本野原遺跡 (もとのばるいせき)、縄文時代の遺跡 (国指定史跡、旧石器時代、縄文時代後期、西日本最大級の縄文時代集落遺跡、竪穴建物(たてあなたてもの)、掘立柱建物、道路、配石遺跡、鰐塚山 (わにつかやま)、田野町の山、南地区公民館)  (宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外)







<標高、位置>  本野原遺跡 (もとのばるいせき)は
標高 約180 m
 北緯31度49分20秒  東経131度16分58秒

 「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外にあります。
「本野原遺跡」は西日本最大級の縄文集落があった所です。 縄文時代後期には九州地方では極めて珍(めず)しい大規模集落がありました。 列状集落と環状集落が見出されました。 縄文時代後期のこの遺跡から、当時の人々が東日本の人々との交流を持っていたことを思わせます。 大量の土器を捨(す)てた土器溜(だ)まりには瀬戸内海系の土器も見つかっていて、海を通した交流もあったかもしれません。 南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落でした。 多くの土器、土製円盤や石皿、磨(す)り石などの食料加工具が多く出土しています。 採集と魚取りに基づいた食生活と思われます。 史跡名勝天然記念物で、宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。 本野原遺跡は旧石器時代から縄文時代を通じてほぼ継続された集落でした(複合遺跡)。 本野原遺跡は縄文時代後期(今から約3700年前)を中心とする西日本最大級の遺跡です。 遺跡の広場はなだらかなすり鉢(ばち)状に整地されています。 昭和35年に地元の小学生が犬の頭の形をした土器を発見しました。 この土器が本野原遺跡の存在を世に知らせるきっかけになりました。 地元の小学校では土器掘り遠足が盛んに行われました。

 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板から、
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。


写真A: 宮崎市 田野町にある国道269号線です。 「←50 m 先左折 国指定史跡 本野原遺跡(もとのばるいせき)、宮崎市教育委員会、縄文のふるさと」と書いてある標識があります。
この国道を先に進むと県ライフル競技場、青井岳荘、道の駅 山之口、都城市などに行きます。 手前に進むと田野町にある仏堂園の群像仏への入り口、梅谷の太鼓橋(たいこばし)の入り口、清武町、宮崎市の中心部に行きます。



写真B: 「田野駅 県道343号線→、鰐塚山 田野I.C 県道343号線←、都城 三股 ↑国道269号線」と書いてある道路標識があります。



写真C: 「←50 m 先左折 国指定史跡 本野原遺跡(もとのばるいせき)、宮崎市教育委員会、縄文のふるさと」と書いてある標識があります。 国道269号線です。



写真D: 2つの歩道橋が見えます。 手前の歩道橋のところ「寺町東交差点」を左(南西)に曲がります。 そうすると本野原遺跡に行きます。 西を見たもの。



写真E: 交差点の信号機に「寺町東」と書いてあります。



写真F: 曲がる交差点に「特産 千切り大根・切干大根 卸(おろし)・小売直売店 まつざき」と看板(かんばん)に書いてある店があります。



写真G: 本野原遺跡に行くために県道343号線を先(南西)に進みます。 県道28号線と斜めに交差しますが、そのまままっすぐ進みます。



写真H: しばらく行くと三叉路(さんさろ)があります。 右に進んで本野原遺跡に行きます。
左奥は県道343号線です。 ここで県道から外(はず)れます。



写真I: 三叉路(さんさろ)に「→ 国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき)」と書いてある標識があります。 「黒草」に向(むか)います。



写真J: 右手に「南地区公民館」があります。 奥の白っぽい建物が南地区公民館です。



写真K: 「南地区公民館」と書いてあります。



写真L: 入り口に「南地区館」と書いてあります。



写真M: 南地区公民館には桜の並木(なみき)があります。



写真N: 宮崎自動車道の下をくぐるトンネルが見えます。 左寄(ひだりよ)りに鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)とその上のテレビ送信アンテナやFM放送送信アンテナが小さく見えます。 鰐塚山の右に雪が峯(標高 853.1 m)も見えていると思います。
右端の高台の上に「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」があります。 南西を見た景色です。



写真O: 宮崎自動車道の手前(北東)に堆肥小屋(たいひごや)があります。 その手前に右に登る細い坂道があります。 その細い坂道を登って「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」に行きます。



写真P: 宮崎自動車道の近くにある堆肥小屋(たいひごや)です。



写真Q: この細い坂道を登ります。 この上に本野原遺跡があります。
「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外にあります。
「本野原遺跡」は西日本最大級の縄文集落があった所です。 縄文時代後期には九州地方では極めて珍(めず)しい大規模集落がありました。 列状集落と環状集落が見出されました。 縄文時代後期のこの遺跡から、当時の人々が東日本の人々との交流を持っていたことを思わせます。 大量の土器を捨(す)てた土器溜(だ)まりには瀬戸内海系の土器も見つかっていて、海を通した交流もあったかもしれません。 南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落でした。 多くの土器、土製円盤や石皿、磨(す)り石などの食料加工具が多く出土しています。 採集と魚取りに基づいた食生活と思われます。 史跡名勝天然記念物で、宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。 本野原遺跡は旧石器時代から縄文時代を通じてほぼ継続された集落でした(複合遺跡)。 本野原遺跡は縄文時代後期(今から約3700年前)を中心とする西日本最大級の遺跡です。 遺跡の広場はなだらかなすり鉢(ばち)状に整地されています。 昭和35年に地元の小学生が犬の頭の形をした土器を発見しました。 この土器が本野原遺跡の存在を世に知らせるきっかけになりました。 地元の小学校では土器掘り遠足が盛んに行われました。



写真R: 来た車道を振り返ったもの。 左上に本野原遺跡があります。 北東を見たものです。



写真S: 台地の上に「国指定史跡 本野原遺跡 宮崎市教育委員会」と書いてある標識があります。 奥の下は来た車道です。



写真T: 「国指定史跡 本野原遺跡 宮崎市教育委員会」と書いてある標識。



写真U: 右の舗装(ほそう)してある細い坂道を登ります。 左は来た車道です。 堆肥小屋の奥に宮崎自動車道があります。 左寄りに、山頂にテレビ送信アンテナやFM放送送信アンテナが見える鰐塚山 (わにつかやま、標高 1118.1 m)も見えています。 鰐塚山の右に雪が峯(標高 853.1 m)も見えていると思います。
細い坂道の両側に野草のヒメジョオンの白い花が多く咲いていました。



写真V: 三叉路(さんさろ)になっています。 ここを右に進みます。 右端は「国指定史跡 本野原遺跡 宮崎市教育委員会」と書いてある標識です。



写真W: 本野原遺跡の近くです。 台地の上にあります。



写真X: 本野原遺跡(もとのばるいせき)の説明板や標識が見えます。 北西を見たものです。
「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外にあります。
「本野原遺跡」は西日本最大級の縄文集落があった所です。 縄文時代後期には九州地方では極めて珍(めず)しい大規模集落がありました。 列状集落と環状集落が見出されました。 縄文時代後期のこの遺跡から、当時の人々が東日本の人々との交流を持っていたことを思わせます。 大量の土器を捨(す)てた土器溜(だ)まりには瀬戸内海系の土器も見つかっていて、海を通した交流もあったかもしれません。 南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落でした。 多くの土器、土製円盤や石皿、磨(す)り石などの食料加工具が多く出土しています。 採集と魚取りに基づいた食生活と思われます。 史跡名勝天然記念物で、宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。 本野原遺跡は旧石器時代から縄文時代を通じてほぼ継続された集落でした(複合遺跡)。 本野原遺跡は縄文時代後期(今から約3700年前)を中心とする西日本最大級の遺跡です。 遺跡の広場はなだらかなすり鉢(ばち)状に整地されています。 昭和35年に地元の小学生が犬の頭の形をした土器を発見しました。 この土器が本野原遺跡の存在を世に知らせるきっかけになりました。 地元の小学校では土器掘り遠足が盛んに行われました。



写真Y: 本野原遺跡(もとのばるいせき)の屋根付きの説明板や標識です。 ここが「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」です。 北西の山も見えます。



写真Z: 本野原遺跡の近くの農道と木、野草のヒメジョオンの白い花です。 このあたりの道は舗装(ほそう)してありません。 北東を見たものです。



写真AA: 北西を見た景色です。 ここが本野原(もとのばる)です。 小高い台地になっています。



写真AB: 説明板や標識のところに行く道です。 北西を見たものです。



写真AC: 遠くに杉林、山などが見えます。



写真AD: 南西を見た景色です。 本野原遺跡の近くです。 遠くの山並み(やまなみ)が見えます。



写真AE: 左は来た農道です。



写真AF: 「国指定史跡 本野原遺跡 宮崎市教育委員会 平成16年9月30日指定」と書いてある標識が発掘(はっくつ)調査の現場付近にあります。



写真AG: 「国指定史跡 本野原遺跡 宮崎市教育委員会 平成16年9月30日指定」と書いてある標識です。



写真AH: 「国指定史跡 本野原遺跡 宮崎市教育委員会 平成16年9月30日指定」と書いてある標識。



写真AI: 「本野原遺跡」にある屋根付きの説明板と左に案内のパンフレット入れがあります。 右に青色のネットが見えます。 そこが発掘調査された現場です。



写真AJ: 「フタを開いてご自由にお取りください。」と書いてあります。 案内のパンフレット入れです。



写真AK: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AL: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AM: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AN: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AO: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AP: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AQ: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AR: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AS: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AT: 「国指定史跡 本野原遺跡 (もとのばるいせき) 国指定年月日 平成16年9月30日」の説明板です。
竪穴建物(住居跡、たてあなたてもの、写真あり。) 方形と円形のものがあり、調査区内では113棟(とう)が検出されました。
配石遺跡(写真あり。) 窪地(くぼち)中央付近から検出されました。 叩(たた)いたり磨(みが)いたりした痕跡(こんせき)が見られます。
本野原遺跡の縄文時代集落跡(写真あり。)
縄文時代後期中葉(ちゅうよう、なかごろの時代のこと。)の遺構配置(方位と縮尺あり。)
<遺跡の概要>
 本野原遺跡は、約2万年前の旧石器時代から約600年前の室町時代にわたる遺跡です。 約4000〜3000年前の縄文時代後期には、この遺跡内に大規模な集落が営(いとな)まれました。 集落内には、人工的に掘り窪(くぼ)められた最大径100 m に及(およ)ぶ広場が設(もう)けられています。 広場の中央付近には大きな石を置き、その周(まわ)りを土坑(墓)が、さらに外側を掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や貯蔵穴が囲(かこ)むという、輪が重なるような配置が認められました。 これらは集会やお祭などの儀式に使われたと考えられます。 このような広場は、東日本で多く確認されていましたが、本野原遺跡での発見により、西日本にも存在することが明らかとなりました。 広場の外側にも、100棟を越す竪穴建物(住居など、たてあなたてもの)や、列を成(な)して並ぶ掘立柱建物、道路も見つかっています。
 歴史的価値の高い西日本最大級の縄文時代集落遺跡として、平成16年9月30日付けで国史跡に指定されました。 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真AU: 宮崎市 田野町 字黒草にある「本野原遺跡(もとのばるいせき)」の標柱やパンフレット入れなどが見えます。
左寄(ひだりよ)りに鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)とその上のテレビ送信アンテナやFM放送送信アンテナが小さく見えます。 鰐塚山の右に雪が峯(標高 853.1 m)も見えていると思います。
南西を見た景色です。



写真AV: 本野原遺跡のまわりの景色です。 野草のヒメジョオンの白い花が咲いていました。



写真AW: 遠くの山も見えています。 左から東岳(標高 898 m)、天神山(標高 907 m)が見えているかもしれません。



写真AX: 左に青色のネットが遺跡に掛(か)けてあります。 右奥は葉たばこ畑です。



写真AY: ブルーの網(あみ)が本野原遺跡にかけてあります。 手前は少し高くなっています。
左から青井岳(標高 560.2 m)、ケラガッカ(標高 448.4 m)、国見山(標高 407 m)も見えていると思います。



写真AZ: 発掘調査跡にはブルーのネットがかけてあります。 ネットの網目から野草が生(は)えています。
遠くの山や杉林も見えます。



写真BA: 屋根付きの説明板を横から見たものです。



写真BB: 田野町にある本野原遺跡の標柱、パンフレット入れ、説明板も見えます。 奥は小さな丘になっています。



写真BC: 縄文時代の人たちもこのような鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が本野原から見えていました。 山の形はそのころとほとんど変化していないと思われます。



写真BD: 本野原(もとのばる)には茅花(つばな、チガヤ)の白い穂やヒメジョオンの白い花が多くありました。 左はブルーの網(あみ)です。



写真BE: 遺跡のブルーの網目から野草が伸びていました。



写真BF: 宮崎市 田野町 字黒草にある「本野原遺跡」の発掘跡です。



写真BG: ブルーのネットが点々と見えます。
「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外にあります。
「本野原遺跡」は西日本最大級の縄文集落があった所です。 縄文時代後期には九州地方では極めて珍(めず)しい大規模集落がありました。 列状集落と環状集落が見出されました。 縄文時代後期のこの遺跡から、当時の人々が東日本の人々との交流を持っていたことを思わせます。 大量の土器を捨(す)てた土器溜(だ)まりには瀬戸内海系の土器も見つかっていて、海を通した交流もあったかもしれません。 南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落でした。 多くの土器、土製円盤や石皿、磨(す)り石などの食料加工具が多く出土しています。 採集と魚取りに基づいた食生活と思われます。 史跡名勝天然記念物で、宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。 本野原遺跡は旧石器時代から縄文時代を通じてほぼ継続された集落でした(複合遺跡)。 本野原遺跡は縄文時代後期(今から約3700年前)を中心とする西日本最大級の遺跡です。 遺跡の広場はなだらかなすり鉢(ばち)状に整地されています。 昭和35年に地元の小学生が犬の頭の形をした土器を発見しました。 この土器が本野原遺跡の存在を世に知らせるきっかけになりました。 地元の小学校では土器掘り遠足が盛んに行われました。



写真BH: 奥に2ヵ所ブルーのネットが見えます。 本野原遺跡です。



写真BI: ブルーの網の端(はし)はこのようになっています。



写真BJ: 手前にアザミの花も見えます。 野草のヒメムカシヨモギもあります。 本野原遺跡です。



写真BK: ブルーのネットから育っている野草が見えます。



写真BL: 上の中央付近に石が見えます。 これは遺跡の石と思われます。 本野原遺跡。



写真BM: 手前は少し高くなっています。



写真BN: 野草と発掘跡の青色のネットです。 田野町にある本野原遺跡です。



写真BO: 青色の網の端(はし)付近です。



写真BP: 本野原遺跡とまわりの景色です。 遠くの山、携帯電話の送受信アンテナ塔、小さな丘、杉林などが見えます。
左から青井岳(標高 560.2 m)、ケラガッカ(標高 448.4 m)、国見山(標高 407 m)も見えていると思います。



写真BQ: 遠くの山の上に送電線鉄塔も見えます。 本野原遺跡(もとのばるいせき)から見た風景です。



写真BR: 本野原遺跡からの美しい山並み(やまなみ)です。 左から東岳(標高 898 m)、天神山(標高 907 m)が見えているかもしれません。 ここに住んでいた縄文人も同じ山の景色をいつも見ていたことでしょう。



写真BS: 左手前に本野原遺跡の標柱があります。 比較的近い山には杉の植林がしてあります。



写真BT: 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が美しく、この本野原遺跡から見えます。 上にテレビとFMの送信アンテナが何本か見えます。



写真BU: 比較的近い山も見えます。



写真BV: 山々を楽しめます。 縄文時代の人々になった気分で眺(なが)めました。 手前にブルーのネットも見えます。 本野原遺跡。



写真BW: 田野町にある本野原遺跡から見える山々です。 荒平山(標高 602.9 m)、前平山(標高 622.1 m)も見えているかもしれましん。 手前に畑(葉たばこ)もあります。 東を見たものです。



写真BX: 北東を見たものです。 畑(葉たばこ)も見えます。 本野原遺跡。



写真BY: 宮崎市 田野町にある「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」です。



写真BZ: 中央付近に遺跡の石が見えます。



写真CA: 本野原の野草です。 左はアザミです。



写真CB: 本野原の野草と遺跡です。 左から青井岳(標高 560.2 m)、ケラガッカ(標高 448.4 m)、国見山(標高 407 m)も見えていると思います。



写真CC: 宮崎市 田野町にある「本野原遺跡」です。
「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外にあります。
「本野原遺跡」は西日本最大級の縄文集落があった所です。 縄文時代後期には九州地方では極めて珍(めず)しい大規模集落がありました。 列状集落と環状集落が見出されました。 縄文時代後期のこの遺跡から、当時の人々が東日本の人々との交流を持っていたことを思わせます。 大量の土器を捨(す)てた土器溜(だ)まりには瀬戸内海系の土器も見つかっていて、海を通した交流もあったかもしれません。 南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落でした。 多くの土器、土製円盤や石皿、磨(す)り石などの食料加工具が多く出土しています。 採集と魚取りに基づいた食生活と思われます。 史跡名勝天然記念物で、宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。 本野原遺跡は旧石器時代から縄文時代を通じてほぼ継続された集落でした(複合遺跡)。 本野原遺跡は縄文時代後期(今から約3700年前)を中心とする西日本最大級の遺跡です。 遺跡の広場はなだらかなすり鉢(ばち)状に整地されています。 昭和35年に地元の小学生が犬の頭の形をした土器を発見しました。 この土器が本野原遺跡の存在を世に知らせるきっかけになりました。 地元の小学校では土器掘り遠足が盛んに行われました。



写真CD: 本野原遺跡です。



写真CE: 小さな丘と説明板が見えます。



写真CF: 本野原の様子(ようす)です。 左寄りに鰐塚山 (わにつかやま、標高 1118.1 m)が美しく見えます。
「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字黒草 甲 12349番地外にあります。
「本野原遺跡」は西日本最大級の縄文集落があった所です。 縄文時代後期には九州地方では極めて珍(めず)しい大規模集落がありました。 列状集落と環状集落が見出されました。 縄文時代後期のこの遺跡から、当時の人々が東日本の人々との交流を持っていたことを思わせます。 大量の土器を捨(す)てた土器溜(だ)まりには瀬戸内海系の土器も見つかっていて、海を通した交流もあったかもしれません。 南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落でした。 多くの土器、土製円盤や石皿、磨(す)り石などの食料加工具が多く出土しています。 採集と魚取りに基づいた食生活と思われます。 史跡名勝天然記念物で、宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。 本野原遺跡は旧石器時代から縄文時代を通じてほぼ継続された集落でした(複合遺跡)。 本野原遺跡は縄文時代後期(今から約3700年前)を中心とする西日本最大級の遺跡です。 遺跡の広場はなだらかなすり鉢(ばち)状に整地されています。 昭和35年に地元の小学生が犬の頭の形をした土器を発見しました。 この土器が本野原遺跡の存在を世に知らせるきっかけになりました。 地元の小学校では土器掘り遠足が盛んに行われました。



写真CG: 本野原遺跡。



写真CH: 青色の網とその間から育っている野草です。



写真CI: 本野原遺跡です。



写真CJ: はじめの農道の所です。 本野原遺跡の標柱も見えます。



写真CK: 宮崎自動車道のトンネル、堆肥小屋(たいひごや)、車道のトラクター、車も見えます。



写真CL: 本野原(もとのばる)の下の車道です。 右は畑になっています。 北東を見たものです。



写真CM: 東の山が見えます。 荒平山(標高 602.9 m)、前平山(標高 622.1 m)も見えているかもしれません。 右寄りに宮崎自動車道が上を通っています。



写真CN: 手前に田んぼがあります。 奥に宮崎自動車道が通っています。



写真CO: 宮崎自動車道の高架(こうか)のトンネル、堆肥小屋(たいひごや)、鰐塚山などが見えます。



写真CP: 右上は本野原(もとのばる)です。



写真CQ: この上に本野原遺跡があります。 左寄り上に先ほどの「本野原遺跡」と書いてある標柱が見えています。



写真CR: 本野原遺跡のそばにある車道から見た鰐塚山(わにつかやま)です。 本野原遺跡から南南西に鰐塚山は見えます。
「本野原遺跡 (もとのばるいせき)」は宮崎市 田野町の南部に位置します。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)の北北東 約6 km  の所にあります。 鰐塚山の麓(ふもと)にある扇状地の標高 約180 m の台地に集落跡があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)