霧島神宮、霧島いわさきホテル (霧島神宮 斎田 (さいでん)、国指定「重要文化財」 霧島神宮の本殿・幣殿 (へいでん)・拝殿・勅使門・門守神社・登廊下・渡廊下・神饌所、霧島山、高千穂峰)  (鹿児島県 霧島市 霧島、牧園町)







<標高、位置>  霧島神宮は
標高 約470 m
 北緯31度51分32秒  東経130度52分18秒

<標高、位置>  霧島いわさきホテルは
標高 約760 m
 北緯31度54分05秒  東経130度50分06秒


 「霧島神宮」は鹿児島県 霧島市 霧島 田口 にあります。
 「霧島神宮」は旧 官幣大社 (かんぺいたいしゃ)です。 明治7年2月に霧島神宮と社号を改め、官幣大社になりました。 今は別表神社です。 明治時代の神仏分離令が発令されるまでは「西在所霧島権現」と呼ばれていました。 別当寺は華林寺でした。 社宝は霧島九面です。 猿田彦神、手力男神、カラス天狗 (てんぐ)などのお面が9個あります。 修験者の修業の場だったので天狗  (てんぐ)の面があるのだと思われます。 本殿の屋根には5組の内切りの千木 (ちぎ)があります。 屋根の鰹木 (かつおぎ)は5本です。 本殿は入母屋造り (いりもやづくり)です。 霧島連山の修験僧による霧島六所権現の一つです。 日光東照宮と対比して「西の日光」とも言われます。
 「霧島神宮」の説明板から、
鹿児島県 霧島市 霧島 田口 鎮座
御祭神 天孫ニニギノミコト
相殿
嫡后 コノハナサクヤヒメノミコト、御子 ヒコホホデミノミコト、嫡后 トヨタマヒメノミコト、御孫 ウガヤフキアエズノミコト、嫡后 タマヨリヒメノミコト、御曾孫 神武天皇
当神宮は天祖天照大御神の御神勅を畏 (おそれ)み戴 (いただ)き高千穂峯 (みね)天降りまして皇基を建て給 (たま)ひ国土を開拓し産業を振興遊ばされた肇国の祖神をお祀 (おまつ)りしております。
御本殿以下諸建物 平成元年 国指定重要文化財
正徳5年 (西暦 1715年) 島津第21代藩主 島津吉貴 公 御造営寄進
主なる祭典
御田植祭 大祭 旧2月4日、例大祭 大祭 9月19日、古例祭 中祭 旧9月19日、天孫降臨記念祭 天孫降臨御神火祭 小祭 11月10日

  「霧島神宮元宮」は、 説明板から、
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、高千穂河原に(天台宗の僧 性空上人 (しょうくうしょうにん)によって)再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、下方の現在の地に建て替えられたものです。 霧島神宮は下方へ下方へと遷移しています。 鳥居の右の石碑には、この脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり  ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。

 「性空上人 (しょうくうしょうにん)」は天台宗の比叡山 (ひえいざん)の僧です。 10歳で仏門に入りました。 27歳で悟 (さとり)を開きました。 その後父を亡くし、日向国生まれだった母と共に日向国に下りました。 性空上人は20歳後半から4〜5年間を霧島山中で修行しました (天慶年間 (938-947年)〜天暦年間 (948-957年))。 霧島山を天台宗の山としました。 霧島六所権現 (霧島六社権現)は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置されました。

 第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって「霧島六所神社権現」が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。

  「高千穂神宮古宮」は高千穂河原にあります。 説明板から、
日本で最も古い書物である古事記、日本書紀に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが「襲(そ)の高千穂の峯に天降ります」と記(しる)してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古(いにしえ)より、多くの人々の崇敬を集めてきました。 ここ高千穂河原は文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあったところです。 霧島山の大噴火により社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は斎場として現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。
 「昔の霧島神宮」は、 説明板から、
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、この地に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、現在の地に建て替えられたものです。

 古代では今の宮崎県・鹿児島県は「日向国 (ひゅうがこく)」でした。 古事記・日本書紀での日向国はこれを指 (さ)しています。 この日向国はその後、和銅年間 (708年〜715年)に四郡を裂 (さ)いて大隅国が置かれました。

 高千穂峰は約1万年前に出来ました。 天孫降臨(てんそんこうりん)神話の地の一つ(もう一つは宮崎県高千穂町)で、山頂に青銅(あるいは銅)製の天之逆鉾(あまのさかほこ)がご神体として立っています。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 霧島連山は雲海の中に山頂部が島のように見えることから名づけられたとも言われています。 山頂が宮崎県都城市と宮崎県西諸県郡高原町のどちらに属するかは確定していませんが、山頂は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田1番地です。 山頂部は霧島東神社の飛び地境内(けいだい)です。

 「坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念」の説明板から、
 今からちょうど130年前、慶応2年 (1866年)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩 (鹿児島)に訪 (おとず)れています。 京都伏見の寺田屋事件 (1866年1月23日未明)で幕吏 (幕府の役人)に襲 (おそ)われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山奥く入り温泉で傷 (きず)を治しながらその足で霧島山 (高千穂峰)にある天の逆鉾 (さかほこ)を見ようと妻おりょうと高千穂登山 (高千穂峰登山)をしています。 姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると2人で微笑 (ほほえ)んだと記 (しる)されています。 下山途中は一面にミヤマキリシマが咲きほころび美しい情景であったそうです。
 杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに一泊 (いっぱく)しそこから霧島の温泉に戻 (もど)り4月12日鹿児島へ帰っているようです。
 坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。 このことは龍馬が姉の乙女宛 (あて)へ送ったと言われる手紙から抜粋 (ばっすい)し要約したものです。

 「国歌に詠(よ)まれている「さざれ石」」の説明碑 (ひ)から、
 この石は学名を石灰質角礫 (れき)岩と云 (い)う。 石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第 (しだい)に大きくなる。 やがてそれが地上に顕 (あらわ)れて国歌に詠 (よ)まれる如 (ごと)く、千代、八千代 年をへてさざれ石巌 (いわお)となりて苔 (こけ)のむすと云 (い)う状は、実に目出度 (めでた)い限りである。
 この石は国歌発祥 (はっしょう)の地と云われる岐阜県揖斐郡 春日村の山中で発見されたもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る。
右の文章は昭和37年文部省の中庭に贈呈された「さざれ石」の木札に記 (しる)されたものと同文であり、国歌に詠まれている「さざれ石」については岐阜県揖斐川町出身の故 小林宗一 (号宗閑)氏によって発見解明されました。

 「霧島いわさきホテル」は鹿児島県 霧島市 牧園町 高千穂 3958 にあります。


写真A: 鹿児島県 牧園町にある「霧島いわさきホテル」の入り口付近です。



写真B: 右の温泉がある建物に「林田温泉」と書いてあります。 昔は林田バスの経営する林田温泉でした。 今は霧島いわさきホテルになっています。 左が霧島いわさきホテルの建物です。 駐車場も見えます。
「霧島いわさきホテル」は鹿児島県 霧島市 牧園町 高千穂 3958 にあります。



写真C: 左が大浴場などがある建物です。 遠くの山も見えます。



写真D: 木の奥に霧島いわさきホテルの建物が見えます。



写真E: 「霧島いわさきホテル」と入り口に書いてあります。 見えている車道は県道1号線です。 右に進むと宮崎県のえびの高原、小林市、えびの市などに行きます。 左に進むと霧島市 牧園町にある「まほろばの里」などに行きます。



写真F: 霧島いわさきホテルの入り口付近です。 県道1号線が見えます。 建物もあります。



写真G: 霧島いわさきホテルの出口付近です。 県道1号線が見えます。 左に「「霧島市 共通商品券 加盟店」の幟 (のぼり)があります。



写真H: 霧島いわさきホテルの温泉がある建物です。 壁に「林田温泉」と書いてあります。
豊富な湯量のため、温泉を循環させる事なく新しいお湯を湯船に入れています。 露天風呂・内風呂・サウナ・水風呂などがあります。 温泉の効能は神経痛・胃腸病・切り傷・皮膚病・糖尿病・動脈硬化症などです。
「森の中のプール」も併設されています。



写真I: ここは霧島神宮の広い第2駐車場です。 「霧島神宮」は鹿児島県 霧島市 霧島 田口 にあります。



写真J: 駐車場から社殿などがあるところに行くための石段です。



写真K: 霧島神宮の建物 (参集所)が見えてきました。



写真L: 霧島神宮にあるトイレです。



写真M: 奥にバスが止まっています。 そこはバス駐車場です。



写真N: 霧島神宮のバス駐車場。 バスも見えます。



写真O: お土産品 (みやげひん)の店、食堂などがある建物 (売店)です。



写真P: 自動販売機が多くある建物です。



写真Q: 招霊木 (オガタマノキ)が境内 (けいだい)にあります。



写真R: オガタマノキの中部です。



写真S: オガタマノキの上部です。



写真T: 「霧島神宮境内案内図」があります。



写真U: オガタマノキの横に伸びた枝に硬貨を多く載 (の)せてあります。 参拝者が置いたものでしょう。



写真V: 松の木と建物、石灯籠 (いしどうろう)があります。 社務所が見えています。



写真W: 日の丸の旗が見えます。 その右に展望台があります。 赤い灯明 (とうみょう)、坂本龍馬の絵を書いた青く見える板もあります。



写真X: 霧島神宮の境内 (けいだい)に詩碑 (しひ)があります。 昭和27年8月22日に奉納 (ほうのう)された徳富蘇峰の神聖降臨之詩碑です。



写真Y: 徳富蘇峰の神聖降臨之詩碑の説明板です。



写真Z: 新婚旅行で霧島神宮にも来た坂本龍馬 夫妻 (龍馬とおりょう)の絵があります。 右に展望台があります。
幕末に坂本竜馬がケガの治療を兼ねた新婚旅行で鹿児島に来たときに高千穂峰に登りました。 泊まった旅館は今もある霧島館で、霧島神宮にも参拝しています。 登ったコースは、「高千穂河原コース」です。
江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。



写真AA: 霧島神宮の国旗掲揚 (けいよう)ポールと日章旗 (日の丸の旗)です。



写真AB: 「坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念」の説明板があります。
 今からちょうど130年前、慶応2年 (1866年)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩 (鹿児島)に訪 (おとず)れています。 京都伏見の寺田屋事件 (1866年1月23日未明)で幕吏 (幕府の役人)に襲 (おそ)われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山奥く入り温泉で傷 (きず)を治しながらその足で霧島山 (高千穂峰)にある天の逆鉾 (さかほこ)を見ようと妻おりょうと高千穂登山 (高千穂峰登山)をしています。 姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると2人で微笑 (ほほえ)んだと記 (しる)されています。 下山途中は一面にミヤマキリシマが咲きほころび美しい情景であったそうです。
 杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに一泊 (いっぱく)しそこから霧島の温泉に戻 (もど)り4月12日鹿児島へ帰っているようです。
 坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。 このことは龍馬が姉の乙女宛 (あて)へ送ったと言われる手紙から抜粋 (ばっすい)し要約したものです。
1996年12月 霧島町
と書かれています。



写真AC: 「坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念」の説明板。
 今からちょうど130年前、慶応2年 (1866年)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩 (鹿児島)に訪 (おとず)れています。 京都伏見の寺田屋事件 (1866年1月23日未明)で幕吏 (幕府の役人)に襲 (おそ)われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山奥く入り温泉で傷 (きず)を治しながらその足で霧島山 (高千穂峰)にある天の逆鉾 (さかほこ)を見ようと妻おりょうと高千穂登山 (高千穂峰登山)をしています。 姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると2人で微笑 (ほほえ)んだと記 (しる)されています。 下山途中は一面にミヤマキリシマが咲きほころび美しい情景であったそうです。
 杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに一泊 (いっぱく)しそこから霧島の温泉に戻 (もど)り4月12日鹿児島へ帰っているようです。
 坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。 このことは龍馬が姉の乙女宛 (あて)へ送ったと言われる手紙から抜粋 (ばっすい)し要約したものです。
1996年12月 霧島町
と書かれています。



写真AD: 「坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念」の説明板があります。
 今からちょうど130年前、慶応2年 (1866年)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩 (鹿児島)に訪 (おとず)れています。 京都伏見の寺田屋事件 (1866年1月23日未明)で幕吏 (幕府の役人)に襲 (おそ)われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山奥く入り温泉で傷 (きず)を治しながらその足で霧島山 (高千穂峰)にある天の逆鉾 (さかほこ)を見ようと妻おりょうと高千穂登山 (高千穂峰登山)をしています。 姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると2人で微笑 (ほほえ)んだと記 (しる)されています。 下山途中は一面にミヤマキリシマが咲きほころび美しい情景であったそうです。
 杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに一泊 (いっぱく)しそこから霧島の温泉に戻 (もど)り4月12日鹿児島へ帰っているようです。
 坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。 このことは龍馬が姉の乙女宛 (あて)へ送ったと言われる手紙から抜粋 (ばっすい)し要約したものです。
1996年12月 霧島町
と書かれています。



写真AE: 霧島神宮にある展望台です。 参拝者、柵 (さく)が見えます。



写真AF: 霧島神宮展望台の説明盤 (せつめいばん)があります。



写真AG: 霧島神宮の展望台から見た景色です。 手前は手すりです。



写真AH: 霧島神宮の展望台からの眺望 (ちょうぼう)です。



写真AI: 展望台から桜島が薄く見えます。 火口からの噴煙も見えています。
桜島の昭和火口からの噴煙が見えています。 霧島神宮から南西を見たものです。
鹿児島湾(錦江湾)にある「桜島」には御岳(標高 1117 m)、南岳(1040 m)があります。
桜島は2万6千万年前に活動を始めました。 初めは主に北岳が噴火し、有史以降は南岳が噴火しています。 大正3年 (1914年)1月12日からの大正大噴火は20世紀以降に国内で起きた最大の噴火です。 東西の山腹で十数個の火口から合計 約30億トンの溶岩が流れ出て、湾の南東側を埋 (う)め、桜島と大隅半島が陸続きになりました。



写真AJ: 展望台に円盤型の説明盤 (せつめいばん)があります。



写真AK: 展望台の近くです。 建物に「写真」と書いてあります。



写真AL: 霧島神宮の境内 (けいだい)です。



写真AM: 霧島神宮の広場です。



写真AN: この右手に展望台があります。



写真AO: 境内 (けいだい)の木です。 右に展望台の柵 (さく)が見えます。



写真AP: 奥は展望台です。 参拝者も見えます。



写真AQ: ベンチもあります。 左奥は展望台。



写真AR: 石碑 (せきひ)があります。 展望台の近くです。



写真AS: 奥に行く道があります。



写真AT: 高い杉の木もあります。



写真AU: 手前は公衆電話ボックスです。 奥は社務所です。



写真AV: 霧島神宮の建物 (社務所)です。



写真AW: 松の木もあります。



写真AX: 境内 (けいだい)にある松の木です。



写真AY: 建物の出入口です。



写真AZ: 霧島神宮の幅の広い石段と赤い「三の鳥居 (とりい)」です。 この階段を登って社殿に行きます。 参道には大きな杉の木がたくさんあります。
「霧島神宮元宮」は、 説明板から、
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、高千穂河原に(天台宗の僧 性空上人 (しょうくうしょうにん)によって)再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、下方の現在の地に建て替えられたものです。 霧島神宮は下方へ下方へと遷移しています。 鳥居の右の石碑には、この脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり  ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。

 「高千穂神宮古宮」は高千穂河原にあります。 説明板から、
日本で最も古い書物である古事記、日本書紀に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが「襲(そ)の高千穂の峯に天降ります」と記(しる)してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古(いにしえ)より、多くの人々の崇敬を集めてきました。 ここ高千穂河原は文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあったところです。 霧島山の大噴火により社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は斎場として現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。
 「昔の霧島神宮」は、 説明板から、
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、この地に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、現在の地に建て替えられたものです。



写真BA: 参道の脇 (わき)に門があります。 貴賓館 (きひんかん)への冠木門です。 赤い灯明 (とうみょう)もあります。



写真BB: 赤い三の鳥居 (とりい)、灯明 (とうみょう)が見えます。 ここを進みます。 霧島神宮。
古代では今の宮崎県・鹿児島県は「日向国 (ひゅうがこく)」でした。 古事記・日本書紀での日向国はこれを指 (さ)しています。 この日向国はその後、和銅年間 (708年〜715年)に四郡を裂 (さ)いて大隅国が置かれました。

高千穂峰は約1万年前に出来ました。 天孫降臨(てんそんこうりん)神話の地の一つ(もう一つは宮崎県高千穂町)で、山頂に青銅(あるいは銅)製の天之逆鉾(あまのさかほこ)がご神体として立っています。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 霧島連山は雲海の中に山頂部が島のように見えることから名づけられたとも言われています。 山頂が宮崎県都城市と宮崎県西諸県郡高原町のどちらに属するかは確定していませんが、山頂は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田1番地です。 山頂部は霧島東神社の飛び地境内(けいだい)です。



写真BC: 霧島神宮にある「さざれ石」と説明板です。



写真BD: これが「さざれ石」です。 小石がくっついて大きな石になっています。



写真BE: これも「さざれ石」です。



写真BF: 「国歌に詠(よ)まれている「さざれ石」」の説明碑 (ひ)です。
 この石は学名を石灰質角礫 (れき)岩と云 (い)う。 石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第 (しだい)に大きくなる。 やがてそれが地上に顕 (あらわ)れて国歌に詠 (よ)まれる如 (ごと)く、千代、八千代 年をへてさざれ石巌 (いわお)となりて苔 (こけ)のむすと云 (い)う状は、実に目出度 (めでた)い限りである。
 この石は国歌発祥 (はっしょう)の地と云われる岐阜県揖斐郡 春日村の山中で発見されたもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る。
右の文章は昭和37年文部省の中庭に贈呈された「さざれ石」の木札に記 (しる)されたものと同文であり、国歌に詠まれている「さざれ石」については岐阜県揖斐川町出身の故 小林宗一 (号宗閑)氏によって発見解明されました。
昭和62年 天皇誕生日
奉納者
と書いてあります。



写真BG: 「国歌に詠(よ)まれている「さざれ石」」の説明碑 (ひ)。
 この石は学名を石灰質角礫 (れき)岩と云 (い)う。 石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第 (しだい)に大きくなる。 やがてそれが地上に顕 (あらわ)れて国歌に詠 (よ)まれる如 (ごと)く、千代、八千代 年をへてさざれ石巌 (いわお)となりて苔 (こけ)のむすと云 (い)う状は、実に目出度 (めでた)い限りである。
 この石は国歌発祥 (はっしょう)の地と云われる岐阜県揖斐郡 春日村の山中で発見されたもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る。
右の文章は昭和37年文部省の中庭に贈呈された「さざれ石」の木札に記 (しる)されたものと同文であり、国歌に詠まれている「さざれ石」については岐阜県揖斐川町出身の故 小林宗一 (号宗閑)氏によって発見解明されました。
昭和62年 天皇誕生日
奉納者
と書いてあります。



写真BH: 「国歌に詠(よ)まれている「さざれ石」」の説明碑 (ひ)です。
 この石は学名を石灰質角礫 (れき)岩と云 (い)う。 石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第 (しだい)に大きくなる。 やがてそれが地上に顕 (あらわ)れて国歌に詠 (よ)まれる如 (ごと)く、千代、八千代 年をへてさざれ石巌 (いわお)となりて苔 (こけ)のむすと云 (い)う状は、実に目出度 (めでた)い限りである。
 この石は国歌発祥 (はっしょう)の地と云われる岐阜県揖斐郡 春日村の山中で発見されたもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る。
右の文章は昭和37年文部省の中庭に贈呈された「さざれ石」の木札に記 (しる)されたものと同文であり、国歌に詠まれている「さざれ石」については岐阜県揖斐川町出身の故 小林宗一 (号宗閑)氏によって発見解明されました。
昭和62年 天皇誕生日
奉納者
と書いてあります。



写真BI: 「さざれ石」と書いてあります。



写真BJ: 参道の近くに石碑 (せきひ)があります。



写真BK: 鹿児島県 霧島市にある霧島神宮の参道です。 大きな木が空を覆 (おお)っています。 参道には大きな杉の木がたくさんあります。 奥に社殿があります。 左右に赤い灯明 (とうみょう)が見えます。 下は石畳 (いしだたみ)になっています。



写真BL: 参道の上を見上 (あ)げたものです。 参道には大きな杉の木がたくさんあります。



写真BM: 参道の上の様子 (ようす)です。



写真BN: 奥に赤い社殿が見えます。



写真BO: 霧島神宮の社殿です。 奥から本殿、幣殿 (へいでん)、拝殿、勅使殿 (ちょくしでん)が見えます。 左は御札 (おふだ)、お守り、交通安全のステッカーなどを販売している建物です。
「霧島神宮」は鹿児島県 霧島市 霧島 田口 にあります。
 「霧島神宮」は旧 官幣大社 (かんぺいたいしゃ)です。 明治7年2月に霧島神宮と社号を改め、官幣大社になりました。 今は別表神社です。 明治時代の神仏分離令が発令されるまでは「西在所霧島権現」と呼ばれていました。 別当寺は華林寺でした。 社宝は霧島九面です。 猿田彦神、手力男神、カラス天狗 (てんぐ)などのお面が9個あります。 修験者の修業の場だったので天狗  (てんぐ)の面があるのだと思われます。 本殿の屋根には5組の内切りの千木 (ちぎ)があります。 屋根の鰹木 (かつおぎ)は5本です。 本殿は入母屋造り (いりもやづくり)です。 霧島連山の修験僧による霧島六所権現の一つです。 日光東照宮と対比して「西の日光」とも言われます。



写真BP: 霧島神宮の本殿の屋根には5組の内切りの千木 (ちぎ)が見えます。 入母屋造り (いりもやづくり)です。
神社の屋根は一般に「切妻造り(きりづまづくり)」です。 切妻造りとは本を開いて伏(ふ)せた形の屋根です。 その上にクロスした棒があります。 これが「千木(ちぎ)」です。 千木の上端を水平に切ったものが「内切り」で、千木の先端を鉛直に切ったものが「外切り」です。 屋根の上に水平に置かれた棒もあります。 これが「鰹木(かつおぎ)」です。 千木、鰹木は古墳時代の埴輪(はにわ)の家にもあります。 もともとは構造上必要な物でしたが、現在は装飾的なものになっています。
手前の左に御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付けるところ、左右に石灯籠 (いしどうろう)、赤い灯明 (とうみょう)、灯明の左に御神籤 (おみくじ)を販売している小さな建物、石段などが見えます。



写真BQ: 参道のそばにある御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付けるところです。 多くの御神籤が見えます。



写真BR: 「神符納札所」と書いてあります。 右に赤い神符納札所があります。 古い御札 (おふだ)などを返すところです。



写真BS: 来た参道を振り返ったものです。 石灯籠 (いしどうろう)、遠くに鳥居 (とりい)も見えます。



写真BT: 赤い神符納札所、石灯籠 (いしどうろう)もあります。



写真BU: 右手を見たものです。 左に神木 (杉)、柵 (さく)があります。



写真BV: 右から神木 (杉)、霧島神宮の説明板、赤い手水舎 (ちょうずや)、石段もあります。



写真BW: 霧島神宮の神木 (杉)の中部です。 これが幕末期に坂本龍馬の夫婦が見た大きな杉の木と思われます。



写真BX: 神木 (杉)の上部です。



写真BY: 「霧島神宮」の説明板です。
鹿児島県 霧島市 霧島 田口 鎮座
御祭神 天孫ニニギノミコト
相殿
嫡后 コノハナサクヤヒメノミコト、御子 ヒコホホデミノミコト、嫡后 トヨタマヒメノミコト、御孫 ウガヤフキアエズノミコト、嫡后 タマヨリヒメノミコト、御曾孫 神武天皇
当神宮は天祖天照大御神の御神勅を畏 (おそれ)み戴 (いただ)き高千穂峯 (みね)天降りまして皇基を建て給 (たま)ひ国土を開拓し産業を振興遊ばされた肇国の祖神をお祀 (おまつ)りしております。
御本殿以下諸建物 平成元年 国指定重要文化財
正徳5年 (西暦 1715年) 島津第21代藩主 島津吉貴 公 御造営寄進
主なる祭典
御田植祭 大祭 旧2月4日、例大祭 大祭 9月19日、古例祭 中祭 旧9月19日、天孫降臨記念祭 天孫降臨御神火祭 小祭 11月10日
と書かれています。



写真BZ: 横から見た霧島神宮の説明板です。 左奥に杉の木の御神木が見えます。 社殿は左にあります。



写真CA: 霧島神宮の手を洗う赤い手水舎 (ちょうずや)も見えます。 右奥に神楽殿の赤色が少し見えています。 右の台は杉の御神木のあるところです。



写真CB: 左寄りに大きな勅使殿 (ちょくしでん)が見えます。 右端は手水舎 (ちょうずや)です。



写真CC: 中央の大きな赤い建物は御札 (おふだ)、お守りなどを販売しているところ (授与所)です。 手前の小さな赤い建物は御神籤 (おみくじ)を売っているところです。



写真CD: 左手を見たものです。



写真CE: 御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付けるところが見えます。 多くのおみくじが見えます。



写真CF: 来た参道を振り返ったもの。



写真CG: 参道の近くです。



写真CH: 霧島神宮の説明板のところです。



写真CI: 霧島神宮の杉の木の御神木です。 まわりにしめ縄と御幣 (ごへい)があります。 柵 (さく)と木の台も見えます。 坂本龍馬も見た杉の木はこのことでしょう。



写真CJ: 杉の御神木の中部です。



写真CK: 杉の木の御神木の上部です。



写真CL: 「御神木 (ごしんぼく)」の説明板があります。
樹種 杉 (霧島メアサ)、樹齢 約800年、樹高 37 m、幹囲 7.3 m (胸高)、宿木 (やどりぎ) 桧 (ひのき)、樟 (くす)、樒 (しきみ) 他
この御神木は霧島スギとも呼 (よ)ばれ南九州一帯の杉の祖にあたる
と書いてあります。



写真CM: 霧島神宮の手水舎 (ちょうずや)です。



写真CN: 霧島神宮の御手洗 (みたらい)です。



写真CO: 大きな建物は御札 (おふだ)、お守りなどを売っているところ (授与所)です。



写真CP: 末社です。



写真CQ: 「恋みくじ、おみくじ」を販売しているところです。



写真CR: 霧島神宮の御札 (おふだ)、お守り、鈴などを販売している建物 (授与所)です。



写真CS: 盃 (さかずき)、面、小鳥や神様などの焼き物、天之逆鉾九面などが見えます。



写真CT: いろいろなお守りが見えます。



写真CU: 紙や木製の御札 (おふだ)があります。



写真CV: 多種のお守りを販売しています。



写真CW: 車に付ける交通安全のステッカー、交通安全のお守りも多くあります。



写真CX: 水晶の数珠 (じゅず)、焼き物の鈴も見えます。



写真CY: 門守神社です。



写真CZ: 門守神社と書いてあります。



写真DA: 霧島神宮の門守神社。



写真DB: 鹿児島県 霧島市にある霧島神宮の勅使殿 (ちょくしでん)です。



写真DC: 勅使殿の左手を見たものです。



写真DD: 手前は門守神社です。



写真DE: 奥は御札 (おふだ)、お守り、鈴などを販売している建物です。



写真DF: 来た参道の方を見たものです。 右におみくじを売っている小型の建物があります。



写真DG: 奥に杉の神木、手水舎 (ちょうずや)、左手前は門守神社です。



写真DH: 手前は門守神社です。



写真DI: 勅使殿の右手を見たものです。



写真DJ: 勅使殿の前の石段、柵 (さく)もあります。



写真DK: 霧島神宮の勅使殿の上部です。



写真DL: 「国指定「重要文化財」 本殿・幣殿 (へいでん)・拝殿・勅使門・門守神社・登廊下・渡廊下・神饌所」と書いてあります。
社紋 (しゃもん)の16八重菊がお賽銭箱 (さいせんばこ)に付いています。



写真DM: 勅使殿の中です。 奥に登廊下 (のぼりろうか)、手前にお賽銭箱 (さいせんばこ)が見えます。 霧島神宮です。



写真DN: 勅使殿の屋根裏などです。



写真DO: 横木の左の部分に狛犬 (こまいぬ)の像があります。 立派な彫 (ほ)り物も見えます。



写真DP: 霧島神宮勅使殿の屋根裏などに彫刻があります。



写真DQ: 勅使殿に牙 (きば)のある象と狛犬 (こまいぬ)の立派な像があります。 霧島神宮です。



写真DR: 勅使殿の右の方です。



写真DS: 勅使殿の奥の方に石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真DT: 左に勅使殿、本殿などに行く登廊下 (ろうか)が見えます。



写真DU: 勅使殿を横から見たものです。 参拝者も見えます。



写真DV: 「銅板御屋根 葺替 (ふきかえ)用」が展示してありました。 奥に銅板瓦 (かわら)奉納者 御芳名が書いてあります。



写真DW: 拝殿、幣殿 (へいでん)、本殿がある庭が見えます。 木が植えてあります。 警備員もいらっしゃいます。 霧島神宮。



写真DX: 勅使殿の左の方です。 絵馬 (えま)を掛 (か)けるところがあります。



写真DY: 中央奥に幣殿 (へいでん)、本殿に行く通路 (登廊下)が見えます。



写真DZ: 右に象の像を下から見上げたものが見えます。



写真EA: 「国指定「重要文化財」 本殿・幣殿 (へいでん)・拝殿・勅使門・門守神社・登廊下・渡廊下・神饌所」と書いてあります。 霧島神宮。



写真EB: 社紋 (しゃもん)の16八重菊がお賽銭箱 (さいせんばこ)に付いています。



写真EC: 勅使殿とその奥に幣殿 (へいでん)、本殿などに行く通路 (登廊下)が見えます。 簾 (すだれ)もあります。 霧島神宮。



写真ED: 屋根裏、彫刻、簾 (すだれ)があります。



写真EE: 御札 (おふだ)、お守り、鈴などを販売している建物 (授与所)が見えます。 拝殿の前から見たもの。



写真EF: 拝殿のそばから来た参道を見たものです。 手前から門守神社、御神籤 (おみくじ)を売っている小型の建物、赤い灯明 (とうみょう)、御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付けるところが見えます。



写真EG: 門守神社の上に神木の杉の木が見えます。



写真EH: 門守神社と神木の杉です。



写真EI: 左奥は手水舎 (ちょうずや)、右は門守神社です。 霧島神宮。



写真EJ: 左奥に神楽殿 (かぐらでん)があります。



写真EK: 勅使殿の右の方です。 絵馬 (えま)を掛 (か)けるところがあります。 奥に神楽殿 (かぐらでん)のある所があります。



写真EL: 勅使殿の右の方です。



写真EM: 奥に幣殿 (へいでん)、本殿に行く通路 (登廊下 (のぼりろうか))が見えます。



写真EN: 勅使殿の前です。 参拝者達がいます。



写真EO: 霧島神宮の絵馬 (えま)を掛 (か)けるところです。



写真EP: 末社があります。



写真EQ: 霧島神宮の神楽殿 (かぐらでん)に行く通路です。 拝殿の右方向にあります。



写真ER: 神楽殿 (かぐらでん)に行く通路です。 赤い灯明 (とうみょう)が見えます。



写真ES: 奥に神楽殿が見えます。



写真ET: 「↑神楽殿 (かぐらでん)、祈祷殿 (きとうでん、祈願所)・儀式殿 (神前結婚式場)、どうぞご参拝下さい。」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真EU: 奥に神楽殿が見えます。



写真EV: 神楽殿の近くにも駐車場があります。 右に見えています。 左端は神楽殿です。



写真EW: 霧島神宮の神楽殿 (かぐらでん)です。



写真EX: 霧島神宮の神楽殿 (かぐらでん)と裏山です。



写真EY: 神楽殿 (かぐらでん)の左の方です。



写真EZ: 来た通路を振り返ったものです。 奥に御札 (おふだ)、お守り、鈴などを販売している建物 (授与所)が見えます。



写真FA: 来た通路です。



写真FB: 来た通路のそばです。



写真FC: 一段低いところにある駐車場も見えます。



写真FD: 神楽殿の前にある国旗掲揚ポール (こっきけいようぽーる)の下部です。



写真FE: 神楽殿の前の日章旗と国旗掲揚ポールです。



写真FF: 鹿児島県 霧島市にある霧島神宮の「神楽殿 (かぐらでん)」です。



写真FG: 神楽殿の近くです。 石の柵 (さく)と赤い灯明 (とうみょう)があります。



写真FH: 柵 (さく)の奥は一段低い所になっています。



写真FI: 霧島神宮の神楽殿です。



写真FJ: 霧島神宮の神楽殿 (かぐらでん)。



写真FK: 神楽殿の前の様子 (ようす)です。



写真FL: 神楽殿の近くにある石の柵 (さく)、赤い灯明 (とうみょう)です。



写真FM: 「神楽殿」と書いてある額 (がく)が神楽殿の入り口にあります。



写真FN: 神楽殿の中を見たものです。



写真FO: 神楽殿の中です。 菊の御紋 (ごもん)が付いたお賽銭箱 (さいせんばこ)もあります。 左に御幣 (ごへい)が見えます。 中には明 (あ)かりがついています。



写真FP: 来た通路を振り返ったものです。



写真FQ: 通路のそばに消防のホース格納庫と消火栓 (せん)があります。



写真FR: 通路のそばにある大きな杉の木です。 右には手水舎 (ちょうずや)があります。



写真FS: 霧島神宮の神木 (杉の木)です。 手水舎 (ちょうずや)の近くにあります。



写真FT: 杉の木の神木の中部です。



写真FU: 神木の上部です。



写真FV: 霧島神宮の御手洗 (みたらい)です。



写真FW: 手水舎 (ちょうずや)のそばにある石です。 奥に御神籤 (おみくじ)を売る小型の建物、赤い灯明 (とうみょう)、御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付けるところも見えます。 奥の右端は御札 (おふだ)、お守り、鈴などを販売している建物です。



写真FX: 手水舎 (ちょうずや)の上部です。



写真FY: 右端は手水舎 (ちょうずや)、門守神社、社殿などが見えます。 鹿児島県 霧島市にある霧島神宮です。



写真FZ: 御札 (おふだ)、お守り、鈴などを販売している建物 (授与所)、御神籤 (おみくじ)を売っている小型の建物、赤い灯明 (とうみょう)、石の柵 (さく)も見えます。



写真GA: 赤い灯明 (とうみょう)、御神籤 (おみくじ)を縛り付けるところなどが見えます。



写真GB: 霧島神宮の立木です。



写真GC: 杉の神木の下部です。 このようになっています。



写真GD: 左端は手水舎 (ちょうずや)、奥に小さく赤い神楽殿が見えます。



写真GE: 手水舎 (ちょうずや)の近くにある高い数本の杉の木です。



写真GF: 霧島神宮の御神籤 (おみくじ)を縛り付けるところです。 石灯籠 (いしどうろう)も見えます。
縛り付けられた御神籤 (おみくじ)の数は相当に多いと思います。



写真GG: 参道のそばに竹があります。



写真GH: 参道を戻 (もど)ります。



写真GI: 参道の敷石 (しきいし)は火成岩 (地下の溶融したマグマが地表または地下で固結してできた岩石です。)と思われます。 穴が多く開 (あ)いています。



写真GJ: 参道の奥にはじめの赤い三の鳥居 (とりい)が見えます。



写真GK: こちらの道を進みます。



写真GL: 霧島神宮の境内 (けいだい)です。



写真GM: はじめに見たオガタマノキです。



写真GN: お土産品店 (みやげひんてん、売店)と右に自動販売機の建物、バス駐車場が見えます。



写真GO: 霧島神宮にあるお土産品店 (みやげひんてん、売店)です。 手前にテーブルと椅子 (いす)、奥にお土産品が並 (なら)んでいます。



写真GP: 氷 (レモン、ハワイアンブルー、メロン、グレープ、いちご、オレンジ、青りんご)、コロッケなどをお土産品店 (売店)で販売しています。 左に自動販売機もあります。



写真GQ: はじめの広い第2駐車場に戻 (もど)ってきました。



写真GR: 「霧島神宮斎田 (さいでん、神に供 (そな)える米を栽培 (さいばい)する田)」です。 霧島神宮の近くにあります。 右は車道です。



写真GS: 「霧島神宮斎田 (さいでん、神に供 (そな)える米を栽培する田)」と書いてある標柱 (標識棒)があります。 奥が霧島神宮の斎田です。 黄色に実 (みの)っています。 奥に建物が見えます。



写真GT: 斎田の近くに白い紙の御幣 (ごへい)を立ててあります。 右は車道です。



写真GU: 御幣 (ごへい)と「霧島神宮斎田」と書いてある標識棒 (標柱)です。



写真GV: 斎田 (さいでん)のそばにある建物、道なども見えます。



写真GW: 霧島神宮の斎田 (さいでん)の近くの道と建物です。



写真GX: ドングリが道に落ちていました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)