霧島東神社、御池 (みいけ) (高千穂峰山頂にある天之逆鉾は霧島東神社の社宝、龍柱、寛文6年 (1666年)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の扁額 (へんがく)、神龍の泉 「忍穂井」、天台宗の僧 性空上人の像、神習館 霧島山大権現東道場 錫杖院門跡、史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地、霧島六社権現の一つである霧島東神社、霧島山大権現東御在所之宮、霧島修験、高千穂峰の霧島東神社登山口、御池 皇子港、御池キャンプ村、御池 野鳥の森、小池、霧島山、霧島連山、霧島山系、高千穂峰の展望)  (宮崎県 西諸県郡 高原町 大字蒲牟田)







<標高、位置>  火山湖の「御池 (みいけ)」は
標高 約320 m
 北緯31度53分01秒  東経130度58分13秒

<標高、位置>  霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)は
標高 約460 m
 北緯31度53分30秒  東経130度57分43秒


 「霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)」は宮崎県 西諸県郡 高原町 大字蒲牟田 6437 にあります。
 「霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)」の説明板から、
 イザナギノミコト、イザナミノミコトを主祭神として祀 (まつ)り、第10代崇神天皇 (BC 97年即位)の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。 明治13年に霧島神宮摂社 兼郷社に列し、昭和9年県社に昇格しました。 天暦年間 (947年〜957年)に天台宗の僧、性空上人 (しょうくうしょうにん)が神社のかたわらに別当寺である錫杖院 (しゃくじょういん)を建立 (こんりゅう)し、霧島六社権現 (きりしまろくしゃごんげん)のひとつとして霧島山で神意仏身を崇 (あが)める修行を行う修験者たちの拠点となった。 当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修験の興隆 (こうりゅう)に伴い社寺ともに栄えた。
 度重(たびかさ)なる霧島山の噴火により復興造営を経て今に至 (いた)る。 殿内奥には雌雄一対(いっつい)の龍柱が祀 (まつ)られ、正面には寛文6年 (1666年)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の扁額 (へんがく、門戸・室内などにかける細長い額 (がく)のことです。)が納 (おさ)められている。 境内 (けいだい)は65757坪です。
例大祭 11月8日・9日
毎年12月には真剣を用 (もち)いて舞う祓川(はらいがわ)神楽が奉納されます。 この神楽 (かぐら)は国指定の重要無形民族文化財に指定されています。 多い時には360名を越す山伏行者 (修験者)が、山内に宿坊を営みつつ社寺の護持に勤めたといわれます。

 「性空上人 (しょうくうしょうにん)」は天台宗の比叡山 (ひえいざん)の僧です。 10歳で仏門に入りました。 27歳で悟 (さとり)を開きました。 その後父を亡くし、日向国生まれだった母と共に日向国に下りました。 性空上人は20歳後半から4〜5年間を霧島山中で修行しました (天慶年間 (938-947年)〜天暦年間 (948-957年))。 霧島山を天台宗の山としました。 霧島六所権現 (霧島六社権現)は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置されました。

 「天之逆鉾 (あまのさかほこ)」の説明板から、
 高千穂峰 (1574 m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝として祀 (まつ)られている。 イザナギノミコト、イザナミノミコトが高天原 (たかまがはら)から鉾 (ほこ)を差しおろし、かき混ぜて作った国土に、逆 (さか)さに突き立てたものと伝えられる。 また、天孫降臨の際にニニギノミコトが天照大御神 (あまてらすおおみかみ)から授 (さず)かった鉾ともいう。 実際に祀 (まつ)られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀 (まつ)ったとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。 霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞 (あまご)いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。

 「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」は霧島東神社の境内 (けいだい)にあります。
 「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」の説明板から、
 (錫杖 (しゃくじょう)とは僧侶・修験者が持つ杖 (つえ)で、頭部は錫 (すず)で作り、数個の鐶 (かん)を掛ける。)
平成13年12月13日指定
 錫杖院は、正式名を霧島山大権現東光坊花林寺 錫杖院を称 (しょう)された、霧島山東御在所両所権現社 (現在の霧島東神社)の別当寺である。
 霧島六所権現 (霧島六社権現)は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置された。 錫杖院もその1つで、東御在所権現社 (霧島六社権現)と共に栄えたが、文暦元年 (1234年)の霧島山の大噴火により焼失した。 その後、文明18年 (1468年)薩摩国の島津忠昌が真言僧を遣 (つか)わして復興させ、一時期 日向国の伊東 氏に支配された他は、島津 氏の統治下に入った。 高千穂峰や御池も錫杖院の境内 (けいだい)とされ、峰に登る際は、必ず当寺に参詣 (さんけい)するなど、社寺共に繁栄していたが、慶応4年 (1868年)4月、廃寺となった (廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))。
この墓地には、錫杖院代々の住持が眠り、その墓石に自然石を用いているのが特徴である。 その他、錫杖院中興の祖である真言僧 円政の墓と思われる五輪塔や、伊東 方の修験者として当地を支配した池郷民部の墓などがある。

 第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって「霧島六所神社権現」が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。

 火山湖の「御池 (みいけ)」は宮崎県 西諸県郡 高原町 蒲牟田 御池 にあります。
御池は高千穂峰(標高 1574 m)の麓(ふもと)にあり、周囲 4.3 km、最大水深 103 m、水面の標高 305 mの火山湖です。 日本で一番深い火山湖です。 霧島連山で一番大きな火山湖です。 約4200年前にできた噴火口に湧き水(わきみず)がたまって火山湖が出来ました。 この湖畔(こはん)には御池キャンプ村があります。 コイ、フナ、ニジマス、ブラックバス、ハエなどの釣り客が各地から来ます。 御池と小池のまわりの約115 ha は昭和47年に「野鳥の森」に指定されています。 ヤイロチョウ、オオルリ、キビタキなど約130種の野鳥がいて、バードウォッチングで人気がある場所です。 1周4 km (約1時間)の遊歩道があり、カシ類、タブ、イスなどの樹木があります。 森林浴、皇子港にはボートがあり魚釣りを楽しめます。 オシドリ、コガモ、トモエガモなどの水鳥も湖面にいます。 神武天皇が幼少の頃に御池 (みいけ)で遊んだという伝承があります。

 「霧島屋久国立公園」の説明版から、
 宮崎・鹿児島両県にまたがる霧島山系は、昭和9年にわが国初の国立公園に指定されました。 22座の単式火山、ミヤマキリシマの群落やアカマツ、モミツガなどの自然林、アカショウビン、ヤイロチョウなどの野鳥を見ることができます。

 「高千穂峰(たかちほのみね)」は宮崎県と鹿児島県の県境近くにある標高 1573.4 mの複合火山、成層火山で、西に活火山の御鉢(おはち)、東に二子石(ふたごいし、二ツ石(ふたついし)とも呼ぶ)の寄生火山を持っていて霧島屋久国立公園に属しています。 高千穂河原コースで登るときには、これが第2の難所です。 直登(真っ直ぐ登ること)のザレ場、ガレ場があります。 霧島連山の内、韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)に次いで2番目に高い山です。 高千穂峰は約1万年前に出来ました。 天孫降臨(てんそんこうりん)神話の地の一つ(もう一つは宮崎県高千穂町)で、山頂に青銅(あるいは銅)製の天之逆鉾(あまのさかほこ)がご神体として立っています。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 霧島連山は雲海の中に山頂部が島のように見えることから名づけられたとも言われています。 山頂が宮崎県都城市と宮崎県西諸県郡高原町のどちらに属するかは確定していませんが、山頂は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田1番地です。 山頂部は霧島東神社の飛び地境内(けいだい)です。


写真A: 国道223号線沿 (ぞ)いにある御池 (みいけ)の駐車場からみた、御池と高千穂峰の東肩にある二子石という山です。
火山湖の「御池 (みいけ)」は宮崎県 西諸県郡 高原町 蒲牟田 御池 にあります。 霧島連山で一番大きな火山湖です。 右手前に「霧島バードライン」と書いてある子供2人の像、左手前にベンチも見えます。 西を見たものです。 御池には御池キャンプ場、御池野鳥の森、小池という池もあります。



写真B: 御池 (みいけ)が見える駐車場です。 説明板、柵 (さく)、子供2人の像などがあります。



写真C: 駐車場の先は国道223号線です。 右に行くと高千穂牧場、霧島神宮などに行きます。 左に行くと、すぐ近くに霧島東神社に左折していく道、皇子原公園 (おうじばるこうえん)、狭野神社 (さのじんじゃ)、小林市などに行きます。



写真D: 東を見たものです。 左右に国道223号線が通っています。 手前は駐車場です。



写真E: 国道223号線のトラックが見えます。 トラックのそばから右に下る道があります。 その道は御池の「皇子港」に降りる道です。 皇子港ではボートにも乗ることができます。



写真F: 宮崎県 高原町にある「御池」の駐車場です。



写真G: 駐車場のベンチ、柵 (さく)です。



写真H: 霧島連山で一番大きな火山湖である「御池」と二子石という山です。



写真I: 「霧島バードライン」と書いてある2人の子供の像です。 駐車場にあります。



写真J: 駐車場にある説明板です。 御池 (みいけ)、小池、霧島東神社、国道223号線が載 (の)っています。



写真K: 御池の駐車場から少し小林市の方に進んだ所に三叉路 (さんさろ)があります。 ここを左折して霧島東神社、御池キャンプ場、御池野鳥の森に行きます。 右に「←霧島東神社、高千穂峰 登山口」の標識、左に「↑皇子原公園 5 km」、「←御池野鳥の森、キャンプ場」の標識もあります。



写真L: ここを先に進んで霧島東神社に行きます。 「←御池キャンプ村 入口」の看板 (かんばん)が見えます。 右は国道223号線です。



写真M: 国道223号線に「←霧島東神社、高千穂峰 登山口」の標識があります。



写真N: 「↑皇子原公園 5 km」、「←御池野鳥の森、キャンプ場」の標識もあります。



写真O: このあたりは登り坂になっています。 先に進みます。



写真P: ここは広くなっています (十字路)。 右に進むと霧島東神社、左に進むと御池キャンプ場、御池野鳥の森に行きます。 奥に看板 (かんばん)があります。



写真Q: 右に進むと霧島東神社に行きます。



写真R: 来た道を振 (ふ)り返ったもの。 先に行くと国道223号線があります。



写真S: この道を下ると御池キャンプ場、御池野鳥の森、御池があります。 朝が早いのでまだ鎖 (くさり)が見えます。 広場 (十字路)の近くです。



写真T: 「←御池キャンプ村 入口」の看板 (かんばん)もあります。



写真U: 「御池キャンプ村」の標柱もあります。



写真V: 「ウォーキングモデルコース」の地図があります。 「←野鳥の森 1.3 km」、「←小池 3.1 km」、「霧島東神社 1.1 km →」の看板もあります。



写真W: 十字路の一つの道です。



写真X: 来た道です。



写真Y: 十字路の霧島東神社に行く道です。 「霧島東神社→」の標識もあります。 竹林があります。



写真Z: 「霧島東神社→」の標識です。



写真AA: この道を進んで霧島東神社に行きます。



写真AB: 宮崎県 高原町の霧島東神社にある「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」と説明板です。 錫杖 (しゃくじょう)とは僧侶・修験者が持つ杖 (つえ)で、頭部は錫 (すず)で作り、数個の鐶 (かん)を掛ける。  霧島東神社の駐車場の近くにあります。



写真AC: 「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」の説明板があります。 錫杖 (しゃくじょう)とは僧侶・修験者が持つ杖 (つえ)で、頭部は錫 (すず)で作り、数個の鐶 (かん)を掛ける。
平成13年12月13日指定
 錫杖院は、正式名を霧島山大権現東光坊花林寺 錫杖院を称 (しょう)された、霧島山東御在所両所権現社 (現在の霧島東神社)の別当寺である。
 霧島六所権現は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置された。 錫杖院もその1つで、東御在所権現社と共に栄えたが、文暦元年 (1234年)の霧島山の大噴火により焼失した。 その後、文明18年 (1468年)薩摩国の島津忠昌が真言僧を遣 (つか)わして復興させ、一時期 日向国の伊東 氏に支配された他は、島津 氏の統治下に入った。 高千穂峰や御池も錫杖院の境内 (けいだい)とされ、峰に登る際は、必ず当寺に参詣 (さんけい)するなど、社寺共に繁栄していたが、慶応4年 (1868年)4月、廃寺となった (廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))。
この墓地には、錫杖院代々の住持が眠り、その墓石に自然石を用いているのが特徴である。 その他、錫杖院中興の祖である真言僧 円政の墓と思われる五輪塔や、伊東 方の修験者として当地を支配した池郷民部の墓などがある。
平成14年3月31日 高原町教育委員会
と書かれています。



写真AD: 「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」の説明板があります。 錫杖 (しゃくじょう)とは僧侶・修験者が持つ杖 (つえ)で、頭部は錫 (すず)で作り、数個の鐶 (かん)を掛ける。
平成13年12月13日指定
 錫杖院は、正式名を霧島山大権現東光坊花林寺 錫杖院を称 (しょう)された、霧島山東御在所両所権現社 (現在の霧島東神社)の別当寺である。
 霧島六所権現は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置された。 錫杖院もその1つで、東御在所権現社と共に栄えたが、文暦元年 (1234年)の霧島山の大噴火により焼失した。 その後、文明18年 (1468年)薩摩国の島津忠昌が真言僧を遣 (つか)わして復興させ、一時期 日向国の伊東 氏に支配された他は、島津 氏の統治下に入った。 高千穂峰や御池も錫杖院の境内 (けいだい)とされ、峰に登る際は、必ず当寺に参詣 (さんけい)するなど、社寺共に繁栄していたが、慶応4年 (1868年)4月、廃寺となった (廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))。
この墓地には、錫杖院代々の住持が眠り、その墓石に自然石を用いているのが特徴である。 その他、錫杖院中興の祖である真言僧 円政の墓と思われる五輪塔や、伊東 方の修験者として当地を支配した池郷民部の墓などがある。
平成14年3月31日 高原町教育委員会
と書かれています。



写真AE: 「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」の説明板があります。 錫杖 (しゃくじょう)とは僧侶・修験者が持つ杖 (つえ)で、頭部は錫 (すず)で作り、数個の鐶 (かん)を掛ける。
平成13年12月13日指定
 錫杖院は、正式名を霧島山大権現東光坊花林寺 錫杖院を称 (しょう)された、霧島山東御在所両所権現社 (現在の霧島東神社)の別当寺である。
 霧島六所権現は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置された。 錫杖院もその1つで、東御在所権現社と共に栄えたが、文暦元年 (1234年)の霧島山の大噴火により焼失した。 その後、文明18年 (1468年)薩摩国の島津忠昌が真言僧を遣 (つか)わして復興させ、一時期 日向国の伊東 氏に支配された他は、島津 氏の統治下に入った。 高千穂峰や御池も錫杖院の境内 (けいだい)とされ、峰に登る際は、必ず当寺に参詣 (さんけい)するなど、社寺共に繁栄していたが、慶応4年 (1868年)4月、廃寺となった (廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))。
この墓地には、錫杖院代々の住持が眠り、その墓石に自然石を用いているのが特徴である。 その他、錫杖院中興の祖である真言僧 円政の墓と思われる五輪塔や、伊東 方の修験者として当地を支配した池郷民部の墓などがある。
平成14年3月31日 高原町教育委員会
と書かれています。



写真AF: 「史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地」は霧島東神社の駐車場のそばにあります。 古い墓、石灯籠 (いしどうろう)、説明版も見えます。 手前は車道 (参道)です。



写真AG: 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地に五輪塔があります。 錫杖院中興の祖である真言僧 円政の墓と思われる五輪塔です。 花を供 (そな)えてあります。



写真AH: 台の上に自然石の墓があります。 花を供 (そな)えてあります。



写真AI: 多くの自然石などの墓石があります。 錫杖院代々の住職の墓です。



写真AJ: 自然石の墓があります。



写真AK: 高原町にある霧島東神社の駐車場です。 奥に赤い灯明 (とうみょう)、石段、車、説明版も見えます。



写真AL: 右奥の道を進むと高千穂峰の登山道があります。 車止めのロープが見えます。 手前は駐車場です。



写真AM: 来た道を振り返ったものです。 左に史跡 錫杖院 (しゃくじょういん) 墓地が見えています。



写真AN: これが高千穂峰の登山道です。 手前は霧島東神社の駐車場です。 左に階段を降りてきた2人の参拝者が見えます。



写真AO: 「←登山口」、「←高千穂峰、九州自然歩道 環境庁 宮崎県 標高 500 m、→御池 1.3 km」の標識があります。 右に「九州自然歩道 0.0 km」の標柱もあります。



写真AP: この道を先に進むと「高千穂峰の登山口」があります。 車止めのロープがあります。



写真AQ: 霧島東神社の駐車場です。



写真AR: 「九州自然歩道の案内」の説明版があります。
霧島屋久国立公園、霧島東神社、現在地、二子石、高千穂峰、御池、小池などが載 (の)っています。



写真AS: 「霧島屋久国立公園」の説明版です。
 宮崎・鹿児島両県にまたがる霧島山系は、昭和9年にわが国初の国立公園に指定されました。 22座の単式火山、ミヤマキリシマの群落やアカマツ、モミツガなどの自然林、アカショウビン、ヤイロチョウなどの野鳥を見ることができます。
環境庁 宮崎県
と書いてあります。



写真AT: 車の奥が来た参道で、左に高千穂峰の登山口が見えます。 手前は駐車場です。



写真AU: 「九州自然歩道案内図」があります。 「御神木 厳重警戒中 広域監視暗視カメラ作動中 宮崎県神社庁西諸県支部」の看板もあります。



写真AV: 奥に赤い鳥居 (とりい)が見えます。 赤い灯明 (とうみょう)、石段、屋根、自動車も見えます。 霧島東神社。



写真AW: 建物、赤い鳥居 (とりい)、赤い灯明 (とうみょう)などがあります。



写真AX: 外灯、建物、赤い鳥居 (とりい)も見えます。



写真AY: 「霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)」の説明板があります。
 イザナギノミコト、イザナミノミコトを主祭神として祀 (まつ)り、第10代崇神天皇 (BC 97年即位)の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。 天暦年間 (947年〜957年)に天台宗の僧、性空上人 (しょうくうしょうにん)が神社のかたわらに別当寺である錫杖院 (しゃくじょういん)を建立 (こんりゅう)し、霧島六社権現 (きりしまろくしゃごんげん)のひとつとして霧島山で神意仏身を崇 (あが)める修行を行う修験者たちの拠点となった。 当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修験の興隆 (こうりゅう)に伴い社寺ともに栄えた。
 度重(たびかさ)なる霧島山の噴火により復興造営を経て今に至 (いた)る。 殿内奥には雌雄一対(いっつい)の龍柱が祀 (まつ)られ、正面には寛文6年 (1666年)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の扁額 (へんがく、門戸・室内などにかける細長い額 (がく)のことです。)が納 (おさ)められている。
例大祭 11月8日・9日
と書かれています。

「天之逆鉾 (あまのさかほこ)」の説明板があります。
 高千穂峰 (1574 m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝として祀 (まつ)られている。 イザナギノミコト、イザナミノミコトが高天原 (たかまがはら)から鉾 (ほこ)を差しおろし、かき混ぜて作った国土に、逆 (さか)さに突き立てたものと伝えられる。 また、天孫降臨の際にニニギノミコトが天照大御神 (あまてらすおおみかみ)から授 (さず)かった鉾ともいう。 実際に祀 (まつ)られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀 (まつ)ったとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。 霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞 (あまご)いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。
と書かれています。



写真AZ: 「霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)」の説明板。
 イザナギノミコト、イザナミノミコトを主祭神として祀 (まつ)り、第10代崇神天皇 (BC 97年即位)の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。 天暦年間 (947年〜957年)に天台宗の僧、性空上人 (しょうくうしょうにん)が神社のかたわらに別当寺である錫杖院 (しゃくじょういん)を建立 (こんりゅう)し、霧島六社権現 (きりしまろくしゃごんげん)のひとつとして霧島山で神意仏身を崇 (あが)める修行を行う修験者たちの拠点となった。 当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修験の興隆 (こうりゅう)に伴い社寺ともに栄えた。
 度重(たびかさ)なる霧島山の噴火により復興造営を経て今に至 (いた)る。 殿内奥には雌雄一対(いっつい)の龍柱が祀 (まつ)られ、正面には寛文6年 (1666年)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の扁額 (へんがく、門戸・室内などにかける細長い額 (がく)のことです。)が納 (おさ)められている。
例大祭 11月8日・9日
と書かれています。

「天之逆鉾 (あまのさかほこ)」の説明板があります。
 高千穂峰 (1574 m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝として祀 (まつ)られている。 イザナギノミコト、イザナミノミコトが高天原 (たかまがはら)から鉾 (ほこ)を差しおろし、かき混ぜて作った国土に、逆 (さか)さに突き立てたものと伝えられる。 また、天孫降臨の際にニニギノミコトが天照大御神 (あまてらすおおみかみ)から授 (さず)かった鉾ともいう。 実際に祀 (まつ)られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀 (まつ)ったとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。 霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞 (あまご)いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。
と書かれています。



写真BA: 「霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)」の説明板があります。
 イザナギノミコト、イザナミノミコトを主祭神として祀 (まつ)り、第10代崇神天皇 (BC 97年即位)の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。 天暦年間 (947年〜957年)に天台宗の僧、性空上人 (しょうくうしょうにん)が神社のかたわらに別当寺である錫杖院 (しゃくじょういん)を建立 (こんりゅう)し、霧島六社権現 (きりしまろくしゃごんげん)のひとつとして霧島山で神意仏身を崇 (あが)める修行を行う修験者たちの拠点となった。 当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修験の興隆 (こうりゅう)に伴い社寺ともに栄えた。
 度重(たびかさ)なる霧島山の噴火により復興造営を経て今に至 (いた)る。 殿内奥には雌雄一対(いっつい)の龍柱が祀 (まつ)られ、正面には寛文6年 (1666年)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の扁額 (へんがく、門戸・室内などにかける細長い額 (がく)のことです。)が納 (おさ)められている。
例大祭 11月8日・9日
と書かれています。

「天之逆鉾 (あまのさかほこ)」の説明板があります。
 高千穂峰 (1574 m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝として祀 (まつ)られている。 イザナギノミコト、イザナミノミコトが高天原 (たかまがはら)から鉾 (ほこ)を差しおろし、かき混ぜて作った国土に、逆 (さか)さに突き立てたものと伝えられる。 また、天孫降臨の際にニニギノミコトが天照大御神 (あまてらすおおみかみ)から授 (さず)かった鉾ともいう。 実際に祀 (まつ)られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀 (まつ)ったとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。 霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞 (あまご)いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。
と書かれています。



写真BB: 霧島東神社の境内 (けいだい)から見た御池 (みいけ)です。 御池は火山湖です。



写真BC: 霧島東神社の境内 (けいだい)。 奥に赤い鳥居 (とりい)、建物、左に柵 (さく)があります。



写真BD: 霧島東神社から見える景色です。 御池 (みいけ)の水面が見えます。 左に湖岸の皇子港が白っぽく見えています。 皇子港にはボートもあります。



写真BE: 霧島東神社からの風景です。 左に御池が見えます。



写真BF: 右に赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真BG: 鳥居と建物です。



写真BH: 木の奥に建物があります。



写真BI: 霧島東神社の境内です。 電柱があります。



写真BJ: 来た道 (参道)を振り返ったものです。 左に階段、電柱、赤い灯明、駐車場の白い車も見えます。



写真BK: 少なくとも6重の山並み (やまなみ)が見えます。 左は御池です。 霧島東神社から。



写真BL: 宮崎県 高原町にある霧島東神社から見た御池 (みいけ)です。



写真BM: 下の方の湖岸の白っぽく見えるところは御池の皇子港です。



写真BN: 建物の入り口に「神習館 霧島山大権現東道場 錫杖院門跡」と書いてあります。



写真BO: 屋根の下に飾りがあります。 横木に象の彫(ほ)り物があります。



写真BP: 立派な屋根の建物です。 「神習館 霧島山大権現東道場 錫杖院門跡」と書いてあります。



写真BQ: 霧島東神社の建物です。



写真BR: 右手にも建物があります。



写真BS: 「神習館 霧島山大権現東道場 錫杖院門跡」と書いてあります。 奥に「霧島東神社」と書いてある額 (がく)の上に白い鳥の彫 (ほ)り物があります。 しめ縄、御幣 (ごへい)も見えます。



写真BT: 「霧島東神社」と書いてある額 (がく)の上に白い鳥の彫り物があります。



写真BU: 黒曜石 (こくようせき)が置いてあります。



写真BV: 境内に国旗掲揚 (こっきけいよう)のポールがあります。



写真BW: 霧島東神社の赤い鳥居 (とりい)です。



写真BX: 霧島東神社の境内 (けいだい)です。



写真BY: 神習館の左手の建物です。



写真BZ: 鳥居 (とりい)の下部です。



写真CA: このあたりは登り坂になっています。 赤い灯明 (とうみょう)が並 (なら)んでいます。



写真CB: 奥に赤い社 (やしろ)があります。



写真CC: 霧島東神社にある神龍の泉 「忍穂井」の建物などが見えます。



写真CD: 神龍の泉 「忍穂井」の建物です。



写真CE: 「奉献 昭和56年9月 神龍の泉社 宮崎市 氏名」の石碑 (せきひ)と「神龍の泉 「忍穂井」」の看板 (かんばん)があります。



写真CF: 「神龍の泉 「忍穂井」」の看板 (かんばん)があります。
鹿児島藩 名勝考 巻ノ七 (鹿児島大学図書館蔵)
 この池は龍神の安息池にして太古より霊泉として効験あらたかなり されど東方よりこの池に女人の影が映ずれば 忽 (たちま)ち異変ありと伝へらる (一名 鏡井ともいう)
と書いてあります。



写真CG: 神龍の泉 「忍穂井」の社 (やしろ)です。 建物の中に泉があります。 しめ縄、御幣 (ごへい)、お賽銭箱 (さいせんばこ)もあります。



写真CH: 神龍の泉 「忍穂井」の社 (やしろ)です。



写真CI: 「古来、神龍安息の池にして、霧島48池中、御池と陰陽の対 (つい)をなす霊泉とされる。 再拝の念を以 (も)って汲 (く)み出 (いで)だしたる神水は、些 (いささ)かも不敬の扱 (あつか)いあるべからす。」と書いてあります。



写真CJ: この中に神龍の泉 「忍穂井」があります。



写真CK: これが神龍の泉 「忍穂井」です。 泉の水が見えます。 宮崎県 高原町にある霧島東神社。



写真CL: 神龍の泉 「忍穂井」です。 上に御幣 (ごへい)があります。



写真CM: 左にも泉があります。 これも神龍の泉 「忍穂井」と思われます。



写真CN: 左の神龍の泉 「忍穂井」です。 泉の水が見えます。



写真CO: 見事 (みごと)に根を張 (は)った木が神龍の泉 「忍穂井」の近くにあります。 手前に石柱が見えます。



写真CP: 石段が見えます。 赤い灯明 (とうみょう)もあります。



写真CQ: 宮崎県 高原町にある霧島東神社の手水舎 (ちょうずや)です。



写真CR: 「奉納」と彫 (ほ)ってある御手洗 (みたらい)です。 竹製の龍の形をした物から水が流れ出ています。 龍の角 (つの)、赤い目も付いています。



写真CS: 石段を登っていきます。 奥に石灯籠 (いしどうろう)、建物、赤い灯明 (とうみょう)も見えます。



写真CT: 左にしめ縄、御幣 (ごへい)、石灯籠 (いしどうろう)が見えます。 遥拝所 (ようはいしょ、遠くから拝 (おが)むところ。)と思われます。



写真CU: ここが祭事 (神事)が行われる場所と思われます。



写真CV: 「開山 性空上人」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。



写真CW: 「開山 性空上人」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)。 ロウソク、湯呑 (の)みが供 (そな)えてあります。



写真CX: 「開山 性空上人」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真CY: 赤い神門が見えます。 高原町の霧島東神社です。



写真CZ: 2本の杉の木が神門の前にあります。



写真DA: 杉の木にしめ縄を巻いてあります。 右は神門です。



写真DB: 神門の前にある2本の杉の木の上部です。



写真DC: 2本の杉の木の間に小さな石の「神橋」があります。



写真DD: 神門のそばから見た景色です。 枯れ木 (かれき)もあります。 遠くの山も見えます。



写真DE: 宮崎県 西諸県郡 高原町 大字蒲牟田 6437 にある霧島東神社の神門です。 横木の端 (はし)に象の彫 (ほ)り物があります。 しめ縄、御幣 (ごへい)も見えます。



写真DF: 神門の下部です。 右端は杉の木です。



写真DG: 神門の左のほうです。



写真DH: 神門の右の方です。



写真DI: 霧島東神社の社紋 (しゃもん)です。



写真DJ: 神門をくぐって、奥の石段の上に拝殿が見えてきました。 右はお守り、御札 (おふだ)、御神籤 (おみくじ)なども販売している祈願受付所です。 下は石畳 (いしだたみ)、左は砂利 (じゃり)になっています。 右に熊笹 (くまざさ)があります。 高原町にある霧島東神社。



写真DK: 祈願受付所と手前の杉の木です。



写真DL: 木に御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付けてあります。



写真DM: 内側から見た神門です。 左は祈願受付所です。



写真DN: 高い杉の木が神門の近くにあります。 下は神門の屋根です。



写真DO: 神門の近くにある高い杉の木です。



写真DP: 御神籤 (おみくじ)、御札 (おふだ)、お守りなどを販売しています。



写真DQ: 霧島東神社の社宝である天之逆鉾 (あまのさかほこ)のお守り、鈴、各種のお守りを販売しています。



写真DR: 右端の拝殿の方に進みます。 左の猿田彦神社 (さるたひこじんじゃ)の右に赤い灯明 (とうみょう)も見えます。



写真DS: イチョウの実 (銀杏 (ぎんなん))が参道に落ちていました。



写真DT: 参道の左手にある猿田彦神社の中です。 鏡、しめ縄、御幣 (ごへい)、お賽銭箱 (さいせんばこ)もあります。



写真DU: 石段の上に拝殿、石灯籠 (いしどうろう)、灯明、左右の赤い末社 (一対 (いっつい)の門守社)などが見えます。 霧島東神社。



写真DV: 拝殿、石段、石灯籠 (いしどうろう)、赤い末社も (門守社)あります。



写真DW: 奥まった所に社殿が見えます。 灯明に灯りが灯 (とも)っています。



写真DX: 末社 (門守社)があります。



写真DY: こちらにも末社 (門守社)があります。



写真DZ: 石段の下から見上げた霧島東神社の拝殿です。 灯明に明かりが見えます。



写真EA: 石段の上から振 (ふ)り返ったもの。 神門も見えます。



写真EB: 宮崎県 西諸県郡 高原町 大字蒲牟田 6437 にある霧島東神社の拝殿です。



写真EC: 高原町にある霧島東神社の拝殿です。



写真ED: 霧島東神社の拝殿を左から見たものです。 他の参拝者も見えます。



写真EE: 霧島東神社の拝殿。 手前に2つの金属製のロウソク立てがあります。 しめ縄、御幣 (ごへい)も見えます。



写真EF: 拝殿にかかっている額 (がく)です。
拝殿の正面には寛文6年 (1666年、関ヶ原の戦いの66年後)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の扁額 (へんがく、門戸・室内などにかける細長い額 (がく)のことです。)が納 (おさ)められています。



写真EG: 拝殿の屋根裏です。 彫 (ほ)り物のある横木が見えます。 左手前はしめ縄、御幣 (ごへい)です。 右上に寛文6年 (1666年、関ヶ原の戦いの66年後)薩摩藩主 島津光久 公 寄進の「東霧島坐 (霧島の東に坐(いま)す)」の額 (がく)が見えます。



写真EH: 霧島東神社の拝殿にあるお賽銭箱 (さいせんばこ)です。 霧島東神社の社紋 (しゃもん)は独特のデザインだと思います。



写真EI: 高原町にある霧島東神社の拝殿の屋根裏。 牙 (きば)のある象の彫り物 (ほりもの)、その右に狛犬 (こまいぬ)の彫り物、美しい彫り物が見事です。



写真EJ: 霧島東神社の拝殿です。 左右の柱に狛犬 (コマイヌ)の彫り物があります。 柱にコマイヌの彫り物がある神社は割りと珍しいと思います。



写真EK: 拝殿の近くにあるロウソク立てです。 ステンレス製のようです。



写真EL: 天之逆鉾 (あまのさかほこ)の碑 (ひ)が拝殿の左手にあります。 高千穂峰の山頂にある本物の天之逆鉾はここ霧島東神社の社宝だそうです。 神主さんに話を伺 (うかが)うことができました。 御礼申し上げます。



写真EM: 霧島東神社にある天之逆鉾 (あまのさかほこ)の碑 (ひ)です。
「天の逆鉾下降記念」と彫 (ほ)ってあります。



写真EN: 登って来た石段の上部の方を見たものです。 末社、灯明の明 (あ)かりが見えます。



写真EO: 左は拝殿、右に灯明の明かりが見えます。



写真EP: 高原町にある霧島東神社の拝殿、幣殿です。



写真EQ: 中央に本殿、右に幣殿、拝殿が見えます。



写真ER: 霧島東神社の本殿の屋根です。 円筒形の5本の鰹木 (かつおぎ)と外切りの2組の千木 (ちぎ)が本殿屋根の上にあります。



写真ES: 宮崎県 高原町にある霧島東神社の本殿です。



写真ET: 本殿は柵 (さく)で囲 (かこ)まれています。



写真EU: 本殿の左にある脇社 (左社)です。 3本の鰹木 (かつおぎ)と2組の千木 (ちぎ)が見えます。 右は本殿です。



写真EV: 切り株 (かぶ)からまた木が芽を出して大きくなっています。 拝殿の左側にあります。 霧島東神社。



写真EW: 切り株 (かぶ)から大きくなった木です。



写真EX: 本殿の下部です。 左は赤い柵 (さく)です。



写真EY: 拝殿の近くに金属製の籠 (かご)が2つあります。 これはかがり火を炊 (た)く金属製の籠 (かご)を逆 (さか)さにしたものかもしれません。



写真EZ: 拝殿と本殿の間の部分です。 右は拝殿です。



写真FA: 拝殿の左の境内 (けいだい)です。 左奥は拝殿です。



写真FB: 拝殿の左側です。



写真FC: ここが、修験者が高千穂峰に登るときの登山口です。 2本の木の間にしめ縄、御幣 (ごへい)があります。 左は天之逆鉾 (あまのさかほこ)の碑 (ひ)です。 しめ縄の奥に石段が見えます。 ここは拝殿の左側です。



写真FD: 修験者の登山口です。 一般の登山者用の登山口は少し離 (はな)れた所にあります。 霧島東神社。



写真FE: 修験者用の登山口を少し進んだ登山道です。



写真FF: 宮崎県 西諸県郡 高原町 大字蒲牟田 6437 にある「霧島東神社 (きりしまひがしじんじゃ)」の拝殿の中です。



写真FG: 拝殿の中です。 奥の左右に有名な1対の「龍柱」が見えます。



写真FH: 霧島東神社の拝殿です。



写真FI: 霧島東神社の拝殿の中です。



写真FJ: ロウソク立てです。 奥は拝殿です。



写真FK: 拝殿の前の様子 (ようす)です。 灯明の間が登って来た石段の上部です。



写真FL: 右手から見た霧島東神社の拝殿です。



写真FM: 境内 (けいだい)の木の根が伸 (の)びています。



写真FN: 境内 (けいだい)です。



写真FO: 一段下にある建物の屋根が見えます。



写真FP: 右から見た霧島東神社の拝殿です。



写真FQ: 右に本殿が見えます。 中央に幣殿、右端は末社です。



写真FR: 拝殿の近くから御池 (みいけ)が見えています。 手前に国旗掲揚ポール (こっきけいようぽーる)、建物の屋根が見えます。



写真FS: 霧島東神社の拝殿の近くから見た御池 (みいけ)です。 湖岸に明るく皇子港が見えます。 皇子港にはボートもあります。



写真FT: 拝殿の近くから見た御池 (みいけ)です。 水面が明るく見えています。



写真FU: 御池 (みいけ)と皇子港が見えます。 皇子港のボートも小さく見えます。 霧島東神社の拝殿の近くから。



写真FV: 手前に建物の屋根、国旗掲揚ポールがあります。 御池と皇子港も見えます。



写真FW: 拝殿の右手に歩道があります。 これを進むと性空上人の像、一般の登山者用の登山口 (高千穂峰への)があります。



写真FX: 右手から見た霧島東神社の社殿です。



写真FY: 霧島東神社の本殿と右に脇社 (右社)が見えます。



写真FZ: 右手にある脇社 (右社)です。 左は本殿。



写真GA: 右手の境内 (けいだい)です。



写真GB: 拝殿が見えます。



写真GC: 拝殿の上部です。 高い木が見えます。



写真GD: 拝殿から性空上人 (しょうくうしょうにん)の像、一般の人の高千穂峰登山口に行く道です。



写真GE: しばらく進むと広い広場が見えます。 中央に赤い灯明 (とうみょう)が2つ小さく見えている所に「性空上人の像」があります。 その手前に一般の人の「高千穂峰の霧島東神社登山口」があります。



写真GF: 左端に性空上人の像があります。 木に隠 (かく)れてここからは見えません。



写真GG: これが高千穂峰の「霧島東神社登山口」です。 「登山口」と書いてある看板 (かんばん)があります。 手前は舗装 (ほそう)してある歩道です。



写真GH: 「九州自然歩道 1 ここは霧島屋久国立公園です。 動植物や土石などは許可なく採取できません。 1 火気に注意しましょう。 1 ごみはもち帰りましょう。 環境庁 宮崎県」と書いてあります。 左に「登山口」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真GI: 高千穂峰の「霧島東神社登山口」です。 「山ヒル注意」の看板もあります。



写真GJ: 高千穂峰への「霧島東神社登山口」です。 手前は舗装 (ほそう)してある歩道です。



写真GK: 登山口から登山道を少し進んでみました。 このような登山道が続いています。



写真GL: 登山道に屋根付きの登山者名簿を入れた箱があります。



写真GM: 「大幡山岳会 登山者名簿 登山される方は必ず記入下さい。」と書いてあります。
「「山登りの際の2大鉄則」 途中 (とちゅう)で道がおかしいと感じたら必ず引き返しましょう! 道を迷った時は沢 (さわ)は絶対に下 (お)りないようにしましょう! 必ず守りましょう!」と書いた看板もあります。



写真GN: 登山道はこのようになっています。



写真GO: このあたりは木の間を登山道が通っています。



写真GP: 登山口の所に戻 (もど)ってきました。 奥に広場が見えます。



写真GQ: 高原町にある霧島東神社の「性空上人の像」です。 天暦年間 (947年〜957年)に天台宗の僧、性空上人 (しょうくうしょうにん)が神社のかたわらに別当寺である錫杖院 (しゃくじょういん)を建立 (こんりゅう)し、霧島六所権現 (霧島六社権現)のひとつとして霧島山で神意仏身を崇 (あが)める修行を行う修験者たちの拠点となった。 当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修験の興隆 (こうりゅう)に伴い社寺ともに栄えた。



写真GR: 広い広場の端 (はし)の方に性空上人の像があります。



写真GS: 性空上人の像の後ろに大きな木があります。



写真GT: 後ろの大きな木です。



写真GU: 赤い灯明 (とうみょう)、石段、御幣 (ごへい)も見えます。



写真GV: 大きな杖 (つえ)を右手に持った性空上人の像です。 左手にも何かを持っています。 左足を石の上に載せた立像です。 左に「性空上人」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。
「性空上人 (しょうくうしょうにん)」は天台宗の比叡山 (ひえいざん)の僧です。 10歳で仏門に入りました。 27歳で悟 (さとり)を開きました。 その後父を亡くし、日向国生まれだった母と共に日向国に下りました。 性空上人は20歳後半から4〜5年間を霧島山中で修行しました (天慶年間 (938-947年)〜天暦年間 (948-957年))。 霧島山を天台宗の山としました。 霧島六所権現 (霧島六社権現)は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置されました。



写真GW: 像の下にも「性空上人」と石に彫 (ほ)ってあります。
「性空上人 (しょうくうしょうにん)」は天台宗の比叡山 (ひえいざん)の僧です。 10歳で仏門に入りました。 27歳で悟 (さとり)を開きました。 その後父を亡くし、日向国生まれだった母と共に日向国に下りました。 性空上人は20歳後半から4〜5年間を霧島山中で修行しました (天慶年間 (938-947年)〜天暦年間 (948-957年))。 霧島山を天台宗の山としました。 霧島六所権現 (霧島六社権現)は、10世紀半ば、比叡山 (ひえいざん)の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置されました。



写真GX: 来た道を振り返ったものです。



写真GY: 性空上人の像の近くから見たものです。



写真GZ: 広場の奥に別の石像 (仏像)が見えます。



写真HA: この道を進むとはじめの駐車場に行きます。



写真HB: 大きな仏像があります。 神仏習合で神社と仏閣 (ぶっかく)が共存しているのだと思われます。



写真HC: 仏像の下部です。 広場の近くにあります。



写真HD: 来た道を振り返ったもの。 奥は広場です。



写真HE: 仏像の近くです。



写真HF: 奥にさらに別の仏像 (不動様)があります。 しめ縄、御幣 (ごへい)もあります。



写真HG: 建物の左に仏像が少し見えています。



写真HH: 石段と建物 (法栄殿)、石灯籠 (いしどうろう)が見えます。 右端は仏像です。



写真HI: 霧島東神社にある法栄殿です。 しめ縄、御幣 (ごへい)もあります。



写真HJ: 仏像 (不動様)です。 御幣 (ごへい)もあります。



写真HK: 「法栄殿」と書いてあります。



写真HL: 登ってきた石段を振り返ったもの。



写真HM: この石段を下 (くだ)ると駐車場に行きます。



写真HN: 奥に駐車場の車が見えます。



写真HO: 駐車場から登山口や広場、性空上人の像などに行く道です。



写真HP: はじめの駐車場に戻 (もど)ってきました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)