「人形工房 陶月 佐土原人形」と書いてあります。



写真PG: 舞台では琴 (こと)の演奏が行われています。 佐土原城祭り。



写真PH: 舞台の音響機器があります。



写真PI: 子供の太鼓 (たいこ)です。 梅野太鼓です。



写真PJ: 太鼓です。 佐土原城祭り。
第9回 島津太鼓フェスティバルでは梅野太鼓、鹿児島県 垂水市のたるみず飛龍太鼓保存会の太鼓、鹿児島県 日置市の吹上青松太鼓保存振興会の太鼓、佐土原久峰太鼓などの公演が行われました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)