宮崎市 大島町の町並み、霧島神社 (伝説の、切った一部が東霧島神社から飛んで来た魔石(神石))、矢的原神社、大島神社 (伝説の、切った一部が飛んで来た魔石(神石)がある平原霧島神社、やまとばるじんじゃ、原の権現様、大島町自治公民館、新別府川、新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)(明治26年(1893年)、宮崎生協病院)  (宮崎県 宮崎市 大島町 平原、波島、本村、天神前)







<標高、位置>  神石(魔石)の一部がある「霧島神社」は
標高 約10 m
 北緯31度56分02秒  東経131度26分39秒

<標高、位置>  矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)は
標高 約10 m
 北緯31度56分04秒  東経131度26分41秒

<標高、位置>  宮崎波島郵便局は
標高 約10 m
 北緯31度56分15秒  東経131度26分51秒

<標高、位置>  宮崎北警察署 波島駐在所は
標高 約10 m
 北緯31度56分17秒  東経131度26分51秒

<標高、位置>  大島神社は
標高 約10 m
 北緯31度56分22秒  東経131度26分20秒

<標高、位置>  宮崎生協病院は
標高 約10 m
 北緯31度56分19秒  東経131度26分22秒


 「平原 霧島神社」は宮崎県 宮崎市 大島町 平原(ひらばる)にあります。
この霧島神社には伝説の、切った一部が都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)から飛んできた魔石(神石)があります。

 「矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 大島町 平原(ひらばる)にあります。
矢的原神社には末社の的石神社の中に「的石(まといし)」があります。
「矢的原神社の由来」の説明から、
矢は霧島神社、 的は的石神社、原は原権現神社で、この三社合社が矢的原神社です。 昭和13年より矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)と申します。
御祭神 天津彦火々出見尊
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその的石(まといし)と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日
説明板から、
「霧島神社 由来記」の説明板です。
  「当 霧島神社は北諸県郡 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)にまつわる古事記にて伝えるところによると、上古に東霧島神社 元標より辰己方 故有谷といえる池中に裂盤あり魔石(神石)と呼ばれていた。 この石は古より魔に魅せられあらゆる害を及ぼしていた。 これに困って霧島の主神 イザナギの尊(みこと) 十握の剣(とっかのつるぎ)を握(にぎ)りこれを斬(き)りて3段となす、特にその1段は雷となり飛び去にぬ。 1段はこのところに留まりて、神となり、後1段はかって飛び去りて宮崎郡 大島 平原村に留まりて有りと土地人は深く崇敬し氏神として祀(まつ)ると伝えられ、・来奉祀主神伊弉諾尊天津彦火瓊瓊杵尊 天津彦火火出見尊 鵜葺草葺不合尊 神日本伊没禮日比尊伊弉册尊の神々を鎮座し合殿六座に各々(おのおの)祀(まつ)る。 災難厄除、家内安全、安産の神として崇(あが)め奉る伊弉册尊に就ては俗に産婆祖母様と言て古来依 婦人の参拝者が多い 時移り時変り今日にして近郷近在諸人の信仰新なり。 昭和53年12月吉日 建立 霧島神社 氏子一同」
と書かれています。

矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」から、
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。

 宮崎波島郵便局は宮崎県 宮崎市 波島 1-17-11 にあります。

 宮崎北警察署 波島駐在所は宮崎県 宮崎市 波島 1丁目17番8号にあります。

 宮崎生協病院は宮崎県 宮崎市 大島町 天神前 1171 にあります。

 「大島神社」は宮崎県 宮崎市 大島町 本村 200番地にあります。 天満宮、天神様とも呼ばれます。
大島神社には大島神社神楽(かぐら)が伝わっています。
「大島神社」の説明板から、
祭神 アマツヒコホニニギノミコト、菅原道真 公
鎮座地 宮崎市 大島町 本村 200番地
例祭日 11月10日、社殿 本殿(流造)5坪 拝殿(切妻造)12坪、境内坪数 280坪
由緒沿革
所蔵の天文5年(1536年)8月30日当社再興の棟札よりみて、それ以前の創建である。 その後 文禄4年(1595年)上棟一宇天神再興千時3月22日の棟札がある。 この棟札からして当時から天神様であり、いまに通称するはそれにならったものである。 棟札をさらにあげると慶長12年(1617年)丁末8月25日 大且那小河友兵衛によって、天神御社一宇の御造営とあるのをはじめ、寛永15年(1638年)9月22日奉再興天神御社一宇、寛永4年(1627年)上棟奉再興天神御社一宇。 元禄4年(1691年)霜月吉日などの棟札がその由緒を物語っている。 さらに天文3年(1534年)神主 源盛雇校正の「小戸大明神別宮摂末社神的略記」には一座去本宮子丑第30丁余、在 大島村 南向いしとあり、その所在と方角を明記している。

 「大島町自治公民館」は宮崎県 宮崎市 大島町 本村 207-6にあります。

 「新別府川(しんびゅうがわ)」は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 新別府川 (しんびゅうがわ)の源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。 「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真A: 南北に通っている市道 大島通線です。 左にディスカウント ストアのダイレックス、右にさぬきうどんの丸亀製麺が見えます。 南を見たもの。
見えている信号を左(東)に曲がって宮崎市 大島町にある一部の魔石(神石)が飛んできたものがある「霧島神社」、「矢的原神社(やまとばるじんじゃ)」、大島町 波島(なみしま)に行きます。



写真B: ディスカウント ストアのダイレックスです。 改装工事中でした。



写真C: 南東を見た景色です。 右端はディスカウント ストアのダイレックス、民家、左端に大島ケアセンターが見えます。



写真D: 右寄りに高い看板(かんばん)がある大島ケアセンター、民家、マンションなどが見えます。 東を見たもの。



写真E: 北東を見たもの。 左端は宮崎市 大島町 1445-38 にある宮崎市 計量検査所です。



写真F: 北を見たもの。 ドラッグストアのコスモス、1000円カットの3Qなどが見えます。



写真G: この十字路を左(東)に曲がって宮崎市 大島町にある一部の魔石(神石)が飛んできたものがある「霧島神社」、「矢的原神社(やまとばるじんじゃ)」、大島町 波島(なみしま)に行きます。



写真H: この道を進みます。 東を見たもの。 左端はディスカウント ストアのダイレックスです。



写真I: 北を見たもの。 ダイレックスの看板、改装工事中の建物が見えます。



写真J: ディスカウント ストアのダイレックスの看板(かんばん)です。



写真K: この道を進みます。 東を見たもの。 右と左奥に墓場があります。



写真L: 左端は大島ケアセンターです。



写真M: 宮崎市 大島町にある大島ケアセンターです。



写真N: 田んぼに早期水稲が実っていました。



写真O: 新別府川の原見橋(はらみはし、昭和56年3月竣工)です。 東を見たもの。



写真P: 「原見橋」と書いてあります。



写真Q: 宮崎市 大島町を流れる新別府川です。 北を見たもの。 源流は池内の古賀病院の北の方です。 新別府川は宮崎港の北側で太平洋に注(そそ)ぎます。
新別府川(しんびゅうがわ)は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。
「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真R: 「昭和56年3月竣工」と書いてあります。



写真S: 宮崎市 大島町を流れる新別府川です。 南を見たもの。 青い浮城上橋が見えています。
新別府川(しんびゅうがわ)は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。



写真T: 「新別府川」と書いてあります。



写真U: 南を見たもの。 新別府川の堤防(ていぼう)です。



写真V: 新別府の堤防です。 北を見たもの。 NHKの中波ラジオの放送アンテナが見えます。 右寄りに宮崎市 芳士にある高層の県営住宅も白く見えます。 左端の奥に宮崎市 大島町にある宮崎生協病院が見えています。



写真W: 「はらみはし」と橋に書いてあります。



写真X: さらに東に進みます。 住宅地になっています。 井戸工事の看板(かんばん)も見えます。
このあたりは宮崎県 宮崎市 大島町 平原です。



写真Y: 左下に「昭和村大島館 この先100 m ←」と書いてある看板があります。 まっすぐ奥に進みます。
このあたりは宮崎県 宮崎市 大島町 平原です。



写真Z: さらに行きます。 このあたりは宮崎県 宮崎市 大島町 平原です。



写真AA: 三叉路(さんさろ)があります。 左奥に進みます。
このあたりは宮崎県 宮崎市 大島町 平原です。



写真AB: 左の電柱のところが切った一部が都城市 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)から飛んできた魔石(神石)がある宮崎市 大島町 平原にある「霧島神社」の参道です。 あまり目立ちません、見落とさないようにすることが大切です。



写真AC: この細い道が大島町にある「霧島神社」の参道です。 北を見たもの。 この霧島神社には、切った一部が都城市 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)から飛んできた魔石(神石)があります(伝説です。)。



写真AD: 霧島神社の参道入口の近くです。



写真AE: 霧島神社の参道入口の近く。



写真AF: 霧島神社の参道入口の近くです。 左端が参道入口です。



写真AG: 電柱のところが霧島神社の参道入口です。



写真AH: 宮崎市 大島町 平原の霧島神社の入口です。 車止めが中央にあります。 奥に霧島神社の鳥居(とりい)、社殿が見えます。



写真AI: 左は霧島神社の参道です。 右端は車道です。



写真AJ: 一部が飛んできた魔石(神石)がある宮崎県 宮崎市 大島町 平原(ひらばる)の「霧島神社」の参道です。



写真AK: 霧島神社の鳥居(とりい)、社殿が見えます。 鳥居の上に大きなアリゾナ糸杉があります。



写真AL: 大島町 平原にある霧島神社の参道です。



写真AM: 飛んできた魔石(神石)が置いてある宮崎県 宮崎市 大島町 平原(ひらばる)にある「霧島神社」です。 鳥居に「霧島神社」と書いてある額(がく)があります。 社殿、左に御手洗(みたらい)があります。 鳥居のそばに大きなアリゾナ糸杉があります。 北を見たもの。



写真AN: 鳥居に「霧島神社」と書いてあります。



写真AO: 宮崎県 宮崎市 大島町 平原にある「霧島神社」の境内(けいだい)です。 社殿、御手洗(みたらい)、古い木などもあります。



写真AP: 霧島神社の鳥居、石碑(せきひ)などが見えます。



写真AQ: 霧島神社の鳥居の柱です。



写真AR: 宮崎市 大島町 平原にある霧島神社の境内(けいだい)です。



写真AS: 鳥居の柱、御手洗(みたらい)などです。



写真AT: 神社の南端のところです。



写真AU: 来た参道を振り返ったもの。



写真AV: アリゾナ イトスギの落ち葉です。



写真AW: 霧島神社の御手洗(みたらい)です。



写真AX: 霧島神社の石碑(せきひ)、鳥居の柱です。 手前の木はアリゾナ糸杉です。



写真AY: 「霧島神社改築記念碑 昭和38年2月23日」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)があります。



写真AZ: 霧島神社の古い木と社殿です。 神社の東端の柵(さく)も見えます。



写真BA: 宮崎市 大島町 平原にある霧島神社の古い木です。



写真BB: 大島町 平原にある霧島神社の古い木。



写真BC: 大島町 平原にある霧島神社の古い木です。



写真BD: 宮崎県  宮崎市 大島町 平原にある霧島神社の社殿です。 この中に一部が飛んできた「魔石(神石 (かみいし、しんせき))」があります。 しめ縄と御幣(ごへい)があります。



写真BE: 社殿の下部です。



写真BF: 社殿に「霧島神社」と書いてあります。



写真BG: 御手洗、石碑、鳥居などが見えます。



写真BH: 古い木、御手洗、石碑、鳥居などが見えます。 大島町 平原にある霧島神社。



写真BI: 社殿の側面も見えます。 四角の穴がいくつかあります。



写真BJ: 松の木と社殿の側面です。 北を見たもの。



写真BK: 霧島神社境内の北西の角です。



写真BL: 西を見たもの。



写真BM: 西南西を見たものです。



写真BN: 南西を見たものです。



写真BO: 霧島神社の境内です。



写真BP: 境内の北端の部分です。 東を見たもの。



写真BQ: 境内の北端の部分。 西を見たもの。



写真BR: 奥は松の木です。



写真BS: 境内の木を見上げたもの。



写真BT: 社殿の裏側です。



写真BU: 社殿の側面です。



写真BV: 境内の東端の部分です。 南を見たもの。



写真BW: 東を見たもの。



写真BX: 社殿の下部です。



写真BY: 古い木、石碑、鳥居の柱などが見えます。 南を見たもの。



写真BZ: 霧島神社の古い木です。 幹(みき)が苔(こけ)むしています。



写真CA: 霧島神社の古い木。



写真CB: 霧島神社の古い木です。



写真CC: 霧島神社の古い木。



写真CD: 宮崎県 宮崎市 大島町 平原にある「霧島神社」です。
木の台の奥にある2つの石が伝説の「魔石(神石)」です。
宮崎県 都城市 高崎町にある東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の神石について、
「神石」の由来(ゆらい)の説明板から、
 天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。 天地創造の神である、イザナギの尊(みこと)、イザナミの尊(みこと)が誕生されました。 夫婦となられた2人の神様は国土・山川草木に至る私達の生活に大切な「火の神」をお産みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。 夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。 愛(いと)しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆(なげ)き、悲しめど亡き人は帰る術(すべ)もありません。 その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕(した)う悲しみの涙で凝(こ)り固まったのが、「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とっかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭(あ)わないように・・・と、深き祈りの心を込めて3段(4つに分割)に切ったといいます。
 「十握の剣(とっかのつるぎ)」は当神社の神宝であり、厄除(やくよ)け・魔除けの神となり鎮(しず)め納めております。
((岩の)横に廻(まわ)って御覧下さい。 ものの見事に切れております。) [神石は故有谷(やゆたに)と呼ばれる谷間の池(約8 m x 約7 m)の真ん中にあります。]

 「故有谷(ゆやだに)の泪雨(なみだあめ)」のパンフレットから、
 「神石(かみいし)」のある谷を故有谷(ゆやだに)といいます。 泪雨というのは「神石」(神裂石・魔石・雷神石。割裂神石)に一滴の水を注ぐと、必ず神雨降(ふ)り注ぐという。 昔から旱魃(かんばつ)の年には社僧に願って、この神石に雨乞いをして五穀豊穣を続けてきたのであります。 明治初年、三島地頭(じとう)が母智丘神社(もちおじんじゃ)を建立した時、この「神石」を人夫を以(も)って五十市の方へ運ぼうとしたところ、一天俄(いってんにわか)に曇って激しい雷雨が轟(とどろ)き、数カ所に落雷し、死者さえも出たので、皆ちりぢりに逃げ帰ったといいます。 依(よ)って、この石を「雷神石」ともいいます。 [この神石は3段(4つに分割)に切られました。 都城市にある母智丘公園の母智丘神社(もちおじんじゃ)にはこの「東霧島神社の神石の一部」があります。 (母智丘神社(もちおじんじゃ)の「割裂神石」のことです。)]。 一片は宮崎の大島平原村(現 宮崎市 大島町 平原(波島の近く。))に飛び去ったという説もあります(大島町の霧島神社にこの切り取ったような石があります。)。 出雲国(島根県、場所は不明)に奇石(切り取ったような石)があって、土地の人は昔に薩摩藩の霧島山から飛んできた石と伝えているそうです。 宮崎県 高岡町に去川という地名があるのは、この飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石・・・とあるそうです。
*この東霧島神社の神石については、
「東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)の神石(魔石)のホームページ」 (南陽彰悟)
を参照して下さい。



写真CE: 一部が宮崎県 都城市 高崎町にある「東霧島神社」の魔石(神石)から飛んできたという伝説の魔石(神石)です。 その手前に榊(さかき)の枝が供(そな)えてあります。 宮崎市 大島町 平原にある霧島神社。



写真CF: 神石の奥に祠(ほこら)があります。



写真CG: 木の台の下部です。



写真CH: 神石、木の台、サカキの枝もあります。



写真CI: 2つの魔石(神石)、サカキの枝、湯のみ、木の台、しめ縄と御幣(ごへい)もあります。



写真CJ: 魔石(神石)、木の台、花筒(はなづつ)、湯のみなどがあります。



写真CK: ガラスに古い木も映(うつ)っています。



写真CL: 魔石(神石)、しめ縄と御幣(ごへい)、サカキの枝、左の木の台、祠(ほこら)もあります。



写真CM: ガラスに傘(かさ)なども映(うつ)っています。



写真CN: 木の台の奥に2つの魔石(神石)があります。



写真CO: 霧島神社の近くに「矢的原神社(やまとばるじんじゃ)」があります。 車道の左に矢的原神社の鳥居(とりい)、社殿が見えています。



写真CP: 右の道を霧島神社から来ました。 南を見たもの。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。 宮崎市 大島町 平原です。
このすこし手前に矢的原神社があります。



写真CQ: 矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の鳥居、石碑(せきひ)、社殿が見えます。 北東を見たもの。 右の車道を先に行くと宮崎市 大島町 波島があります。



写真CR: 矢的原神社の近くです。 車道を奥に行くと宮崎市 大島町 波島があります。



写真CS: 左は矢的原神社の鳥居です。 奥に行くと大島町 波島があります。



写真CT: 左は「土地改良事業記念碑」です。



写真CU: 中央は「猿田彦大神」と彫(ほ)ってあります。



写真CV: 「日支事変 大東亜戦 戦没者記念碑」です。



写真CW: 「矢的原神社改築記念碑」です。



写真CX: 宮崎県 宮崎市 大島町 平原(ひらばる)にある「矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)」です。 先ほどの霧島神社の少し北東にあります。
「矢的原神社の由来」の説明より、
矢は霧島神社、 的は的石神社、原は原権現神社で、この三社合社が矢的原神社です。 昭和13年より矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)と申します。
中央に車止めがあります。



写真CY: 鳥居(とりい)に「矢的原神社」と彫(ほ)ってあります。



写真CZ: 右から手水舎(ちょうずや)、石碑(せきひ)を側面から見たもの、鳥居の柱などが見えます。



写真DA: 矢的原神社の手水舎(ちょうずや)です。



写真DB: 宮崎県 宮崎市 大島町 平原にある「矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)」です。 先ほどの霧島神社の少し北東にあります。
拝殿、末社、などが見えます。
「矢的原神社の由来」の説明より、
矢は霧島神社、 的は的石神社、原は原権現神社で、この三社合社が矢的原神社です。 昭和13年より矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)と申します。



写真DC: 木の右側は車道になっています。



写真DD: 左は矢的原神社の拝殿です。



写真DE: 丸い石柱に「昭和13年9月吉日」と彫(ほ)ってあります。 この矢的原神社が出来た時の鳥居(とりい)の柱かもしれません。
「矢的原神社の由来」の説明より、
矢は霧島神社、 的は的石神社、原は原権現神社で、この三社合社が矢的原神社です。 昭和13年より矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)と申します。



写真DF: 内側から鳥居、石碑、車止めを見たもの。



写真DG: 矢的原神社の手水舎(ちょうずや)です。



写真DH: 矢的原神社の御手洗(みたらい)です。 水が流れ込(こ)んでいて波紋が見えます。



写真DI: 手水舎の手拭(ふ)きの布です。 「奉納 平成24年元旦 大島町 平原」と書いてあります。



写真DJ: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DK: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DL: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DM: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DN: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DO: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DP: 矢的原神社の「由来の石碑(せきひ)」です。
矢的原神社は昔から腹の神として町内はじめ町外の人々の参拝者が絶えない。 通称 原の権現様と呼んでいる。 ・・・ 本村の天神様(大島神社)の本殿を移転改築、拝殿は新築、霧島神社 玉垣(たまがき、神社の周囲に設ける垣(かき))、新殿 玉垣、記念碑を池を売ったお金で造った。 鳥居、手洗い所は有志の寄付金にて完成。 平原 下方農道拡張。」
昭和47年7月吉日
と彫ってあります。



写真DQ: 宮崎市 大島町 平原(ひらばる)にある矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)です。 拝殿、左に2つの末社、右に藤棚(ふじだな)も見えます。



写真DR: 矢的原神社 拝殿の横木の左端に象の彫(ほ)り物もあります。 しめ縄も見えます。



写真DS: 横木の右端にも象の彫り物があります。



写真DT: 「由緒(ゆいしょ)」の説明板、鈴、鈴のヒモ、電灯などがあります。
御祭神 天津彦火々出見尊
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその「的石(まといし)」と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真DU: 拝殿の下部です。



写真DV: 「矢的原神社の由来」の説明です。
矢は霧島神社、 的は的石神社、原は原権現神社で、この三社合社が矢的原神社です。 昭和13年より矢的原神社 (やまとばるじんじゃ)と申します。
と書いてあります。



写真DW: 矢的原神社の中です。 「(別称の) 原権現神社」の額(がく)、天狗(てんぐ)の面、七福神などがあります。
天狗の面は修験道と深い関係があります。



写真DX: 鈴のヒモも見えます。



写真DY: 拝殿から鳥居の方を見たものです。 南を見たもの。



写真DZ: 1つ目の末社があります。



写真EA: 1つ目の末社の下部です。



写真EB: 境内(けいだい)の木の幹(みき)です。



写真EC: 矢的原神社の境内(けいだい)です。 右端に鳥居が見えます。 東を見たもの。



写真ED: 宮崎市 大島町 平原にある矢的原神社。



写真EE: 左は1つ目の末社、右は拝殿です。



写真EF: 矢的原神社の西端のところです。 1つ目の末社。



写真EG: 1つ目の末社に3体の石像があります。 鐘(かね)、花、線香立て、湯のみ、ろうそく立てがあります。 仏教的な感じです。 修験道は神仏調和なのでその影響と思われます。



写真EH: 矢的原神社のまわりの塀(へい)です。



写真EI: 矢的原神社の西側です。



写真EJ: マンション、2つ目の末社(的石神社)、民家などが見えます。 北西を見たものです。



写真EK: 左は2つ目の末社(的石神社)、右は社殿です。



写真EL: 矢的原神社の境内にある2つ目の末社「的石神社」です。 拝殿の西側にあります。
的石神社の中に「割れたような2つの石」が見えます。  この石は「的石(まといし)」と呼ばれます。 東霧島神社から飛んできたという魔石(神石)ではありません。 魔石(神石)は近くにある霧島神社(平原霧島神社)にあります。
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその「的石(まといし)」と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真EM: 2つ目の末社「的石神社」の下部です。



写真EN: 「的石神社」と書いてあります。 矢的原神社の境内(けいだい)にあります。



写真EO: 末社の「的石神社」の中です。 中央に2つ、右端に1つの石があります。 この石は「的石(まといし)」と呼ばれます。 東霧島神社から飛んできたという魔石(神石)ではありません。 魔石(神石)は近くにある霧島神社(平原霧島神社)にあります。 中央の2つは割れたようになっています。
榊(さかき)、2つの小さな仏像のようなもの、容器、後ろ奥に説明板などがあります。
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその「的石(まといし)」と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真EP: 的石神社の中です。
 この石は「的石(まといし)」と呼ばれます。 東霧島神社から飛んできたという魔石(神石)ではありません。 魔石(神石)は近くにある霧島神社(平原霧島神社)にあります。
御祭神 天津彦火々出見尊
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその的石(まといし)と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真EQ: 的石神社の石、「霧島神社 由来記」の説明板が見えます。



写真ER: 割れたような2つの石、容器、小さな仏像のようなものがあります。 右端にサカキが見えます。
 この石は「的石(まといし)」と呼ばれます。 東霧島神社から飛んできたという魔石(神石)ではありません。 魔石(神石)は近くにある霧島神社(平原霧島神社)にあります。
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその的石(まといし)と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真ES: 的石神社の下部です。



写真ET: 「霧島神社 由来記」の説明板です。
  「当 霧島神社は北諸県郡 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)にまつわる古事記にて伝えるところによると、上古に東霧島神社 元標より辰己方 故有谷といえる池中に裂盤あり魔石(神石)と呼ばれていた。 この石は古より魔に魅せられあらゆる害を及ぼしていた。 これに困って霧島の主神 イザナギの尊(みこと) 十握の剣(とっかのつるぎ)を握(にぎ)りこれを斬(き)りて3段となす、特にその1段は雷となり飛び去にぬ。 1段はこのところに留まりて、神となり、後1段はかって飛び去りて宮崎郡 大島 平原村に留まりて有りと土地人は深く崇敬し氏神として祀(まつ)ると伝えられ、・来奉祀主神伊弉諾尊天津彦火瓊瓊杵尊 天津彦火火出見尊 鵜葺草葺不合尊 神日本伊没禮日比尊伊弉册尊の神々を鎮座し合殿六座に各々(おのおの)祀(まつ)る。 災難厄除、家内安全、安産の神として崇(あが)め奉る伊弉册尊に就ては俗に産婆祖母様と言て古来依 婦人の参拝者が多い 時移り時変り今日にして近郷近在諸人の信仰新なり。
昭和53年12月吉日 建立 霧島神社 氏子一同」
と書かれています。



写真EU: 「霧島神社 由来記」の説明板です。
  「当 霧島神社は北諸県郡 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)にまつわる古事記にて伝えるところによると、上古に東霧島神社 元標より辰己方 故有谷といえる池中に裂盤あり魔石(神石)と呼ばれていた。 この石は古より魔に魅せられあらゆる害を及ぼしていた。 これに困って霧島の主神 イザナギの尊(みこと) 十握の剣(とっかのつるぎ)を握(にぎ)りこれを斬(き)りて3段となす、特にその1段は雷となり飛び去にぬ。 1段はこのところに留まりて、神となり、後1段はかって飛び去りて宮崎郡 大島 平原村に留まりて有りと土地人は深く崇敬し氏神として祀(まつ)ると伝えられ、・来奉祀主神伊弉諾尊天津彦火瓊瓊杵尊 天津彦火火出見尊 鵜葺草葺不合尊 神日本伊没禮日比尊伊弉册尊の神々を鎮座し合殿六座に各々(おのおの)祀(まつ)る。 災難厄除、家内安全、安産の神として崇(あが)め奉る伊弉册尊に就ては俗に産婆祖母様と言て古来依 婦人の参拝者が多い 時移り時変り今日にして近郷近在諸人の信仰新なり。
昭和53年12月吉日 建立 霧島神社 氏子一同」
と書かれています。



写真EV: 「霧島神社 由来記」の説明板です。
  「当 霧島神社は北諸県郡 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)にまつわる古事記にて伝えるところによると、上古に東霧島神社 元標より辰己方 故有谷といえる池中に裂盤あり魔石(神石)と呼ばれていた。 この石は古より魔に魅せられあらゆる害を及ぼしていた。 これに困って霧島の主神 イザナギの尊(みこと) 十握の剣(とっかのつるぎ)を握(にぎ)りこれを斬(き)りて3段となす、特にその1段は雷となり飛び去にぬ。 1段はこのところに留まりて、神となり、後1段はかって飛び去りて宮崎郡 大島 平原村に留まりて有りと土地人は深く崇敬し氏神として祀(まつ)ると伝えられ、・来奉祀主神伊弉諾尊天津彦火瓊瓊杵尊 天津彦火火出見尊 鵜葺草葺不合尊 神日本伊没禮日比尊伊弉册尊の神々を鎮座し合殿六座に各々(おのおの)祀(まつ)る。 災難厄除、家内安全、安産の神として崇(あが)め奉る伊弉册尊に就ては俗に産婆祖母様と言て古来依 婦人の参拝者が多い 時移り時変り今日にして近郷近在諸人の信仰新なり。
昭和53年12月吉日 建立 霧島神社 氏子一同」
と書かれています。



写真EW: 「霧島神社 由来記」の説明板です。
  「当 霧島神社は北諸県郡 高崎町 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)にまつわる古事記にて伝えるところによると、上古に東霧島神社 元標より辰己方 故有谷といえる池中に裂盤あり魔石(神石)と呼ばれていた。 この石は古より魔に魅せられあらゆる害を及ぼしていた。 これに困って霧島の主神 イザナギの尊(みこと) 十握の剣(とっかのつるぎ)を握(にぎ)りこれを斬(き)りて3段となす、特にその1段は雷となり飛び去にぬ。 1段はこのところに留まりて、神となり、後1段はかって飛び去りて宮崎郡 大島 平原村に留まりて有りと土地人は深く崇敬し氏神として祀(まつ)ると伝えられ、・来奉祀主神伊弉諾尊天津彦火瓊瓊杵尊 天津彦火火出見尊 鵜葺草葺不合尊 神日本伊没禮日比尊伊弉册尊の神々を鎮座し合殿六座に各々(おのおの)祀(まつ)る。 災難厄除、家内安全、安産の神として崇(あが)め奉る伊弉册尊に就ては俗に産婆祖母様と言て古来依 婦人の参拝者が多い 時移り時変り今日にして近郷近在諸人の信仰新なり。
昭和53年12月吉日 建立 霧島神社 氏子一同」
と書かれています。



写真EX: 手前は的石神社を裏(北)から見たもの。
黄花コスモスが見えています。



写真EY: 左から本殿、拝殿、末社が2つ見えます。



写真EZ: 奥は矢的原神社の本殿です。



写真FA: 北側から矢的原神社の境内に入る入口です。



写真FB: 北西を見たものです。 マンションもあります。



写真FC: 宮崎県 宮崎市 大島町 平原にある「矢的原神社の本殿」を西から見たものです。



写真FD: 本殿の下部です。



写真FE: 北側からの入口です。



写真FF: 本殿の下部です。 柵(さく)があります。



写真FG: 矢的原神社の本殿です。 北西から見たもの。



写真FH: 矢的原神社 境内の北東の角(かど)のところです。 奥に石碑(せきひ)があります。 右は本殿の柵(さく)です。



写真FI: 本殿の近くにある木です。 東を見たもの。



写真FJ: 本殿と近くの木の上部です。



写真FK: いくつかの石碑に花が供(そな)えてあります。 本殿の東側です。



写真FL: いくつかの古い石碑(せきひ)に花が供えてあります。



写真FM: 石碑の下部です。



写真FN: 横(南)から見たいくつかの石碑です。 右は境内の東端です。



写真FO: 宮崎市 大島町 平原にある矢的原神社の本殿です。



写真FP: 本殿の下部です。



写真FQ: 拝殿の東に藤棚(ふじだな)があります。



写真FR: 藤棚と拝殿の下部です。



写真FS: 矢的原神社の藤棚(ふじだな)です。



写真FT: 奥に鳥居が見えます。 右は拝殿です。 南を見たもの。



写真FU: 矢的原神社の境内です。 南を見たもの。



写真FV: 矢的原神社の拝殿にある鈴と由緒の説明です。
御祭神 天津彦火々出見尊
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその的石(まといし)と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真FW: 矢的原神社の鈴と由緒の説明です。
御祭神 天津彦火々出見尊
矢的原神社(やまとばるじんじゃ)の由緒 (説明板から)
社殿の創建の時代詳(つまび)らかならずも太古天津彦火々出見尊 高千穂峰よりこの処をあおきが原を目度を定められて御弓を射させ給いしがその的石(まといし)と言い伝える霊石あり。 その時はあおきが原大権現と呼称し居たりと言う。 今尚(いまなお) 原の権現様と呼称す。 昭和39年3月31日



写真FX: 矢的原神社の脇(わき)の車道を北に進みます。



写真FY: 車道から見た矢的原神社です。



写真FZ: 左に宮崎銀行、KUMONなどの看板(かんばん)があります。



写真GA: 宮崎県 宮崎市 大島町 南窪 841 にある宮崎銀行 大島支店です。


写真GB: 宮崎市 大島町 南窪 841 にある宮崎銀行 大島支店。



写真GC: 南を振り返ったもの。 宮崎銀行の看板が見えます。



写真GD: 車道を北に進みます。



写真GE: 理容店があります。



写真GF: 「ハマユウの花」が咲いていました。



写真GG: 北へ進みます。



写真GH: 「波島2丁目」と書いてあります。 宮崎県 宮崎市 大島町 波島です。



写真GI: 宮崎市 大島町 波島の商店です。



写真GJ: バス停「波島1丁目 宮崎交通」があります。 右に電器店があります。



写真GK: ガソリン スタンドもあります。 宮崎市 大島町 波島です。



写真GL: 宮崎波島郵便局があります。 郵便ポストも見えます。 宮崎県 宮崎市 大島町 波島 1-17-11にあります。



写真GM: 波島駐在所があります。 宮崎市 大島町 波島 1丁目17番地8号にあります。



写真GN: 左は波島駐在所です。 交差点があります。



写真GO: 十字路があります。 宮崎市 大島町 波島 1丁目です。



写真GP: 右端は波島駐在所です。



写真GQ: 左に波島駐在所が見えます。



写真GR: 波島駐在所は十字路のところにあります。 宮崎市 大島町 波島 1丁目17番地8号にあります。



写真GS: 肉屋さんが見えます。



写真GT: 宮崎市 大島町 波島の車道を北に進みます。



写真GU: 料理屋があります。



写真GV: 理容店があります。



写真GW: 宮崎市 大島町 波島の店です。



写真GX: 北へ進みます。



写真GY: 酒販売店があります。



写真GZ: 酒販売店に飲料水の自動販売機があります。



写真HA: 「コカ・コーラ zero」を飲みました。



写真HB: 車道を北に進みます。



写真HC: 自転車屋さんがあります。 車道を北に進みます。



写真HD: もうすぐ大きな十字路があります。 北を見たもの。



写真HE: これが大きな道路との十字路です。 右に行くと山崎道路、左に行くと大島通線に行きます。 北を見たもの。
ここを左(西)に曲がって進みます。



写真HF: 大きな道路の東方向を見たもの。 この先に山崎道路があります。



写真HG: 北東を見たもの。



写真HH: 大きな道路の西方向を見たもの。 この先に大島通線があります。



写真HI: 大きな道路を今度は西に進みます。



写真HJ: ビロウ樹の木が大きな道路に植えてあります。



写真HK: 道路の両側にビロウ樹があります。 西を見たもの。



写真HL: 西に進みます。



写真HM: バス停「萩崎 宮崎交通」があります。



写真HN: ビロウ樹とバス停「萩崎 宮崎交通」。 西に進みます。



写真HO: 店があります。



写真HP: 店の下部です。



写真HQ: 医院があります。



写真HR: ビロウ樹、医院の看板(かんばん)が見えます。 西を見たもの。



写真HS: 西に進みます。



写真HT: 西を見たもの。



写真HU: 南を見たもの。 奥に小さく団地が見えます。



写真HV: 北西を見たものです。



写真HW: 北西に九電変電所が見えます。



写真HX: コンビニ店が見えます。



写真HY: 西を見たもの。



写真HZ: 携帯電話の基地局アンテナの右に高い建物の宮崎生協病院が見えます。 宮崎生協病院は宮崎県 宮崎市 大島町 天神前 1171 にあります。 南西を見た景色です。



写真IA: 市営住宅 大島北団地が見えます。 南を見た景色です。



写真IB: 南東を見たもの。



写真IC: 東を見た景色です。



写真ID: 北東を見たもの。



写真IE: 北西を見たものです。 コンビニ店があります。



写真IF: 携帯電話 基地局アンテナの右に高い建物の宮崎生協病院が見えます。



写真IG: 奥に九電変電所が見えます。 北を見たもの。



写真IH: コンビニ店です。 北東を見たもの。



写真II: 九電変電所です。



写真IJ: 南西を見た景色です。



写真IK: 新別府川の堤防があります。 南を見たもの。



写真IL: 「新別府川、大島神楽 神楽の面の絵」が大島大橋にあります。



写真IM: 「大島大橋」と橋に書いてあります。 右は九電変電所です。 北を見たもの。



写真IN: 新別府川。 南を見た景色です。 クンパチ山、花切山、双石山(ぼろいしやま)、鰐塚山(わにづかやま)も見えます。
「新別府川をめぐる百姓一揆(いっき)」が明治26年(1893年)に起こりました。 宮崎でもその夏は約60日間雨が降りませんでした。 大島村(現 宮崎市 大島町)の農民は新別府川に井堰(いせき)を造り田畑に水を引きました。 そのため下流の吉村村(現 宮崎市 吉村町)は川の水が不足しました。 吉村村の数100人の農民が大島村の井堰を破壊して吉村村に水を流しました。 大島と吉村は大争い(水争い)をしました。 結局、両村の長老が話し合いました。 その結果、西田川が新別府川に合流する地点より下流には井堰を造らない事になりました。 吉村村には西田川の水が来ることになったのです。 これで新別府川をめぐる百姓一揆 (水争い)は終結したそうです。



写真IO: 新別府川の大島大橋から北を見た景色です。 右に九電変電所が見えます。



写真IP: 北西を見たものです。



写真IQ: 大島大橋から西を見た景色です。 大島通線との十字路にあるガスト(レストラン)も見えています。



写真IR: 大島大橋から南西を見た景色です。 宮崎生協病院、右端にガスト(レストラン)もあります。



写真IS: 新別府川の大島大橋から南を見た景色です。 クンパチ山、花切山、双石山(ぼろいしやま)、鰐塚山(わにづかやま)も見えます。

新別府川(しんびゅうがわ)は全長約13 kmで河口近くの地名、新別府町(しんべっぷちょう)から名付けられました。 別府はもともと「べっぷ、びゅう、べふ」と発音し、平安時代末期から戦国時代に出来た土地制度です。 新別府川は昔は大島川、前川、南川、竹下溝などと呼ばれていました。



写真IT: 市営住宅 大島北団地が見えます。 南東を見た景色です。 手前は新別府川です。



写真IU: 東を見たもの。



写真IV: 北東を見たもの。 シーガイアのオーシャン45 (高層ホテル)が見えています。 左は九電変電所です。



写真IW: 「おおしまおおはし、大島神楽」と橋に書いてあります。



写真IX: 北を見た景色です。 中央左に、宮崎市 芳士(ほうじ)にある県営住宅の高い建物が見えます。 送電線鉄塔も数本見えています。



写真IY: 医院があります。 北西を見たものです。



写真IZ: 西を見た景色です。



写真JA: 早期水稲が実ってきました。 野鳥避(よけ)のネット(網)が田んぼの上に張ってあります。



写真JB: 奥の方は大島通線で宮崎市 島之内(住吉)に行きます。 今まで右の道を右から来ました。 石油スタンド、焼肉店が見えます。 北を見たもの。



写真JC: ガソリンスタンドが見えます。 北西を見たものです。



写真JD: コンビニ店があります。 西を見た景色です。



写真JE: レストランのびっくりドンキー、左にガストがあります。 右端はコンビニ店です。 大島通線との十字路です。



写真JF: 十字路の角(かど)にあるレストラン「ガスト」です。



写真JG: 来た道を振り返ったもの。 東を見たもの。



写真JH: 北東を見たもの。 医院、左に焼肉店が見えます。 十字路から。



写真JI: 北を見た景色です。



写真JJ: 牛丼店の「すき家」があります。 右にお菓子屋の「FUJIYA」の看板が見えます。 南を見た景色です。 大島通線。



写真JK: 牛丼店の「すき家」。



写真JL: 南東を見た景色です。 市営住宅 大島北団地が見えます。 牛丼店から。



写真JM: 東を見たもの。



写真JN: ハンバーグレストラン 「びっくりドンキー」とお菓子屋の「FUJIYA」が見えます。 大島通線です。



写真JO: 南を見たもの。 大島通線です。



写真JP: 「宮崎ひがし幼稚園」と壁に書いてあります。



写真JQ: アイスクリーム店の「31 サーティワン」があります。 左端は宮崎生協病院です。 大島通線。 南西を見たものです。



写真JR: 「サーティワン アイスクリーム」店です。 



写真JS: 中央が宮崎生協病院、右がひむか薬局、左がガソリンスタンドです。 宮崎生協病院は宮崎県 宮崎市 大島町 天神前 1171 にあります。
「大島神社」に行くにはこの十字路を右(西)に曲がります。



写真JT: 「大島神社」へはこの十字路を右(西)に曲がります。



写真JU: 十字路の付近です。



写真JV: 宮崎生協病院などです。



写真JW: 大島神社の方に進みます。 バス停「天神前 宮崎交通」があります。 左はひむか薬局。



写真JX: この交差点のすぐ先(西)に「大島神社」があります。



写真JY: 「大島神社」の石碑(せきひ)、説明板、社殿、大きな木が見えています。 西を見たもの。



写真JZ: 宮崎市東大宮地区 地域包括支援センターがあります。



写真KA: この道の左は大島神社の境内(けいだい)です。 北を見たもの。



写真KB: 大島神社の拝殿も見えます。



写真KC: 右に大島神社の鳥居(とりい)の柱が見えます。 西を見たもの。



写真KD: 「大島神社」は宮崎県 宮崎市 大島町 本村 200番地にあります。
大島神社の鳥居(とりい)に「天満宮」と書いてある額(がく)があります。 拝殿、説明板、左端の手水舎(ちょうずや)などが見えます。
大島神社神楽(かぐら)が伝わっています。



写真KE: 鳥居の下部と階段です。



写真KF: 鳥居(とりい)に「天満宮」と書いてある額(がく)があります。



写真KG: 宮崎市 大島町 本村 200番地にある「大島神社」です。 天神様、天満宮とも呼(よ)ばれます。



写真KH: 内側から見た鳥居です。



写真KI: 大島神社の境内(けいだい)です。 見えている車道を奥のほうからこちらに来ました。



写真KJ: 石碑(せきひ)がいくつもあります。 東を見たもの。



写真KK: 境内にある木です。 東を見たもの。



写真KL: 大島神社の境内です。 北東を見たもの。



写真KM: 宮崎市 大島町 本村 200番地にある「大島神社」の拝殿です。 しめ縄と御幣(ごへい)があります。 北を見たもの。
大島神社神楽(かぐら)が伝わっています。 天神様、天満宮とも呼(よ)ばれます。



写真KN: 大島神社の説明板、拝殿が見えています。



写真KO: 手水舎(ちょうずや)、説明板、左端は国旗掲揚ポールです。



写真KP: 国旗掲揚ポールと鳥居です。



写真KQ: 大島神社の御手洗(みたらい)です。



写真KR: 「大島神社」の説明板があります。
祭神 アマツヒコホニニギノミコト、菅原道真 公
鎮座地 宮崎市 大島町 本村 200番地
例祭日 11月10日、社殿 本殿(流造)5坪 拝殿(切妻造)12坪、境内坪数 280坪
由緒沿革
所蔵の天文5年(1536年)8月30日当社再興の棟札よりみて、それ以前の創建である。 その後 文禄4年(1595年)上棟一宇天神再興千時3月22日の棟札がある。 この棟札からして当時から天神様であり、いまに通称するはそれにならったものである。 棟札をさらにあげると慶長12年(1617年)丁末8月25日 大且那小河友兵衛によって、天神御社一宇の御造営とあるのをはじめ、寛永15年(1638年)9月22日奉再興天神御社一宇、寛永4年(1627年)上棟奉再興天神御社一宇。 元禄4年(1691年)霜月吉日などの棟札がその由緒を物語っている。 さらに天文3年(1534年)神主 源盛雇校正の「小戸大明神別宮摂末社神的略記」には一座去本宮子丑第30丁余、在 大島村 南向いしとあり、その所在と方角を明記している。
と書かれています。



写真KS: 「大島神社」の説明板があります。
祭神 アマツヒコホニニギノミコト、菅原道真 公
鎮座地 宮崎市 大島町 本村 200番地
例祭日 11月10日、社殿 本殿(流造)5坪 拝殿(切妻造)12坪、境内坪数 280坪
由緒沿革
所蔵の天文5年(1536年)8月30日当社再興の棟札よりみて、それ以前の創建である。 その後 文禄4年(1595年)上棟一宇天神再興千時3月22日の棟札がある。 この棟札からして当時から天神様であり、いまに通称するはそれにならったものである。 棟札をさらにあげると慶長12年(1617年)丁末8月25日 大且那小河友兵衛によって、天神御社一宇の御造営とあるのをはじめ、寛永15年(1638年)9月22日奉再興天神御社一宇、寛永4年(1627年)上棟奉再興天神御社一宇。 元禄4年(1691年)霜月吉日などの棟札がその由緒を物語っている。 さらに天文3年(1534年)神主 源盛雇校正の「小戸大明神別宮摂末社神的略記」には一座去本宮子丑第30丁余、在 大島村 南向いしとあり、その所在と方角を明記している。
と書かれています。



写真KT: 「大島神社」の説明板があります。
祭神 アマツヒコホニニギノミコト、菅原道真 公
鎮座地 宮崎市 大島町 本村 200番地
例祭日 11月10日、社殿 本殿(流造)5坪 拝殿(切妻造)12坪、境内坪数 280坪
由緒沿革
所蔵の天文5年(1536年)8月30日当社再興の棟札よりみて、それ以前の創建である。 その後 文禄4年(1595年)上棟一宇天神再興千時3月22日の棟札がある。 この棟札からして当時から天神様であり、いまに通称するはそれにならったものである。 棟札をさらにあげると慶長12年(1617年)丁末8月25日 大且那小河友兵衛によって、天神御社一宇の御造営とあるのをはじめ、寛永15年(1638年)9月22日奉再興天神御社一宇、寛永4年(1627年)上棟奉再興天神御社一宇。 元禄4年(1691年)霜月吉日などの棟札がその由緒を物語っている。 さらに天文3年(1534年)神主 源盛雇校正の「小戸大明神別宮摂末社神的略記」には一座去本宮子丑第30丁余、在 大島村 南向いしとあり、その所在と方角を明記している。
と書かれています。



写真KU: 紀念碑と記念碑(右)が見えます。 左上は手水舎(ちょうずや)です。



写真KV: 大島神社の御手洗(みたらい)です。



写真KW: 「本村 土地改良事業 記念碑」があります。



写真KX: 「日露記念碑 明治37(8)年戦役」の石碑(せきひ)があります。 日露戦争の時の記念碑です。 左にも表彰紀念碑があります。



写真KY: 「大島神社改築記念碑」もあります。



写真KZ: 左が大島神社の社殿です。 北を見たもの。



写真LA: 大島神社の拝殿です。 石碑、説明板も見えます。 天神様、天満宮とも呼(よ)ばれます。
 


写真LB: 鳥居、国旗掲揚ポール、手水舎(ちょうずや)、説明板などが見えます。



写真LC: 鳥居も見えます。



写真LD: 「本村 土地改良事業 記念碑」も見えます。 ここも入口です。



写真LE: 「本村 土地改良事業 記念碑」。



写真LF: 「日露記念碑 明治37(8)年戦役」の石碑(せきひ)。



写真LG: 表彰紀念碑。



写真LH: 表彰紀念碑の下部。



写真LI: 「大島神社改築記念碑」。



写真LJ: 大島神社の拝殿です。 横木の端(はし)に象の彫り物があります。 しめ縄と御幣(ごへい)があります。



写真LK: 大島神社の拝殿の中部です。



写真LL: 大島神社の拝殿の下部です。



写真LM: 拝殿に鈴、鈴のひも、電灯もあります。



写真LN: 大島神社の拝殿です。 格子(こうし)があります。



写真LO: 鈴のヒモです。



写真LP: 大島神社の中です。
大島神社神楽(かぐら)が伝わっています。



写真LQ: 大島神社の中。



写真LR: 大島神社の中。



写真LS: 拝殿から見た鳥居(とりい)です。



写真LT: 「高崎 開田紀念碑」があります。



写真LU: 「高崎 開田紀念碑」の下部です。



写真LV: 「新別府川・西田川 竣工記念碑 平成4年9月吉日」があります。



写真LW: 「新別府川・西田川 竣工記念碑 平成4年9月吉日」の下部です。



写真LX: 「新別府川・西田川 竣工記念碑 平成4年9月吉日」の下部です。
沿革
 新別府川は、その源を池内町に発し、ここ大島町を貫流、新別府町地先で大淀川の河口左岸側 一ツ葉入江(現在の宮崎港)に流入する一級河川である。 改修前は、川幅が狭く蛇行し、しかも流域の大半が水田地であったため、大雨時には多数の井堰(いせき)が流水を著しく阻害するなど度々(たびたび)氾濫を繰り返し、多数な被害を被ってきたところである。・・・当地区における改修は、昭和47年度から平成3年度までの20年間であるが、この改修により地域における生活環境は大幅に改善され、併(あわ)せて道路・橋梁(きょうりょう)などの関連施設も整備されるなど地域の活性化に大きく寄与しているところである。 ・・・ここに新別府川の竣工を記念し、記念碑を建立するものである。
平成4年9月吉日 大島町 連合水利組合
と書かれています。



写真LY: 鳥居の方を見たものです。



写真LZ: 大島神社の拝殿の側面です。 東を見たもの。



写真MA: 大島神社の拝殿の側面です。



写真MB: 左奥に本殿が見えます。 右は拝殿です。



写真MC: 拝殿の側面の下部です。



写真MD: 拝殿の下部と本殿(左奥)です。



写真ME: 社殿の西のところです。



写真MF: 拝殿の側面です。



写真MG: 左は本殿、右は拝殿です。



写真MH: 宮崎県 宮崎市 大島町 本村 200番地にある大島神社の本殿です。 天神様、天満宮とも呼(よ)ばれます。



写真MI: 宮崎市 大島町 本村 200番地にある大島神社の本殿の下部です。



写真MJ: 本殿の近くです。



写真MK: 建物が境内(けいだい)にあります。



写真ML: 建物の付近です。



写真MM: 建物の中です。 お賽銭箱(さいせんばこ)もあります。



写真MN: 北側に大島町自治公民館があります。 手前に滑(すべ)り台、左にブランコがあります。



写真MO: 大島神社の北に大島町自治公民館があります。



写真MP: 本殿の近くです。 西を見たもの。



写真MQ: 宮崎市 大島町にある大島神社の本殿です。 左は拝殿です。 天神様、天満宮とも呼(よ)ばれます。



写真MR: 本殿の下部です。



写真MS: 社殿の東の部分です。



写真MT: 本殿と拝殿(左)です。



写真MU: 拝殿の東の建物です。



写真MV: 建物の中です。 左に祠(ほこら)、右は神輿(みこし)でしょうか。



写真MW: 左は祠(ほこら)、右は神輿(みこし)でしょうか。



写真MX: 鳥居、国旗掲揚ポール、手水舎(ちょうずや)、説明板、石碑、拝殿が見えます。



写真MY: 鳥居の方を見たものです。



写真MZ: 北を見たもの。 一番奥は大島町自治公民館です。



写真NA: 大島神社の北にある大島町自治公民館です。



写真NB: 大島町自治公民館の敷地です。 西を見たもの。



写真NC: 滑り台、ブランコがあります。



写真ND: 南を見たもの。 拝殿、本殿が見えます。



写真NE: 大島自治公民館から南を見たもの。



写真NF: 「この土地は 標高7.6 m」と書いてあります。 これは2011年3月11日の東北大地震で津波の被害が大きかったので、それ以後、津波対策のため各所にこの標識があります。



写真NG: 「大島町自治公民館」と書いてあります。



写真NH: 「事業名 昭和48年度 地元協力助成事業、工事名 大島町自治公民館 増築工事、補助成団体 日本中央競馬会 宮崎競馬場、工事場所 宮崎市 大島町 本村 207-6、完成年月日 昭和48年7月2日」
と書いてあります。



写真NI: 大島町自治公民館の北側です。



写真NJ: 左は大島町自治公民館です。 西を見たもの。



写真NK: 大島神社の北にある大島町自治公民館です。



写真NL: 右は大島町自治公民館です。 南を見たもの。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)