岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと、岩瀬城跡)、岩牟礼城、永仁の碑(えいにんのひ) (岩牟礼城址、市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ) 宮崎県で最も古い石碑の一つ、岩瀬川、岩瀬橋、旧 岩瀬橋  (宮崎県で最も古い鉄橋)、県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地、野尻町の永久木 杉)  (宮崎県 小林市 大字東方 字城ヶ迫(さこ)、小林市 大字堤 字池の平 4716-2 )







<標高、位置>  岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと、城ノ岡)は
標高 365.3 m
 北緯31度58分46秒  東経131度01分21秒

<標高、位置>  永仁の碑(えいにんのひ)は
標高 約160 m
 北緯31度58分36秒  東経131度00分45秒

<標高、位置>  岩瀬橋は
標高 約160 m
 北緯31度58分31秒  東経131度00分49秒

<標高、位置>  旧 岩瀬橋 (永仁の碑のそば)は
標高 約160 m
 北緯31度58分36秒  東経131度00分48秒


 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。
 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板から、
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
 岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
 岩牟礼城は天文年間(1532年〜1555年)に伊東が造った山城です。 危急の際には高松城(宮崎県 小林市 野尻町 東麓 高松にあった城です。)と連携して狼煙(のろし)を上げる役目をしていました。 天正4年(1576年)に高原城が島津によって落城させられたのち、伊東は野尻城に撤退したために岩牟礼城は三ツ山城(後の小林城)、須木城とともに島津のものとなりました。

 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 「永仁の碑(えいにんのひ)」は宮崎県 小林市 大字堤 4716-2 にあります。
(永仁は鎌倉後期、1293年〜1298年です。)
 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版から、
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。

 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板から、
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。

 「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。


写真A: 国道268号線です。 岩瀬川にかかっている岩瀬橋です。 先(西)に進むと水流迫(つるざこ)を通って小林市の中心部に行きます。 手前に進むと野尻町、宮崎市に行きます。



写真B: 「いわせばし」と橋に書いてあります。



写真C: 「平成9年3月竣工(完成すること。)」と岩瀬橋に書いてあります。



写真D: 岩瀬橋から岩瀬川の上流(北)を見たものです。 川底は岩が広がっています(岩盤(がんばん))。 これが岩瀬川、岩瀬橋の名前の由来(ゆらい)でしょう。 旧 岩瀬橋が見えます。 その左に、宮崎県で最も古い石碑(せきひ)の一つである「永仁の碑(えいにんのひ)」があります。



写真E: 岩が川底に広がっている岩瀬川です。 奥に旧 岩瀬橋があります。 岩瀬橋から北を見たもの。



写真F: 旧 岩瀬橋の近くも川底に岩が広がっています(岩盤(がんばん))。 遠くに山が見えます。 北を見たものです。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真G: 「岩瀬川」と橋に書いてあります。



写真H: 左の山に生コンクリート工場が見えます。 そのあたりの山が「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」です。 手前は国道268号線の岩瀬橋です。 東を見た景色です。 先に進むと、野尻町、宮崎市に行きます。
「岩牟礼城址 (いわむれじょうし)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。
岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
 岩牟礼城は天文年間(1532年〜1555年)に伊東が造った山城です。 危急の際には高松城(宮崎県 小林市 野尻町 東麓 高松にあった城です。)と連携して狼煙(のろし)を上げる役目をしていました。 天正4年(1576年)に高原城が島津によって落城させられたのち、伊東は野尻城に撤退したために岩牟礼城は三ツ山城(後の小林城)、須木城とともに島津のものとなりました。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真I: 岩瀬橋から南東を見た景色です。



写真J: 左の山が「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」です。
「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、九州の東海岸を南下してきた豊臣(羽柴)秀長(とよとみ(はしば)ひでなが)の軍がこの岩牟礼城まで侵攻しました。 島津は豊臣に降伏しました。



写真K: 国道268号線にある岩瀬橋から見た「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」です。 右上は生コンクリート工場です。
「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。
岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
 岩牟礼城は天文年間(1532年〜1555年)に伊東が造った山城です。 危急の際には高松城(宮崎県 小林市 野尻町 東麓 高松にあった城です。)と連携して狼煙(のろし)を上げる役目をしていました。 天正4年(1576年)に高原城が島津によって落城させられたのち、伊東は野尻城に撤退したために岩牟礼城は三ツ山城(後の小林城)、須木城とともに島津のものとなりました。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真L: 右は「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」です。 岩瀬川の上流側に旧 岩瀬橋が見えます。



写真M: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の一部に生コンクリート工場があります。



写真N: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」です。



写真O: 奥に「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の城ノ岡(標高 365.3 m)が見えます。 城ノ岡の山頂とまわりの平地との標高差は約205 m です。
「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。
岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
 岩牟礼城は天文年間(1532年〜1555年)に伊東が造った山城です。 危急の際には高松城(宮崎県 小林市 野尻町 東麓 高松にあった城です。)と連携して狼煙(のろし)を上げる役目をしていました。 天正4年(1576年)に高原城が島津によって落城させられたのち、伊東は野尻城に撤退したために岩牟礼城は三ツ山城(後の小林城)、須木城とともに島津のものとなりました。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真P: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」には木が茂(しげ)っています。



写真Q: 左下に旧 岩瀬橋が見えます。 山は「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」。
「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。



写真R: 北に旧岩瀬橋があります。 岩瀬橋から見たもの。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真S: 色付いた田んぼ、農業用ビニールハウスがあります。



写真T: 南東を見たもの。 岩瀬橋の奥に山があります。



写真U: 左に岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)の説明板と標識棒(標柱)が見えます。 右は国道268号線。 東を見た景色です。



写真V: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の標柱と説明板です。 山の麓(ふもと)にあります。
「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」は宮崎県 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ) にあります。



写真W: 上は生コンクリート工場になっています。



写真X: 曲がり角に「←西諸広域 葬祭センター」の看板(かんばん)があります。



写真Y: 北を見たものです。 右に「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板、標柱があります。 「永仁の碑 (えいにんのひ)(永仁は鎌倉後期、1293年〜1298年です。)」に行くには少し先に進み、左の橋(旧岩瀬橋)を渡ります。



写真Z: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてあります。 右は説明板です。



写真AA: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてある標柱です。



写真AB: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてある標柱。



写真AC: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてある標識棒です。



写真AD: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてある標識棒。



写真AE: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてあります。



写真AF: 「岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、平成18年12月18日 建立(こんりゅう)、小林市教育委員会」と書いてある標識棒。



写真AG: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AH: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AI: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AJ: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AK: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AL: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AM: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AN: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AO: 「史跡 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)」の説明板があります。
所在地 小林市 大字東方 城ヶ迫(じょうがさこ)
築城年 不明、廃城年 元和元年(1615年)、年代 中世?〜江戸時代。
  岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
 明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
平成11年3月30日 小林市教育委員会
と書かれています。



写真AP: 北を見たものです。 右は岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)です。 少し先に行くと旧 岩瀬橋があります。 それを左(西)に渡って、すぐの所に宮崎県で最も古い石碑の一つ、「永仁の碑 (えいにんのひ)(永仁は鎌倉後期、1293年〜1298年です。)」があります。 左に岩瀬川が南北に流れています。



写真AQ: 来た道を振り返ったもの。 左に岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)の説明板、標柱があります。 奥は国道268号線です。



写真AR: 左は岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)、右は岩瀬川が南北に流れています。 振り返ったもの。



写真AS: 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)です。 上半分は木の間から青空が見えます。



写真AT: 右は岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)。



写真AU: 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)の崖(がけ)が少し崩(くず)れています。



写真AV: 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)の崖(がけ)です。 東を見たもの。



写真AW: 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)。



写真AX: 西に岩瀬川の水面が見えます。 木が紅葉、黄葉しています。 西を見たもの。



写真AY: 中央が旧岩瀬橋に行く道です。 その左に「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の標柱が見えます。



写真AZ: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の標識棒が旧岩瀬橋の東端付近にあります。
「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板が「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真BA: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の標柱です。



写真BB: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の標柱。



写真BC: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の標柱です。



写真BD: これが旧 岩瀬橋です。 岩瀬川にかかっています。 西を見たもの。



写真BE: 来た道を振り返ったもの。 右に「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の標柱が見えます。



写真BF: 北を見たものです。



写真BG: 岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)の西にある旧 岩瀬橋です。 西を見たもの。
明治10年の西南戦争のときには西郷軍が岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)に陣を置き、官軍はこの西の水流迫(つるざこ)に大砲を並べて陣を造りました。 西郷軍は官軍の東進を阻(はば)むためにここにあった木橋に火を付けました。 官軍は水流迫から岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)に居る西郷軍を岩瀬川を越えて砲撃しました。 この旧岩瀬橋があったところは古くからの道があって要所でした。 それで宮崎県で最も古い石碑の一つ、「永仁の碑」がこの橋を渡った所にあるのでしょう。



写真BH: 旧岩瀬橋から北西を見たものです。 旧岩瀬橋のあたりも岩が川底に広がっています(岩盤(がんばん))。 これが岩瀬川の名の由来(ゆらい)でしょう。
このあたりは「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」です。



写真BI: 下流(南)に国道268号線の岩瀬橋が見えます。 先ほど通りました。 このあたりも岩が川底に広がっています(岩盤(がんばん))。 岩瀬川の旧岩瀬橋から見たもの。
このあたりは「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」です。
「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板が「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸(右岸(下流を見て右)) 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真BJ: 旧岩瀬橋から岩瀬川の上流(北)を見たものです。
このあたりは「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」です。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真BK: ハゼの木が紅葉していました。 旧岩瀬橋から見たもの。



写真BL: 旧岩瀬橋から見た国道268号線の岩瀬橋です。 岩瀬橋は旧岩瀬橋の下流にあります。 岩瀬橋の手前に白く水面が見えます。 ここは瀬(浅い所)なので飛沫(しぶき)が出ているのでしょう。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真BM: 旧岩瀬橋と岩瀬川です。 南を見たものです。 川底に岩が見えます(岩盤(がんばん))。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真BN: 旧岩瀬橋から上流側(北)を見た景色です。 ススキ、赤く色付いたハゼの木が見えます。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真BO: 旧岩瀬橋から見た国道268号線の岩瀬橋です。 川底が岩で水面が飛沫(しぶき)で白く見えます。
「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板が「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真BP: 旧岩瀬橋の西端付近に刈り取った稲を束(たば)ねてある田んぼがありました。



写真BQ: 稲わらを並べてある田んぼのそばに古くからの道があって、その右側に説明板、「永仁の碑」が見えます。



写真BR: 旧岩瀬橋の西側の古くからの道です。 その右側に宮崎県で最も古い石碑の一つ、「仁の碑 (えいにんのひ)(永仁は鎌倉後期、1293年〜1298年です。)」、説明板があります。 西を見たもの。



写真BS: 左に黄色に色付いた稲が見えます。 「永仁の碑」、説明板も見えます。
「永仁の碑(えいにんのひ)」は宮崎県 小林市 大字堤 4716-2 にあります。



写真BT: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。



写真BU: 左から「永仁の碑」の説明板、「永仁の碑」、水神様、「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板があります。 右の奥は旧岩瀬橋です。 東を見た景色です。 奥に見える山は城ノ岡(標高 365.3 m)です。 そこに岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)があります。 伊東の城であった頃はそこで狼煙(のろし)を上げて、三ツ山城(後の小林城)と野尻城と連絡をとっていました。 この城ノ岡の山はこのあたりでは一番高い場所です。 それで狼煙(のろし)をあげるのに便利でした。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、九州の東海岸を南下してきた豊臣(羽柴)秀長(とよとみ(はしば)ひでなが)の軍がこの岩牟礼城まで侵攻しました。 島津は豊臣に降伏しました。




写真BV: これが永仁の碑(えいにんのひ)です。 岩瀬川の右岸(下流を見て右)近くの旧道にあります。
「永仁の碑 (えいにんのひ)(永仁は鎌倉後期、1293年〜1298年です。)」は宮崎県 小林市 大字堤 4716-2 にあります。



写真BW: 旧道と旧岩瀬橋、岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)が見えます。 東を見た景色です。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、九州の東海岸を南下してきた豊臣(羽柴)秀長(とよとみ(はしば)ひでなが)の軍がこの岩牟礼城まで侵攻しました。 島津は豊臣に降伏しました。



写真BX: 黄色に色付いた稲が見えます。 南西を見たもの。



写真BY: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真BZ: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CA: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CB: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CC: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CD: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CE: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CF: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CG: 「宮崎県指定 天然記念物 オオヨドカワゴロモ自生地」の説明板も「永仁の碑」のそばにあります。
指定年月日 平成20年3月31日
所在地 宮崎県 小林市 大字堤 字池の平
 オオヨドカワゴロモは、カワゴケソウ科カワゴロモ属の顕花植物で、カワゴケソウ科植物の自生北限種。 大淀川およびその支流 岩瀬川に生息する固有種である。 水深 約30 cm より浅い岩盤に固着する。 外見は苔類(こけるい)のゼニゴケ状で、黒緑色の葉のように見える部分が根(葉状体)で、そこから所々に出ている針状のものが葉である。 冬にはゴマ粒ほどのめしべと黄色いおしべを葉状体上につける。
 以前は高岡町付近まで分布していたが、ダム建設に伴(とも)なう水量変化や水質汚染などの環境劣化から次第(しだい)に育成区域が減少し、現在は小林市、野尻町を流れる岩瀬川に点在するのみである。 動植物の絶滅危惧種を掲載した環境省および県版レッドデータブックで絶滅危惧IA類に指定されている。 指定対象地は旧岩瀬橋から新岩瀬橋までの西岸 140 m 、2500 平方メートル。
オオヨドカワゴロモの絵と各部の名称、大きさも書いてあります。
平成21年3月 宮崎県教育委員会 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CH: 宮崎県で最も古い石碑(せきひ)の一つ、「永仁の碑(えいにんのひ)」と右は水神様の石碑です。
永仁(えいにん)時代は鎌倉後期、1293年〜1298年です。
「永仁の碑 (えいにんのひ)」は宮崎県 小林市 大字堤 4716-2 にあります。



写真CI: 東を見た景色です。 奥に見える山は城ノ岡(標高 365.3 m)です。 そこに岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)があります。 伊東の城であった頃はそこで狼煙(のろし)を上げて、三ツ山城(後の小林城)と野尻城と連絡をとっていました。 この城ノ岡の山はこのあたりでは一番高い場所です。 それで狼煙(のろし)をあげるのに便利でした。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真CJ: 東を見た景色です。 岩牟礼城址が見えます。
岩牟礼城 (いわむれじょう)は岩瀬城ともいい、(小林)市内では最も高地にある城跡です。 築城年代は不明ですが、伊東 氏が小林を前線基地にしていた頃は守備兵を置き、危急のときは、狼煙(のろし)をあげて野尻城以下、各城への連絡に備(そな)えていました。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
 岩牟礼城は天文年間(1532年〜1555年)に伊東が造った山城です。 危急の際には高松城(宮崎県 小林市 野尻町 東麓 高松にあった城です。)と連携して狼煙(のろし)を上げる役目をしていました。 天正4年(1576年)に高原城が島津によって落城させられたのち、伊東は野尻城に撤退したために岩牟礼城は三ツ山城(後の小林城)、須木城とともに島津のものとなりました。



写真CK: 永仁の碑のまわりはこのようになっています。 北東を見たもの。



写真CL: 東を見た景色です。 奥に見える山は城ノ岡(標高 365.3 m)です。 そこに岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)があります。 伊東の城であった頃はそこで狼煙(のろし)を上げて、三ツ山城(後の小林城)と野尻城と連絡をとっていました。 この城ノ岡の山はこのあたりでは一番高い場所です。 それで狼煙(のろし)をあげるのに便利でした。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真CM: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CN: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CO: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CP: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CQ: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CR: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CS: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CT: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CU: 「市指定有形文化財 永仁の碑(えいにんのひ)」の説明版です。
指定年月日 昭和52年4月1日
所在地 小林市 大字堤 4716の2
 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。 宮崎県内で最も古い石碑(せきひ)の一つです。 高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル(元)の大軍が九州北部に襲来しました。 後に「元寇(げんこう)」と呼ばれたこの出来事は、当時の人々に大きな衝撃を与え、鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令(かいげんれい)、をしいて外敵の侵攻に備(そな)えました。 永仁元年は弘安4年から12年目に当たります。
永仁の碑は、交通の難所であった岩瀬の渡しが画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵入が再び起こらないことを祈念(きねん)して建てられたものと思われます。
平成16年10月 小林市教育委員会
と書かれています。



写真CV: 中央が永仁の碑、右が水神様、左が説明板です。 水神様の左下に「水」と彫(ほ)ってある、上が尖(とが)った石があります。 旧道に沿(そ)ったところにあります。



写真CW: 宮崎県 小林市 大字堤にある宮崎県で最も古い石碑の一つである「永仁の碑(えいにんのひ)」です。
永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。
高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。



写真CX: 宮崎県で最も古い石碑の一つである「永仁の碑(えいにんのひ)」です。
永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。
高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。



写真CY: 右は「水神 岩瀬橋脚 鹿児島石工」と書いてあります。 左は永仁の碑です。



写真CZ: 左は宮崎県で最も古い石碑の一つである「永仁の碑(えいにんのひ)」です。
永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。
高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。
右は「水神 岩瀬橋脚 鹿児島石工」と書いてあります。 水神様の左下に「水」と彫(ほ)ってある、上が尖(とが)った石があります。



写真DA: 「水神 岩瀬橋脚 鹿児島石工」と書いてあります。 水神様です。



写真DB: 「水神 岩瀬橋脚 鹿児島石工」と書いてあります。 水神様。 水神様の左下に「水」と彫(ほ)ってある、上が尖(とが)った石があります。



写真DC: 左は宮崎県で最も古い石碑の一つである「永仁の碑(えいにんのひ)」です。
永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。
高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。



写真DD: 左は宮崎県で最も古い石碑の一つである「永仁の碑(えいにんのひ)」です。
永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元年(1293年、鎌倉時代後期)の文字があるところからそう呼(よ)ばれています。
高さ 95 cm、幅 30 cm の碑には中央上の梵字(ぼんじ)「バン」(これは大日如来(だいにちにょらい)の意味。)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進(橋を造るために金品を募(つの)ること。)」、左に「除蛮災(当時の元寇(げんこう)の災難を除(のぞ)くこと。)」の字が彫(ほ)られています。



写真DE: 旧岩瀬橋に行く旧道です。 明治10年の西南戦争のときに西郷軍、官軍ともにこの道を通りました。 ここは十字路になっています。 西を見たもの。



写真DF: 南西を見たもの。 奥に畜産の飼料タンクと思われるものが見えます。



写真DG: 南を見たものです。 稲が黄色に実(みの)っていました。



写真DH: 東を見た景色です。 奥の山は岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)です。



写真DI: 北東を見た景色です。 刈(か)り取った田んぼも見えます。 奥に車道が見えます。



写真DJ: 北を見たものです。 左に溝(みぞ)があります。



写真DK: 永仁の碑のそばにある溝(みぞ)です。



写真DL: 西を見たものです。



写真DM: 西を見たもの。



写真DN: そばの用水路です。



写真DO: 永仁の碑と水神様を後ろ(北)から見たものです。



写真DP: 左は後ろから見た永仁の碑です。 南を見たものです。



写真DQ: 斜め後ろから見た永仁の碑と水神様です。



写真DR: 東を見た景色です。 岩牟礼城址が見えます。
天正4年(1576年)8月 高原城陥落(かんらく)以降、島津 氏の領有となり、また、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)の際には、羽柴秀長(はしばひでなが)の軍がこの城まで侵攻しました。 その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になりました。
明治10年(1877年)の西南戦争の時に、この城に西郷軍が、水流迫(つるざこ)付近に官軍が構え、激しい砲撃戦が行われました。
 岩牟礼城は天文年間(1532年〜1555年)に伊東が造った山城です。 危急の際には高松城(宮崎県 小林市 野尻町 東麓 高松にあった城です。)と連携して狼煙(のろし)を上げる役目をしていました。 天正4年(1576年)に高原城が島津によって落城させられたのち、伊東は野尻城に撤退したために岩牟礼城は三ツ山城(後の小林城)、須木城とともに島津のものとなりました。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真DS: 東を見た景色。 奥に見える山は城ノ岡(標高 365.3 m)です。 そこに岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)があります。 伊東の城であった頃はそこで狼煙(のろし)を上げて、三ツ山城(後の小林城)と野尻城と連絡をとっていました。 この城ノ岡の山はこのあたりでは一番高い場所です。 それで狼煙(のろし)をあげるのに便利でした。 岩牟礼城は伊東48城には入っていません。



写真DT: 左下、右上は実(みの)った田んぼになっています。 南東を見た景色です。



写真DU: 南東を見たもの。 黄色に実った田んぼです。



写真DV: 東を見た景色です。 この先に旧岩瀬橋があり、その奥に岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)があります。



写真DW: 北東を見た景色です。 車道も見えます。



写真DX: 脇道(わきみち)もあります。 南東を見たもの。



写真DY: 旧岩瀬橋に戻(もど)って来ました。 東を見たもの。
明治10年の西南戦争のときには西郷軍が岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)に陣を置き、官軍はこの西の水流迫(つるざこ)に大砲を並べて陣を造りました。 西郷軍は官軍の東進を阻(はば)むためにここにあった木橋に火を付けました。 官軍は水流迫から岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)に居る西郷軍を岩瀬川を越えて砲撃しました。 この旧岩瀬橋があったところは古くからの道があって要所でした。 それで宮崎県で最も古い石碑の一つ、「永仁の碑」がこの橋を渡った所にあるのでしょう。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真DZ: 西から見た旧岩瀬橋です。 コンクリートの橋の両側に鉄の構造物が見えます。
この「旧 岩瀬橋」は古い鉄橋の路面を取り外(はず)して、その部分に新しい細い橋が造られています。 古い鉄橋の鉄の構造物、切石積(つ)みの橋脚は今でも残っています。 この古い鉄橋は宮崎県で最も古い鉄橋で土木文化財になっています。 切石積みの橋脚が使われています。 三菱神戸造船所製のトラス(鉄の部分)は大正14年(1925年)に完成しました。 下路平行弦ポニーワーレントラス 1+1連です。



写真EA: 岩瀬川の東の車道に戻(もど)って来ました。 「平成元年度記念事業 野尻町の永久木に指定する 岩瀬口 樹種 杉 本数 10本 平成元年 野尻町長 漆野正治」と彫(ほ)ってある石碑があります。



写真EB: 野尻町の永久木に指定された杉の木です。 奥に岩瀬川の水面が見えます。



写真EC: 野尻町の永久木に指定された杉の木。



写真ED: 野尻町の永久木に指定された杉の木です。



写真EE: 野尻町の永久木に指定された杉の木。



写真EF: 南を見たものです。 左は岩牟礼城跡 (いわむれじょうあと)です。 この先に国道268号線があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)