紙屋城跡 (かみやじょうあと) (城山橋(じょうやまばし)、宮崎市 高岡町 一里山にある西南戦争での西郷軍の18名の墓、小丸川発電所(揚水発電所)から続いている送電線鉄塔 (九州電力の小丸川幹線 91号、92号))  (宮崎県小林市 野尻町 大字紙屋 字城原、宮崎市 高岡町)







<標高、位置>  「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は
標高 約160 m
 北緯31度57分07秒  東経131度11分26秒

<標高、位置>  「西郷軍の墓 (18名)」は
標高 約180 m
 北緯31度57分44秒  東経131度12分03秒


 「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原 にあります。 丘陵にある城跡の北、西、南を秋社川(大淀川の支流 岩瀬川のさらに支流です。)が流れています。 東側に宮崎市高岡町と野尻町の境界にある谷があります。 紙屋城は南北に長く北側以外は崖(がけ)になっています。 城域は南北約 1400 m、東西約 600 m です。 紙屋城跡には空堀、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)が残っています。 5つの曲輪(くるわ、平らな所です。)と10の濠(ほり)がありました。 北から1〜3段目の濠は東西の谷まで伸びていて人工的なものです。 それ以外の濠は天然の地形を利用しています。 北側から5段目と6段目の濠のあいだには鐘撞堂(かねつきどう)がありました。 6段目と7段目の濠のあいだの4番目の曲輪の郭(かく)が本丸でした。 築城年代は不明ですが、築城者は伊東の家臣であった紙屋 氏です。 紙屋城第二の壕跡は市指定 史跡(昭和63年3月8日指定)です。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。 1578年(天正6年)、豊後(大分県)の大友(伊東の縁戚)と島津の高城川合戦(耳川の戦い)のときには島津義久と島津義弘がこの紙屋城で軍議を行ない合流しました。
 「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板から、
 紙屋城は、県内でも代表的な中世の連郭式山城であり、三方(東・西・南)を天然の要崖で囲まれ、北側には数多くの空堀が構築されていた。
 原地形保存が最もよいこの第二の空堀を市有地として取得し市指定の史跡文化財としたものである。 400余年前の空堀を再現するための調査を昭和62年に実施したところ、長さ(東西)120 m、幅 9 m、深さ 8 mの薬研堀で土塁(どるい)を有することが確認された。
 また、この城は戦国時代の拠点となり、天正5年(1577年)まで伊東48城の一つであったが、伊東義祐が島津義久に敗(やぶ)れ、豊後(ぶんご、大分県)に敗走した後は島津 氏の領有となった。
 天正5年の島津・伊東 最終戦や翌年(1578年) 島津と大友の決戦の時は総大将 義久が入城し、弟 義弘 軍などと合流し軍議した城でもあった。
 城の主郭は、この堀から南へ1000 m 奥の台地にあり、戦国の争奪戦を繰り返した。
 この中世の山城は元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。

 紙屋城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 それに紙屋城も含まれます。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 小林郷にある小林麓では上の馬場、下の馬場、向江馬場などの地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 「西郷軍の墓」のは宮崎県 宮崎市 高岡町 大字浦之名 一里山地区にあります。
西郷軍の墓の説明板から、
「道場敷地内より多数の遺骨を掘り出し祭ったものです。 高岡町史を見ると「明治10年8月頃、西南戦争で官軍と戦った18名の薩軍(西郷軍)の戦死者を葬ったと思われる」。」


写真A: 宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋を東西に通っている国道268号線です。 奥に進むと小林市、えびの市などに行きます。 手前に進むと宮崎市に行きます。 ここは少し登り坂になっています。 この先の十字路を左に曲がって「紙屋城跡」に行きます。
宮崎市 高岡町から小林市に入ってはじめの集落です。



写真B: 漆野原(うるしのばる)バス停の近くの交差点です。 左に曲がって「紙屋城跡」に行きます。 黄色のセンターラインの車道は国道268号線です。 左寄りに小さく「市指定史跡 紙屋城第2の壕跡 900 m ←」の標識が見えています。 西を見たもの。



写真C: この交差点を左(南東)に曲がります。 左に「精米所」の看板(かんばん)が目立ちます。 左寄りに「市指定史跡 紙屋城第2の壕跡 900 m ←」の標識も見えています。



写真D: 左に「精米所」の看板(かんばん)が目立ちます。 祠(ほこら)と思われる小さな建物のそばに「市指定史跡 紙屋城第2の壕跡 900 m ←」の標識も見えています。



写真E: 国道268号線との交差点に「市指定史跡 紙屋城第2の壕跡 900 m ←」の標識があります。



写真F: この交差点のそばに商店もあります。



写真G: 「吉松酒店」と書いてあります。 タバコと飲料水の自動販売機もあります。 みかん、農作物の種子なども販売しているのが見えます。



写真H: 「宝星ゴールド 吉松酒店」の看板があります。 交差点の近くです。 西を見たもの。



写真I: 国道268号線との交差点の近くです。 北を見たもの。



写真J: 国道268号線から曲がって南東に進む道があります。 この道を進みます。 右に「市指定史跡 紙屋城第2の壕跡 900 m ←」の標識が見えます。 南東を見たもの。



写真K: 東を見た景色です。 坂道を登っているトラックが見えます。 それが国道268号線です。 角(かど)に「シオノでんき」の店があります。



写真L: 南東を見たもの。 右に小さくバス停「漆野原 宮崎交通」が見えます。 この道を進みます。



写真M: バス停「漆野原 (うるしのばる) 宮崎交通」が国道268号線との交差点の近くにあります。



写真N: 交差点の近くにある「シオノでんき」店です。



写真O: 理髪店があります。 螺旋(らせん)の回転する理髪店の標識が見えます。 右はバス停「漆野原 宮崎交通」です。 国道268号線との交差点の近くです。 この道を進みます。



写真P: しばらく進むと右手に老人施設「笑和 一里山」があります。 実(じつ)は紙屋城跡に行く交差点が分からずに南東に行き過ぎたのです。 ところが西南戦争の時の墓を見つけました。



写真Q: 中央奥に西南戦争の西郷軍の人のいくつかの墓と説明板が見えています。 右は老人施設「笑和 一里山」です。 一里山は宮崎市 高岡町にある地名です。



写真R: 西南戦争の西郷軍の人のいくつかの墓と説明板が見えています。 「西郷軍の墓」のは宮崎県 宮崎市 高岡町 大字浦之名 一里山地区にあります。 このあたりは宮崎市と小林市の境界近くです。 紙屋城跡は小林市、西郷軍の墓(一里山)は宮崎市 高岡町にあります。



写真S: 明治10年8月頃、西南戦争で官軍と戦った18名の「薩軍(西郷軍)の戦死者の墓」です。 宮崎市 高岡町 一里山です。



写真T: 明治10年8月頃、西南戦争で官軍と戦った18名の「薩軍(西郷軍)の戦死者の墓」です。 宮崎市 高岡町 一里山。
花が供(そな)えられています。
「西郷軍の墓」のは宮崎県 宮崎市 高岡町 大字浦之名 一里山地区にあります。



写真U: 18名の「薩軍(西郷軍)の戦死者の墓」です。 宮崎市 高岡町 一里山。
花が供(そな)えられています。 奥は老人施設です。



写真V: 「碑(ひ)の由来」の説明板があります。
平成5年11月28日
道場敷地内より多数の遺骨を掘り出し祭ったものです。 高岡町史を見ると「明治10年8月頃、西南戦争で官軍と戦った18名の薩軍(西郷軍)の戦死者を葬ったと思われる」。
と書かれています。



写真W: 南東を見たもの。  再び先ほどの国道268号線との交差点の近くに戻(もど)って来ました。 右はバス停「漆野原 宮崎交通」の近くの「峰彰鉄工所 (渡辺建設)」です。 「紙屋城跡」へはこの鉄工所の角(かど)を右(南西)に曲がります。



写真X: 右はバス停「漆野原 宮崎交通」の近くの「峰彰鉄工所 (渡辺建設)」です。 「紙屋城跡」へはこの鉄工所の角(かど)を右(南西)に曲がります。



写真Y: バス停「漆野原 宮崎交通」の近くの「峰彰鉄工所 (渡辺建設)」です。 峰彰鉄工所は小林市 野尻町 大字紙屋 829番地6 にあります。



写真Z: バス停「漆野原 宮崎交通」の近くの「峰彰鉄工所 (渡辺建設)」です。 バス停も左寄りに見えています。



写真AA: 南西を見たものです。 右は「峰彰鉄工所 (渡辺建設)」。 この細めの道を南西に進みます。 このあたりは小林市 野尻町 大字紙屋 字漆野原です。



写真AB: 南を見た景色です。 車道を左に行くと先ほどの一里山に行きます。 遠くに送電線鉄塔が見えます。 それらの送電線鉄塔が「紙屋城跡」に2つあります。



写真AC: 南東を見たもの。 先に行くと先ほどの一里山に行きます。 そこには「西郷軍の18名の墓」があります。



写真AD: 東を見たものです。



写真AE: 北東を見たものです。



写真AF: 北西を見たものです。 左は峰彰鉄工所です。



写真AG: 進んでいくとこのような集落があります。 「紙屋城跡」はもうすぐです。 南西を見た景色です。



写真AH: もうすぐ、紙屋城跡の「第2の壕跡(ほりあと)」があります。



写真AI: 中央の2本の杉の下が「紙屋城 第2の壕跡(ほりあと)」です。 左遠くに送電線鉄塔が見えます。



写真AJ: 左の盛土の奥が「紙屋城跡 第2の壕跡」です。 この盛土は土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで)です。)と思われます。



写真AK: 南を見た景色です。 第2の壕跡を直角に横切って道路ができています。 紙屋城跡の土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで)です。)と「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板も見えます。



写真AL: 紙屋城跡の土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで)です。)と「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板も見えます。



写真AM: 右寄りに土塁が見えます。



写真AN: 土塁のそばに壕跡(ほりあと)が見えています。
 紙屋城跡の第2の空堀です。



写真AO: 「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板です。
 紙屋城は、県内でも代表的な中世の連郭式山城であり、三方(東・西・南)を天然の要崖で囲まれ、北側には数多くの空堀が構築されていた。
 原地形保存が最もよいこの第二の空堀を市有地として取得し市指定の史跡文化財としたものである。 400余年前の空堀を再現するための調査を昭和62年に実施したところ、長さ(東西)120 m、幅 9 m、深さ 8 mの薬研堀で土塁(どるい)を有することが確認された。
 また、この城は戦国時代の拠点となり、天正5年(1577年)まで伊東48城の一つであったが、伊東義祐が島津義久に敗(やぶ)れ、豊後(ぶんご、大分県)に敗走した後は島津 氏の領有となった。
 天正5年の島津・伊東 最終戦や翌年(1578年) 島津と大友の決戦の時は総大将 義久が入城し、弟 義弘 軍などと合流し軍議した城でもあった。
 城の主郭は、この堀から南へ1000 m 奥の台地にあり、戦国の争奪戦を繰り返した。
 この中世の山城は元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
V字状(薬研堀)の空堀
紙屋城址第2空堀 断面図も描いてあります。
昭和63年3月8日 小林市史跡文化財指定
小林市教育委員会
と書かれています。



写真AP: 「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板です。
 紙屋城は、県内でも代表的な中世の連郭式山城であり、三方(東・西・南)を天然の要崖で囲まれ、北側には数多くの空堀が構築されていた。
 原地形保存が最もよいこの第二の空堀を市有地として取得し市指定の史跡文化財としたものである。 400余年前の空堀を再現するための調査を昭和62年に実施したところ、長さ(東西)120 m、幅 9 m、深さ 8 mの薬研堀で土塁(どるい)を有することが確認された。
 また、この城は戦国時代の拠点となり、天正5年(1577年)まで伊東48城の一つであったが、伊東義祐が島津義久に敗(やぶ)れ、豊後(ぶんご、大分県)に敗走した後は島津 氏の領有となった。
 天正5年の島津・伊東 最終戦や翌年(1578年) 島津と大友の決戦の時は総大将 義久が入城し、弟 義弘 軍などと合流し軍議した城でもあった。
 城の主郭は、この堀から南へ1000 m 奥の台地にあり、戦国の争奪戦を繰り返した。
 この中世の山城は元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
V字状(薬研堀)の空堀
紙屋城址第2空堀 断面図も描いてあります。
昭和63年3月8日 小林市史跡文化財指定
小林市教育委員会
と書かれています。



写真AQ: 「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板です。
 紙屋城は、県内でも代表的な中世の連郭式山城であり、三方(東・西・南)を天然の要崖で囲まれ、北側には数多くの空堀が構築されていた。
 原地形保存が最もよいこの第二の空堀を市有地として取得し市指定の史跡文化財としたものである。 400余年前の空堀を再現するための調査を昭和62年に実施したところ、長さ(東西)120 m、幅 9 m、深さ 8 mの薬研堀で土塁(どるい)を有することが確認された。
 また、この城は戦国時代の拠点となり、天正5年(1577年)まで伊東48城の一つであったが、伊東義祐が島津義久に敗(やぶ)れ、豊後(ぶんご、大分県)に敗走した後は島津 氏の領有となった。
 天正5年の島津・伊東 最終戦や翌年(1578年) 島津と大友の決戦の時は総大将 義久が入城し、弟 義弘 軍などと合流し軍議した城でもあった。
 城の主郭は、この堀から南へ1000 m 奥の台地にあり、戦国の争奪戦を繰り返した。
 この中世の山城は元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
V字状(薬研堀)の空堀
紙屋城址第2空堀 断面図も描いてあります。
昭和63年3月8日 小林市史跡文化財指定
小林市教育委員会
と書かれています。



写真AR: 「紙屋城 第二の壕跡(ほりあと)」の説明板です。
 紙屋城は、県内でも代表的な中世の連郭式山城であり、三方(東・西・南)を天然の要崖で囲まれ、北側には数多くの空堀が構築されていた。
 原地形保存が最もよいこの第二の空堀を市有地として取得し市指定の史跡文化財としたものである。 400余年前の空堀を再現するための調査を昭和62年に実施したところ、長さ(東西)120 m、幅 9 m、深さ 8 mの薬研堀で土塁(どるい)を有することが確認された。
 また、この城は戦国時代の拠点となり、天正5年(1577年)まで伊東48城の一つであったが、伊東義祐が島津義久に敗(やぶ)れ、豊後(ぶんご、大分県)に敗走した後は島津 氏の領有となった。
 天正5年の島津・伊東 最終戦や翌年(1578年) 島津と大友の決戦の時は総大将 義久が入城し、弟 義弘 軍などと合流し軍議した城でもあった。
 城の主郭は、この堀から南へ1000 m 奥の台地にあり、戦国の争奪戦を繰り返した。
 この中世の山城は元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
V字状(薬研堀)の空堀
紙屋城址第2空堀 断面図も描いてあります。
昭和63年3月8日 小林市史跡文化財指定
小林市教育委員会
と書かれています。



写真AS: 堀を直角に横切って道ができています。 空堀のところにガードレールがあります。 南を見たものです。 遠くに送電線鉄塔が見えます。
紙屋城の主郭(本丸)は、この堀から南へ1000 m 奥の台地にありました。




写真AT: 堀を横切っている道から東を見たものです。 第2の空堀は東西に伸びていて、その中に2本の杉の木が生(は)えています。 空堀の両側(南と北)に土塁(どるい)があります。



写真AU: 紙屋城跡の「第2の空堀」の中にある2本の杉の木です。 東を見たものです。



写真AV: 宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原にある紙屋城跡の「第2の壕跡(空堀跡)」です。 元(もと)は、この空堀は断面がV字型でしたが、長年経(た)っているのでU字型になっています。 底にも草が生(は)えています。 奥(東)の方は下り坂になっていることが分かります。 空堀の両側(南北)には土塁(どるい)があります。



写真AW: 紙屋城跡に残っている「第2の壕跡」の底の様子(ようす)が分かります。 手前はガードレールです。



写真AX: 空堀の南側の土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで)です。)の南には畑があります。



写真AY: 左端に土塁が見えます。 南を見たものです。




写真AZ: 道路の西側の土塁(どるい)です。



写真BA: 道路の西側の第2壕跡です。 東側と同じような空堀が続いています。 空堀の両側(南北)に土塁(どるい)があります。 右上は畑になっています。 西を見たもの。



写真BB: 北西を見たものです。 遠くに薄く山が見えます。 奥の高いところは畑になっています。 右に壕跡のガードレールが見えます。



写真BC: 道路の西側の第2壕跡 (空堀(からぼり))です。 底の様子(ようす)が分かります。 道路から西を見たもの。
紙屋城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真BD: 道路の西側の第2壕跡 (空堀(からぼり))。 底の様子(ようす)が分かります。 緑の野草も見えます。



写真BE: 北を振り返ったもの。 第2の壕跡(ほりあと)のガードレールが見えます。



写真BF: 第2の壕跡の土塁(どるい)を南から見たものです。 空堀の中の2本の杉も見えます。



写真BG: 東を見た景色です。 左に第2の壕跡にある土塁(どるい)が見えます。 右遠くに送電線鉄塔が見えています。



写真BH: 南東を見た景色です。 畑になっています。 遠くに送電線鉄塔が2本見えます。 このあたりは紙屋城跡 (かみやじょうあと)です。
「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原 にあります。 丘陵にある城跡の北、西、南を秋社川(大淀川の支流 岩瀬川のさらに支流です。)が流れています。 東側に宮崎市高岡町と野尻町の境界にある谷があります。 紙屋城は南北に長く北側以外は崖(がけ)になっています。 城域は南北約 1400 m、東西約 600 m です。 紙屋城跡には空堀、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)が残っています。 5つの曲輪(くるわ、平らな所です。)と10の濠(ほり)がありました。 北から1〜3段目の濠は東西の谷まで伸びていて人工的なものです。 それ以外の濠は天然の地形を利用しています。 北側から5段目と6段目の濠のあいだには鐘撞堂(かねつきどう)がありました。 6段目と7段目の濠のあいだの4番目の曲輪の郭(かく)が本丸でした。 築城年代は不明ですが、築城者は伊東の家臣であった紙屋 氏です。 紙屋城第二の壕跡は市指定 史跡(昭和63年3月8日指定)です。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。 1578年(天正6年)、豊後(大分県)の大友(伊東の縁戚)と島津の高城川合戦(耳川の戦い)のときには島津義久と島津義弘がこの紙屋城で軍議を行ない合流しました。



写真BI: 南を見たものです。



写真BJ: 南西を見たものです。



写真BK: 西を見たもの。



写真BL: 北西を見たものです。 遠くの山も見えます。  右寄りの所に第2の壕跡があります。



写真BM: 西側の森の上の方です。



写真BN: 南を見た景色です。 右の送電線鉄塔のところが紙屋城跡の一番南の場所(一番高い所)です。
左の送電線鉄塔のそばを通って、右の送電線鉄塔(紙屋城跡で一番高いところにある最南端の曲輪(くるわ、平らな所です。))まで車のすれ違いが厳(きび)しい、細いけれど舗装(ほそう)してある道があります。
手前の右下の深いところに溝(みぞ)があります。



写真BO: 右下に深い溝(みぞ)があります。



写真BP: 右下にある深い溝(みぞ)。



写真BQ: 右下にある深い溝(みぞ)のところです。



写真BR: 南を見た景色です。



写真BS: 南東を見たもの。



写真BT: 東を見た景色です。



写真BU: 北東を見たものです。 左寄りに第2の壕跡の土塁(どるい)と空堀にある2本の杉が見えています。



写真BV: 北を振り返ったもの。 左に農業用ビニールハウスの骨組があります。



写真BW: 北西を見たものです。 農業用ビニールハウスの骨組が見えます。



写真BX: 西を見た景色です。



写真BY: 南を見たものです。



写真BZ: 遠くの山並み(やまなみ)が見えています。 小林市 野尻町にある「紙屋城跡」から。



写真CA: 畑の脇(わき)の犬小屋の上に鎖(くさり)につながれた犬が左を向いています。 よく吠(ほ)えていました。 ここから下り坂を先(南)に進みます。 右に送電線鉄塔が見えます。



写真CB: 南を見たものです。 送電線鉄塔が見えます。 畑になっています。



写真CC: 西を見た景色です。 畑があります。 畑の奥は土塁(どるい)かもしれません。



写真CD: 北西を見たものです。 左寄りに土塁(どるい)と思われるものがあります。 手前は畑です。



写真CE: 北遠くの山並み(やまなみ)が見えます。 この山並みは昔、城主たちも見たことでしょう。 右寄りに第2の壕跡の中にある2本の杉が見えます。 このあたりは畑になっています。



写真CF: 北東を見たものです。



写真CG: 東を見た景色です。 2本の送電線鉄塔が見えています。 左寄りに畑の東端にある犬小屋とその上に登っている2匹目の犬が小さく見えます。 この犬も鎖につながれていました。



写真CH: 南を見たものです。 1匹目の犬が犬小屋のそばにいます。 鎖につながれていました。 これから坂道を下ってさらに奥(南)に進みます。



写真CI: このような細めの舗装道路(ほそうどうろ)が南へと続いています。 所々に車がすれ違う場所が造ってあります。 ガードレールが見えます。



写真CJ: 右側(西)は崖(がけ)になっています。



写真CK: 舗装道路から西を見たもの。 崖(がけ)になっています。



写真CL: このような細めの道を南へと進みます。 右側は崖(がけ)になっています。



写真CM: 道から見た右側(西側)の様子(ようす)です。



写真CN: 篠(しの、細めの竹)が生(は)えています。



写真CO: 西を見たもの。



写真CP: このあたりは篠(しの、細めの竹)が多く生えています。



写真CQ: 北を見たもの。



写真CR: 再び曲輪(くるわ、平らな所です。)と思われるところに出ました。 畑の近くに大きな送電線鉄塔があります。 南を見たものです。
「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原 にあります。 丘陵にある城跡の北、西、南を秋社川(大淀川の支流 岩瀬川のさらに支流です。)が流れています。 東側に宮崎市高岡町と野尻町の境界にある谷があります。 紙屋城は南北に長く北側以外は崖(がけ)になっています。 城域は南北約 1400 m、東西約 600 m です。 紙屋城跡には空堀、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)が残っています。 5つの曲輪(くるわ、平らな所です。)と10の濠(ほり)がありました。 北から1〜3段目の濠は東西の谷まで伸びていて人工的なものです。 それ以外の濠は天然の地形を利用しています。 北側から5段目と6段目の濠のあいだには鐘撞堂(かねつきどう)がありました。 6段目と7段目の濠のあいだの4番目の曲輪の郭(かく)が本丸でした。 築城年代は不明ですが、築城者は伊東の家臣であった紙屋 氏です。 紙屋城第二の壕跡は市指定 史跡(昭和63年3月8日指定)です。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。 1578年(天正6年)、豊後(大分県)の大友(伊東の縁戚)と島津の高城川合戦(耳川の戦い)のときには島津義久と島津義弘がこの紙屋城で軍議を行ない合流しました。



写真CS: この送電線鉄塔は宮崎県 児湯郡 木城町にある九州電力 小丸川発電所(揚水発電所です。)から続いている送電線の鉄塔です。 多くは九州中央山地の高い山の上を通ってここまで来ています。 綾の照葉大吊橋の近くのこの系の送電線鉄塔は自然景観との問題で注目されたこともありました。 この系は約100本の送電線鉄塔が続いています。



写真CT: 宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原にある「紙屋城跡」のこの曲輪(くるわ、平らな所です。)には畑と送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)があります。 南を見たものです。
 紙屋城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CU: 東を見た景色です。 6本の送電線が見えます。



写真CV: 北東を見たものです。



写真CW: 来た道を振り返ったもの。



写真CX: 西側は崖(がけ)になっています。



写真CY: 東を見た景色です。 こちらにも児湯郡 木城町にある小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線と送電線鉄塔があります。 畑の左寄りに橙色(だいだいいろ)の棒状に見える「野鳥を追う爆鳴気(プロパンガスのボンベがそばにありました。)」が見えています。



写真CZ: 東を見た景色です。 児湯郡 木城町にある小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線と送電線鉄塔があります。 6x2本の送電線と一番上に避雷のための細めの2本の電線が見えます。 計14本の電線が見えます。 [近くから見ると電線は3x3本+4x3本+2本(避雷のための電線と思われます。)=23本が見えます。] 畑の左寄りに橙色(だいだいいろ)の棒状に見える「野鳥を追う爆鳴気(プロパンガスのボンベがそばに見えます。)」が見えています。



写真DA: 送電線鉄塔の近くに「九州電力のマーク、ー 小丸川幹線 91号、火の用心」と書いてある標識棒があります。



写真DB: これが小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)です(紙屋城跡にあります。)。 赤(オレンジ色)と白に塗(ぬ)ってあります。 4本の円筒形の支柱とそれを強化するx印の側面パイプ、水平面内の2つの四角が見える強化するものも見えています。 左の支柱には避雷のための電線と思われるものが見えます。



写真DC: 紙屋城跡にある小丸川発電所(揚水発電所)からの送電線と送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)の中部です。 右側に多数つながった絶縁のための碍子(がいし)が見えます。



写真DD: 小林市 野尻町 大字紙屋にある「紙屋城跡」に大きな送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)があります。 近くから見ると電線は3x3本+4x3本+2本(避雷のための電線と思われます。)=23本が見えます。 多数つながった絶縁のための碍子(がいし)も見えます。



写真DE: 木城町にある小丸川発電所(揚水発電所)から続いている送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)の下部です。 送電線鉄塔の構造がよく分かります。 一番下は円筒形のコンクリート、その上に円筒形の金属(それに強化するパイプが付いています。)、その上に赤(オレンジ色)に塗ってある円筒形パイプ(これが主支柱です。)が多数のボルトで固定されています。 送電線鉄塔は支柱が角型のものが多いのですが、小丸川発電所からの送電線鉄塔はパイプ型の支柱になっています。



写真DF: 送電線鉄塔に「のぼるな」と書いてあリます。



写真DG: 主支柱にはこのような足場のような短い横棒が多数付けてあります。 登るのを阻止(そし)するものも見えています。 紙屋城跡にある送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)。



写真DH: 両側に伸びる4個の腕状のものが見えます。 その先に多数の絶縁のための碍子(がいし)があります。 紙屋城跡にある送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)。



写真DI: 小林市 野尻町 大字紙屋にある「紙屋城跡」の送電線鉄塔(九州電力の小丸川幹線 91号)の上部です。



写真DJ: さらに先(南)に進みます。 細めの舗装道路が続いています。



写真DK: このあたりも紙屋城跡です。



写真DL: 紙屋城跡にある道です。



写真DM: 道の上はこのように木が茂(しげ)っています。



写真DN: 見上げたものです。



写真DO: 右側(西)は崖(がけ)になっています。



写真DP: 南西を見たもの。



写真DQ: 右に道を補強するコンクリートのものが見えます。 紙屋城跡です。



写真DR: 西側の崖(がけ)を見たものです。 手前は道を強化するコンクリートのものです。



写真DS: ここは道が少し曲がっています。 ここに車のすれ違いができる場所が造ってあります。



写真DT: 「野生のイチゴの赤い実」がありました。
「フユイチゴ」です。 木苺(キイチゴ)類の1つで常緑つる性です。 紙屋城跡。



写真DU: 「野生のイチゴの赤い実」がありました。
「フユイチゴ」です。 木苺(キイチゴ)類の1つで常緑つる性です。 紙屋城跡です。



写真DV: ガードレールが見えます。



写真DW: この部分は道幅が広い。 左は谷になっています。



写真DX: 道幅が広いところを振り返ったもの。



写真DY: 谷川にかかる橋が見えてきました。



写真DZ: 「城山橋」と書いてあります。 紙屋城跡にあります。



写真EA: 深い谷川があります。 右手を見たもの。



写真EB: この下は谷川になっています。



写真EC: 城山橋から左手を見たもの。



写真ED: 城山橋から左を見たもの。



写真EE: 城山橋から左を見た景色です。



写真EF: 「じょうやまばし」と書いてあります。



写真EG: 振り返ったもの。



写真EH: 紙屋城跡の道のそばです。 このような植物があります。



写真EI: 道のそばです。



写真EJ: いろんな木があります。



写真EK: 東を見た景色です。 谷の先の山が見えます。 手前はガードレールです。



写真EL: このあたりは東の方が遠くまで見えます。



写真EM: 道から見た景色です。 東を見たものです。



写真EN: ここにも車のすれ違いができる場所が造ってあります。



写真EO: このあたりは左が崖(がけ)になっています。



写真EP: 左手に遠くの山とその上の送電線鉄塔が見えています。



写真EQ: 東に見える遠くの山と送電線鉄塔。 紙屋城跡の道から。



写真ER: 左は崖(がけ)になっています。



写真ES: 送電線鉄塔が見えてきました。 赤(オレンジ色)と白に塗(ぬ)ってあります。
これが紙屋城の一番高いところの曲輪(くるわ)にある送電線鉄塔と思われます。



写真ET: 左は崖(がけ)になっています。



写真EU: 細いけれど舗装してある道です。



写真EV: 「沖ノ尾 国有林・・・」と書いてある標識棒があります。 このあたりは国有林です。 紙屋城跡。



写真EW: 「沖ノ尾 国有林・・・」と書いてある標識棒。 このあたりは国有林です。 紙屋城跡。



写真EX: この坂道を登ると紙屋城の一番高いところにある曲輪(くるわ、平らな所です。)があります。



写真EY: 道のそばです。 シラスが見えます。 紙屋城跡はシラス台地です。



写真EZ: 道のそば。 シラスが見えます。 紙屋城跡はシラス台地です。



写真FA: 紙屋城の最南端の曲輪(くるわ、平らな所です。)に登る坂道です。



写真FB: これが紙屋城 最南端の曲輪(くるわ、平らな所です。)です。 相当に広い曲輪です。 ここに紙屋城で一番高い地点があります。
手前に送電線鉄塔 (小丸川幹線 92号)の下部が見えます。 遠く南の山が見えます。 6本の送電線鉄塔も見えます。
 紙屋城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真FC: 手前は送電線鉄塔 (小丸川幹線 92号)の中部です。 紙屋城跡の最南端の曲輪(くるわ)にあります。



写真FD: 送電線鉄塔 (小丸川幹線 92号)の上部です。



写真FE: 紙屋城跡の南端の曲輪(くるわ)には畑と農業用建物、家畜の牧草を白のビニールで巻いたもの、送電線鉄塔などがあります。 右寄りにセンダンの木があります。 遠くの山も見えます。 南を見た景色です。
「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原 にあります。 丘陵にある城跡の北、西、南を秋社川(大淀川の支流 岩瀬川のさらに支流です。)が流れています。 東側に宮崎市高岡町と野尻町の境界にある谷があります。 紙屋城は南北に長く北側以外は崖(がけ)になっています。 城域は南北約 1400 m、東西約 600 m です。 紙屋城跡には空堀、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)が残っています。 5つの曲輪(くるわ、平らな所です。)と10の濠(ほり)がありました。 北から1〜3段目の濠は東西の谷まで伸びていて人工的なものです。 それ以外の濠は天然の地形を利用しています。 北側から5段目と6段目の濠のあいだには鐘撞堂(かねつきどう)がありました。 6段目と7段目の濠のあいだの4番目の曲輪の郭(かく)が本丸でした。 築城年代は不明ですが、築城者は伊東の家臣であった紙屋 氏です。 紙屋城第二の壕跡は市指定 史跡(昭和63年3月8日指定)です。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。 1578年(天正6年)、豊後(大分県)の大友(伊東の縁戚)と島津の高城川合戦(耳川の戦い)のときには島津義久と島津義弘がこの紙屋城で軍議を行ない合流しました。



写真FF: 紙屋城跡 最南端の曲輪(くるわ)です。 南東を見たもの。



写真FG: 紙屋城跡 最南端の曲輪(くるわ)です。 杉林も一部あります。 東を見たもの。



写真FH: 紙屋城跡 最南端の曲輪(くるわ)です。 杉林も一部あります。 北を見たもの。 来た道を振り返ったものです。



写真FI: 紙屋城跡 最南端の曲輪(くるわ)です。 北西の遠くの山並み(やまなみ)が見えます。



写真FJ: 紙屋城跡 最南端の曲輪(くるわ)です。 左はほうれん草畑です。 西を見たもの。



写真FK: 南西を見たもの。 ほうれん草畑が広がっています。



写真FL: 南西を見た景色です。 紙屋城跡の最南端の曲輪(くるわ)です。



写真FM: 南を見た景色です。 最南端の曲輪。



写真FN: 紙屋城跡 最南端曲輪にある送電線鉄塔 (小丸川幹線 92号)の下部です。 左端の送電線鉄塔は小丸川幹線 93号と思われます。 遠くの山も見えます。



写真FO: 手前から送電線鉄塔の小丸川幹線 93号、94号、95号、96号、97号が見えています。
センダンの木、農業用建物、白のビニールで巻いた牧草を積み重(かさ)ねたものなどがあります。 南を見た景色です。



写真FP: 南東を見た景色です。 遠くの山も見えます。 紙屋城跡の最南端曲輪です。



写真FQ: 南を見たものです。
「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原 にあります。 丘陵にある城跡の北、西、南を秋社川(大淀川の支流 岩瀬川のさらに支流です。)が流れています。 東側に宮崎市高岡町と野尻町の境界にある谷があります。 紙屋城は南北に長く北側以外は崖(がけ)になっています。 城域は南北約 1400 m、東西約 600 m です。 紙屋城跡には空堀、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)が残っています。 5つの曲輪(くるわ、平らな所です。)と10の濠(ほり)がありました。 北から1〜3段目の濠は東西の谷まで伸びていて人工的なものです。 それ以外の濠は天然の地形を利用しています。 北側から5段目と6段目の濠のあいだには鐘撞堂(かねつきどう)がありました。 6段目と7段目の濠のあいだの4番目の曲輪の郭(かく)が本丸でした。 築城年代は不明ですが、築城者は伊東の家臣であった紙屋 氏です。 紙屋城第二の壕跡は市指定 史跡(昭和63年3月8日指定)です。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。 1578年(天正6年)、豊後(大分県)の大友(伊東の縁戚)と島津の高城川合戦(耳川の戦い)のときには島津義久と島津義弘がこの紙屋城で軍議を行ない合流しました。



写真FR: 左は農業用建物です。 南を見たものです。 紙屋城跡 最南端の曲輪です。



写真FS: ここにもセンダンの木と思われる古い木があります。 その少し先が曲輪の南端でその先は崖(がけ)になっています。 南を見たものです。



写真FT: 南東を見たもの。 曲輪の南端近くです。



写真FU: 東を見た景色です。 最南端の曲輪です。



写真FV: 北東を見たものです。 農業用建物も見えます。 紙屋城跡です。



写真FW: 北を見た景色です。 送電線鉄塔、センダンの木、農業用建物、来た道(このあたりは舗装はしてありません。)が見えます。



写真FX: 北西を見たものです。 紙屋城跡の最南端曲輪です。



写真FY: 西を見たもの。 紙屋城跡。



写真FZ: 南西を見た景色です。 左端にセンダンの木と思われる古い木があります。 送電線鉄塔も見えます。 紙屋城跡。



写真GA: 紙屋城跡の最南端の所の様子(ようす)です。 南を見た景色です。



写真GB: 紙屋城跡 曲輪の最南端の部分です。 道はここで途切(とぎ)れています(行き止まりです。)。 少し広くなっています。 この奥(南)は崖(がけ)です。



写真GC: 南を見た景色です。 左にセンダンの木と思われるもの、送電線鉄塔、畑、農業用建物などが見えます。 宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原にある紙屋城跡です。
「紙屋城跡 (かみやじょうあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字城原 にあります。 丘陵にある城跡の北、西、南を秋社川(大淀川の支流 岩瀬川のさらに支流です。)が流れています。 東側に宮崎市高岡町と野尻町の境界にある谷があります。 紙屋城は南北に長く北側以外は崖(がけ)になっています。 城域は南北約 1400 m、東西約 600 m です。 紙屋城跡には空堀、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)が残っています。 5つの曲輪(くるわ、平らな所です。)と10の濠(ほり)がありました。 北から1〜3段目の濠は東西の谷まで伸びていて人工的なものです。 それ以外の濠は天然の地形を利用しています。 北側から5段目と6段目の濠のあいだには鐘撞堂(かねつきどう)がありました。 6段目と7段目の濠のあいだの4番目の曲輪の郭(かく)が本丸でした。 築城年代は不明ですが、築城者は伊東の家臣であった紙屋 氏です。 紙屋城第二の壕跡は市指定 史跡(昭和63年3月8日指定)です。 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。 1578年(天正6年)、豊後(大分県)の大友(伊東の縁戚)と島津の高城川合戦(耳川の戦い)のときには島津義久と島津義弘がこの紙屋城で軍議を行ない合流しました。



写真GD: 紙屋城跡の曲輪の南端付近です。



写真GE: 西を見たもの。 左(南)は崖(がけ)になっています。 曲輪の南端部分です。



写真GF: ここは崖(がけ)になっています。 谷がここに入ってきています。 紙屋城跡の曲輪(くるわ)の南端部分です。 南を見たものです。



写真GG: 東を見たものです。 紙屋城跡の曲輪の南端部分。 崖(がけ)が見えています。



写真GH: ここは崖(がけ)のある谷が北へ来ています。



写真GI: 東を見た景色です。 右に崖(がけ)の一部が見えます。



写真GJ: 東北東を見たものです。 曲輪の南端付近です。 紙屋城跡。



写真GK: 北東を見たものです。 左に農業用建物、杉林、畑などが見えます。 紙屋城跡の曲輪です。



写真GL: 北西を見たものです。 センダンの木、送電線鉄塔、農業用建物、杉林、畑などが見えます。 見えているところが一番、紙屋城跡で標高が高い場所です。
 紙屋城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真GM: 南端部分から見た紙屋城跡の高い所です。 北西を見たものです。



写真GN: 北西を見たものです。 手前は畑です



写真GO: 西を見た景色です。 紙屋城跡 曲輪の南端部分。 左は崖(がけ)になっています。



写真GP: 南を見た景色です。



写真GQ: 紙屋城跡 曲輪の南端部分の崖(がけ)がよく分かります。



写真GR: 標高が高いあたりから南を見た景色です。 右はセンダンの木、左は農業用建物、畑も見えます。



写真GS: 白のビニールで巻いてある牧草を積み重ねたもの、右は農業用建物です。 東を見たもの。



写真GT: 遠くの山並み(やまなみ)、送電線鉄塔(小丸川幹線 92号)、杉林、畑などが見えます。 北を見たものです。
この山並みは紙屋城の城主たちもよく見たことでしょう。



写真GU: 「九州電力のマーク、ー 小丸川幹線 92号、→ 小丸川幹線91号」の標識棒があります。 送電線鉄塔の近くにホウレンソウ畑があります。



写真GV: 電線は3x3本+4x3本+2本(避雷のための電線と思われます。)=23本が見えます。 送電線鉄塔(小丸川幹線 92号)のそばです。



写真GW: 電線は3x3本+4x3本+2本(避雷のための電線と思われます。)=23本が見えます。 送電線鉄塔(小丸川幹線 92号)のそば。



写真GX: 来た道を戻(もど)る途中(とちゅう)です。 このあたりも紙屋城跡です。 犬が犬小屋のそばにいます。 この犬は鎖につながれていました。 南を振り返って見たもの。



写真GY: 北東を見たものです。 右寄りに、犬小屋の上の第2の犬が小さく見えます。



写真GZ: 北を見たものです。 遠くの山々が美しい。 紙屋城の城主、家臣たちもいつも眺(なが)めたことでしょう。 紙屋城跡です。
 紙屋城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真HA: 北西を見たものです。 左に土塁(どるい)と思われるものががあります。



写真HB: 遠くの山々も見えています。 手前は畑です。 紙屋城跡。



写真HC: 紙屋城跡から北に見える山々です。 右の白の屋根は「第2の壕跡(ほりあと)」のそばのものです。



写真HD: 紙屋城跡から北西に3重に重(かさ)なった山々が見えます。



写真HE: 北西の山々が見えています。 紙屋城跡。



写真HF: 第2の壕跡の2本杉が見えて来ました。 北を見た景色です。 右手前は、ほうれん草畑です。



写真HG: ホウレンソウ畑の端(はし)に黄色の標識があります。 右上はホウレンソウ畑です。



写真HH: 紙屋城跡にあるホウレンソウ畑です。



写真HI: 「契約栽培圃場(ほじょう)、管理 責任者 JAこばやし、品目 ほうれん草、サンフード工業株式会社」と書いてあります。



写真HJ: 第2の壕跡のところに戻(もど)って来ました。



写真HK: 紙屋城の第2の壕跡です。 北東を見たものです。 2本杉が見えます。



写真HL: 紙屋城の第2の壕跡です。 西を見たものです。



写真HM: はじめに見た「紙屋城 第二の壕跡」の説明板です。



写真HN: 北に戻(もど)ります。



写真HO: 集落のところに戻って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)