日知屋城跡、伊勢ケ浜、鵜戸神社 (市指定文化財 史跡 日知屋城跡、ひちやじょうあと、日知屋城址、船岡城、鵜戸神社 (洞窟の龍)、亀岩、伊勢ケ浜海浜公園、大御神社 (おおみじんじゃ)、うどじんじゃ、日豊海岸国定公園)  (宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道)







<標高、位置>  日知屋城跡 (ひちやじょうあと)は
標高 約30 m
 北緯32度24分40秒  東経131度39分03秒

<標高、位置>  伊勢ケ浜 (いせがはま)は
標高 約0 m
 北緯32度24分47秒  東経131度39分05秒

<標高、位置>  大御神社 (おおみじんじゃ)は
標高 数 m
 北緯32度24分40秒  東経131度38分58秒

<標高、位置>  櫛ノ山 (くしのやま)は
標高 約100 m
 北緯32度24分49秒  東経131度38分39秒


 「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 日知屋城主は土持、伊東、福本、氏本、薬師寺、井尻、高橋などです。 元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城。
 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。
 「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑 (せきひ)から、
日知屋城は鎌倉時代の末期から室町時代の半ばころまでの間にこの地方の地頭職であった伊東 氏(工藤祐経の後裔 (こうえい、子孫のことです。))によって築 (きず)かれ、天正年間まで同氏の居城であった。 当初、塩見城に在 (あ)って富高、塩見荘 一円を支配していた土持 氏に対向するための重要な砦 (とりで)であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。 後に土持 氏を駆逐 (くちく、追い払うことです。)して塩見城が伊東 氏の領するところとなってからも北方の一大勢力であった大友 氏に対する戦力的拠点として門川 塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。 伊東 氏は祐国  伊佑の時代から飫肥城 (おびじょう)の攻防をめぐって島津 氏と確執 (かくしつ、自分の意見を固く主張して譲 (ゆず)らないこと。)が続いた。 その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主 祐邑は、大友と結んで伊東 家の安泰をはかり島津 氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。 智勇兼備の名将として人々に慕 (した)われた祐邑の死をおしみ今この地方には 日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。

日知屋城は伊東48城の1つです。
 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 「鵜戸神社 (うどじんじゃ)」は日知屋城跡にあります。
 「(大御神社 (おおみじんじゃ)境内社の) 鵜戸神社 (うどじんじゃ)御由緒 (ゆいしょ)と御祭神」の説明石碑 (せきひ)から、
千古の神秘を湛 (たた)える洞窟に鎮座まします鵜戸神社は
ウガヤフキアエズノミコト、ヒコホノニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、シオツツノオオカミ
の5柱を御祭神として奉祀し、奉祀の年代は詳 (つまび)らかではないが、古くより鵜戸 (うど)さま鵜戸さまと御威徳を慕 (した)われ、安産、航海安全、交通安全、厄難消除、事業繁栄の御霊験あらたかとして、御霊域をたずねる報賽の人は、いよいよ多くなってきた。
例祭日
旧暦 正月16日、旧暦 3月16日、旧暦 11月16日

 「伊勢ケ浜公園」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 にあります。

 「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。

 「櫛ノ山 (くしのやま)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 櫛ノ山 にあります。


写真A: 大御神社 (おおみじんじゃ)の鳥居 (とりい)です。
「大御神社 (おおみじんじゃ)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 伊勢ケ浜 1番地 にあります。



写真B: 鳥居 (とりい)の左に駐車場があります。 そこに「日知屋城址 (ひちやじょうし)」の大きな石碑 (せきひ)があります。
日知屋城跡 (ひちやじょうあと)は伊勢ケ浜公園の南端にある小高い半島にあります。



写真C: 東を見たものです。 この森の奥には伊勢ケ浜海水浴場があります。



写真D: 東を見たものです。 この奥に伊勢ケ浜があります。



写真E: 伊勢ケ浜公園、大御神社 (おおみじんじゃ)の近くです。 日知屋城跡 (ひちやじょうあと)は伊勢ケ浜公園の南端にある小高い半島にあります。



写真F: 近くに飲料水の自動販売機、建物、駐車場などがあります。



写真G: この道を北北西から来ました。



写真H: 大御神社 (おおみじんじゃ)の入り口です。



写真I: 大御神社の鳥居のそばに「新たな発見! 5000年の時空を経 (へ)て 今、甦 (よみがえ)る 竜神伝説、(鵜戸神社 (うどじんじゃ)の洞窟の写真も載 (の)っています。) 大御神社」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真J: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財 日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図」の看板 (かんばん)が鳥居のそばにあります。
伊勢ケ浜、日知屋城址 (ひちやじょうし)、鵜戸神社、小亀岩、大亀岩、御神殿、駐車場、大御神社境内 (けいだい)、神座、さざれ石と火砕流による柱状岩の境目 (さかいめ)、さざれ石群、ボウズ山、鵜戸の瀬、お倉ヶ浜有料道路、塩見川、櫛の山
が載 (の)っています。



写真K: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財 日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図」の看板 (かんばん)が鳥居のそばにあります。
伊勢ケ浜、日知屋城址 (ひちやじょうし)、鵜戸神社、小亀岩、大亀岩、御神殿、駐車場、大御神社境内 (けいだい)、神座、さざれ石と火砕流による柱状岩の境目 (さかいめ)、さざれ石群、ボウズ山、鵜戸の瀬、お倉ヶ浜有料道路、塩見川、櫛の山
が載 (の)っています。



写真L: 「日向のお伊勢さま 大御神社 (おおみじんじゃ) 御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財 日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図」の看板 (かんばん)が鳥居のそばにあります。
伊勢ケ浜、日知屋城址 (ひちやじょうし)、鵜戸神社、小亀岩、大亀岩、御神殿、駐車場、大御神社境内 (けいだい)、神座、さざれ石と火砕流による柱状岩の境目 (さかいめ)、さざれ石群、ボウズ山、鵜戸の瀬、お倉ヶ浜有料道路、塩見川、櫛の山
が載 (の)っています。



写真M: 駐車場 (日知屋城址の石碑があります。)、大御神社の看板、鳥居が見えます。



写真N: 無料駐車場です。 この左奥に日知屋城跡の門 (入り口)があります。



写真O: 奥に日知屋城跡の門が見えています。 看板 (かんばん)もあります。



写真P: 駐車場に「日知屋城址 (ひちやじょうし)」の石碑 (せきひ)があります。 その左に「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑もあります。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。



写真Q: 日知屋城址の石碑 (せきひ)の下部です。



写真R: 「日知屋城址 (ひちやじょうし)」の石碑 (せきひ)。



写真S: 「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑 (せきひ)がそばにあります。
日知屋城は鎌倉時代の末期から室町時代の半ばころまでの間にこの地方の地頭職であった伊東 氏(工藤祐経の後裔 (こうえい、子孫のことです。))によって築 (きず)かれ、天正年間まで同氏の居城であった。 当初、塩見城に在 (あ)って富高、塩見荘 一円を支配していた土持 氏に対向するための重要な砦 (とりで)であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。 後に土持 氏を駆逐 (くちく、追い払うことです。)して塩見城が伊東 氏の領するところとなってからも北方の一大勢力であった大友 氏に対する戦力的拠点として門川 塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。 伊東 氏は祐国  伊佑の時代から飫肥城 (おびじょう)の攻防をめぐって島津 氏と確執 (かくしつ、自分の意見を固く主張して譲 (ゆず)らないこと。)が続いた。 その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主 祐邑は、大友と結んで伊東 家の安泰をはかり島津 氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。 智勇兼備の名将として人々に慕 (した)われた祐邑の死をおしみ今この地方には 日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。
と彫 (ほ)られています。



写真T: 「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑 (せきひ)がそばにあります。
日知屋城は鎌倉時代の末期から室町時代の半ばころまでの間にこの地方の地頭職であった伊東 氏(工藤祐経の後裔 (こうえい、子孫のことです。))によって築 (きず)かれ、天正年間まで同氏の居城であった。 当初、塩見城に在 (あ)って富高、塩見荘 一円を支配していた土持 氏に対向するための重要な砦 (とりで)であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。 後に土持 氏を駆逐 (くちく、追い払うことです。)して塩見城が伊東 氏の領するところとなってからも北方の一大勢力であった大友 氏に対する戦力的拠点として門川 塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。 伊東 氏は祐国  伊佑の時代から飫肥城 (おびじょう)の攻防をめぐって島津 氏と確執 (かくしつ、自分の意見を固く主張して譲 (ゆず)らないこと。)が続いた。 その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主 祐邑は、大友と結んで伊東 家の安泰をはかり島津 氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。 智勇兼備の名将として人々に慕 (した)われた祐邑の死をおしみ今この地方には 日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。
と彫 (ほ)られています。



写真U: 「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑 (せきひ)がそばにあります。
日知屋城は鎌倉時代の末期から室町時代の半ばころまでの間にこの地方の地頭職であった伊東 氏(工藤祐経の後裔 (こうえい、子孫のことです。))によって築 (きず)かれ、天正年間まで同氏の居城であった。 当初、塩見城に在 (あ)って富高、塩見荘 一円を支配していた土持 氏に対向するための重要な砦 (とりで)であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。 後に土持 氏を駆逐 (くちく、追い払うことです。)して塩見城が伊東 氏の領するところとなってからも北方の一大勢力であった大友 氏に対する戦力的拠点として門川 塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。 伊東 氏は祐国  伊佑の時代から飫肥城 (おびじょう)の攻防をめぐって島津 氏と確執 (かくしつ、自分の意見を固く主張して譲 (ゆず)らないこと。)が続いた。 その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主 祐邑は、大友と結んで伊東 家の安泰をはかり島津 氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。 智勇兼備の名将として人々に慕 (した)われた祐邑の死をおしみ今この地方には 日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。
と彫 (ほ)られています。



写真V: 「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑 (せきひ)がそばにあります。
日知屋城は鎌倉時代の末期から室町時代の半ばころまでの間にこの地方の地頭職であった伊東 氏(工藤祐経の後裔 (こうえい、子孫のことです。))によって築 (きず)かれ、天正年間まで同氏の居城であった。 当初、塩見城に在 (あ)って富高、塩見荘 一円を支配していた土持 氏に対向するための重要な砦 (とりで)であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。 後に土持 氏を駆逐 (くちく、追い払うことです。)して塩見城が伊東 氏の領するところとなってからも北方の一大勢力であった大友 氏に対する戦力的拠点として門川 塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。 伊東 氏は祐国  伊佑の時代から飫肥城 (おびじょう)の攻防をめぐって島津 氏と確執 (かくしつ、自分の意見を固く主張して譲 (ゆず)らないこと。)が続いた。 その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主 祐邑は、大友と結んで伊東 家の安泰をはかり島津 氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。 智勇兼備の名将として人々に慕 (した)われた祐邑の死をおしみ今この地方には 日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。
と彫 (ほ)られています。



写真W: 「日知屋城 由来 (ゆらい)」の石碑 (せきひ)がそばにあります。
日知屋城は鎌倉時代の末期から室町時代の半ばころまでの間にこの地方の地頭職であった伊東 氏(工藤祐経の後裔 (こうえい、子孫のことです。))によって築 (きず)かれ、天正年間まで同氏の居城であった。 当初、塩見城に在 (あ)って富高、塩見荘 一円を支配していた土持 氏に対向するための重要な砦 (とりで)であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。 後に土持 氏を駆逐 (くちく、追い払うことです。)して塩見城が伊東 氏の領するところとなってからも北方の一大勢力であった大友 氏に対する戦力的拠点として門川 塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。 伊東 氏は祐国  伊佑の時代から飫肥城 (おびじょう)の攻防をめぐって島津 氏と確執 (かくしつ、自分の意見を固く主張して譲 (ゆず)らないこと。)が続いた。 その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主 祐邑は、大友と結んで伊東 家の安泰をはかり島津 氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。 智勇兼備の名将として人々に慕 (した)われた祐邑の死をおしみ今この地方には 日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。
と彫 (ほ)られています。



写真X: 日知屋城跡の入り口にある門、説明板、車止め、ソテツの木、左に伊勢ケ浜への入り口が見えます。



写真Y: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真Z: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AA: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AB: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AC: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AD: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AE: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AF: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AG: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AH: 「伊勢ケ浜海浜公園 日知屋城址 案内図」があります。
1 堀切、2 古代メンヒル ストーンサークル、3 土塁 (どるい)、4 東の曲輪 (くるわ)、5 舟付きの曲輪、6 西の曲輪、7 主郭 (しゅかく、本丸)、8 虎口 (とらぐち)、(屋外卓)、9 出土品表示板、10 出土品表示板、11 出土品表示板、12 出土品表示板、(東屋 (あずまや))、伊勢ケ浜ビーチ、トイレ、シャワー、鵜戸神社 (うどじんじゃ)、大御神社 (おおみじんじゃ)、現在地、櫛の山 (くしのやま)→、市街地→、米ノ山→
などが載 (の)っています。



写真AI: 宮崎県 日向市にある「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」の入り口にある門です。 東を見たものです。



写真AJ: 門のそばに伊勢ケ浜ビーチに行く歩道があります。



写真AK: 日向市にある伊勢ケ浜ビーチです。 左端に日知屋城跡がある山が見えます。 砂浜、ビロウ樹も見えます。



写真AL: この山が日知屋城跡です。 伊勢ケ浜ビーチの南端にある半島にあります。



写真AM: 日知屋城跡にある東屋 (あずまや)が右寄りに小さく見えます。 その東屋があるところは舟付きの曲輪 (くるわ、城の平らな所です。)です。 手前は伊勢ケ浜ビーチです。 南東を見た景色です。



写真AN: 北東を見た風景です。 遠くに日向岬の近くが見えています。



写真AO: 中央左寄りに伊勢ケ浜ビーチの建物が見えます。 丘の上に携帯電話の基地局アンテナがあります。 北を見たものです。



写真AP: 日向市にある伊勢ケ浜ビーチ。 左にハマユウの花が見えます。



写真AQ: 伊勢ケ浜ビーチから見た日知屋城跡です。 日知屋城は山城です。 左端に舟付きの曲輪 (くるわ、平らな所)が見えます。 日知屋城は伊勢ケ浜ビーチの南の半島にあります。 南を見たものです。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真AR: 日知屋城跡の東屋 (あずまや)が見えます。 そこは舟付きの曲輪 (くるわ)です。 伊勢ケ浜ビーチから南東を見た景色です。 遠くに船も見えます。



写真AS: 日向市にある伊勢ケ浜ビーチの建物が見えます。 ビロウ樹も植えてあります。 北西を見たものです。



写真AT: 丘の上に建物と携帯電話の基地局アンテナがあります。 北を見たものです。



写真AU: 北東を見た風景です。 海岸の岩場も見えます。 ここは日豊海岸国定公園です。



写真AV: 「国有林を利用される皆様へ」の看板 (かんばん)があります。
この森林は、あなたの生命、住居、耕地等を守ってくれる潮害防備保安林です。 ゴミの不法投棄は、廃棄物処理法により処罰されます。 ゴミのない森林づくりには、あなたの協力が必要です。 緑の国土を守り、樹木を愛し、大切に育てましょう。 山火事防止のため、たき火やたばこの投げ捨ては絶対にやめましょう。 宮崎北部森林管理署。
と書いてあります。



写真AW: 駐車場のところに戻 (もど)って来ました。



写真AX: 日知屋城跡の入り口にある門です。 東を見たものです。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真AY: 「注意 この遊歩道の石畳 (いしだたみ)は濡 (ぬ)れると滑 (すべ)りやすいので、通行時、足元に充分ご注意下さい。 日向市。」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真AZ: 猫 (ねこ)が多くいました。



写真BA: 先に進みます。



写真BB: ここは遊歩道が三叉路 (さんさろ)になっています。



写真BC: 右手に日知屋城跡にある墓場が見えます。 左に遊歩道の柵 (さく)があります。 ツワブキの葉が見えています。



写真BD: 来た遊歩道を振り返ったものです。 左に多くの墓が見えます。 日知屋城跡です。



写真BE: 日知屋城跡にある多くの墓です。
日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真BF: 古い墓が多くあります。 日知屋城跡。



写真BG: シキミの枝が供 (そな)えてある墓があります。 湯のみなども見えます。



写真BH: シキミの枝が供 (そな)えてある墓の下部です。 湯のみなども見えます。



写真BI: 「清公尊儀追善供養塔、平成元年9月16日建立 (こんりゅう、建てること。)、堀一方区民一同」と彫 (ほ)ってあります。



写真BJ: 清公尊儀追善供養塔の下部です。 湯のみが供 (そな)えてあります。



写真BK: 多くの歴史的な墓があります。 日知屋城跡。



写真BL: 多くの墓があります。 日向市にある日知屋城跡。



写真BM: ここにもシキミの枝が供 (そな)えてあります。 左は遊歩道です。



写真BN: 遊歩道のそばに岩があります。



写真BO: 遊歩道の近くにある岩です。



写真BP: 「虎口 (とらぐち)→」と書いてある標識があります。



写真BQ: 日知屋城跡の虎口 (とらぐち)に木の門があります。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真BR: 日向市にある日知屋城跡の虎口の門です。



写真BS: 日知屋城跡の虎口 (とらぐち)です。 説明板、ベンチ、テーブルも見えます。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真BT: 「虎口 曲輪 (くるわ)の出入口」の説明板です。



写真BU: 「虎口 曲輪 (くるわ)の出入口」の説明板。



写真BV: 宮崎県 日向市にある日知屋城跡の虎口 (とらぐち)です。 説明板、テーブル、ベンチもあります。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。



写真BW: 虎口にあるテーブル、ベンチ、説明板です。



写真BX: 日知屋城跡の虎口からの出土品の絵などが書いてあります。
類似参考資料、出土品 白磁 青磁などが載 (の)っています。



写真BY: 階段が見えます。 日知屋城跡。



写真BZ: こちらにも古い石段と石垣 (いしがき)があります。 見下 (お)ろしたものです。



写真CA: 日向市にある日知屋城跡の石段と石垣 (いしがき)です。 この石段を下 (くだ)ります。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真CB: 「鵜戸神社 (うどじんじゃ)→」の標識とベンチ、「鵜戸神社」の石碑 (せきひ)、右端に鵜戸神社の鳥居 (とりい)が見えます。



写真CC: 日知屋城跡にある「鵜戸神社」の鳥居 (とりい)、石碑、ベンチ、奥に参道の手すりも見えます。



写真CD: 右に降りて来た石段が見えます。 左奥に行くと西の曲輪 (くるわ)、堀切 (ほりきり)、大御神社 (おおみじんじゃ)などがあります。



写真CE: 歴史的な石段を登ります。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。



写真CF: 日知屋城跡の石段です。



写真CG: 日知屋城跡の石垣 (いしがき)と石段です。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真CH: 宮崎県 日向市にある「日知屋城跡」の石垣 (いしがき)と石段。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真CI: この階段を登ります。



写真CJ: 日知屋城跡です。



写真CK: 階段を登ります。



写真CL: 日知屋城跡です。



写真CM: 石段のそばに岩もあります。



写真CN: このあたりは岩が多くあります。



写真CO: 日知屋城跡。



写真CP: ここは遊歩道が三叉路 (さんさろ)になっています。



写真CQ: 「古代メンヒル ストーンサークル」の説明板があります。 ここは日知屋城跡です。



写真CR: 「古代メンヒル ストーンサークル」の説明板。



写真CS: このあたりは岩が多くあります。 日知屋城跡。



写真CT: 日知屋城跡。



写真CU: 日知屋城跡から南の海岸、遠くの山も見えます。



写真CV: 岩が多くあります。 右は遊歩道です。



写真CW: このあたりは下 (くだ)りになっています。



写真CX: 休憩所 (きゅうけいしょ)の建物が見えます。 日知屋城跡。



写真CY: 左に日知屋城跡の古い石段があります。 ここは三叉路 (さんさろ)になっています。



写真CZ: 宮崎県 日向市にある日知屋城跡の古い石段です。



写真DA: 日知屋城跡です。



写真DB: 日知屋城跡。



写真DC: 奥の下に日知屋城跡の本丸があります。 本丸が明るく見えています。



写真DD: 右に主郭 (しゅかく、本丸)に降りる階段が見えます。



写真DE: 奥が日知屋城の主郭 (しゅかく、本丸)があった所です。 左に柵 (さく)が見えます。



写真DF: 本丸跡 (ほんまるあと)から先ほど来た道を見上げたものです。 左から右に来ました。



写真DG: この曲輪 (くるわ、平らな所)が本丸跡です。 説明板も見えます。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。
 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真DH: 日知屋城の本丸 (主郭 (しゅかく))にある説明板です。



写真DI: 日知屋城跡の本丸です。



写真DJ: 本丸跡にある説明板です。



写真DK: 日知屋城の本丸跡です。



写真DL: 日知屋城跡の本丸です。



写真DM: 「日知屋城跡 主郭 (しゅかく、本丸)」の説明板があります。
 日知屋城跡は岬 (みさき)に築 (きず)かれた城で別名を船岡城と言い、自然の尾根に守られた城の中心地を本丸にしており、ここに城主や家族の住む屋形が建っていました。 本丸では13世紀から16世紀ごろの陶磁器や硯 (すずり)、古銭、かんざし、キセルなどたくさんの遺物が発掘されています。
(本丸にあった建物の内部、外部の想像図の絵が載 (の)っています。)
と書かれています。



写真DN: 「日知屋城跡 主郭 (しゅかく、本丸)」の説明板があります。
 日知屋城跡は岬 (みさき)に築 (きず)かれた城で別名を船岡城と言い、自然の尾根に守られた城の中心地を本丸にしており、ここに城主や家族の住む屋形が建っていました。 本丸では13世紀から16世紀ごろの陶磁器や硯 (すずり)、古銭、かんざし、キセルなどたくさんの遺物が発掘されています。
(本丸にあった建物の内部、外部の想像図の絵が載 (の)っています。)
と書かれています。



写真DO: 「日知屋城跡 主郭 (しゅかく、本丸)」の説明板があります。
 日知屋城跡は岬 (みさき)に築 (きず)かれた城で別名を船岡城と言い、自然の尾根に守られた城の中心地を本丸にしており、ここに城主や家族の住む屋形が建っていました。 本丸では13世紀から16世紀ごろの陶磁器や硯 (すずり)、古銭、かんざし、キセルなどたくさんの遺物が発掘されています。
(本丸にあった建物の内部、外部の想像図の絵が載 (の)っています。)
と書かれています。



写真DP: 「日知屋城跡 主郭 (しゅかく、本丸)」の説明板があります。
 日知屋城跡は岬 (みさき)に築 (きず)かれた城で別名を船岡城と言い、自然の尾根に守られた城の中心地を本丸にしており、ここに城主や家族の住む屋形が建っていました。 本丸では13世紀から16世紀ごろの陶磁器や硯 (すずり)、古銭、かんざし、キセルなどたくさんの遺物が発掘されています。
(本丸にあった建物の内部、外部の想像図の絵が載 (の)っています。)
と書かれています。



写真DQ: 「日知屋城跡 主郭 (しゅかく、本丸)」の説明板があります。
 日知屋城跡は岬 (みさき)に築 (きず)かれた城で別名を船岡城と言い、自然の尾根に守られた城の中心地を本丸にしており、ここに城主や家族の住む屋形が建っていました。 本丸では13世紀から16世紀ごろの陶磁器や硯 (すずり)、古銭、かんざし、キセルなどたくさんの遺物が発掘されています。
(本丸にあった建物の内部、外部の想像図の絵が載 (の)っています。)
と書かれています。



写真DR: 日知屋城跡の本丸からの出土品の写真が載っている説明板があります。
洪武通宝、至元通宝、硯 (すずり)・古銭・刀子
などの写真があります。
洪武は明 (みん)の太祖朝の年号 (1368年〜1398年)です。 至元はモンゴル帝国の元号 (1264年〜1294年)です。
洪武通宝、至元通宝は日本に輸入された硬貨です。 江戸幕府が寛永通宝を発行するまで、日本の硬貨には渡来銭が使われていました。 長期間にわたって多種の渡来銭がありましたが、多くは宋銭です。



写真DS: 日知屋城の本丸跡です。



写真DT: 本丸にある石垣 (いしがき)です。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DU: 本丸 (主郭 (しゅかく))の石垣です。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DV: 本丸 (主郭 (しゅかく))の石垣 (いしがき)。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DW: 本丸から見た石垣 (いしがき)です。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真DX: 本丸を振り返って見たものです。



写真DY: 日知屋城跡です。



写真DZ: 日知屋城跡。



写真EA: 「←土塁 (どるい)」、「←東の曲輪 (くるわ、平らな所)」、「本丸→」と書いてある標識があります。



写真EB: 日知屋城跡の様子 (ようす)です。



写真EC: 木の間から遠くが見えます。



写真ED: 石畳 (いしだたみ)の歩道が城内にあります。



写真EE: 石垣 (いしがき)があります。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EF: テーブル、ベンチがあります。



写真EG: ソテツの木、テーブル、ベンチが見えます。



写真EH: 日知屋城の東の曲輪 (くるわ、平らな所)です。 説明板があります。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EI: 日知屋城の曲輪 (くるわ、平らな所)で、「東の曲輪」と呼 (よ)ばれます。



写真EJ: 「日知屋城跡 東の曲輪 (くるわ、平らな所)」の説明板があります。
 日知屋城で2番目に広い曲輪で、南側は尾根つづきの土塁 (どるい、土を盛り上げて築 (きず)いた、小さな砦。)によって守られています。 城主に次ぐ家臣 (かしん)たちの屋敷が建っていたと考えられていますが、1部は屋営地として城兵たちも使っていたようです。 また釣りのおもりに使われた土錘 (どすい)と呼ばれる遺物も大量に発掘されていますので、城に住んだ人たちは魚をとることもあったようです。
と書かれています。



写真EK: 「日知屋城跡 東の曲輪 (くるわ、平らな所)」の説明板があります。
 日知屋城で2番目に広い曲輪で、南側は尾根つづきの土塁 (どるい、土を盛り上げて築 (きず)いた、小さな砦。)によって守られています。 城主に次ぐ家臣 (かしん)たちの屋敷が建っていたと考えられていますが、1部は屋営地として城兵たちも使っていたようです。 また釣りのおもりに使われた土錘 (どすい)と呼ばれる遺物も大量に発掘されていますので、城に住んだ人たちは魚をとることもあったようです。
と書かれています。



写真EL: 「日知屋城跡 東の曲輪 (くるわ、平らな所)」の説明板があります。
 日知屋城で2番目に広い曲輪で、南側は尾根つづきの土塁 (どるい、土を盛り上げて築 (きず)いた、小さな砦。)によって守られています。 城主に次ぐ家臣 (かしん)たちの屋敷が建っていたと考えられていますが、1部は屋営地として城兵たちも使っていたようです。 また釣りのおもりに使われた土錘 (どすい)と呼ばれる遺物も大量に発掘されていますので、城に住んだ人たちは魚をとることもあったようです。
と書かれています。



写真EM: 類似参考資料 出土品 土錘 (どすい)の写真が載 (の)っています。 東の曲輪です。



写真EN: ベンチもあります。 石垣 (いしがき)も見えます。 野草の葛 (くず)が茂 (しげ)っていました。



写真EO: 東の曲輪です。 野草のクズが茂っていました。



写真EP: 東の曲輪 (くるわ、平らな所)です。



写真EQ: ソテツの木とベンチ、テーブルがあります。



写真ER: 石が階段のそばにあります。



写真ES: 「オニユリの花」 が咲いていました。



写真ET: このあたりが舟付きの曲輪 (くるわ、平らな所)です。 東屋(あずまや)、海が見えます。 左にオニユリの花が咲いていました。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。



写真EU: 来た道を振り返ったもの。



写真EV: 海岸の岩場が見えます。 手前にオニユリの花があります。 南東を見た景色です。



写真EW: 東を見た風景です。 岩場の海岸、ソテツの木、オニユリの花が見えます。 日向灘 (太平洋)も見えます。



写真EX: 左に米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。 右端が日向岬の近くです。 米ノ山の手前に白く見える建物は旧 日向ハイツ (現在はホテルジェイズ日向ブルーパーク)です。 東北東を見た風景です。
手前は日知屋城の舟付きの曲輪 (くるわ、平らな所)があった所です。 今は東屋 (あずまや)があります。 オニユリの花が見えます。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EY: 北を見た景色です。 遠くの山に建物が見えます。



写真EZ: 海岸のそばに東屋 (あずまや)があります。 日知屋城の舟付きの曲輪 (くるわ、平らな所)があった所です。



写真FA: 来た道を振り返ったもの。 右上は東屋 (あずまや)の屋根です。



写真FB: ソテツの木、海岸の岩場があります。 南東を見たものです。



写真FC: 東を見た風景です。



写真FD: 東北東を見た風景です。



写真FE: 北東を見た風景です。 米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。 米ノ山の手前に白く見える建物は旧 日向ハイツ (現在はホテルジェイズ日向ブルーパーク)です。 左端は伊勢ケ浜ビーチです。 左手前は東屋 (あずまや)です。 オニユリの花も見えます。



写真FF: 左端に伊勢ケ浜ビーチが見えます。 米ノ山 (標高 191.6 m)が見えます。 米ノ山の手前に白く見える建物は旧 日向ハイツ (現在はホテルジェイズ日向ブルーパーク)です。 日知屋城跡は伊勢ケ浜ビーチの南端にある半島全体です。 伊勢ケ浜ビーチは湾 (わん)にあります。 北東を見た風景です。



写真FG: 日知屋城の舟付きの曲輪 (くるわ、平らな所)から見た伊勢ケ浜ビーチです。 ビーチの建物、ビロウ樹、北西の山並み (やまなみ)も見えます。 左に岩場が見えます。 北西を見たものです。



写真FH: 伊勢ケ浜ビーチの南端は山の半島になっています。 その半島が日知屋城跡です。 左上は東屋 (あずまや)の屋根です。 西北西を見たものです。



写真FI: 日豊海岸国定公園の柱状節理 (マグマが冷却固化する時に生じる柱状の割れ目です。)の岩が見えます。 右奥は伊勢ケ浜ビーチ。 遠くの山も見えます。 北西を見たものです。



写真FJ: 東を見た風景です。 柱状節理 (マグマが冷却固化する時に生じる柱状の割れ目です。)の岩が見えます。 海面の上にロープのようなものが張 (は)ってあります。 中央左寄りに釣り人と思われる人が見えます。



写真FK: 南東を見た景色です。 岩、右にソテツの木が見えます。



写真FL: 下に降りる石段があります。



写真FM: 遠くの右端は日向岬の近くです。 手前に降りる石段があります。 中央に白っぽい丸い物があります。



写真FN: この海面は左で伊勢ケ浜ビーチにつながります。



写真FO: 左手前にコンクリート製の物が見えます。



写真FP: 「ヒオウギズイセンの花」が咲いていました。 右端にソテツの葉も見えます。



写真FQ: 南東を見た景色です。 右にオニユリの橙色 (だいだいいろ)の花がいくつか見えます。



写真FR: 来た道を振り返ったもの。



写真FS: 来た道を振り返ったもの。



写真FT: 右端は伊勢ケ浜ビーチです。



写真FU: 伊勢ケ浜に打ち寄せる白波が見えます。



写真FV: 石垣 (いしがき)があります。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真FW: 日知屋城跡。



写真FX: 奥に海が見えます。 ベンチ、テーブルもあります。



写真FY: 南西を見た風景です。 小倉ヶ浜が見えます。 小倉ヶ浜の北端に塩見川の河口があります。 遠くの山並み (やまなみ)も見えます。



写真FZ: 南を見た風景です。 岩に白波が砕 (くだ)けています。



写真GA: 来た歩道を振り返ったものです。 東を見た風景です。


写真GB: 東北東を見たものです。 遠くに日向岬の近くが見えます。



写真GC: 日知屋城跡の歩道です。 左に柵 (さく)があります。



写真GD: 日知屋城跡から南を見た風景です。 右端に小倉ヶ浜、手前に岩と白波も見えます。



写真GE: 「日知屋城跡 土塁 (どるい)」の説明板です。
 土塁は敵の侵入を防ぐための施設で、土を高く盛ってつくります。 ここの土塁は岩場のためあまり深くできなかった堀切を補強するねらいがあったようです。
(土塁 (どるい)の絵も載 (の)っています。)
と書いてあります。



写真GF: 「日知屋城跡 土塁 (どるい)」の説明板です。
 土塁は敵の侵入を防ぐための施設で、土を高く盛ってつくります。 ここの土塁は岩場のためあまり深くできなかった堀切を補強するねらいがあったようです。
(土塁 (どるい)の絵も載 (の)っています。)
と書いてあります。



写真GG: ここは土塁 (どるい)のようです。



写真GH: 日知屋城跡の歩道です。 まわりは夏草が茂っていました。



写真GI: 来た道を振り返ったもの。



写真GJ: 石垣 (いしがき)があります。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真GK: 野草のツワブキが生 (は)えていました。



写真GL: 「←ストーンサークル」と書いてあります。



写真GM: 階段があります。



写真GN: 休憩所 (きゅうけいしょ)が見えます。



写真GO: 石段のそばに野草のツワブキが生 (は)えていました。



写真GP: 休憩所 (きゅうけいしょ)です。 ロープが張ってあります。



写真GQ: このあたりは石畳 (いしだたみ)の遊歩道です。



写真GR: 石垣 (いしがき)と石段です。
「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真GS: 「鵜戸神社 (うどじんじゃ)→」の標識と右奥に「鵜戸神社」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。 ここも日知屋城跡です。



写真GT: 日知屋城跡にある鵜戸神社 (うどじんじゃ)の鳥居 (とりい)と2つの石碑 (せきひ)です。



写真GU: 「鵜戸神社」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)。



写真GV: 「大御神社 (おおみじんじゃ)境内社 鵜戸神社 (うどじんじゃ)御由緒 (ゆいしょ)と御祭神」の説明石碑 (せきひ)があります。
千古の神秘を湛 (たた)える洞窟に鎮座まします鵜戸神社は
ウガヤフキアエズノミコト、ヒコホノニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、シオツツノオオカミ
の5柱を御祭神として奉祀し、奉祀の年代は詳 (つまび)らかではないが、古くより鵜戸 (うど)さま鵜戸さまと御威徳を慕 (した)われ、安産、航海安全、交通安全、厄難消除、事業繁栄の御霊験あらたかとして、御霊域をたずねる報賽の人は、いよいよ多くなってきた。
例祭日
旧暦 正月16日、旧暦 3月16日、旧暦 11月16日
と書かれています。



写真GW: 鵜戸神社の鳥居 (とりい)です。 奥に社殿に下 (くだ)る参道の手すりが見えます。



写真GX: 鳥居 (とりい)の下部です。



写真GY: 「←龍宮 (りゅうぐう)」と書いてあります。



写真GZ: ロープが張 (は)ってあります。



写真HA: 鵜戸神社に降りる参道です。 「石段が急です! 足元には気をつけて下さい。」と書いてあります。



写真HB: 下 (くだ)って来た参道の階段を振り返ったものです。



写真HC: 参道の階段から南を見た風景です。 白波、岩、水平線などが見えます。 右手前は参道の手すりです。



写真HD: 日豊海岸国定公園の岩場です。 鵜戸神社の近くです。



写真HE: 鵜戸神社のそばの岩場です。



写真HF: かなり急な階段が続いています。 参道はこのように崖 (がけ)に造ってあり道幅は狭 (せま)い。



写真HG: 参道の先に縦 (たて)に細長い洞窟 (どうくつ)の入り口が黒く見えます。



写真HH: 参道の階段から見た景色です。



写真HI: 崖 (がけ)の上部はこのように木が茂 (しげ)っています。



写真HJ: 崖 (がけ)の上部です。



写真HK: 左下に社殿のある洞窟 (どうくつ)の上部が黒く見えます。



写真HL: 参道の先に黒く鵜戸神社 (うどじんじゃ)がある洞窟 (どうくつ)の入り口が見えています。



写真HM: 参道は崖 (がけ)の中腹にあります。



写真HN: 参道のそばの崖 (がけ)から山水 (やまみず)が流れ出ています。



写真HO: 洞窟 (どうくつ)の中に鵜戸神社の赤い鳥居 (とりい)が見えてきました。



写真HP: 参道の洞窟近くは特に急坂になっています。



写真HQ: ここが参道の階段の一番最後で、洞窟の入り口の近くです。



写真HR: 降りて来た参道の石段を振り返ったものです。



写真HS: 鵜戸神社が中にある洞窟 (どうくつ)の入り口から海の方 (南)を見た景色です。 岩が多くあります。



写真HT: 洞窟の入り口付近です。 岩の崖 (がけ)もあります。



写真HU: 社殿がある洞窟のそばの岩です。



写真HV: 岩の崖 (がけ)の上部です。



写真HW: 洞窟の入り口です。 赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真HX: 入り口から洞窟 (どうくつ)の奥 (西)を見たものです。 参道には砂と石が見えます。 日向市にある鵜戸神社です。



写真HY: 左の岩から水が出ています。



写真HZ: 鵜戸神社の洞窟 (どうくつ)の入り口は上下に長い形をしていて、奥の社殿の近くから見ると明るい「龍 (りゅう)」のように見えます。 下に赤い鳥居 (とりい)もあります。



写真IA: 洞窟の入り口から上を見たものです。



写真IB: 洞窟 (どうくつ)の入り口の上部です。 このようになっています。



写真IC: 洞窟の中にある鳥居の奥に赤く鵜戸神社の建物が見えます。 洞窟の内部はこのようになっています。 岩から水が滴 (したた)り落ちています。



写真ID: 洞窟の中に、「石を重 (かさ)ね置くのは ご遠慮下さい。」と書いてある看板 (かんばん)があります。 洞窟の壁 (かべ)の岩や下の石が山水 (やまみず)で濡 (ぬ)れています。



写真IE: 左に、日向市にある鵜戸神社 (うどじんじゃ)の社殿が見えます。 その右下に石段があります。



写真IF: これが洞窟 (どうくつ)の奥にある鵜戸神社の社殿です。 榊 (さかき)などが供 (そな)えてあります。 社殿の右に柱状節理の岩があります。 手前の岩は緑色に苔 (こけ)むしています。 社殿に行く石段もあります。



写真IG: 鵜戸神社の上の岩です。 神秘的な感じがします。 右の岩は柱状節理の岩の特徴がよく分かります。



写真IH: 鵜戸神社の社殿の上部の岩です。 洞窟の奥の所に社殿があります。



写真II: 社殿の右側はこのようになっています。 鵜戸神社に榊 (さかき)、酒などが供 (そな)えてあります。



写真IJ: 鵜戸神社に酒、榊 (さかき)などが供 (そな)えてあります。



写真IK: 社殿の左にある岩の壁 (かべ)です。 日向市にある鵜戸神社。



写真IL: 社殿の近くから洞窟の入り口を見たものです。 下に鳥居 (とりい)が見えます。



写真IM: 洞窟の入り口を内部から見たものです。 参道、鳥居も見えます。



写真IN: 洞窟の中にある参道の様子 (ようす)がよく分かります。 手前に石段があります。 両側の岩も見えます。



写真IO: 「ここより入口をご覧下さい。 昇り龍 (のぼりりゅう)が見られます。」と書いてある看板 (かんばん)が下にあります。



写真IP: これが日向市にある鵜戸神社の「昇り龍 (のぼりりゅう)」です。 明るい龍が天に昇(のぼ)っているように見えます。 明るい部分は入り口から明るい外が見えているのです。



写真IQ: 宮崎県 日向市にある鵜戸神社 (うどじんじゃ)の「昇り龍 (のぼりりゅう)」です。 明るい竜が空に昇 (のぼ)っているようです。



写真IR: 鵜戸神社の洞窟内がよく分かります。



写真IS: 日知屋城址 (ひちやじょうし)にある鵜戸神社の洞窟の中です。 入り口近くです。



写真IT: 参道を戻 (もど)ってきました。 「石段が急です! 足元に気をつけて下さい。」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真IU: 鵜戸神社の鳥居 (とりい)のところに戻 (もど)ってきました。



写真IV: 「昭和47年4月吉日 建立 (建設すること。)」と鳥居に書いてあります。



写真IW: 日知屋城の西の曲輪 (くるわ、平らな所)です。 展望所ができています。 奥に鳥居 (明治42年旧正月16日建立)が見えます。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真IX: 西の曲輪 (くるわ、平らな所です。)の近くです。 右に展望所の柵 (さく)が見えます。 左に海の岩、中央に大御神社 (おおみじんじゃ)の屋根が見えます。



写真IY: 西の曲輪のそばから大御神社 (おおみじんじゃ)の屋根が見えます。 遠くの自動車、家も見えます。



写真IZ: 「日知屋城跡 西の曲輪 (くるわ)」の説明板があります。
日知屋城は西側だけが陸とつながっていて敵に攻 (せ)められやすい弱点をもっています。 それで本丸を守るため尾根の西側に城兵たちが野営の際に利用した家跡が発見されています。
(想定図も載 (の)っています。)
と書かれています(一部判読しました。)。



写真JA: 「日知屋城跡 西の曲輪 (くるわ)」の説明板があります。
日知屋城は西側だけが陸とつながっていて敵に攻 (せ)められやすい弱点をもっています。 それで本丸を守るため尾根の西側に城兵たちが野営の際に利用した家跡が発見されています。
(想定図も載 (の)っています。)
と書かれています(一部判読しました。)。



写真JB: 「日知屋城跡 西の曲輪 (くるわ)」の説明板があります。
日知屋城は西側だけが陸とつながっていて敵に攻 (せ)められやすい弱点をもっています。 それで本丸を守るため尾根の西側に城兵たちが野営の際に利用した家跡が発見されています。
(想定図も載 (の)っています。)
と書かれています(一部判読しました。)。



写真JC: 西の曲輪 (くるわ)跡に展望所があります。



写真JD: 展望所の中です。 椅子 (いす)などに利用する大きな箱 (はこ)があります。 まわりには柵 (さく)があります。



写真JE: 西の曲輪 (くるわ)跡にある展望所から南を見た景色です。 小倉ヶ浜、遠くの山並み(やまなみ)、岩、白波も見えます。



写真JF: 西の曲輪 (くるわ)跡にある展望所から東を見たもの。 左端に来た遊歩道があります。



写真JG: 日知屋城址の西の曲輪 (くるわ)跡にある展望所から南を見た景色。 お倉ヶ浜、岩、白波、遠くの山並み (やまなみ)も見えます。



写真JH: 亀 (かめ)の形をした大きな岩が海の中にあります。



写真JI: 南東を見たものです。 小さな島も見えます。 手前は亀の形をした岩です。



写真JJ: 西の曲輪 (くるわ)のすぐ下の海岸です。 右は亀の形をした岩です。 左の岩に白い服を着た釣り人 (つりびと)が見えます。 昔、城にいた人たちもこのように釣りをしていたことでしょう。



写真JK: 左の柵 (さく)に「↑亀岩」と書いてある看板 (かんばん)があります。 西の曲輪 (くるわ)跡です。 南を見たものです。



写真JL: ここから見ると本当に亀の形をした「亀岩」が見えます。



写真JM: 日知屋城址 (ひちやじょうし)の西の曲輪 (くるわ)から見た亀岩です。 南東を見たもの。



写真JN: 西の曲輪 (くるわ)から見た「亀岩」。 背中のところに植物 (木)が生 (は)えています。



写真JO: 鵜戸神社 (うどじんじゃ)の鳥居 (とりい、明治42年旧正月16日建立)です。 右に説明板があります。 左は展望所です。



写真JP: 展望所と鳥居 (とりい)です。



写真JQ: 鳥居の近くにある石造物です。 明治45年 旧9月16日 建立。



写真JR: 鳥居のそばにある石造物。 明治45年 旧9月16日 建立。



写真JS: 鳥居の近くにある石造物です。 「明治45年 旧9月16日 建立」と書いてあります。



写真JT: 石造物があります。 石もあります。



写真JU: 鵜戸神社の鳥居 (明治42年旧正月16日建立)です。 外側から見たものです。 右奥に展望所が見えます。



写真JV: 「明治42年旧正月16日建立」と彫 (ほ)ってあります。 鳥居です。



写真JW: 城跡の「堀切 (ほりきり)」に橋があります。



写真JX: 日知屋城跡の堀切 (ほりきり)です。



写真JY: 日知屋城の堀切 (ほりきり)です。
「日知屋城跡 (ひちやじょうあと)」は宮崎県 日向市 大字日知屋 字伊勢道 にあります。 市指定文化財 史跡 日知屋城跡です。
 日知屋城は北、東、南を海に囲 (かこ)まれている小高い半島 (標高 約30 m)にある山城です。 築城者は不明ですが、おそらく土持かもしれません。 築城年代は不明です。 別名は船岡城です。 6ヵ所の曲輪 (くるわ、平らな所。)、土塁 (どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦 (とりで)。)、堀切、空堀、石垣、石段などが残っています。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。 そのときに日知屋城は財部土持から伊東祐尭の城となりました。 文明13年 (1556年)に第5代の伊東祐国の弟 伊東祐邑が日知屋城内で暗殺されました。 辞世の句は「露はおき萩はまたぬる朝 (あした)かな」です。 刺客を送ったのは伊東祐邑の母方の野村でした。 本家の伊東尹祐(ただすけ)は怒って文明18年 (1561年)に野村の11人に切腹を命じました(野村の乱)。 このように、日知屋城での伊東佑邑の暗殺は伊東勢の乱れを招き弱体化の原因の1つになりました。 伊東佑邑が暗殺された後は福本新十郎、氏本駿河守などが城主となりました。 島津との戦いでは城番の福永や日知屋衆が入郷 (「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。)地域の将と共に出陣していました。 伊東義祐の豊後落ち (ぶんごおち、天正5年 (1577年))の後は日知屋城は大友と島津の戦いの前線となり、大友の将 (海賊衆) 薬師寺兵庫守が城主でした。 天正6年 (1578年)の耳川の戦いの後に島津の領地になりました。 島津の家臣 井尻伊賀守が城主となりました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)の後は松尾城主の高橋元種の領地になりましたが、元和元年 (1615年)の1国1城令で日知屋城は廃城になりました。
 日知屋城跡にある墓地には伊東祐国と佑邑 兄弟の慰霊碑があります。 新しいもの (昭和59年 (1984年)建立)は500回遠忌に建てられました。
日知屋城は伊東48城の1つです。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真JZ: 「日知屋城跡 堀切」の説明版です。
 岬 (みさき)の城である日知屋城跡を陸地から攻められにくくするために掘られたU字形の溝 (みぞ)が「堀切」です。 ただこの場所は岩場であるため深い溝を掘るのは大変な作業だったと思われます。
(堀切の絵も載 (の)っています。)
と書かれています。



写真KA: 「日知屋城跡 堀切」の説明版です。
 岬 (みさき)の城である日知屋城跡を陸地から攻められにくくするために掘られたU字形の溝 (みぞ)が「堀切」です。 ただこの場所は岩場であるため深い溝を掘るのは大変な作業だったと思われます。
(堀切の絵も載 (の)っています。)
と書かれています。



写真KB: 「日知屋城跡 堀切」の説明版です。
 岬 (みさき)の城である日知屋城跡を陸地から攻められにくくするために掘られたU字形の溝 (みぞ)が「堀切」です。 ただこの場所は岩場であるため深い溝を掘るのは大変な作業だったと思われます。
(堀切の絵も載 (の)っています。)
と書かれています。



写真KC: 平地に降りてきました。 左に大御神社 (おおみじんじゃ)が見えます。 右に石碑 (せきひ)もあります。 右に紫陽花 (あじさい)の花が咲いていました。 芝生 (しばふ)にテーブル、ベンチもあります。



写真KD: 道の奥に大御神社 (おおみじんじゃ)の建物が見えます。 アジサイの花、石碑 (せきひ)も見えます。



写真KE: 大御神社 (おおみじんじゃ)の本殿 (左)、拝殿 (右)が見えます。



写真KF: 海岸を見たものです。 岩もあります。



写真KG: 左は日知屋城跡の半島の山です。



写真KH: 南西から見た日向市にある日知屋城跡 (ひちやじょうあと)です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)