大御神社、さざれ石、日豊海岸国定公園 (おおみじんじゃ、柱状節理、大御神社の斜柱 (柱状節理)、平成11年に国登録有形文化財に指定された大御神社の社殿、亀岩、さざれ石の神座 (かみくら)の下にある龍神の霊 (玉)(ドラゴン ボール)、南西から見た日知屋城跡、米ノ山 (標高 191.6 m))  (宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢ケ浜)







<標高、位置>  大御神社 (おおみじんじゃ)は
標高 数 m
 北緯32度24分40秒  東経131度38分58秒

<標高、位置>  日知屋城跡 (ひちやじょうあと)は
標高 約30 m
 北緯32度24分40秒  東経131度39分03秒

<標高、位置>  伊勢ケ浜 (いせがはま)は
標高 約0 m
 北緯32度24分47秒  東経131度39分05秒

<標高、位置>  櫛ノ山 (くしのやま)は
標高 約100 m
 北緯32度24分49秒  東経131度38分39秒


 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。
 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御由緒ならびに沿革」の説明板から、
 大御神社は、皇祖 天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳 (つまび)らかではないが当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神 日向の国 高千穂に皇孫ニニギノミコトを天降し給 (たま)うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の盤石にてこれより絶景の大海原 (おおうなばら)を眺望され、皇祖 天照大御神をお祭りして平安を祈念 (きねん)されたと伝えられ、後世 此 (こ)の御殿の霊石の在りし所に一宇 (いちう、1つの建物)を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守を崇敬し奉 (たてまつ)ると言う。
 また神武天皇 御東征の切、大鯨を退治された御鉾 (ほこ)を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時 伊勢ケ浜 (脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿 (現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山 (くしのやま)と東に隆起する米の山 (久米の山)は神武天皇の先鋒 (せんぽう、軍の先頭のことです。)の天櫛津大久米命の名に因 (ちな)むものであると言う。 その後 当社は日知屋城主 伊東 氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主 (豊臣秀吉の九州征伐の後はここ日知屋は延岡の領地になりました。)、幕領代官 等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼 (よ)んで崇敬し且 (かつ)親しんできたのである。
最近ことに御神徳を慕 (した)って県内外の参拝者が激増している。
 大御神社の社名は天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。
 現在の御社殿の改築は昭和13年に完成し資材は、高千穂地方の神社の境内木が使われている。
礼祭日 11月15日、11月16日

 「大御神社周辺の「さざれ石」 学名 庵川礫岩 (れきがん)」の説明板から、
 この巨石 (神座 (かみくら))は、国歌「君が代」に詠 (うた)われている「さざれ石の巌 (いわお)」です。
 今から約2000万年前、日本列島がユーラシア大陸の縁 (ふち)にあったとき、このあたりは広範囲にわたり浅い海岸平野でした。 そして大きな川があり、河口付近には大量の「細石 (さざれいし)」がたまって、粘土・砂などと混ざり長い年月の間に固まり、巨石「さざれ石の巌」となりました。 「君が代」 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔 (こけ)のむすまで
注・この付近の石を持ち帰ることは 固く禁じられております。
 神座は「さざれ石」でできています。 大御神社のさざれ石、神座は、平成15年9月に行われた境内 (けいだい)の雑木林の伐採 (ばっさい)工事で発見されました。 神座は周囲 30 m、高さ 4 m のさざれ石です。 右下にドラゴン ボール (龍玉)があります。 平成23年4月11日に直径が約 3 m、深さ 約1.5 m で側面に螺旋 (らせん)状の線のあるすり鉢 (ばち)状の穴とその中にドラゴン ボール (龍玉)と呼ばれる最大径 約 1 m の卵形の石を宮司さんが泥 (どろ)の中から発見しました。 <ドラゴン ボール (龍玉)は転石で、 まわりの穴は甌穴 (おうけつ)と思われます。 大きな岩のくぼみに入った小石、礫(れき)、砂が、水流ですりこぎのように回って、長い年月の間に、丸い大きな穴を作ります。 これを「甌穴(おうけつ)」と呼びます。 「転石」は岩盤 (がんばん)から離 (はな)れ、流水などに押し流されて丸くなった岩石です。>
日本の国歌に出てくる「さざれ石」です。
さざれ石は、小さな石の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などによりつなぎ合わされ、1つの大きな石の塊に変化したものです。 石灰質角れき岩と呼ばれます。 石灰岩が雨で溶け、石灰質の作用により、小石がコンクリートのように固まってできます。

 「5000年の時空を経 (へ)て 今、甦 (よみがえ)る 龍神伝説 龍神の霊 (たま、玉)」の説明板から、
 この水窪周辺は今から5000年前 (縄文時代)の人が龍神信仰をしていた古代遺跡です。
古代の人々は、岩を渦 (うず)状に刻 (きざ)み龍を表わし底には生命の源である龍玉を納 (おさ)め、それを守るように山水を注 (そそ)ぎました。
 当時の人々は龍玉を抱 (かか)え守る龍神の姿に日々の安寧と守護を祈り、後々の世までも続く幸福を願ったのでしょう。
 また、皇孫 ニニギノミコトがご降臨されたおり「神座 (かみくら)」にて絶景の大海原 (おおうなばら)を眺 (なが)められたと伝えられていますが、この岩上も古代祭場であることが判明しました。

 「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 日知屋城主は土持、伊東、福本、氏本、薬師寺、井尻、高橋などです。 元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城。
 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。

 「鵜戸神社 (うどじんじゃ)」は日知屋城跡にあります。
 「(大御神社 (おおみじんじゃ)境内社の) 鵜戸神社 (うどじんじゃ)御由緒 (ゆいしょ)と御祭神」の説明石碑 (せきひ)から、
千古の神秘を湛 (たた)える洞窟に鎮座まします鵜戸神社は
ウガヤフキアエズノミコト、ヒコホノニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、シオツツノオオカミ
の5柱を御祭神として奉祀し、奉祀の年代は詳 (つまび)らかではないが、古くより鵜戸 (うど)さま鵜戸さまと御威徳を慕 (した)われ、安産、航海安全、交通安全、厄難消除、事業繁栄の御霊験あらたかとして、御霊域をたずねる報賽の人は、いよいよ多くなってきた。
例祭日
旧暦 正月16日、旧暦 3月16日、旧暦 11月16日

 「伊勢ケ浜公園」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 にあります。

 「櫛ノ山 (くしのやま)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 櫛ノ山 にあります。


写真A: 大御神社 (おおみじんじゃ)の鳥居 (とりい)です。 右に石碑 (せきひ)、左に大御神社の看板 (かんばん)が見えます。
「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。



写真B: 左に駐車場が見えます。



写真C: この道を北北西から来ました。



写真D: 鳥居 (とりい)の手前に石段があります。 右奥に道を進むと櫛ノ山 (くしのやま、標高 95.9 m)に行きます。 左手前に道を進むと日向岬 (ひゅうがみさき)、米ノ山 (標高 191.6 m)に行きます。



写真E: 大御神社の鳥居のそばに「新たな発見! 5000年の時空を経 (へ)て 今、甦 (よみがえ)る 竜神伝説、(鵜戸神社 (うどじんじゃ)の洞窟、ドラゴン ボール (龍玉)の写真も載 (の)っています。) 大御神社」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真F: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財 日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図」の看板 (かんばん)が鳥居のそばにあります。
伊勢ケ浜、日知屋城址 (ひちやじょうし)、鵜戸神社、小亀岩、大亀岩、御神殿、駐車場、大御神社境内 (けいだい)、神座、さざれ石と火砕流による柱状岩の境目 (さかいめ)、さざれ石群、ボウズ山、鵜戸の瀬、お倉ヶ浜有料道路、塩見川、櫛の山
が載 (の)っています。



写真G: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財 日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図」の看板 (かんばん)が鳥居のそばにあります。
伊勢ケ浜、日知屋城址 (ひちやじょうし)、鵜戸神社、小亀岩、大亀岩、御神殿、駐車場、大御神社境内 (けいだい)、神座、さざれ石と火砕流による柱状岩の境目 (さかいめ)、さざれ石群、ボウズ山、鵜戸の瀬、お倉ヶ浜有料道路、塩見川、櫛の山
が載 (の)っています。



写真H: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財 日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図」の看板 (かんばん)が鳥居のそばにあります。
伊勢ケ浜、日知屋城址 (ひちやじょうし)、鵜戸神社、小亀岩、大亀岩、御神殿、駐車場、大御神社境内 (けいだい)、神座、さざれ石と火砕流による柱状岩の境目 (さかいめ)、さざれ石群、ボウズ山、鵜戸の瀬、お倉ヶ浜有料道路、塩見川、櫛の山
が載 (の)っています。



写真I: この駐車場に「日知屋城址 (ひちやじょうし)」の大きな石碑 (せきひ)があります。



写真J: 駐車場です。 左奥に日知屋城跡の入り口 (門)や伊勢ケ浜への歩道があります。



写真K: 左に大御神社 (おおみじんじゃ)が見えます。 右に石碑 (せきひ)もあります。 右に紫陽花 (あじさい)の花が咲いていました。 芝生 (しばふ)にテーブル、ベンチもあります。



写真L: 道の奥に大御神社 (おおみじんじゃ)の建物が見えます。 アジサイの花、石碑 (せきひ)も見えます。



写真M: 大御神社 (おおみじんじゃ)の本殿 (左)、拝殿 (右)が見えます。 中央の山はボウズ山です。



写真N: 海岸を見たものです。 岩もあります。



写真O: 左は日知屋城跡の半島の山です。



写真P: 南西から見た日向市にある日知屋城跡 (ひちやじょうあと)です。



写真Q: 「三代の亀 (親・子・孫)」の説明板があります。
 今から約100万年前のこと。 神社の沖にある海底火山の活動により、この海岸一帯は多量の火砕流 (かさいりゅう)が押し寄せ堆積 (たいせき)しました。 そして長い年月をかけて固まったのが柱状節理 (溶結凝灰岩)です。 長寿を象徴するめでたい亀。 悠久 (ゆうきゅう)の時を経 (へ)て、大自然がもたらすこの三匹の亀岩の見事な芸術をご覧 (らん)下さい。 大御神社社務所
(親亀、子亀、孫亀の写真も載 (の)っています。)
と書いてあります。



写真R: 「三代の亀 (親・子・孫)」の説明板があります。
 今から約100万年前のこと。 神社の沖にある海底火山の活動により、この海岸一帯は多量の火砕流 (かさいりゅう)が押し寄せ堆積 (たいせき)しました。 そして長い年月をかけて固まったのが柱状節理 (溶結凝灰岩)です。 長寿を象徴するめでたい亀。 悠久 (ゆうきゅう)の時を経 (へ)て、大自然がもたらすこの三匹の亀岩の見事な芸術をご覧 (らん)下さい。 大御神社社務所
(親亀、子亀、孫亀の写真も載 (の)っています。)
と書いてあります。



写真S: 社務所、日章旗、神門、石灯籠 (いしどうろう)が見えます。



写真T: 左から社殿、神門、石灯籠 (いしどうろう)、日章旗、社務所があります。



写真U: 本殿の左下の大きな岩が「親亀 (おやがめ)」です。 頭の岩もあります。 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。



写真V: 中央に大きな岩の「親亀」が見えます。 大御神社。 南西を見た風景です。



写真W: 東を見た景色です。 海岸に岩や石があります。 左寄りに「子亀」の岩が見えます。 子亀の首と頭の岩もあります。



写真X: 奥の右寄りに「子亀」の岩が見えます。 子亀の首と頭の岩もあります。 左は日知屋城跡 (ひちやじょうあと)の山です。



写真Y: 南西から見た日知屋城跡です。 小高い半島に日知屋城 (ひちやじょう)がありました。



写真Z: 左から大御神社の本殿、拝殿です。 下部に石垣 (いしがき)があります。
本殿も拝殿も千木 (ちぎ)は内切りで鰹木 (かつおぎ)も見えます。 拝殿から本殿にいく通路の屋根にも鰹木があります。
本殿の千木 (ちぎ)は内切りで8本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。
大御神社の本殿の屋根は切妻造り(きりづまづくり)です。 千木(ちぎ)は内切りで、鰹木(かつおぎ)は円筒形です。
神社の屋根は一般に「切妻造り(きりづまづくり)」です。 切妻造りとは本を開いて伏(ふ)せた形の屋根です。 その上にクロスした棒があります。 これが「千木(ちぎ)」です。 千木の上端を水平に切ったものが「内切り」で、千木の先端を鉛直に切ったものが「外切り」です。 屋根の上に水平に置かれた棒もあります。 これが「鰹木(かつおぎ)」です。 千木、鰹木は古墳時代の埴輪(はにわ)の家にもあります。 もともとは構造上必要な物でしたが、現在は装飾的なものになっています。




写真AA: 「親亀」の岩が見えます。



写真AB: 大御神社の本殿が見えます。



写真AC: 内側から見た大御神社の鳥居 (とりい)、参道です。 北を見たものです。



写真AD: 「龍宮 (りゅうぐう、鵜戸神社 (うどじんじゃ))」の説明板があります。
ここから歩いて3分の所にあります。
 5000年前、縄文時代の人々が龍神信仰をしていたと思われる岩窟 (がんくつ)であることが解 (わ)りました。 奥にある御社の前に立ち、入口の方を振り返ると天に昇 (のぼ)る白龍がご覧 (らん)いただけます。 大御神社
(白龍の写真も載 (の)っています。)
と書いてあります。



写真AE: 「龍宮 (鵜戸神社)参道入口」と書いてあります。



写真AF: 鵜戸神社に行く道 (参道)です。 アジサイの花が咲いていました。



写真AG: 大御神社 (おおみじんじゃ)の鳥居 (とりい)です。 外の建物も見えています。



写真AH: 大御神社の社務所です。



写真AI: 「社務所」と書いてあります。



写真AJ: 大御神社の神門です。 神門のそばに狛犬 (こまいぬ)が見えます。 左に社殿の屋根、説明板の屋根も見えます。 右の屋根は社務所です。 神門の奥の山はボウズ山です。



写真AK: 境内 (けいだい)に日章旗とポールがあります。 左に日向灘 (太平洋)が見えます。



写真AL: ポールの下部です。



写真AM: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御由緒ならびに沿革」の説明板です。
 大御神社は、皇祖 天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳 (つまび)らかではないが当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神 日向の国 高千穂に皇孫ニニギノミコトを天降し給 (たま)うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の盤石にてこれより絶景の大海原 (おおうなばら)を眺望され、皇祖 天照大御神をお祭りして平安を祈念 (きねん)されたと伝えられ、後世 此 (こ)の御殿の霊石の在りし所に一宇 (いちう、1つの建物)を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守を崇敬し奉 (たてまつ)ると言う。
 また神武天皇 御東征の切、大鯨を退治された御鉾 (ほこ)を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時 伊勢ケ浜 (脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿 (現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山 (くしのやま)と東に隆起する米の山 (久米の山)は神武天皇の先鋒 (せんぽう、軍の先頭のことです。)の天櫛津大久米命の名に因 (ちな)むものであると言う。 その後 当社は日知屋城主 伊東 氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主 (豊臣秀吉の九州征伐の後はここ日知屋は延岡の領地になりました。)、幕領代官 等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼 (よ)んで崇敬し且 (かつ)親しんできたのである。
最近ことに御神徳を慕 (した)って県内外の参拝者が激増している。
 大御神社の社名は天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。
 現在の御社殿の改築は昭和13年に完成し資材は、高千穂地方の神社の境内木が使われている。
礼祭日 11月15日、11月16日
と書かれています。



写真AN: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御由緒ならびに沿革」の説明板です。
 大御神社は、皇祖 天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳 (つまび)らかではないが当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神 日向の国 高千穂に皇孫ニニギノミコトを天降し給 (たま)うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の盤石にてこれより絶景の大海原 (おおうなばら)を眺望され、皇祖 天照大御神をお祭りして平安を祈念 (きねん)されたと伝えられ、後世 此 (こ)の御殿の霊石の在りし所に一宇 (いちう、1つの建物)を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守を崇敬し奉 (たてまつ)ると言う。
 また神武天皇 御東征の切、大鯨を退治された御鉾 (ほこ)を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時 伊勢ケ浜 (脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿 (現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山 (くしのやま)と東に隆起する米の山 (久米の山)は神武天皇の先鋒 (せんぽう、軍の先頭のことです。)の天櫛津大久米命の名に因 (ちな)むものであると言う。 その後 当社は日知屋城主 伊東 氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主 (豊臣秀吉の九州征伐の後はここ日知屋は延岡の領地になりました。)、幕領代官 等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼 (よ)んで崇敬し且 (かつ)親しんできたのである。
最近ことに御神徳を慕 (した)って県内外の参拝者が激増している。
 大御神社の社名は天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。
 現在の御社殿の改築は昭和13年に完成し資材は、高千穂地方の神社の境内木が使われている。
礼祭日 11月15日、11月16日
と書かれています。



写真AO: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御由緒ならびに沿革」の説明板です。
 大御神社は、皇祖 天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳 (つまび)らかではないが当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神 日向の国 高千穂に皇孫ニニギノミコトを天降し給 (たま)うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の盤石にてこれより絶景の大海原 (おおうなばら)を眺望され、皇祖 天照大御神をお祭りして平安を祈念 (きねん)されたと伝えられ、後世 此 (こ)の御殿の霊石の在りし所に一宇 (いちう、1つの建物)を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守を崇敬し奉 (たてまつ)ると言う。
 また神武天皇 御東征の切、大鯨を退治された御鉾 (ほこ)を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時 伊勢ケ浜 (脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿 (現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山 (くしのやま)と東に隆起する米の山 (久米の山)は神武天皇の先鋒 (せんぽう、軍の先頭のことです。)の天櫛津大久米命の名に因 (ちな)むものであると言う。 その後 当社は日知屋城主 伊東 氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主 (豊臣秀吉の九州征伐の後はここ日知屋は延岡の領地になりました。)、幕領代官 等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼 (よ)んで崇敬し且 (かつ)親しんできたのである。
最近ことに御神徳を慕 (した)って県内外の参拝者が激増している。
 大御神社の社名は天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。
 現在の御社殿の改築は昭和13年に完成し資材は、高千穂地方の神社の境内木が使われている。
礼祭日 11月15日、11月16日
と書かれています。



写真AP: 説明版の下に「奉納 昭和50年入厄 (やく)」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。



写真AQ: 「明治天皇 御製 四海兄弟 よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ、7月の御神事 一、7月1日 月始祭 一、7月15日 月次祭 一、7月16日 縁日祭 一、毎日朝夕 御日供祭」と書いてあります。



写真AR: 大御神社の狛犬(こまいぬ)です。



写真AS: 大御神社のコマイヌです。



写真AT: 「御社殿屋根葺替 (ふきかえ)銅板 御奉納のお願い」の看板 (かんばん)があります。
 当 大御神社の御社殿は、平成11年に国登録有形文化財の指定をうけておりますが、銅板屋根が長年の風雨、特に台風・塩害による損傷が著しくなってまいりました。
 そこで御社殿の屋根葺替等の整備を行い、御神威の発揚とともに貴重な文化財として後世に守り伝えて行かねばならないと存ずる次第でございます。
 つきましてはご参拝の皆様方の真心からなるご協賛を賜 (たまわ)りたく屋根葺替用銅板の御奉献をお願い申し上げます。
銅板 1枚 2000円
お申し込み受付は お守り授与所にてお願い致します。
と書いてあります。



写真AU: 神門です。



写真AV: お守り授与所です。



写真AW: 左は手水舎 (ちょうずや)、右はお守り授与所です。



写真AX: 左は大御神社の拝殿を北から見たものです。 遠くの山はボウズ山です。 南西を見たものです。



写真AY: 拝殿と看板 (かんばん)が見えます。



写真AZ: 南東を見たもの。



写真BA: 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。
手前に絵馬 (えま)をかける所があります。



写真BB: 左端は本殿です。



写真BC: 多くの絵馬 (えま)をかけてあります。



写真BD: 大御神社の手水舎 (ちょうずや)です。 北西を見たもの。



写真BE: 大御神社の御手洗 (みたらい)です。 「浄心」と彫 (ほ)ってあります。 柄杓 (ひしゃく)も見えます。



写真BF: 御手洗 (みたらい)の奥に岩があります。



写真BG: 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。
大御神社の拝殿です。



写真BH: 左に手水舎 (ちょうずや)、右に神門が見えます。 北東を見たもの。



写真BI: 右に拝殿、絵馬をかける所、看板、神門があります。 中央奥の山は日知屋城跡 (ひちやじょうあと)です。



写真BJ: 大御神社の境内 (けいだい)です。 南を見た景色です。



写真BK: 南西を見た景色です。 ボウズ山が見えます。



写真BL: 境内 (けいだい)です。



写真BM: ハマユウの花が咲いていました。



写真BN: 手水舎 (ちょうずや)です。



写真BO: 岩、水平線、白波も見えます。



写真BP: 南を見た景色です。 水平線、小島、遠くの山並み (やまなみ)、白波、岩などが見えます。



写真BQ: 北西を見たもの。 階段、ハマユウ、岩、柵 (さく)もあります。



写真BR: 西を見たもの。



写真BS: 大御神社の柵 (さく)、ボウズ山も見えます。



写真BT: 南を見たものです。 大御神社の海岸の様子 (ようす)が分かります。



写真BU: 柱状節理 (ちゅうじょうせつり)の岩が見えます。
<柱状節理>とは地球の内部からのマグマが冷却固結するときに生じる柱状の割れ目です。 多くは岩脈、岩床、溶岩などに生じます。 福井県の東尋坊(とうじんぼう)などは火山岩に生じた柱状節理のためにできた名所です。



写真BV: 大御神社の斜柱です。 大御神社の見事な柱状節理です。 上部には木が生 (は)えています。
<柱状節理>とは地球の内部からのマグマが冷却固結するときに生じる柱状の割れ目です。 多くは岩脈、岩床、溶岩などに生じます。 福井県の東尋坊(とうじんぼう)などは火山岩に生じた柱状節理のためにできた名所です。



写真BW: 南から見た大御神社 (おおみじんじゃ)です。 右端が本殿、左端が拝殿です。 右下に柱状節理の岩が見えます。



写真BX: 南から見た大御神社です。



写真BY: 北西を見たもの。



写真BZ: 中央は本殿の屋根です。 千木 (ちぎ)は内切りで8本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。
大御神社の本殿の屋根は切妻造り(きりづまづくり)です。 千木(ちぎ)は内切りで、鰹木(かつおぎ)は円筒形です。
神社の屋根は一般に「切妻造り(きりづまづくり)」です。 切妻造りとは本を開いて伏(ふ)せた形の屋根です。 その上にクロスした棒があります。 これが「千木(ちぎ)」です。 千木の上端を水平に切ったものが「内切り」で、千木の先端を鉛直に切ったものが「外切り」です。 屋根の上に水平に置かれた棒もあります。 これが「鰹木(かつおぎ)」です。 千木、鰹木は古墳時代の埴輪(はにわ)の家にもあります。 もともとは構造上必要な物でしたが、現在は装飾的なものになっています。




写真CA: 大御神社の斜柱です。 日向市にある大御神社 (おおみじんじゃ)の柱状節理です。 上部には松の木もあります。
<柱状節理>とは地球の内部からのマグマが冷却固結するときに生じる柱状の割れ目です。 多くは岩脈、岩床、溶岩などに生じます。 福井県の東尋坊(とうじんぼう)などは火山岩に生じた柱状節理のためにできた名所です。
「馬ヶ背」の説明板から、
「日豊海岸国定公園」の南端に位置する日向市の海岸は白砂青松の砂浜と柱状節理(柱状岩)海岸とから成っています。
 特に柱状岩は、「日向岬」には「大御神社」の斜柱、「千畳敷」の金屏風(きんびょうぶ)・銀屏風「小松崎」の孤立石柱、「塩屋崎」の板状岩など数多くの岩種が見られます。 中でも圧巻は、細島灯台東側に位置するここ「馬ヶ背」の断崖絶壁です。 奥行き200 m 幅10 mの海水路の両側に高さ 70 m で垂直にそそり立つ様をとくと御覧下さい。 日向灘の荒波と谷底からの吹き荒れる風に足がすくむほどです。
 柱状岩は、一説によると今から1500万年前、火山の噴火物や地下のマグマが火道や割れ目に貫入して、冷え固まる時に出来たと言われています。 また「馬ヶ背」の名称はこの遊歩道先端一帯の陸地から盛り上がった岩肌が馬の背中に似ていることからこう呼ばれています。



写真CB: 柱状節理の岩の下部です。 砂の部分もあります。



写真CC: 遠くの浜は「小倉ヶ浜」です。 南西を見た景色です。



写真CD: 波が打ち寄せています。 左寄りに小島もあります。



写真CE: 柱状節理の岩が見えます。 東を見たもの。



写真CF: 階段があります。 上の建物は祖霊舎です。 北西を見たものです。



写真CG: 大御神社の境内 (けいだい)です。



写真CH: 中央に「神座 (かみくら)」と呼 (よ)ばれる大きな岩があります。 奥の山はボウズ山です。



写真CI: 大御神社にある「神座 (かみくら)」にしめ縄と御幣 (ごへい)が見えます。 右にも岩があります。 右の岩には階段のようなものが見えます。 奥の山はボウズ山です。



写真CJ: 宮崎県 日向市にある大御神社の「神座 (かみくら)」です。 手前に説明板が2枚見えます。
神座は「さざれ石」でできています。 大御神社のさざれ石、神座は、平成15年9月に行われた境内 (けいだい)の雑木林の伐採 (ばっさい)工事で発見されました。 神座は周囲 30 m、高さ 4 m のさざれ石です。 右下にドラゴン ボール (龍玉)があります。 平成23年4月11日に直径が約 3 m、深さ 約1.5 m で側面に螺旋 (らせん)状の線のあるすり鉢 (ばち)状の穴とその中にドラゴン ボール (龍玉)と呼ばれる最大径 約 1 m の卵形の石を宮司さんが泥 (どろ)の中から発見しました。 <ドラゴン ボール (龍玉)は転石で、 まわりの穴は甌穴 (おうけつ)と思われます。 大きな岩のくぼみに入った小石、礫(れき)、砂が、水流ですりこぎのように回って、長い年月の間に、丸い大きな穴を作ります。 これを「甌穴(おうけつ)」と呼びます。 「転石」は岩盤 (がんばん)から離 (はな)れ、流水などに押し流されて丸くなった岩石です。>
日本の国歌に出てくる「さざれ石」です。
さざれ石は、小さな石の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などによりつなぎ合わされ、1つの大きな石の塊に変化したものです。 石灰質角れき岩と呼ばれます。 石灰岩が雨で溶け、石灰質の作用により、小石がコンクリートのように固まってできます。



写真CK: 「5000年の時空を経 (へ)て 今、甦 (よみがえ)る 龍神伝説 龍神の霊 (たま、玉)」の説明板があります。
 この水窪周辺は今から5000年前 (縄文時代)の人が龍神信仰をしていた古代遺跡です。
古代の人々は、岩を渦 (うず)状に刻 (きざ)み龍を表わし底には生命の源である龍玉を納 (おさ)め、それを守るように山水を注 (そそ)ぎました。
 当時の人々は龍玉を抱 (かか)え守る龍神の姿に日々の安寧と守護を祈り、後々の世までも続く幸福を願ったのでしょう。
 また、皇孫 ニニギノミコトがご降臨されたおり「神座 (かみくら)」にて絶景の大海原 (おおうなばら)を眺 (なが)められたと伝えられていますが、この岩上も古代祭場であることが判明しました。 大御神社
と書いてあります.



写真CL: 「大御神社周辺の「さざれ石」 学名 庵川礫岩 (れきがん)」の説明板です。
 この巨石 (神座 (かみくら))は、国歌「君が代」に詠 (うた)われている「さざれ石の巌 (いわお)」です。
 今から約2000万年前、日本列島がユーラシア大陸の縁 (ふち)にあったとき、このあたりは広範囲にわたり浅い海岸平野でした。 そして大きな川があり、河口付近には大量の「細石 (さざれいし)」がたまって、粘土・砂などと混ざり長い年月の間に固まり、巨石「さざれ石の巌」となりました。 「君が代」 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔 (こけ)のむすまで
注・この付近の石を持ち帰ることは 固く禁じられております。 大御神社
と書いてあります。



写真CM: この水の中にある石の球が「龍神の霊 (玉)」です。 左上は神座の岩としめ縄です。
神座の右下にドラゴン ボール (龍玉)があります。 平成23年4月11日に直径が約 3 m、深さ 約1.5 m で側面に螺旋 (らせん)状の線のあるすり鉢 (ばち)状の穴とその中にドラゴン ボール (龍玉)と呼ばれる最大径 約 1 m の卵形の石を宮司さんが泥 (どろ)の中から発見しました。 <ドラゴン ボール (龍玉)は転石で、 まわりの穴は甌穴 (おうけつ)と思われます。 大きな岩のくぼみに入った小石、礫(れき)、砂が、水流ですりこぎのように回って、長い年月の間に、丸い大きな穴を作ります。 これを「甌穴(おうけつ)」と呼びます。 「転石」は岩盤 (がんばん)から離 (はな)れ、流水などに押し流されて丸くなった岩石です。>



写真CN: 大きな岩の右端に階段のような刻 (きざ)みがあります。



写真CO: 神座の下にある龍神の霊 (玉)です。 大御神社。
右下にドラゴン ボール (龍玉)があります。 平成23年4月11日に直径が約 3 m、深さ 約1.5 m で側面に螺旋 (らせん)状の線のあるすり鉢 (ばち)状の穴とその中にドラゴン ボール (龍玉)と呼ばれる最大径 約 1 m の卵形の石を宮司さんが泥 (どろ)の中から発見しました。 <ドラゴン ボール (龍玉)は転石で、 まわりの穴は甌穴 (おうけつ)と思われます。 大きな岩のくぼみに入った小石、礫(れき)、砂が、水流ですりこぎのように回って、長い年月の間に、丸い大きな穴を作ります。 これを「甌穴(おうけつ)」と呼びます。 「転石」は岩盤 (がんばん)から離 (はな)れ、流水などに押し流されて丸くなった岩石です。>



写真CP: 日向市にある大御神社の「神座 (かみくら)」です。 しめ縄をしてあります。
神座は「さざれ石」でできています。 大御神社のさざれ石、神座は、平成15年9月に行われた境内 (けいだい)の雑木林の伐採 (ばっさい)工事で発見されました。 神座は周囲 30 m、高さ 4 m のさざれ石です。



写真CQ: 神座の近くです。 奥にボウズ山が見えます。 南西を見たものです。



写真CR: 日向灘 (太平洋)の海岸に大御神社はあります。



写真CS: 神座です。 手前は説明板です。



写真CT: 大御神社の海岸です。 南西を見たものです。



写真CU: 南東を見た景色です。 海岸には岩、石、手前にハマヒサカキの木が見えます。



写真CV: 東を見たものです。 手前はハマヒサカキの木です。



写真CW: 東北東を見た景色です。 中央に日知屋城跡 (ひちやじょうあと)の山、左に大御神社の社殿、神門などが見えます。 左端に米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。



写真CX: 日知屋城址 (ひちやじょうし)の山と左に大御神社が見えます。



写真CY: 大御神社の海岸はこのようになっています。 東北東を見たもの。



写真CZ: 北東を見たもの。 大御神社の境内 (けいだい)が見えます。 中央に米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。



写真DA: 大御神社の柵 (さく)の近くにベンチがあります。



写真DB: 岩にしめ縄がしてあります。



写真DC: 「ハマゴウの花」が咲いていました。
ハマゴウはクマツヅラ科の落葉低木です。 暖地の海辺砂地に群生します。 幹(みき)は砂上を横走し、葉は楕円形(だえんけい)で夏に深い紫色の唇形花を短い穂状に付け、球形果を結びます。 果実は生薬の「まんけいし」で、強壮、清涼剤です。 ハマホウ、ハマボウとも呼ばれます。



写真DD: 「火砕流 (かさいりゅう)による柱状岩、分岐点、さざれ石」の看板 (かんばん)があります。



写真DE: 小石が散りばめられた岩である「さざれ石」です。
日本の国歌に出てくる「さざれ石」です。
さざれ石は、小さな石の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などによりつなぎ合わされ、1つの大きな石の塊に変化したものです。 石灰質角れき岩と呼ばれます。 石灰岩が雨で溶け、石灰質の作用により、小石がコンクリートのように固まってできます。



写真DF: 左は柱状節理の岩 (柱状岩)です。 柱状岩とさざれ石の境界に看板 (かんばん)が立っています。



写真DG: 柱状節理の岩が海岸にあります。 大御神社。



写真DH: 左奥は日知屋城跡 (ひちやじょうあと)です。 東を見た風景です。



写真DI: 日知屋城跡と大御神社の社殿も見えます。 左上に米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。 東北東を見たものです。



写真DJ: 大御神社の右に見事な柱状節理の岩が見えます。 左上に米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。 右上は日知屋城跡です。



写真DK: 左から大御神社の社殿、柱状節理の岩、日知屋城跡が見えます。



写真DL: 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。
遠くに米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。 北東を見た風景です。



写真DM: 大御神社の海岸です。 右下に看板 (かんばん)が見えます。 このあたりは「さざれ石」です。



写真DN: さざれ石です。 大御神社。
日本の国歌に出てくる「さざれ石」です。
さざれ石は、小さな石の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などによりつなぎ合わされ、1つの大きな石の塊に変化したものです。 石灰質角れき岩と呼ばれます。 石灰岩が雨で溶け、石灰質の作用により、小石がコンクリートのように固まってできます。



写真DO: 大御神社の境内 (けいだい)です。



写真DP: 大御神社の境内。



写真DQ: 南西を見たものです。



写真DR: 大御神社の近くです。



写真DS: ボウズ山です。



写真DT: 「さざれ石」があります。



写真DU: 「さざれ石、分岐点、火砕流 (かさいりゅう)による柱状岩」の看板 (かんばん)があります。



写真DV: 東北東を見た景色です。 中央に日知屋城跡、左遠くに米ノ山が見えます。



写真DW: 南西から見た大御神社の境内 (けいだい)です。



写真DX: 「宵 (よい)まつり」のポスターがあります。
日向のお伊勢さま 大御神社例大祭、神楽 (かぐら)と天翔獅子 幽玄への誘 (さそ)い
と書いてあります。



写真DY: 大御神社のお守り授与所です。 御札 (おふだ)、お守りなども見えます。 壁に「天照皇大神」の掛け軸 (かけじく)があります。



写真DZ: 大御神社にある看板 (かんばん)です。
大御神社へようこそ御参拝をいただきました。 当 神社では、左記の諸祈願を随時受付けています。 お守り授与所にてお申し付け下さい。 会社繁栄、商売繁昌、家内安全、初宮詣 (もうで)、車祓 (はらい)、厄祓 (やくばらい)、安産、受験合格、その他
厄祓 平成25年度 (数え年)
次の年齢は厄年と言い、長い人生の中でも、心身ともに大きな節目であり、昔から慎 (つつ)しむべき年と伝えられてきました。 大神様の図 (はか)らいにより、明るく豊かな人生の開けることを祈念して、お祓いを受けます。
男性 前厄 24歳 41歳 本厄 (大厄) 25歳 42歳 後厄 26歳 43歳、女性  前厄 18歳 32歳 本厄 (大厄) 19歳 33歳 後厄 20歳 34歳
年祝 男女共
人生の波路を無事に越えて来たことへの 感謝と喜びを大神様に報告し、今後のおだやかな長寿を祈願します。
米寿 88歳、傘寿 80歳、喜寿 77歳、古希 70歳、還暦 61歳
と書いてあります。



写真EA: 大御神社の神門を内側から見たものです。



写真EB: 「銘菓 日向のさざれ石 知らなかった、本当にあったんだ・・・、大御神社 ゆかり菓子、日向の国 銘菓 龍神伝説 君は証(あか)しを見たか・・・」と書いてあるポスターがあります。



写真EC: 「皇太子殿下 御誕生記念 植樹碑」が大御神社にあります。



写真ED: 「皇太子殿下 御誕生記念 植樹碑」と書いてあります。



写真EE: 参道の東側です。 小高くなっていて、岩もあります。



写真EF: 内側から見た大御神社の鳥居 (とりい、昭和51年11月建立)です。



写真EG: 「昭和51年11月吉日」と鳥居 (とりい)に彫 (ほ)ってあります。



写真EH: 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。



写真EI: 駐車場に戻 (もど)って来ました。



写真EJ: 駐車場の奥に日知屋城跡への入り口 (門)が見えます。



写真EK: 鳥居 (とりい)のそばにある「大御神社」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真EL: コカコーラを飲みました。



写真EM: 米ノ山、日向岬に行く道です。



写真EN: 飲料水の自動販売機もあります。



写真EO: 左に大御神社の鳥居 (とりい)が見えます。



写真EP: 大御神社の近くです。 左に日知屋城跡、伊勢ケ浜ビーチがあります。



写真EQ: 「伊勢ケ浜」と書いてあります。



写真ER: 「大御神社駐車場、避難場所」と書いてあります。 上に太陽電池パネルが見えます。



写真ES: 「日知屋城址 (ひちやじょうし)」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)が駐車場にあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)